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(C)Eriko Kawaguchi 2015-11-07
「それで今日はちょっとご相談がありまして」
と藍川真璃子は言った。
「はい」
と高田コーチは答える。
「実は数日前、JI信用金庫の経営が事実上破綻し、来年4月付けでKL銀行に救済合併されることが発表されました」
「ああ、報道されてしまたね」
「JI信金の《ミリオンゴールド》は現在関東実業団2部、KL銀行の《ジョイフルサニー》は4部なのですが、JI信金側では経営のスリム化のためバスケ部は廃部にするつもりでした」
「ええ」
「しかしこのチームは3年前に2部Aで優勝した経験があります。それでちょっとある人が介入して今度の秋のリーグでも2部で優勝し、1部にあがることができたら、存続させてもいいということになったんですよ」
「結構厳しいですね」
「ええ。でも今季存続させることができれば、来年の4月には母体の会社が合併するので、チームも合同という話にできます」
「なるほど」
「熊野サクラの就職先をお探しになっているとのことでしたので」
「その件は数人の知人に声を掛けました」
「その中のある人が私の友人だったので」
「なるほど」
「それで熊野にKL銀行を紹介できないかと思いまして。あそこの副社長の奥さんが私の友人なんですよ」
「ほほぉ! でもその2部で優勝しなければならないJI信用金庫ではなく4部のKL銀行なんですか?」
「お給料が違うので。KL銀行でしたら給料は税込み20万円ほどありますが、JI信用金庫はとりあえず3月までは月給5万円なんですよ」
「5万円なんですか!?」
「数日前に通告されて、大半の部員が辞めるようですが、私の見込みでたぶん3〜4人残ってくれるみたいなんです」
「ほんとにバスケが好きな子たちでしょうね。でもそれではチームの体をなしませんね」
「それでJI信金には私が今面倒を見ている選手を3人送り込むつもりです」
「はい」
「これがその3人のプロフィールなんですけどね」
それを見た高田は驚く。
「佐藤玲央美が今あなたの所にいるんですか?」
「村山千里も別口で練習させています。ふたりとも実際しばらくバスケから離れていたんですよ。それでリハビリが必要だったので」
「なるほど」
「ふたりとも基礎的な力は戻って来ています。ただバスケの勘みたいなものは本来の調子に戻るまでもう少し時間がかかるかも知れませんが、それをこれから1ヶ月、世界選手権までにそちらで鍛えて頂ければ何とかなるかと」
実際にはタイムシフトが起きる直前2009年12月の時点では、千里はローキューツで半年ほど活動して関東クラブ選抜で優勝しており、玲央美はJI信金で3ヶ月ほど活動して2部優勝をなしとげている。しかしふたりともまだ世界と戦うための勘は取り戻していなかった。
「では佐藤と村山はU19に参加してくれるんですね?」
「はい。それは私が保証します。ふたりは7月1日朝、そちらに顔を出します。鞠原江美子に迎えにきてもらえればよいかと」
「ああ、鞠原が連絡を取っていたのはあなたですか」
「ええ。そうです。それでKL銀行の方には少し時期が遅れますが、もうひとりこちらから送り込むつもりです」
と言って、プロフィールシートをもう1枚見せる。
「この子(池谷初美:旭川L女子高)も、こちらの近江満子(旭川R高校)の方も知ってますよ。P高校と何度もやりました」
と高田は言う。
「池谷は1月に怪我したのが完全に治りきってないんですよ。この夏の間には何とかなると思うんですけどね」
「なるほど。ではサクラの就職の件、進めて頂けますか。本人には世界選手権が終わってから話したいと思うのですが」
「はい、それで結構です。よろしくお願いします」
「はい、今日は有意義な話ができました」
と言って高田は笑顔で藍川真璃子と握手をした。
時間を戻して7月1日。
NTCでの初日の練習が終わった後、千里と玲央美は取り敢えず交代でシャワーを浴びる。玲央美が先にシャワーを浴びたが、千里がバスルームから出てきた時、玲央美はもう寝ていた。千里も玲央美に「おやすみ」と声を掛けてから、ベッドに入り、そのまま深い眠りに落ちた。
翌日は朝6時頃起きた。熟睡していた感じだ。トイレに行ってくると玲央美も起きたようで交代でトイレに入る。
お茶を入れて少しおしゃべりした。
「しかし藍川さん、何か色々暗躍してるね」
と玲央美が言う。
「とりあえず現金を送ってもらったのは助かった」
と千里。
「うんうん。それで実は私、白邦航空が倒産してチームが解散した後、藍川さんと一緒にずっとトレーニングしてたんだよ」
「あ、そうだったの?」
「練習のパートナーが、千里も知ってるよね?母賀ローザさん」
「うちのチーム(千葉ローキューツ)の設立者だ!」
「夏から近江満子さんも加わった」
「それでその3人でミリオン・ゴールドに加入したのか」
「事実上チームを乗っ取ったようなもんだけどね。実際試合の指揮もほとんど藍川さんがしていたし」
と玲央美は笑って言う。
「なるほどねー。いや、近江さんが変な会社に入ってしまって苦労してると聞いたから、どこか適当な転職先を紹介して千葉ローキューツに勧誘しようなんて言ってたらさ、『ごめーん、実業団2部のチームに入った』と言うからびっくりしつつも『おめでとうございます』なんて言ってたら、チームメイトに玲央美が居ると言うから、さらにびっくりして」
「藍川さん、私と千里をまとめて鍛えるとか言ってたから、千里もミリオン・ゴールドに勧誘するつもりかと思っていたんだけど」
「私、去年の12月以来、藍川さんとは会ってなかったんだよ」
と千里は言う。
「でも藍川さん、千里と接触のある人物と頻繁に連絡を取ってるふうな言い方していたから、別途鍛えているのかと思った」
「うむむ、それって誰だろう?」
「それは私も分からないんだけどね」
「うーん・・・」
「何か大学に男の振りして行っているという話は聞いた。というか千里と接触している人物は千里のことを男の子と思い込んでいる雰囲気だったらしい」
「あれはなりゆきで」
「大学には男子学生として登録された訳?」
「ううん。女子学生として登録されてる」
「だったら、なぜわざわざ」
「いや、話せば長いことながら」
と言って千里は自分と貴司の関係、そして登校初日に雨漏りで服が全滅してやむを得ず男装で出て行って、ノリで『ボク男ですよー』などと言って、みんなに真に受けられたという話をした。
「でも千里の男装ってたぶん不自然すぎて、それ誰も信じてないよ、きっと」
「そうかも知れないという気が少しずつしてきている」
「元の時間の流れに戻ったら、年明けから女装で学校に行ったら?」
「うーん。。。どこかで女に戻りたい気はしているんだけどね」
「冬休みの間に性転換しました、とか言っておけばいいじゃん」
「そうだよね〜」
2日目の練習では千里は昨日よりは随分と身体が動くような気がした。やはり昨日の練習で身体が1年前に日本代表やウィンターカップをしていた頃の記憶を取り戻してきたのだろう。
それでもまだまだみんなより遅れがちだ。ただ、この日はかなりスリーが入るようになってきたので「お、覚醒してきたね」などと彰恵から言われた。昨日はやはり、スリーを撃つ時の相手ディフェンスの動きが、この1年間半ば趣味のクラブチームでやっていたのとは、全然レベルが違っていて、かなり戸惑いがあった。しかし今日は壮絶強い人と相手をする感覚が蘇ってきたのである。実際、高梁王子とマッチアップする場合も、昨日はほとんど向こうの勝利だったのが、今日は半分くらい彼女を抜くので、むしろ彼女の方が
「あれ〜、私、今日は何だか調子が悪いみたい」
などと言っていた。
彼女もたぶんアメリカで鍛えられて相当自信を持っていたのだろう。
玲央美のほうもやはり昨日に比べて明らかに動きが良くなっていた。玲央美も千里も紅白戦をする場合Aチームに入れられていたのだが、高田さんが
「村山も佐藤もだいぶ良くなった。昨日の動きならBチームにした方がいいかとも思っていたんだけど、これなら何とかAチームでいいな」
などと言っている。
「大丈夫です。明日はもっと良くなります」
と千里は言った。
「うん。今の4−5倍の動きはしてくれないと困る」
と高田さんも言っていた。
コーチ陣はセンターの2人の動きに不満があるようであった。華香は2月から5月まで全くバスケをしていなかった。6月になって大学に復帰してJ学園大のバスケ部で練習をしていたが、まだ完全に勘が戻っていない。サクラの場合は合宿直前までバスケをしていなかったので、ボールそのものに対する勘が鈍っている感じであった。
「サクラと華香は今回の合宿が終わったあと12日まで特別合宿だな」
と高田コーチが言う。
「何をやるんですか?」
「7日になってからのお楽しみ」
2日目の練習が終わった後、22時頃、千里と玲央美がコーヒーを飲みながら話していたら彰恵が部屋にやってきた。
「いや、昨夜も来たんだけど反応が無かったから」
「ごめーん。昨日は完璧に熟睡してた」
彰恵が差し入れでチキンを持って来ていたのでそれを摘まみながらおしゃべりする。
「いや、レオちゃんと千里がほんとに来てくれるか結構ハラハラしてたけどエミが、ふたりは間違いなく来ると断言してたし、高田さんも確信があるようなこと言ってたからね。エミが朝になってふたりを連れてきたから、大したもんだと思った」
と彰恵は言っている。
「ごめんねー」
「万一ふたりが間に合わない場合は風邪で本日欠席とでも言わなきゃと思ってたのよね〜」
彼女はこのチームの副主将なので色々責任感もあるようである。主将は朋美だが千里たちより1つ年上なので、どうしても同い年の彰恵のほうがみんなと壁無しで話せる感じになる。
「まあ逃げようとしていたのは認める」
「でも捕まっちゃったね」
「高田コーチも鬼ごっこだったって言ってたな。でも2人とも昨日の合宿初日は調子悪そうと思ったけど今日はだいぶエンジン掛かってきたみたい」
「私、練習の仕方を忘れていた感じ。ここしばらくのんびりとやってたから」
と千里は言う。
「千里は一時期筋肉も落ちてたみたいだけど、また復活してきたね」
と玲央美は言いながら千里の腕に触った。玲央美が千里の「腕が細い」と言ったのは8月3日のことであり、それは時間の流れの上では今から1ヶ月後だ。ふたりにとっては逆に4ヶ月半前のことだし、実は千里の肉体はあれから3年近い年月が経っている。千里は多数の時間の流れが紅茶に落としたミルクのように混ざり合っているのを感じた。
「レオちゃん、どこかのチームに入らないの?」
「秋から関東実業団の2部のチームに入る予定」
「2部なんだ?」
「1部は戦力が固まっているから」
「それはあるなあ。でもレオちゃんが入ったら2部優勝でしょ」
「まあ優勝するつもりでやるよ」
「うん」
「千里はあれ何かクラブチーム?」
「うん。けっこうのんびりとやってる」
「秋から私と一緒にその実業団のチームに入る予定の母賀ローザさんが作ったチームなんだよ」
と玲央美が言う。
「母賀ローザって、母賀クララの妹?」
「そうそう」
「凄いじゃん」
「幽霊部員が多くてね。でも私が入ったからには全日本クラブ選手権くらいまでは行けるように頑張るよ」
と千里は言う。
「全日本クラブ選手権とか言わないでオールジャパンまで行きなよ」
「まあ今年の戦力ではそこまでは無理かなあ。でも来年くらいは行きたいね」
千里は今自分と玲央美が「特別な状態」に置かれていることを認識した。
ひとつは、携帯が特定の人としかつながらないのである。時間が7月に戻されているので履歴を見ても6月末までに送受信・発着信したところまでしか表示されていない。当時は知り合いではなかった小杉来夢や、まだアドレスを交換していなかった花園さんがアドレス帳に登録されていない。更に、掛けられる相手がほぼ今合宿に参加しているメンバーに限られているのである。例えば麻依子や浩子、大学の友人の友紀や桃香、また貴司や玲羅などに掛けようとしても発信もできないのである。玲央美も同様のことを言っていた。お兄さんやバイト先で知り合った友人(実は桃香である)などに電話しようとしても掛からないのだという。
そしてふたりとも藍川さんには電話がつながらないことを知る!
パソコンは不思議で、ディスクの中には千里が夏以降に作った楽曲のデータも入っている。メールも12月20日に受信したメールが入っている。しかし千里のパソコンはネットにはどうしてもつながらなかった。なんとも微妙なブロックをされているようだ。
そしてあらためて認識したのだが、千里も玲央美もU19に関わる情報を全く持っていなかったのである。千里はバスケット協会のメンバー専用のメルマガにも登録している。そのメルマガにはU19関係の情報も入っていたはずなのに、幾つかの号が歯抜けになっている。たぶんその歯抜けになっている分がU19の選手が発表されたのや、合宿の情報、そして試合の結果などではないかという気がした。
つまり自分はそもそもこの春頃から、この「時間の重複」を前提とした操作をされた状態に置かれていたようである。その件について千里の時間の管理をしている《いんちゃん》にも訊いてみたが
『私でも分からないことがいくつかある。そして知っていることも多くは話すことを禁じられている』
と言っていた。