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桜姫はその年の中秋の名月の前日、三度(みたび)松尾神社の秘祭で舞うことになりました。この年の舞姫たちの中で、経験者の人たちが次々と初潮が来てしまい、扇の要で舞う人が居なくなってしまったのです。
「姫様、初潮は?」
「まだ来てません」
「だったらお願いします!」
ということで、本番の1ヶ月前になってから、急遽頼まれました。それで桜姫は2年ぶりに乙女川を越えて風祈社に行き、満月に少し足りない月の明かりの中で、舞を舞いました。
しかし・・・と桜姫は舞が終わった後、衣裳を燃やしている時に思いました。
命婦は年頃になると、男も女も異性の裸を見るとドキドキすると言っていたれど、僕の場合、裸の姫君たちを見ても何も思わないよなあ。やはり僕は男としては不完全なんだろうなと。あるいは、何度も乙女川を渡ったから、僕って女の人になりかけているのかもしれない、という気もします。女の人になってしまったら、やはりおちんちんが無くなって、お股が女のような形に変わり、赤ちゃんを産む穴もできて、男の人と結婚できるようになったりして!?
「でも姫様、まだ胸が膨らんでいないんですね」
とお互い裸になっているので、ばっちりと桜姫の裸体を見ることになった巫女さんから言われます。この巫女さんは丸いピンと張った美しい乳房を持っていて、桜姫は何だか羨ましい気持ちになりました。
「そうなんですよ。私、発達が遅れているみたい」
「でも助かりました。もし来年もまだだったらお願いします」
「すみませーん。もう裳着をするので」
「それは残念!」
年が明け、桜姫と橘君は13歳になりました。
(数えの13歳は現代日本でいえば小学6年生)
ふたりは同じ日に成人式をおこなうことになりました。
裳着は通常は初潮を迎えて少し経った12-13歳くらいの女子に行いました。成人したことを披露する儀式であり、これを過ぎれば結婚もOKということになります。“桜の姫”の場合は初潮は永久に来ないのですが、御裳着をする以上、多分来たのだろうと多くの人が思ったようです。
桜姫も橘君も前日には風呂に入り身体をきれいにしています。桜姫のおちんちんはしっかりと膠で貼り付けられています。この膠でおちんちんを貼り付けるのは主として少輔命婦がしてくれているのですが最近“技術”があがってきて、おちんちんを貼り付けた上に玉袋の皮をかぶせて、まるでそこに割れ目があるかのように見えるようにしてくれています。ただ、皮膚を結構引っ張っているのでどうしても緩みやすく、お風呂に入る時だけでなく、日々湯殿に入った後でも少し“保守作業”をしてもらって、状態を維持しています。
しかしこのまるで割れ目があるように見えるお股は、自分で見てみると、
「僕まるで本当に女の子になってしまったみたい」
と桜姫は思いました。
さて成人式の当日。先に桜姫の御裳着をすることにします。
御裳着の儀式では、まず髪上げをして髻(もとどり)を作り、櫛などを挿します。この髪型を大垂髪(おおすべらかし)というのですが、現代の女性皇族や女官がしている大垂髪とは少し違います。後ろ髪を菱形に膨らませるのは近代以降の大垂髪の特徴で、平安時代はその膨らみを作らず、そのまま下に流していました。
そして桜姫には、成人の女の服である緋色の裳(スカート)を穿かせ、腰紐で結びます。
結局裳(スカート)を穿くことになったのか、と桜姫は少し憂鬱な気分でした。僕このまま本当に帝の奥さんになるハメになったりして、などとも考えたりしています。
ここで、裳の腰紐を結ぶ役はふつうは徳の高い第三者にお願いするのですが、諸事情から祖父(大将の父)である“大殿”左大臣・藤原隆茂にお願いしました。もっとも大殿も桜姫が女の子ではないとは思ってもいません。
このほか、眉を剃って描き眉をし、お歯黒も塗って、本当に大人の女の装いとなります。
鏡に映してもらい、桜姫は「きれ〜い!」と思いました。普段も結構お化粧はしているのですが、描き眉をしたのは初めてです。
“桜の姫”は「花子」の成人名を与えられました。
桜姫はもう2年前から堂々と“姫様”をしていたのですが、まだそのことを認識していかなった人もあったようで、これを見に来た人たちの中にはこのように噂する人たちもありました。
「東の上の子供はてっきり男の子と思っていた」
「うっかり男女を勘違いしていたようだ」
「東の上の子供が若君で西の上の子供が姫君と思い込んでいたけど、実際には東の上の子供が姫君で、西の上の子供が若君だったんだね」
実は腰結役をしてくれた大殿自身も「わしは孫の性別を勘違いしていたようだ。やはりボケてきたかな」と密かに思っておられたのです。
一時(2時間)ほど遅れて、“若君”(橘の君)も御冠着の式をしました。
今まで左右に分けて美豆良に結っていた髪をほどき、あらためてひとつにまとめた上で、元結(もとゆい)と呼ばれる紐(紙をねじって作った“こより”)で根本を縛ります。そして髪を千鳥掛け状に巻き上げていきます。一髻(ひとつもとどり)という髪型です。
これを十三回巻くのが正式なのですが、橘君の髪は実は床に着くくらい長いので19回も巻き上げました(回数は奇数でなければならない。偶数は忌事の時だけ)。巻き上げた髪は冠の巾子(こじ)の中に押し込むのですが、とても押し込みきれないので、実は半分以上を服の中に隠しています。橘君としては少し髪を切りたい気分だったのですが、切らないで欲しいと秋姫から懇願されて、服の中に押し込める方式にしました。
そういう訳で実は昔の貴族の髪というのは、結わずにほどいてしまうと、男女にあまり差は無かったのです。13世紀になりますが、伏見天皇暗殺未遂事件の時、天皇が髪をほどいて女装で脱出できたのは、元々男性の髪も長いのでほどけば女性を装えるという背景がありました。
なお、基本的に貴族の男性は人前では絶対に冠を外しませんので、長い髪を隠していることはまずバレません。人前で冠を外すというのは、現代でいえば、人前で上半身裸になるくらい、恥ずかしいことです。
実際の儀式では冠を乗せる役は大将の兄の右大臣・藤原博宗が務めてくれました。右大臣は当然、若君の髪がかなり長いことに気付きます。
「若君は髪が長いのがお好きか?」
「はい、すみませーん」
と橘君は答えておきましたが、右大臣は特に不審には感じていなかったようです。
“橘の君”は「涼道」の成人名を与えられました。
若君は既に五位の位を帝から頂いているので、これより「大夫の君(*2)」と呼ばれるようになります。
(*2)大夫(たいふ)というのは五位の者の通称。
五位以上が基本的には「殿上人(てんじょうびと)」で、清涼殿の殿上間に上がることを許される。三位以上は「上達部(かんだちめ)」あるいは「公卿(くぎょう)」と呼ばれるので、一般には「殿上人」と言う時は、四位・五位の者を言うことが多い。
但し平安時代の初期の頃には六位の蔵人(くろうど)でも特に殿上を許される場合もあり、許されていれば殿上人であった。また四位であっても参議を務めていれば公卿とされた。殿上を許されていない人は地下(ぢげ)と呼ばれた。
※位階と役職の関係(時代により少し変動する)
正一位 (普通叙されない)
従一位 太政大臣
正二位 左大臣・右大臣
従二位 (同上)内大臣・大臣の正室
正三位 大納言
従三位 中納言・大将
正四位 参議(宰相とも言う。定員8名)
従四位上 左大弁・右大弁
従四位下 神祇伯・中宮大夫・中将
正五位上 左中弁・右中弁
正五位下 左少弁・右少弁・少将・式部省などの大輔
従五位上 中務少輔・大学寮などの頭
従五位下 少納言・式部省などの少輔
「正」は「せい」ではなく「しょう」と読む。日本史上、正一位に(生前に)叙されたのは次の6名のみ。
藤原宮子・橘諸兄・藤原仲麻呂・藤原永手・源方子・三条実美。
つまり正一位の生前叙位というのはむしろ異常事態である。三条実美が正一位に叙されたのは病死した当日である。
この元服・裳着の当日、大将の家では華やかな宴が開かれました。この日は“姫君”(御簾の中)と“若君”が箏と笛で合奏して客人たちの耳を楽しませてくれました。
「若君の笛は素晴らしいなあ」
「龍が寄ってくるかのようだ」
「姫君の箏も素晴らしい」
「天女が聞き惚れてしまうようだ」
「おふたりの演奏がとてもよく調和している」
「きっと仲が良いのであろう」
「おふたりは顔もよく似ているらしいですよ」
「へー!だったら姫君もかなりの美人ですね」
「将来が楽しみな若君と姫君ですね」
と客人たちから言われて、大将は複雑な思いを心に秘めながらも笑顔で応じていました。
さて“若君”の冠親を務めてくれた右大臣には子供が4人いて、全員女の子でした。大臣は何とか男の子を作りたいと、随分色々な女性の所に通ったようなのですが、結局男の子を得ることはできませんでした。
4人の姫君たちの中で、一の君・睦子は帝の女御、二の君・虹子はその弟君である東宮(*3)の女御になっていますが、どちらも子供は生まれていません。
この時期、帝(38歳)には亡き皇后が産んだ女の子(雪子・後の東宮)がいましたが、男の子はいませんでした。東宮(25歳)にも子供はおらず、更にふたりの弟君である吉野宮にも女の子が2人いるだけで、男子が居ませんでした。つまりこの時期は近い将来、天皇の後継者が居なくなる問題が起きる可能性もありました。この件はこの物語の後半に重大な問題となっていきます。
そして、右大臣の三の君・充子、四の君・萌子はまだ独身でした。特に四の君は物凄く可愛いという評判が高く、関心を寄せる男性もかなり多かったようです。
右大臣は弟である権大納言の“若君”が才覚も美貌も兼ね備えているのを実際に見て、また帝からも期待されていると聞き、自分はこの“若君”の後ろ盾になりたいと考えるようになりました。
それでまだ未婚の三の君か四の君かを、若君と結婚させられないものだろうかと右大臣は考え始めたのです。
(*3)東宮(とうぐう・みこのみや)とは皇太子のこと。春宮(はるのみや)、日嗣皇子(ひつぎのみこ)、儲君(もうけのきみ)などとも言う。現代でも皇太子がお住まいの場所は東宮御所(とうぐうごしょ)と呼ばれている。
古くは皇位継承候補者は「大兄皇子(おおえのみこ)」と呼ばれていたが、天皇崩御後に候補者同士で流血の争いになる場合もあった。歴史上の資料から皇太子であったことが確定しているのは文武天皇の第一皇子・首皇子(後の聖武天皇)であるが、おそらくは天武天皇の皇子である草壁皇子が初めての皇太子ではないかと思われる。但し草壁皇子は皇位に就くことなく28歳の若さで薨御している。
さて大夫となって宮に出仕するようになった涼道(橘君)ですが、たちまちみんなの注目を集めることになります。
龍笛や琵琶などを演奏させると素晴らしく、漢詩を作らせても和歌を作らせても、美しい詩や歌を作りますし、その筆跡がまた格好良くて宮廷の女性たちのみならず、男性たちも惚れ込むほどでした。
“息子”がみんなからベタ褒めに褒められるので、この子の行く末を案じていた大将も、次第に
「いや、自慢の息子なんですよ」
と明るく答えるようになり、次第にこの子が男の身体ではないことを忘れてしまいがちになっていました。
やがて涼道は帝の侍従に加えられ、帝のお気に入りのひとりとなりました。これ以降、涼道は“侍従の君”と呼ばれるようになります。
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男の娘とりかえばや物語(11)