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「私、その流鏑馬の伝授に行ってくるからさ、その間、私の代理をしててくれない?」
と橘姫は言いました。
「それ、いつ頃まで掛かるの?」
と桜君は訊きます。
「巳一刻(午前9時)くらいから始まって、多分半時(はんとき:1時間)くらいだと思う。だから午一刻(午前11時)くらいまでには戻ってくるよ」
「じゃお出かけする時刻までには戻ってくるのね?」
「うん。もちろん。私も勅使行列見たいもん」
勅使行列はお昼頃に御所(ごしょ:天皇の居所)を出発し、下鴨神社を経て、上賀茂神社まで行き、両方の神社で天皇の祭文を読み上げます。この勅使の行列を、みんなで見に行くことになっていたのです。なお、見物する場所はあらかじめ確保しています(源氏物語の葵上や光源氏のように行き当たりばったりではない)。
「じゃあ仕方ないね。それまで僕が出かけたことにして、橘の身代わりしてるよ」
と桜君は言い、橘姫の服を桜君が着て髪を解いて振り分け髪にします。一方、橘姫は流鏑馬をするのに適した動きやすい、そして少しくらい汚しても構わない服を着て、髪を美豆良に結います。
最近は美豆良に結うのは手伝ってもらわなくても、橘姫が自分でできるようになっていました。
「でも兄上も、だいぶ女の子の服に慣れたでしょ?」
「あまり慣れたくなーい。これ本当に恥ずかしいんだから。女の子らしく振る舞ってないといけないし」
「いっそのこと、私たちずっと入れ替わって暮らさない?私、女の子の生活、かったるくてさ」
「それは勘弁してよぉ」
そういう訳で、橘君(橘姫)は桜君の従者を連れて馬に乗って出かけて行き、桜姫(桜君)は、橘姫の身代わりに西の対の橘姫の部屋に行ったのでした。
桜姫はやれやれと思いながら、妹の部屋で、好きな箏など爪弾いていますと、橘姫の母・秋姫がやってきました。少しギクッとします。あまり近寄って見られると、母親にはさすがに身代わりがバレそうな気がします。
秋姫は桜姫の所にぐっと近寄って来ました。ギョッとするのですが、秋姫は言いました。
「うん。良い香りね。何かさっきすれ違った時に、汗臭い臭いがした気がして。せっかく、昨夜湯に入ったのに、なんで?と思った」
と秋姫。
ああ、確かにあの子は汗臭いと桜姫も思いました。
「母上、今日はどこにも出ていませんよ」
と桜姫は顔色ひとつ変えずに答えます。
「でも桔梗(*8)さん、何です。その服は?まだ着換えていなかったのですか?これ、中将」
と言ってお気に入りの女房を呼びます。
「姫君に、しっかりした服を着せてあげなさい」
「はい、かしこまりました」
え〜〜〜!?
(*8)桔梗は橘姫の本名。ファンタジー的に言えば“まことの名”。これは橘姫が産まれた時、庭に咲いた桔梗を秋姫が見て美しいと思ったことから来ている。
普通本名を知っているのは母親と夫になる人くらいであり、それ以外の人には知られていない。むろん本名を呼んでいいのも母親と夫くらいである。もし知っていたとしても本名で人を呼ぶのは、極めて失礼な行為になる。公式の名前として多くの人に知らされている諱(いみな)も本名同様に、他人が勝手に呼んでよいものではない。
なお桜君の本名は青龍。これは彼が辰月(3月。現代の暦ではほぼ4月)生まれであったことから来ている。
それで中将と呼ばれた女房の指揮のもと、橘姫付きの女房や女童たちも協力して桜姫は美しい服に着せ替えられてしまうのです。
桜姫は袴を換える時に、あそこを見られたらどうしよう?と心配しましたが、昨日湯を浴びた時に、膠でくっつけられているので、誰にも気付かれずに済みました。
あ、これ便利だな。このままにしておけば女の子を装える、と一瞬思ったものの、だいたい何で僕が女の子を装わないといけないのさ?と、男装して出かけている妹を恨みます。
しかし桜姫は、ひじょうに良質の絹の袿(うちき)を3枚も重ねた上に、これもとても良質の高そうな!細長を着せられました。衣服を重ねる時に内側に着た服の端が少しだけ見えるように微妙な重ね方をします。
こんなの後で、橘と衣服交換する時に、ちゃんと着せてあげられるかなあ、などと桜姫も少し心配になります。
髪もきれいに解いてもらいました。そしてお化粧までされてしまうので、ひゃーっと思っています。
そして巳三刻(午前10時)くらいになると
「さあ、出かけますよ」
と言われました。
「え?お昼頃出かけるのではなかったのですか?」
と桜姫が尋ねると
「場所は取ってもらっているとはいえ、直前に行って並ぶのはみっともないです。早めに行って並んでいるのですよ」
と秋姫はおっしゃいます。
それで桜姫は橘君が戻ってくる前に、秋姫と一緒に牛車で出かけることになってしまったのです。
桜姫は「こんなに早く出かけて、待っている間におしっこしたくなったらどうするの〜?」と思いました(念のため出がけに1度しておいた)。
お邸からは牛車が2つ出発します。ひとつは春姫の牛車で、本当は桜君も同乗する予定だったのですが、流鏑馬の伝授に出かけてまだ戻ってきていないので、春姫だけがお気に入りの女房と一緒に乗っています。
もうひとつが秋姫の牛車で、こちらには橘姫が同乗する予定だったのが、実は桜姫が身代わりで乗っています。この身代わりを知っているのは桜君と橘姫の乳母たちだけです。牛車は最大4人乗れるのですが、4人乗るとさすがに狭い(特に女性の衣服はボリュームがある)ので、この日乗っているのは秋姫と桜姫のみ。右に秋姫が乗り、左に橘姫の振りをした桜姫が乗っています(牛車の席順は右前→左前→左後→右後)。秋姫のお気に入りの女房と、橘姫の乳母は徒歩で付き従っています。
橘姫の身代わりを務めている桜姫は「秋姫様にバレちゃったらどうしよう?」と不安を抱えながらも、できるだけ顔を見られないようにと思い、うつむき加減で牛車に乗っていました。
もっとも、秋姫は牛車に付き従っているお気に入りの侍女とずっとおしゃべりしていて、こちらのことはあまり気にしていないようにも思われました。更に今日の桜姫はお化粧しているので、素顔が分かりにくいのです。
沿道では喧嘩も起きていましたし、場所取り争いをしている車などもありましたが、気にせず進んでいき、予め取ってあった場所に、春姫の車と秋姫の車を隣り合わせで並べます。
それで普段は顔も合わせないようにしている春姫と秋姫も儀礼的に少し言葉を交わしていました。しかし桜姫はすぐそばに自分の母まで居て、物凄く居心地の悪い気分でした。
やがて行列の先頭が来ます。女車ですから、御簾を全開にしたりはしませんが、御簾の隙間から眺めるとなかなか楽しい感じです。桜姫としても気分がいいので、自分の身代わりがバレないかという心配は置いといて秋姫とも色々言葉を交わし、結構楽しむことができました。
途中で橘が来たりしないだろうかと思っていたのですが、結局妹はこちらにはやってきませんでした。でも勅使行列を見たいと言っていましたし、もしかしたら沿道のどこかでこれを見ていたかもという気もしました。
帰りは道が混雑するので、なかなかスムーズに車が進まず、更にあちこちで喧嘩も起きて検非違使(けびゐし)まで出て整理に当たっていたようです。結局一時(2時間)ほど掛けて、やっとお邸に戻ることができました。
お邸に戻ると、橘姫はもう戻っていますが、男装のままです。それでふたりで寝殿の控えの間で双方の乳母の協力のもと衣服を交換しました。
「結局行列見たの?」
「見た見た。でも凄い混雑だったね」
「何かあちこちで喧嘩とかもしてたし」
「お酒が入っているからね〜」
それで橘姫は普通の細長、桜君も普通の半裾に着換えて、各々の部屋に戻ることにしました。
橘姫が兄と入れ替わって元に戻り、西の対の自分の部屋に行くと、お付きの女房がやや困惑したような顔で言いました。
「姫様、お帰りなさいませ。あの」
「ただいま。何か?」
「母様からの御伝言で」
「ん?」
「湯殿の準備をさせたから湯を使いなさいということなのですが」
「へー。でも助かるよ。私もちょっと汗掻いちゃったなあと思ってた」
「それでは女童は今日は帰してしまったので、私と命婦様と、乳母様で」
「ええ、そうですね」
と乳母は戸惑うように答えました。
一方、兄の桜君が東の対に向かおうとした所、寝殿と東の対を結ぶ透渡殿(すきわどの:幅の広い廊下)の所に、何と秋姫様が立っているので、びっくりします。
普通は東の対は春姫の領域、西の対は秋姫の領域で、ふたりが各々相手の領域の中に入ることはありません。しかし透渡殿は微妙な場所です。それでもそもそも秋姫様が供を連れずに1人で居るのも異例です。
桜君は
「姫様、お祭り見物は失礼致しました。戻るのが遅くなってしまいまして」
と声を掛け、そのまま行こうとしたのですが、手を出して停められました。
そして秋姫は自分の顔を桜君の耳元に寄せると言いました。
「“桜姫”様も可愛かったね。ああいう服、似合ってる。あなたを私の娘にしたい所だわ」
え〜〜〜〜!?
バレた!?と思って桜君は顔から血の気が引く思いだったのですが、秋姫は笑顔で言いました。
「またよろしくね。今日は楽しかったわよ」
それで秋姫は楽しそうな顔で西の対へ戻って行かれました。
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男の娘とりかえばや物語(4)