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「その後で、亜記宏たちの行方を捜していて、先週、お店の従業員さんだった人と連絡が取れてね。それで私たちもやっと経緯を知った所で」
「そうだったんですか・・・」
「今日こちらに来たのは、とにかくも私はあんたのことを自分の孫娘だと思っていることを伝えたかったのと、後はあんたが30歳過ぎたから預かっていた資産をちゃんと渡したかったこと、それと亜記宏たちの行方をあんたの方ではつかんでないか確認しておきたかったからなんだよ」
「分かりました。こちらにももし連絡とかあったらそちらにも知らせますので」
「うん。この件は私たちで情報を共有しよう」
「はい」
その時、美智(春美)は数人の牧場の従業員がこちらの様子を伺っているのに気付いた。
「時枝さん、どうしたの?」
「あ、いや入ってもいいものかと思って。なんか深刻そうだったし」
「いや大丈夫ですよ。あ、こちらうちの祖母と、従姉、それに甥なんですよ」
と美智(春美)は言った。
その美智の言葉を聞いて美鈴が言った。
「ああ、この子は美智ちゃんの甥でいいよね」
「うん。かっちゃんは、元気いっぱいだしね」
とミラも言っている。
美智は和志が元気いっぱいであることと、彼を自分の甥と呼んでいいことに何か関係があるのだろうかと一瞬考えたものの、あまり深く考えないことにした。
「かっちゃんは木登りも得意だし」
「登るのは得意だよね」
「降りるのに難がある」
「あれおとなが大変」
「でも懲りずにまた登る」
ああ、もうすぐ小学校というくらいの男の子だとそんなものかな、と美智は思った。こちらの、しずかも男の子だったら、そのくらい活発なんだろうなと思う。しずかは本を読んだり、お花に水をあげたり、レゴブロックなどをしたりするのが好きなようである。本当に性格が女の子だ。音楽的な才能もあるようでキーボードをよく弾いているので春美も少し教えてあげていた。歌も結構上手い。
「学校とかはどうするんですか?」
と美智は尋ねた。
和志は、しずかと同様、本来なら4月から小学1年生になるべき年齢である。
「うん。いつ亜記宏たちと連絡取れるか分からないし。そもそも亜記宏たちは今住所不定状態だからさ。函館の方で地元の小学校と相談して、そちらに通わせてもらうというのをつい先日話がまとまったんだよ」
「それはよかった」
「どっちみち今の時期はもう学期の終わりかけだし、4月からそこに入学させることにした」
「ああ、そうですよね」
と美智は言ってから、何か微妙な違和感を感じたものの、それが何かその時は分からなかった。
時枝をはじめ多数の従業員が広間に入ってくる。ここは朝昼晩には食堂になる。
「良かったら一緒にお昼いかがですか?」
と時枝さんがミラたちに言う。
「わ、でも定数外なのにいいんですか?」
と美鈴。
「大丈夫です。ちゃんとハルちゃんのお給料から引いておきますから」
と時枝。
「時枝さんが、それをノートに付け忘れなかったらね」
と美智も言う。
時枝はその手のミスが多い。
「うーん。数字が合わないのは私の場合どうしようもないから」
と本人は開き直っていた。
ミラたち3人はお昼を食べた後、オーナーの山本と少し話してから函館に帰って行った。山本は遠い所からだし、年寄りと子供連れだし、1泊していったらと勧めたものの、美鈴が「帰らないと旦那の機嫌が悪いんですよ」などと言って、車で帰って行った。
函館を昨夜出て半日走ってきたらしかったが、
「かっちゃんは都会育ちだから、夜が明けた後は景色を楽しんでたみたい」
などと言っていた。帰りも半分観光モードで帰るのだろう。
函館から美幌まではノンストップで7時間ほど掛かる。
天津子はじっとそのヒグマを見ていた。
かなり気が立っている。本来ならこの時期、ヒグマは皆冬眠しているはずである。おそらく冬眠に失敗した「穴持たず」であろう。
距離は危険距離と言われる12mより遠い。この距離なら、できたら素直にお帰り頂きたいのだが、相手はこちらを襲う気満々のようである。どうも闘わざるを得ない雰囲気だ。
ヒグマがこちらに寄ってくる。天津子は相手を睨みつけて気合いで負けないようにし、冷静に相手との距離を測っていた。気合い負けしたら数秒後に自分はこの熊の餌になる。
相手は次第に近づいて来た。距離が縮んでいく。
『今だ』
と直感した天津子はそのヒグマの頭に向けて思いっきり気の塊をぶつけた。
巨大な砲弾を撃ち込んだようなものである。ヒグマは物凄い声をあげて向こう側に半回転して仰向けに倒れ、ピクピクッとして動かなくなった。
チビがそのそばに寄って、確かに絶命していることを確かめてくれた。チビには手を出すなと命じていたのだが、虎と熊が闘ったら、どちらが勝つんだろう?とふと思った。するとチビは天津子の思考を読んだようで
『俺がこんな下等生物に負ける訳ねーだろ』
と言った。
天津子は微笑んで戦闘態勢を解除し
「わーい、ごはんゲット。まずは血抜きしなくちゃ。でもこれ山降りるまでにとても全部は食べきれないなあ」
と楽しそうに言った。
千里の大学はこの年、2月2日(火)まで授業が行われ、3日から9日まで期末試験が行われた。千里は全科目AあるいはBで無事単位取得したものの、友人たちの中にはいくつか落として追試あるいはレポートになった子がいる。桃香など、5つも落として悲鳴を上げていた。10日に追試を2つ受けた上で12日までにレポートを3つ出さなければならないというので、焦っていた。
その桃香が2月11日(木・祝)の夜、千里が勤めるファミレスにやってきた。何でも線形代数のレポートを明日の13時までに提出しなければならないらしい。
「他の科目は?」
「フランス語会話は追試用口頭試問の内容を先輩から教えてもらって、それを暗記して行った。図学2も追試は毎年同じ問題だと聞いたから、その答えを丸暗記していって書いた」
「お疲れ様!」
「そのあと、今日憲法学のレポートを書いて夕方提出したから、明日の昼までに線形代数Bのレポート出して、13日朝までに漢文Bのレポートを出す」
「12日までとか言ってなかった?」
「12日の24時までということなんだけど、実際には教官は13日の朝8時半くらいに来るらしいから、13日の朝7時くらいまでに教官の部屋のポストに投入しておけばセーフ」
「その日だけ突然早く来たりしなければいいね」
桃香たちがこのファミレスに来たのは、夜通し暖かい所で作業ができること、食事の心配をしなくて済むこと、そして線形代数について千里に色々教えてもらいたかったからのようであった。
ところがこの日は来るはずだった女子大生が風邪で急に休み、夜間の時間帯を副店長と千里の2人だけで乗り切らなければならないというので、大忙しでなかなか桃香たちのテーブルに行くことはできなかった。
ところで世間はバレンタインが近いので、あちこちでチョコレートのサービスをやっている。このファミレスでも男性客にもれなくチロルチョコを配っていたのだが、1日に10人だけ「当たり」が出た客には500-1000円程度の、やや豪華なチョコを渡すことになっていた。その渡す役は原則として女性従業員がすることになっていたのだが、この日はその唯一の(?)女性スタッフが来ていない。
出てしまった当たりマークを見て副店長は悩んだ。
「女性が渡すということになっているけど、村山君に渡してもらってもいいよな。あの子、誰がどう見ても女子にしか見えないし」
などとつぶやいていた時、その当の千里が近くを通るので呼び止めてチョコを渡す係を頼もうとした。ところが千里は
「だったら、私の友人の女子がちょうど来ているので一時徴用しましょうか?」
と言う。
そう言われるとダメと言う理由も無いので、じゃ頼むということにした。
それで千里は桃香と朱音のテーブルに行き、どちらかうちのスタッフの制服を着て、お客様にチョコを渡して欲しいと言った。すると教科書に「このことより即座に次の系が導かれる」と書かれている所のその「即座に」導かれる理由が分からず悩んでいた桃香が
「ああ。じゃ私がやってあげるよ」
と言って席を立った。
(「系(corollary)」とは大きな定理や命題を証明した結果、それをもとに「ちょっとした考察」で「簡単に」導かれる命題を言う。但し数学の教科書に「簡単に」とか「明らかに」(英語だとtrivial)とか書かれているものは、多くの学習者にはかなり難解である)
千里は桃香を連れて女子更衣室に入り、棚の上にある箱を降ろして、その中にあった女子用制服の予備を桃香に渡した。
「あれ?ここ女子更衣室?」
「そうだけど」
「千里、女子更衣室に平気で入るんだな?」
「いや、なんか他の女子スタッフから『ちょっとこっち来い』といってよく呼ばれているから」
などと言って千里は頭を掻きながら出て行った。
桃香は実は1年生の間、あまりマジメに学校に出ていなかったので、千里がどんなに学校で「女子大生」をしていたかを知らない。それでこの頃までは千里のことを「普通の男子」と思い込んでいたのだが、今のやりとりをして少し考え直す。
それで制服に着替えて出て行くと、外で千里が待っていて
「このチョコを15番テーブルの30歳くらいの男性に渡して欲しいんだけど」
と言うと
「OKOK」
と言って受け取った上で言った。
「これ、千里が着てもいいんじゃない?千里って女の子の服を着たら女の子に見えるよ、たぶん」
すると千里は
「いや、ちょっと、それは・・」
などと言って照れている。
その様子を見て桃香は確信した。
この子、普段から結構女装とかしているのでは?
ともかくも桃香はそれでチョコを男性客に渡してくれたのだが、けっこうその客に絡まれた。それで長居していると、またちょっかい出されるかもということで場所を移動し、残りは桃香のアパートで書くことにした。
実は一緒にファミレスに来ていた朱音の方はもうレポート完成間近で、仕上げたら寝たいというのもあって、だったらそろそろ帰ろうかということにもなったようであった。
ところが桃香たちが帰った後、更にもうひとり当たりが出てしまった。
この時、副店長は客の少ない時間帯なので仮眠していた。この程度のことで起こして相談するのは悪い。千里はどうしよう?と悩んだものの、さっき桃香から
「この女子制服、千里が着てもいいんじゃない?」
と言われたことを思い起こす。
「しょうがない。他に誰もいないし、私が渡しちゃおうか」
ということで、女子更衣室に行き、さっき桃香が着た服を自分で着た。
そしてお客様にチョコを渡してきたのだが、この後、早朝だというのにお客様がどんどん入ってくる。それで千里はさっきまで着ていた男子制服に戻ることができないまま、接客・調理・配膳を続ける。あまりに忙しくて途中から《きーちゃん》にも手伝ってもらって何とかこなす。
やがて副店長が起きてきたので、慌てて《きーちゃん》を女子更衣室に行かせて、すぐに吸収する。副店長は千里が女子制服を着ていたので驚いていたが、バレンタインのチョコを渡すのに、女子制服を着たというと
「全然問題無いよ。ありがとう」
と笑顔で言い、
「そうしてると女の子にしか見えないね」
などとも言っていた。
5時半頃、6時からのシフトの女の子がやってくると
「あれ?今日は千里ちゃん女子制服着てる」
と言われる。
「ちょっとやむにやまれる事情があって」
と千里は言ったのだが副店長は
「村山君は、女子制服の方が合っているようなので、今後こちらの制服を着てもらうことにするから」
などと言っていた。
そして6時からの子たちも
「可愛いよ」
「どうして今までも男子制服を着てるんだろうと思ってた」
「スカートの方が千里ちゃん似合ってるよ」
などとみんな言っていた。
12日の午後、千里はこの日は非番だったのだが、店長から呼ばれてファミレスに出かけていった。店長、副店長、それに女性の夜間店長・椎木さん(土日担当)が居た。
「村山君、あらためて訊きたい。戸籍とか関係無しに、君自身で認識している自己の性別は男なの?女なの?」
そういう話なら答えは決まっている。
「私は女です」
「じゃ、村山君はここのレストランでは女子制服を着てくれない?」
と椎木さんから言われる。
千里は頭を掻いて
「分かりました。女子制服使います。あれこれ悩ませてしまったようで申し訳ありませんでした」
と謝った。
それで椎木さんから女子制服の入った紙袋を受け取る。
「万一、村山君の性別のことでお客さんからクレームが入った場合は、僕か芳川(副店長)に言って。ちゃんとお客様に説明するから」
と店長。
「はい。ありがとうございます」
「まあ、そんなクレームが入るはずもないけどね。今までも村山君はお客様からは『お姉ちゃん』とか『ウェイトレスさん』とかしか呼ばれてないし」
と副店長は笑って言っていた。
そういう訳で、千里のこのファミレスでの制服問題は、ここに入ってから4ヶ月にしてようやく解決することになったのである。