広告:まりあ†ほりっく 第4巻 [DVD]
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■男の娘とりかえばや物語(3)

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しかし橘君が出かけている間に、橘の乳母が、桜姫の髪をメンテしてあげながら色々橘姫への不満を言うのを聞くと桜姫は「まあまあ。元気なのはいいことですよ」と慰めてあげるのでした。
 
「でも桜姫様はほんとにお優しいですね」
「ぼくはぶじゅつみたいなのは、ぜんぜんダメだしね」
「学問も苦手のようで」
「かんじがならんでいるの見たらあたまいたくなっちゃう。たちばなはかんじとくいみたい」
「いっそのこと、橘姫様が男の子で、桜君様が女の子だったらよかったのに」
「たちばなは男の子のほうがよかったと思うけど、ぼくは女の子はいやだよぉ」
「そうですか?女の子になるの、似合っているみたいなのに」
 

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さて、大将はふたりが4〜5歳頃までは
 
「今は性格が男女逆で、兄と妹を取り替えたい気分だと思っていても、その内、成長すれば各々男の自覚、女の自覚というものが出てくるだろう」
 
と思っていたのですが、実際6歳をすぎた頃から、今まで蹴鞠や弓・馬術あるいは漢詩・漢籍などにほとんど興味を示していなかった桜君が、急にそのようなものに熱心になったと聞き、また箏・和琴・舞などのお稽古を全然真面目にしようとしていなかった橘姫が、急にそのようなものをちゃんとお稽古するようになり、舞の稽古をしている所にたまたま行き合って見ていたら、ほんとに女らしい舞をしているのを見て、
 
「杞憂であったか。やはり男の子は男らしく、女の子は女らしく育っていくものだ」
と安心なさったのでした。
 
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ただ、そのことにどうも納得行かない思いをしている人が2人だけありました。それが桜君と橘姫の2人の母親たちです。
 

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桜君の母である春姫は、息子が普段は内向的で恥ずかしがり屋であり、めったに人と会おうともしないのに、男子の友人たちが訪ねてくると、寝殿の庭に飛び出して行き、元気に蹴鞠や小弓で遊んだりしているのを、どうにも不思議に思っていました。以前は嫌がっていた笛や琵琶のお稽古も熱心にしているのも妙に思えました。
 
また橘姫の母である秋姫も、娘が普段活発でなかなか自分の部屋にも居ないのに、箏や和琴の先生、舞の先生、習字の先生などが来た時はおしとやかな雰囲気で、お稽古を受けているのが、どうにも変な気がしていました。そして舞を舞っている様子などを見ると、とても普段の姫と同一人物とは思えないほど優雅だったのです。
 
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ふたりが9歳になった春。
 
都では毎年恒例の賀茂祭(現代で言う所の葵祭)が行われます。それで見物に行くことになります。大将はこの祭自体に関して色々お仕事があるので、奥様と子供だけで行くことになります。春姫と桜君、秋姫と橘姫は、各々牛車を仕立てて、見物に出かけられることにします。
 

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明日はその賀茂祭の見物という日。
 
例によって橘姫は橘君の姿になって友人の男の子と一緒に出かけていて、いつものように桜君が桜姫の姿になって、西の対で字の練習などしていました。
 
その時、秋姫の侍女が来て言いました。
 
「姫様、明日はお出かけですので、沐浴(もくよく)をなさってください。今母上様が終わられまして、湯殿が空きましたので、次どうぞ」
 
桜姫は沐浴などという話は聞いていなかったのでギョッとします。
 
「さすがにバレるよ。どうしよう?」
と乳母に相談します。
 
「困りましたね。ちんちんが付いていたら、それをみんなに見られてしまいますし。いっそ橘姫は実は男の子だったということにしてしまいます?」
 
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「それ、橘は喜びそうだけど、秋姫様が仰天すると思う」
「じゃ、いっそ桜姫様のおちんちんを切っちゃいます?」
「それだと桜君に戻った時に困る」
 
と桜姫が言うので「困るだけなのか?」と乳母はツッコミたい気分になりました。
 

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乳母はしばし悩んでいたものの
「そうだ!」
と言うと、桜姫を樋殿(ひどの:トイレ)に連れて行くと、袴を脱がせます。
 
「切っちゃう訳にもいきませんし、隠しちゃいましょう」
「隠せるもの?」
「秘伝があるのですよ」
と言って、乳母は桜姫を座らせると、まずタマタマを体内に押し込み、それを本人に手で押さえておくように言った上で、おちんちんを後ろ向きにして、そこに何かの液を塗ります。
 
「それ何?」
「膠(にかわ)でございます。これでくっつけてしまえば、湯殿のぬるい湯くらいでは外れません。おちんちんでふたをしてしまいますから、タマタマも落ちて来ないんですよ」
と乳母は説明しました。
 
「ずっと外れないの?」
「大丈夫です。次にお風呂(*5)に入れば、お風呂の蒸気で外れますよ」
「だったらいいか」
 
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(*5)江戸時代までは「風呂」と言えば蒸し風呂で、「湯」といえば沐浴のことであった。江戸時代の中期の頃から両者は混同されるようになった。平安時代に貴族はだいたい2〜3日おきに《湯殿》で沐浴または小浴をして日常的な汚れを落とし、だいたい月に1〜2度《風呂殿》で蒸し風呂に入って垢などをきれいに落としていた。
 
但し、湯殿・風呂殿があるのはごく一部の上級貴族のみで、中級貴族の場合は“殿”まで行かない湯小屋・風呂小屋を使い、下級貴族になると、風呂殿・風呂小屋などを持っている貴族の家にお邪魔して借りていた。
 
風呂殿は大量の蒸気を発生させなければならないので、極めて贅沢な設備であった。枕草子には“風呂”について下記のような記述があるらしい(手元にある枕草子では見つけきれないが、枕草子には少なくとも4系統の写本があるので、私が持っているものと違う写本にあるのかも)。
 
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「小屋ありて、其の内に石を多く置き、之を焚きて水を注ぎ湯気を立て、その上に竹の簀を設けて、これに入るよしなり」
 
(引用元「温泉と日本人」八岩まどか 31p)
 

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「ただ、これを身体にくっつけてしまっていると、次のお風呂に入るまで、桜様、尿筒が使いにくいと思いますが」
 
と乳母は言いました。
 
「それ何とかなると思う。橘はおしっこの出てくる所にしっかり筒の口を当てておしっこしてるんだよ。僕も同じことすれば行けるはず」
と桜姫。
 
「なるほどですね」
 
そういうわけで、タマタマを体内に押し込み、おちんちんを膠でくっつけてしまうと、まるでお股には何も無いかのようになったので、これで沐浴をすることにしました。乳母は最後にお股の皮膚を少し寄せてそこも膠でくっつけました。すると前から見た時、まるで割れ目ちゃんがあるかのように見えるのです。
 
「すごーい。まるで女の子になったみたい」
「いっそ女の子になります?」
「いやだぁ」
「でも女の子になってもいいくらい姫様、可愛いですよ」
 
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「そうかなあ。でもこれ後ろから見られたら、やばいよね?」
「はい。私が姫様の後ろにいるようにして、他の者の目には見られないように気をつけます」
「よろしく」
 

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そういう訳で、桜姫は若干お股に“工作”をした上で、乳母と数人の女童と一緒に湯殿に向かったのです。
 
脱衣所で桜姫は裸になりましたが、乳母や女童は湯文字をつけています。湯文字は後の時代には女性の一般的な下着とみなされるようになりますが、元々は入浴の補助をする侍女たちが袴(はかま)の代用として付けたものです。要するにあれはミニ袴なのです。
 
それでまずは《沐槽*6》の水を髪に掛けて髪の汚れをきれいに落とします。
 
これ気持ちいい〜!と桜姫は思いました。橘こそ毎日飛び回っていてたくさん汗掻いているだろうから、これしてもらったらいいだろうに、などと思います。
 
結構な時間を掛けて髪を洗ってもらった後は、身体にも水を掛けて汚れを洗い落とした後(お股の所は女童を制して乳母が洗ってくれた)、《浴槽》に浸かります。これは《よごれ》を落とすというより《けがれ》を落とすための入浴なので、そんなに長時間は浸からず、すぐにあがって乳母や女童たちに身体を拭いてもらいました。
 
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桜姫は元々“男子としての機能”が弱いタイプですし、日常的に着換えなどで女童たちと接触しているので、その女童たちに身体を洗ってもらったりする程度では“興奮”したりはしないようでした。
 
膠でくっつけたお股の部分は、乳母が言った通り、沐浴のぬるい水では、びくともしませんでした。実は膠でくっつけていた場合、“興奮”してしまうと皮膚が引っ張られて痛いのですが、桜姫は興奮しなかったおかげで痛い思いもしなくて済みました。
 

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(*6) 延喜式には朝廷の沐槽と浴槽のサイズが記載されている。
 
沐槽 長三尺、広二尺一寸、深八寸
浴槽 長五尺二寸、広二尺五寸、深一尺七寸
 
当時の1尺というのは唐の大尺で0.2963cmになり、現代の尺(0.3030cm)より少しだけ小さい。上記の寸法をcmに換算すると、
 
沐槽 88.9 x 62.2 x 23.7
浴槽 154.1 x 74.1 x 50.4
 
ということになる。現代の日本家屋の標準的な浴槽サイズと大差無いので、浸かった場合も、定員1名という感じである。天皇が使うサイズがこれなので皇族や貴族の家のものは、もっと小さかったであろう。
 
男性貴族は朝廷に出仕する日は朝から沐浴あるいは小浴(たぶん行水程度)をして《けがれ》を落としてから出かけていた。
 
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平安時代は《風呂》に入るのは月に1〜2度程度ではあったものの、一般的に思われているほど不潔だった訳では無いようである。
 

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湯殿からあがった後は、湯帷子(ゆかたびら:浴衣の語源)を着て部屋に戻りますが、御帳の中で女童たちに髪の毛の水分を麻布で取ってもらいました。この作業は結構な時間が掛かりますが、桜姫はそれをしてもらっている間に眠ってしまいました。
 
目が覚めるともう暗くなっています。
 
きゃー僕眠っちゃったよと思って身体を起こしたら、そばで
「あれ?起きた?」
という声がします。
 
「橘?戻ってこないから、僕が橘の代わりに沐浴までしたよ」
「ごめん、ごめん。でも沐浴とかして、ちんちん付いてるのばれなかった?」
 
「バレて、橘姫は男だったのかということになったから、明日から男として行動してね」
 
「それ私は凄く嬉しいんだけど」
「やっぱりそうなるよね〜。まあ隠し通したから、バレてないと思う」
「よく隠せたね〜」
 
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「僕、東の対に帰る。橘、湯は浴びなくてよかった?」
「平気平気」
 
それで桜君は女性用の湯帷子を脱いで男物の服を着て、深夜に東の対に帰還しました。
 

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翌日、賀茂祭を見に行く当日。
 
大将は忙しかったようで、昨夜から帰宅していません。春姫・桜君、秋姫・橘姫は、早朝から、各々上等な服を準備して、お出かけの用意をしていました。
 
辰一刻(午前7時 *7)頃、桜君の所に、彼も見たことのある源中納言の息子の従者がやってきて
 
「弓矢と乗馬の上手な男の子を集めて流鏑馬(やぶさめ)の伝授をするのですが、大将の若君もいらっしゃいませんか?」
と文も添えて伝言してきました。
 
桜君は「これは橘だな〜」と思い、自分の乳母に文を持って行かせ、伝言も伝えさせます。結局2人は寝殿の控間で直接会って“悪い相談”をすることにします。
 

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(*7)時刻対照表
 
9 子一刻23:00 子二刻23:30 子三刻 0:00 子四刻 0:30 
8 丑一刻 1:00 丑二刻 1:30 丑三刻 2:00 丑四刻 2:30 
7 寅一刻 3:00 寅二刻 3:30 寅三刻 4:00 寅四刻 4:30 
6 卯一刻 5:00 卯二刻 5:30 卯三刻 6:00 卯四刻 6:30 
5 辰一刻 7:00 辰二刻 7:30 辰三刻 8:00 辰四刻 8:30 
4 巳一刻 9:00 巳二刻 9:30 巳三刻10:00 巳四刻10:30 
9 午一刻11:00 午二刻11:30 午三刻12:00 午四刻12:30 
8 未一刻13:00 未二刻13:30 未三刻14:00 未四刻14:30 
7 申一刻15:00 申二刻15:30 申三刻16:00 申四刻16:30 
6 酉一刻17:00 酉二刻17:30 酉三刻18:00 酉四刻18:30 
5 戌一刻19:00 戌二刻19:30 戌三刻20:00 戌四刻20:30 
4 亥一刻21:00 亥二刻21:30 亥三刻22:00 亥四刻22:30 
 
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時(とき)は2時間単位、刻(こく)は30分単位で、合わせて「時刻」と呼ばれた。いわゆる「丑三時(うしみつどき)」は午前2時である
 
一刻を「初刻」、三刻を「正刻」ともいう。午正刻が正午になる。
 
日本の時刻制度は室町時代以降は不定時報といって、日出を6:00(卯正刻)、日入を18:00(酉三刻)として、各々の間を等分する方式で行われていたことが知られているが、平安時代が1日を正確に12等分する定時法だったか、それとも室町以降同様の不定時報だったかについては議論の余地がある。平安時代の文献には不定時報を刻む水時計の製法が記載されたものもある。
 
時報は子・午正刻には太鼓を9つ打ち、丑・未正刻に8つ、寅・申正刻に7つ、卯・酉正刻に6つ、辰・戌正刻に5つ、巳・亥刻に4つ打った(上記の表の左端に書いた数字である)。また各々の一刻には鐘を1つ、二刻には2つ、三刻には3つ、四刻には4つ打った。
 
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「おやつ」という言葉はこの太鼓の打数から来ている。元々は太鼓が8つ打たれる午後2時くらいに食べる間食である。
 
平安時代に時報の太鼓や鐘を打っていたのは陰陽寮の当番の役人だが、万一打ち忘れたり、数を間違ったりすると、厳罰をくらっていた。
 
これが江戸時代になると平安時代の宮中の太鼓に相当するものをお寺の鐘で市中に報せていた。いくつか機械時計などで正確な時刻をキープしている寺があり、そこの寺の鐘が鳴り始めたら、それを聞いた近くの寺も合わせて打ち始め、それを聞いた寺が打ち始める、などという、おおらかな時代だった。
 
機械式和時計の時報の数も昔はこの太鼓や鐘の数と同じ方式で12時に9つ、2時に8つ、4時に7つと打っていたらしい。
 
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男の娘とりかえばや物語(3)

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