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5月頭、高田裕人は渡米し、高梁王子(たかはし・きみこ)に会い、U19女子日本代表への参加を要請した。高梁は、自分は転校したのでしばらく大会には参加できないものと思い込んでいたので、日本代表には転校と関係無く参加できると聞いて驚いていた。しかし代表参加には同意してくれたので、高田は彼女に日本行きの航空券を渡して帰国した。
成田に着いてから村山千里に電話してみると、村山(グレース)は、富山県のH実業という会社に行ってくださいと伝えた。
「その会社で、北陸新幹線の工事現場で中丸華香は働いています」
「ありがとう。行ってみる」
一方グレースも残る一人、熊野サクラの所在はまだつかめずにいた。
呉服の雅(みやび)は京都市東山区に友禅工房を持っており、その工房の前面に雅の本店がある。そしてその本店の左隣に雅およびエレガントの本社機能がある3階建てのビルが建っている。右隣は前島旅館という木造2階建ての旅館であった。本店の広さは10m四方(30坪)程度、工房は奥行き15m幅50m程度(軍需工場の跡地らしい)で、工房の前に雅の本店と前島旅館がある感じであった。
千里(ロビン)が最初にここを訪れたのは、2009年3月下旬、京都南邸に引っ越してすぐの頃であった。
千里はその時点では、雅はエレガントの子会社という認識だったのでエレガントに併設されていない雅の単独店があるのを意外に思い
「ここはエレガントは無くて雅(みやび)だけなんですね」
と言った。
「ここが元々の宮田呉服店の発祥の地なんですよ」
「へー」
奧さんが説明した。
「私の曾祖父の系統がこの地で江戸時代末期に創業した宮田呉服店という店で、曾祖母の系統は明治になってから岡山から京都に出て来て、備前屋という衣裳品全般を売る店をしていたんです。それが結婚にあわせて店も合併して宮田の宮と備前屋の備で宮備だったのを、明治憲法発布の時に記念に字を変えて優雅の雅にしたんですよね」
「なるほど」
「戦前は衣料品だけだったんですが、戦後食料品を扱うようになって。一応昭和40年頃に和服の雅と食品および洋服のエレガントを分離したんですよ。祖父の長女が雅、次女がエレガントを継いだのですが、長女さんのところは子供ができなくて、結局エレガントが雅を合併したんですよね」
「ああ、それでエレガントが親会社になっている訳ですか」
「合併したのは平成元年だったね」
「わりと最近ですね」
「だから雅の独立店舗が10個くらいありますよ」
「へー」
「ここが一応本店だから、もう少し広くしたいんですけどね」
と社長が言ったが千里は言った。
「すぐ広くできますよ」
社長夫妻は単に修辞の範囲と思ったようであった。
今年の夏、フィンランドに行くことになったので、千里(ロビン)・清香・双葉は連休明けにパスポートを申請した。公世は先月既に申請しているが、連休明けにハガキが来ていたので受け取ってきた。
「あれ〜なんで?」
などと公世が言っている。見てみると彼のパスポートは
Kimiyo Kudo sex:F と書かれている。
「これで公世が女であることは証明されたな」
と清香。
「ちゃんと男で申請したのに」
というと公世は自分の部屋から戸籍謄本の写しを持って来た。
「ほら、戸籍にはちゃんと長男と書いてある」
と言っている。
双葉が言った。
「きみちゃん、男と書かれた戸籍の写しがここにあるということはさ、提出したのが、女になっている戸籍の写しだと思う」
「え〜!?」
「うん。理屈にかなってる」
「どうしよう。これじゃ入出国できない」
「いや、これでいい。公世は女にしか見えないからパスポートが男になっているほうが入出国で咎められる」
と清香が言う。
「トラブった時にきみちゃんが男だと証明する方法が無いよね」
「医師の診断を受けたら医師は女だと判定するだろうし」
「だから公世は女のパスポートを使うしかないんだよ」
「そんな・・・」
ということで、彼は女のパスポートを使うことになってしまったのである。
なお、フィンランドはシェンゲン圏なので日本人は90日以内の滞在ならビザは不要である。
千里たち3人のパスポートも下旬にはできたので、千里は航空券の手配をすることにした。シルキーと連絡を取り5人分まとめて予約する。関空(KIX)からアムステルダム(AMS)乗り換えでヘルシンキ(HEL)までである。料金はシルキーが出すとは言っていたが、彼女が望んでいた忍者でもないのに全部持ってもらうのは気の毒なので、千里が半額出すことにした。むろん公世の分も性別はFで予約した。
ヘルシンキからは鉄道で移動することになるらしい。
双葉は「サンタクロースとムーミンに会ってこなければ」などと言っていた。
5月16日(土)、昭和期に活躍した作曲家・鍋島康平が亡くなり、通夜が行われた。(東の)千里は三宅先生に頼まれて、ドイツまで0泊で、雨宮を呼びに行ってきた。
鍋島の葬儀は、24日(日)に、レコード協会葬として行われた。
5月23-24日(土日)、大学生剣道の関西大会が行われた。初日は団体戦が行われたが、京教女子は四教戦と同じオーダーで臨んだ。
先鋒:木里清香
次鋒:島根双葉
中堅:村山千里
副将:横田浩美
大将:立浪恵海
すると、一回戦・二回戦・準々決勝・準決勝と最初の3人で勝ち進む。
決勝は同志社とになった。京都勢同士の戦いである。清香・千里は勝ったが、双葉が敗れ、京教は準優勝だった。向こうは準決勝までのこちらの戦いを見て、次鋒に強い人をぶつけてきたので、双葉はその人に2-1で敗れた。
男子の方は1回戦は3人しかいないチームに勝ってから2回戦、
先鋒の公世は勝ったものの、次鋒・中堅・副将と敗れる。
それで京教は2回戦敗退だった。
「きみちゃん女子に来てよ。そしたら一緒に優勝できる」
「そういう訳にはいかない」
彼は男子に出る宣言をしているので3年間は女子には出られない。
2日目は個人戦が行われる。千里と清香は順調に勝ち上がり、決勝リーグに進出した。双葉は大阪体育大の宮田さんに敗れて決勝リーグに届かなかった。
決勝リーグはその宮田さん、同志社の中村さん、そして千里と清香の4人である。
千里も清香も宮田・中村を倒し、千里と清香の勝負に優勝はかかる。しかし例によって勝負が付かない。どちらも1本取れないまま延長に行くが決着が付かない。それで判定にしますと言われる。旗は2-1で清香の勝ちとした。それで、優勝が清香、千里は準優勝となった。3位は同志社の中村さんだった。
中村さん(4年)は千里と清香に
「うちに来て欲しかったぁ」
と言っていた。でも時々手合わせしましょうと約束した。
男子の方では公世は決勝リーグまではあがって行ったが1勝2敗で3位だった。彼も優勝した同志社の守原さんと、時々手合わせしましょうと約束していた。
この大会で男子の上位32名・女子の上位20名が全国大会(個人戦)に進出する。また男子の上位8名・女子の上位4名は東西対抗戦(団体戦)の選手となる。千里・清香・双葉・公世は全員全国大会に進出する。また千里・清香・公世は東西対抗戦の代表にもなった。全国大会と東西対抗戦は6月下旬におこなわれる。
今年の姫路立花K神社姫祭りでは播磨陶磁器市というのもあり、千里の眷属たちがやっている播磨窯も出品していたのだが、5月下旬、社務所に40代の男性が来て
「播磨窯の主宰者さんに連絡が取れませんか」
と言う。あちゃー。クレームかなぁと思い、千里(夜梨子)が
「村山と申します、私が播磨窯の取り次ぎをしています」
と言うと、男性は思わぬことを言った。
「陽万里(ひまり)窯の真鍋と申します、播磨窯さんの磁器って有田(*10)っぽいですよね」
「ええ。中心になっている人が、有田で修行したんですよ」
ちなみに有田は磁器の里である佐賀県の有田であり、みかんの里である和歌山の有田ではない!
(*10) 秀吉が朝鮮出兵した時、朝鮮から磁器の制作者・李参平を連れ帰り、彼が祖となって良い白磁鉱のあった佐賀県有田の地に磁器(*12)の製作所を作った。これが有田焼の始まりであり、李参平は“陶祖”と呼ばれる。もっとも近年の研究では西九州で陶磁器の製作が始まったのは李参平来日の数年前らしく、李参平より前に数人の陶工が来日していた模様。
有田焼には“三右衛門”といって名家が3つある。柿右衛門・今右衛門・源右衛門である。有田焼を特徴付ける赤い色の絵付けは初代柿右衛門が開発した。この経緯は昔は国語の教科書に載っていた。現在、今右衛門と柿右衛門が伝統的な作風なのに対して源右衛門の作品はモダンである。
有田焼は海外ではイマリと呼ばれ、その絵画のような模様が、ヨーロッパの王侯貴族に愛された、これは伊万里港から出荷されていたからイマリと呼ばれたものである。
有田には三右衛門をはじめとして多数の個人窯があるほか、企業的に磁器を生産するメーカーもいくつかある。その中で有力なのに深川製磁・香蘭社などがある。
(*12) 陶器と磁器は焼成温度が異なる。陶器は800-1000度程度の低温で焼くのに対して磁器は1200-1400度程度の高温で焼く。また磁器は使用する土の粒子が細かい。しばしば水車などで細かく砕いている。
陶器は一般に肉厚だが、磁器は概して薄い。
両者は指ではじいてみれば、その音でも区別できる。陶器は鈍い音がするが、磁器は高い音がする。筆者は子供の頃母から茶碗の縁を指ではじいてみて
「これが三河内(みかわち)の音、これが有田の音」
と教えられた。
播磨窯は実は中心になっている天橋という子が若い頃、有田の香蘭社で仕事をしていたのである。一時期は有田に近い波佐見(はさみ)に自分の窯を作っていたが、播磨の女子と結婚してこちらに移動してきていた。それで3年前に千里の支援で播磨の山中に新たに窯を作ったのが播磨窯である。ここには関西組の子が男女10人ほど入って、茶碗や皿などの成型や絵付けの作業をしている。採算とかは考えておらず、趣味というよりほぼ遊びである。多くの子は粘土をいじるのが楽しいと言っている。子供の泥遊びと同じである。
「私も有田出身でしてね」
と真鍋さんは言った。
「ああ。真鍋って苗字は佐賀に多いですよね」
「はい。それで姫路市内に販売店を作りたいと思っているのですが、よかったら一緒にやりませんか」
千里はビジネスの話ならということで青池を呼んで真鍋さんと話し合わせた。それで姫路市内に陶磁器販売店“伊万里”を作ることにし、陽万里窯と播磨窯の作品を販売することにしたのである。開業と運営の資金は双方で折半する。店長は真鍋さんの娘さんの美和さん、副店長は播磨窯に参加している女子の飛鳥という子にしてもらうことが決まった。これから土地の買収などをして年内の開業を目指す。千里は店舗の建物は自分が所有している工務店に建てさせますよと言った。