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なお、話し方の指導では紀恵は2つのポイントで里子を指導してくれた。
ひとつは声自体の問題である。里子は元々かなりのハイトーンが出せる。しかしその声は、さだまさし・小田和正などのような「男性のハイトーン」にすぎない。純粋にその声だけを聞いたら多くの人が男の声だと認識する。
紀恵は「低い倍音が出ないように気をつけて」と注意した。声は様々な高さの音が混じっている。多数の倍音で構成されているので、その中の低い倍音が混じらないようにすると、女性の声に似た感じになるのである。喉の下の方があまり震えないようにしようと注意される。色々試行錯誤している内に
「あ、今の出し方がいい」
と言われた出し方を忘れないようにして練習した。
また話し方のイントネーションが男性と女性ではまるで違うというのを指摘される。男性は単純な抑揚で話すのに対して女性は豊かな抑揚で話す。「歌うように話すんだよ」と言われ、元々得意な女性歌手の歌をたくさん歌って練習したが、その時も「その歌い方ではあくまで男が女の歌を歌っている感じにしか聞こえない」
と言われて、松田聖子の若い頃の歌、後藤真希の全盛期の歌、miwaや木村カエラなどの歌をiTunesでダウンロードして聴かせられ、これをそっくり真似してごらんよ、と言われた。
「でも、さとちゃん、楽器や音源の伴奏が無いと音程が少し不安定」
「うん、音痴なんだよ」
「それは違うと思う。こんなに歌える音痴なんて有り得ない。さとちゃん、練習が足りないだけだよ。たくさん歌っていれば、もっと音が安定するよ」
「そうかな?」
「女の子らしい声の出し方の練習も兼ねて、毎日100曲歌おう」
「ひゃー」
それで、里子は今まで自分のパソコンを持っていなかったのだが、安いEpsonのノートを通販で買い、それにJOYSOUNDのPC版を入れて、松田聖子からももクロまで女性歌手の歌を朝から晩まで歌いまくった。
紀恵は里子に、話し方(ついでに歌い方)の練習をさせるのと同時に、字の練習や文章の練習もさせた。
女の子の字は、20代の女性が書いた手書きの文字を見せ、真似して書いてみるように言った。
「こんな可愛い文字を書くの〜?」
「お仕事の文字はきちんとした筆跡で書いた方がいい。でもプライベートなメモとかは、こういう文字で書くと、同僚の女性とかにも受け入れてもらいやすいと思うし、ラジオ番組とかにリクエストするのとか、お友だちの結婚式に寄せ書きするのとかでも、可愛くていいよ」
「ああ、確かにそういう用途はあるかもね」
女の子らしい文章というのでは、まず丁寧語を多用するように言う。それから漢字の比率を下げ、漢字で書いてもかなで書いてもいいようなものはできるだけかなで書くように。また、難しい漢字の熟語は、いっそその部分をカタカナ書きするというテクも伝授した。
「ビジネス用の文章とプライベートな文章を使い分けるといいんだよ。全てをビジネス用で押し切ろうとすると、無理がある」
と紀恵は言った。
参考資料として、女子高生や女子大生が多数参加している掲示板なども見せられる。
「なんか、女の子の文章とは思えないんだけど」
と里子は顔をしかめて言う。
「これは女の子同士で媚びを排した書き方をしているからだよ。男は見てないという前提があるから、こういう書き方になる。男が見る可能性のあるところならまた書き方が変わるよ」
「女の子って表裏があるんだ!」
「まあ女の子は怖いよ」
プールの翌日。紀恵は里子をプールより、もっと凄い所に連れていく。
「こ・・・ここに入るの?」
「プールが行けたんだから、ここも平気だよね?」
「全然違うよぉ!」
「でも、これは通過しておかなきゃ行けないものだよ」
「そうなの!?」
そういう訳で、紀恵は里子の手を引き、銭湯の「女」と書かれた戸を開けて中に入った。
「スーパー銭湯とかなら人が多いけどさ。こういう普通の銭湯は少ないからこういう所で少し慣れた方がいい」
と紀恵は言う。
確かにそれはそうかも知れないという気がした。料金も安いし!
実際脱衣場に居るのは、お婆さんが2人とフィリピンかどこかかなという感じのアジア系の40代の女性、それに女子大生っぽい子1人だけだ。
あまり他に視線をやらないようにして服を脱ぐ。銭湯だから裸にならないと中に入れない。プールではまだ水着だったけど、裸のまま行動するのは凄く心細い気がした。
でも紀恵がそばで微笑んでいるので、ちょっとだけ勇気付けられる。
一緒に浴室に移動し、まずは身体を洗って、浴槽に入った。
「銭湯自体は結構来てた?」
「結構入ってる。あちこちの現場に行った時は、その近くの宿泊所や寮の浴室とか、近くの銭湯で汗を流してからあがるということ多かったし。まあ作業員さんたちとの交流にもなるしね」
「工事現場には軽作業する女性もいるでしょ? 今後はその人たちとの交流ができるよ」
「あはは、確かにそうだ。おばちゃんたちと結構仲良くなれるかな」
「きっとおばちゃん世代は、性別を変更した人にも寛容だよ」
「そうかもねー。マツコ・デラックスとかもそういう世代に受けてるみたいだし」
「だけど、銭湯に一緒に入れるって、女の子同士の恋愛は便利だね」
「確かに男女じゃ、一緒に銭湯には行けないなあ」
初めての女湯ということで最初はちょっと緊張したものの、客が少なかったのもあったし、紀恵と一緒ということで何とか心の不安を乗り越えることができた。
そんな感じで、紀恵との一週間はあっという間にすぎてしまった。
「明日からはまた私仕事に出るけど、さとちゃん、もう大丈夫だよね?」
「うん。まだお化粧は全然うまくできないけどね」
「練習あるのみだよ」
「うん。頑張る」
「じゃ、頑張ってね。また週末にはこちらに来るよ」
「あ・・・」
「ん?」
「ねえ。のんちゃん」
「なあに?」
「いっそさ・・・・一緒に暮らせないかなと思って」
「・・・」
「いや、そのこの一週間ずっと一緒に居て、のんちゃんって自分にとって欠くべからざる人だというのを再度認識した。私、ずっとのんちゃんと一緒に居たい」
紀恵はしばらく里子の顔を見詰めていた。
「いいよ。じゃ同棲する?」
と紀恵は言った。
「うん」
と里子は笑顔で頷いた。
それで紀恵はその日から夕方里子のアパートから出勤し、深夜に里子のアパートに戻る生活を始めたのである。レンタカーで軽トラを借りてきて、タンスなどはふたりで協力して積み込み、移動した。里子のアパートは1DKではあるが、元々里子は大した荷物を持ってなかった(テレビと冷蔵庫と洗濯機と電話くらい)ので、紀恵の荷物は充分余裕を持って入った。
「入籍もしちゃう?」
と里子は訊いたが
「それは少しふたりで一緒に暮らしてからまた考えようよ」
と紀恵は答えた。
「そうだね。急ぐ必要もないし」
「私たち、赤ちゃんは出来ないから《出来ちゃった婚》にはならないし」
と紀恵。
「ごめんねー。種無しになっちゃって」
と里子。
「いいんだよ。私たちが仲良くしていければ」
「うん」
紀恵と暮らすようになってから、里子は手術の痛みが急速に和らいでいくのを感じていた。精神的なものかなとも思ったのだが、紀恵に言ってみたら、食事を「女の子並み」に変えたのと(医師の指示で)アルコールを断っていることで、血糖値が下がってインシュリンが良く働くようになり、それで傷の治りが速くなっているのではとも言った。
確かに今までの食事量を考えると、血糖値は高かったかも知れないなと里子も思った。特に現場に出ていたりすると、作業員の人たちと一緒に飲んで食っていた。たくさん肉体を酷使している作業員さんたちにはそれが必要なカロリーかも知れないが、自分は指示しているだけで肉体労働をしていないので明らかにカロリー過多であったろう。
里子はまだ休職中ではあったが、一応毎日お出かけはしていた。外に出るというのがないと、普通の女の子でも気が抜けた生活になりがちだからと言われ、ちゃんと毎日お化粧をして、服もまともなのを来てお買物したり、本屋さんに行ったりしていた。
そんな感じで過ごしていたある日、ふたりのアパートに突然の訪問者があった。
玄関のベルが鳴るので、お昼にチャーハンを作っていた里子は
「はーい」
と言って、ガスの火を止めて玄関のドアを開ける。
「母ちゃん!?」
それは里子の母であった。
「あんた・・・・里太郎なの?」
と母は半ば呆然としている感じ。
「うん」
と里子は頷き、取りあえず母を中に入れる。
部屋で雑誌を読んでいた紀恵が慌てて布団を片付け、テーブルを出す。里子と里子の母を座らせて、取りあえず紅茶を入れて、里子が手作りしたチョコレートクッキーを出し、それからチャーハン作りの続きをしてくれた。
もっとも里子の母は紀恵がチャーハンを作り終えて
「お母様もよろしかったらどうぞ」
と言って、皿3つに盛ったチャーハンを持ってくるまでは
「夏休みのせいか飛行機が満席でね」
とか
「隣の**さんの息子が離婚しちゃって。お嫁さん、子供連れて郷里に帰っちゃったんだよ。可愛い子だったのに」
などといった、あたりさわりのない?話しかしなかった。
そして紀恵が
「私、これ食べたら少し外に出てようか?」
と訊いたのに対して、里子は
「居て欲しい」
と言った。
それで里子は紀恵を紹介する。
「こちら、私の婚約者の香茂紀恵さん」
「初めまして。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。香茂紀恵と申します」
と紀恵も母に挨拶し、個人用の名刺を出した。
クラブの営業用のではなく、ネットで知り合った人などにオフ会で渡すのに作っている名刺だ。肩書きも何も入っていない。電話番号さえも入っておらず、gmailのメールアドレスが書かれているだけである。