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その日の夜、モルジアナは密かに男装しました。眉毛も眉墨(*21)を使って太く見せ、付けヒゲをつけ、男の服を着て、男物の帽子をかぶります。底の厚い靴まで履いて、日暮れ後、出掛けました。そして町の中でも、カシムの家からはかなり離れた場所にある、ハージ・ムスタファーという年老いた靴屋の所まで行きました(*22).
(*21) 眉墨は当時は煤(すす)を使ったと思われる。先日八犬伝で書いた烟炱である。付けヒゲはかなり古い時代から存在したようである。
イスラム社会では、男性は、あごひげは自然に伸ばし、口ひげは剃らずに刈ることが定められているが、体質によってはヒゲの生えない人・薄い人もあり、その人たちのために(異教徒と間違えられないように)付けヒゲは市販もされていたと思われる。もっともモルジアナは証拠を残さないように自作したかも。
(*22)「アラディン」でも書いたが、中世の感覚で“老人”とか“老いた”というのは、たぶん40代くらい。昔は衛生状態・栄養状態・医療環境が現代に比べて悪いから、平均寿命も短く、40代は風貌もおそらく現在の60代くらいだったと思われる。日本でも昭和40年代くらいの50代の人の写真は今なら60代の人に見える。サザエさんの波平は54歳である。
モルジアナが思った通り、靴屋は遅くまで靴の仕立てをしていました。
「ムスタファー親方、夜分大変恐れ入ります」
とモルジアナは男を装った低い声で言いました。
「何だね?」
と年老いた靴屋は言いました。
モルジアナは靴屋に金貨を1枚握らせました。
「親方様にしかできないことでございます。秘密の仕事をして頂けませんでしょうか?」
「一体何事だね。金貨までくれるというのは」
「もう1枚差し上げます」
と言って、モルジアナは彼にもう1枚金貨を握らせます。
「これから私と一緒に秘密の場所に行き、秘密の物を縫って欲しいのです」
「秘密のものとは?」
「革製品でございます」
「ふーん・・・・しかし秘密の場所と言われても、そこに行けば分かるぞ」
「恐れ入りますが、目隠しをして頂けますか?私が手を握ってご案内します」
「分かった。取り敢えず行ってみようか」
と靴屋のムスタファーは同意しました。
それでモルジアナはムスタファーに鉢巻きのような布で目隠しをし、彼の手を握って、案内しました。
ただし、モルジアナは手袋をしています。素手で彼の手に触ると、女とバレてしまうからです(本当は女ではないのだが)。底の厚い靴を履いたのも、身長を誤魔化すためです。
モルジアナはムスタファーの手を握り、彼を案内しますが、わざとあちこちに大きく寄り道をして、場所が分かりにくいようにしました。
そして彼をカシムの家の中まで案内し、部屋の中まで連れてきてから、靴屋の目隠しを外しました。
「これは・・・」
と言って、靴屋は死体を見て驚きます。
「金貨をもう1枚差し上げます」
とモルジアナは言って、彼の手に、やや無理矢理金貨を握らせました。
「確かに革製品だな」
「この両手・両足と首を胴体に縫い付けて欲しいのです」
靴屋は遺体を見ます。胸も膨らんでないし毛深いので男のようですが、顔は布で巻いて人相が分からないようにしてあります。
「恐ろしい盗賊共にこのようにされてしまったのです。このままでは葬式も出せないので、慈悲深い親方様のお力に頼りたいのです」
「盗賊か。酷ぇことするもんだ。分かった。どこまでうまくできるかは分からないが縫い合わせてみよう」
それで靴屋の親方は、まずは左手を身体に縫い付け、続いて右手を縫い付けます。左足を身体に縫い付け、続けて右足を身体に縫いつけます。そして頭を縫い付けますがこれがなかなか大変でした。モルジアナに頭を支えていてもらい、何とか縫い付けました。
「ありがとうございます」
「この者は男のように見えるが、柱宝は無いのか?」
「あっ」
モルジアナは探し回りましたが、部屋の隅の袋の中に入っているのを発見しました。
「すみません。これもお願いします」
「これが付いてないと、間違って、女用の天国に送られてしまうかもしれんな」
と靴屋も冗談が出るようになっていました。
「きれいに着飾ることができていいかも知れませんよ」
とモルジアナもジョークで返しました。
男の印を縫い付けて、やっと完全体になりました。
「親方様。本当にありがとうございます。何といって御礼したらいいか分かりませんが、どうかこのことは内密に」
と言って、モルジアナは彼に金貨を更に10枚渡しました。
そして、再び目隠しをし、彼を自分の家まで送り届けました。この時もわざとあちこち寄り道をして、道筋が分かりにくいようにしました。
バラバラになった身体を縫い合わせてひとつにするというのは、実は幼い頃にモルジアナが男性器を切られて、その後傷口を縫ってもらった記憶から思い付きました。お医者さんに頼んで縫い合わせてもらう手はありますが、ほぼ確実に役人に通報されると考えました。
それで靴屋を思いついたのです。靴屋は革製品を縫い合わせるのに慣れていますし、その道具を持っています。そしてお金を積めば秘密にしてくれる可能性があると思いました(これは完璧に裏切られる)。
変装したのは、むろん身元を知られないためです。
もうひとつ、仕立屋というのも考えたのですが、皮の縫合は布を縫う針では無理なのと、衣服を扱っている仕事の関係で、仕立屋には知り合いが多すぎます。それで、カシム家の仕事とあまり接点が無い、靴屋を選んだというのもありました。
カシムがラバを連れて岩山に行ったのは7月11日で恐らくその日の内に殺されたものと思われます。今夜は7月18日で既に一週間経っています。しかし冬なので遺体が傷みにくかったのが幸いだなとモルジアナは思いました。(ヒジュラ暦240年7月11日=グレゴリウス暦854年12月10日 (*23)トルクメンは夏は40度以上、冬は0度以下と、寒暖の差が激しい気候です。
7.11 カシム岩山に行き殺される
7.14夕方 カシムが3日経っても戻らない→アリに相談
7.15 アリとモルジアナが遺体回収。深夜戻る
7.16 氷精丹を求める
7.17 銀精丹を求める
7.18 金精丹を求める。身体を繋ぎ合わせる。
7.19 お葬式
(本当は当時は日没から1日が始まるが、↑は現代の非イスラム圏の方式で記述している)
(*23)ヒジュラ暦は各月を“新月”から始めるが、“新月”とは当地の暦決定者が日没時に実際に細い月を観測した日を1日と定めるので、地形や天候により1-2日ずれる場合がある。つまりヒジュラ暦は地域によって日付が異なる場合がある。
翌朝、モルジアナは実弟のアリに頼み故人のお清めをしてもらいました。お清めはアリに続いて、息子であるムハマドにもさせます。
死化粧をして、血が全部抜けてしまっているのが目立たないようにしました。
ここでカシムの死の実情を知っているのはアリとモルジアナのみです。ダニヤには“切断された遺体”は見せていません。ムハマドには(つぎはぎされた身体を見せたので)さすがにお父さんは盗賊に殺されたということを教えましたが、奴隷たちは、カシムは仕入れ先で病気に倒れ、自宅まで運んだものの、看病の甲斐無く、亡くなったと思っています
カシムの遺体を棺架に乗せ、顔と手以外は全て布で覆います(都合よく縫い合わせたところは隠れる)。モルジアナが後輩の女奴隷ラーニヤに言って、たくさん薔薇の花を買ってこさせましたので、それで遺体を飾ります。お香も焚きます。(花とお香は死臭をごまかすのもある)
それからメジディ(*24)にカシムの死を届けました。するとメジディを通して、ウンマ(近隣の全てのムスリム(*26)の共同体)に彼の死が知らされました。イスラムではお葬式は共同体の、みんなで執り行うことになっています。
近所の人たちは一週間ほど前からカシムがお店に出ていなかったこと、家の者が高価な薬を買い求めていたことが既に噂になっていたので、カシムの家を訪問すると
「とうとう亡くなられましたか」
「力を落とさないでくださいね」
とお悔やみを言いました。
(*24) イスラム教の礼拝堂。日本語ではモスクと呼ばれている。アラビア語ではマスジッド、ペルシャ語ではマスジェッド、トルクメン語ではメジディという。イスラム帝国がスペインにまで進出していた頃、現地の人はこれを訛ってメスキータ (mezquita) と呼んだ。これがフランス語ではモスケ (Mosquée), 英語になるとモスク (mosque) となって、日本では英語にならってモスクと呼ばれる。
イスラム教のシーア(*25)ではモスクには牧師に似た地位にあるイマームという指導者がいるが、スンニー(*25)ではそのような聖職者的なものは置かず、共同体の中で比較的教理に詳しい年長者が儀式の進行を務める。これは固定されておらず、集会の度にその場で選ばれたりする。
なおイスラムでは偶像崇拝が厳密に禁止なので、メジディ(モスク)内に礼拝の対象となるようなものは一切存在しない。純粋に祈りをささげるための施設である。
(*25) “シーア派”“スンニー派”のように“派”を付けるのは“シティバンク銀行”的な重語であるが、日本語ではわりと使われている。
ペルシャ(イラン)やイラクはシーアが優勢な地域だが、トルクメンは少なくとも現代ではスンニーが多数派である。そこで今回の翻案では概ねスンニーの習慣に沿って記述している)
(*26)今更だが「ムスリム」とはイスラム教徒のこと。カトリックの信徒をクリスチャンと呼ぶのと同様の用語である。なお、イスラム関係では近年“音写”が改訂されているものが結構ある。
(旧音写)アラー(新音写)アッラー
(旧音写)コーラン(新音写)クルアーン
(旧音写)マホメット(新音写)ムハンマド
イスラム教では、基本的に遺体は亡くなった日の内に土葬することになっています。カシムは今朝亡くなったことになっているので今日埋葬します。
カシムの遺体を載せた棺架は、アリ、ムハマド、カシムの友人ワシム(バーナの夫!)、そして近所の男性アムルの4人で持ち、まずはメジディに運ばれます。
ここで祈りを捧げた後は、墓地に運ばれ、顔をメッカに向けて埋葬されます。そして地域の長老がイスラム教の聖典・クルアーンの冒頭・アル=ファーティハを唱え、葬儀は終了します。
棺架が家を出た後は、女性は参加できないことになっているので、その後はアリが葬式を取り仕切りました。女たちは家に残っていたのですが、ダニヤが激しく憔悴しているのを、かつてここの使用人であったバーナがハグして慰めていました。
葬儀の後は、3日間、追悼の儀式が行われます。地域のムスリムの年長者にお願いして、クルアーンを通読してもらったりもします。この3日間は、故人の家の者は弔問客への食事などの提供ができないので、ワシムの一家が対応してくれました。バーナが向こうの家の女奴隷たちを指揮して食事を用意し、男奴隷たちに運ばせてこちらに持って来ました。
この3日間で基本的には服喪期間は終わるのですが、夫を亡くした妻は4ヶ月と10日(約128日)間、喪に服すことになります(むろんその間は再婚などもできない)。7/19の4ヶ月10日後は11月29日になります。
ダニヤはこの後のことについて、息子、アリ、そしてモルジアナと話し合いました。
「息子はまだ独り立ちはできない。アリさん、ムハマドがもう少し大きくなるまででもいいから、あんたが店の主人になってくれない?」
「でも俺は商売は分からないから。親父が死んだ時、いくらかの財産をもらって商売したけど、すぐ店を潰してしまったし」
ムハマドが言いました。
「だったら、こうしない?僕もだいぶ商売の勉強してるけど、まだひとりでやっていく自信はない。だから、アリ叔父さん、名前の上での店主になってよ。そしてお店のお金の管理や仕入れする商品の見極めとかはモルジアナ、君がやってくれない?親父も君にかなり頼っている部分があった。君がいてくれたら僕も安心だ」
するとダニヤは、それはいい考えだと言いました。
アリもモルジアナも悩んだものの、それしかないという結論に達します。それでお店は、アリ・ムハマド・モルジアナの3人の共同で動かしていくことになったのです。
アリは奥さんのザハルを連れて、カシムの家に引っ越してきました。形式的にはアリがここの主人ということになります。話を簡単にするため、また成人の男が主(あるじ)でないと、色々面倒なこともあるため、ダニヤの喪が開けたら、ダニヤはアリと再婚することにしました。アリはザハル、ダニヤという2人の妻を持つことになりますが、イスラムでは妻は4人まで持てるので特に問題はありません。
ただアリはダニヤに
「君とは名前だけの妻だから、床を共にすることはないから」
と言い、ダニヤもそれでいいと言いました。
アリとしては正直、ザハルの嫉妬も恐い!!のです。
またアリは、カシムの息子・ムハマドを自分の養子にしました。
そのムハマドはモルジアナに言いました。
「僕が15歳になったら、君を奴隷の身分から解放するから、僕の妻になってよ」
(昔は男子は15-16歳で成人とすることが多い。女子は初潮がくれば大人である。モルジアナは10歳の頃から、28日おきに“女の小屋”に入っているので、既に大人の女ということになっている)
モルジアナは、私、妻になる機能が無いんだけど、どうしよう?とは思います。
「私よりもっといい女はいるのに」
とは言いつつ
「ムハマド様が15歳になった時に、再度お話しください」
と笑顔で言っておきました。
モルジアナは、それまでの間に彼にたくさん女の子を接触させて、気が変わるように仕向けよう、などと考えていました。いい子が居たら夜這いかけさせてもいいよね?本当は婚前交渉は戒律違反だけど“成ったら”翌日結婚させちゃえばいいし!?
(現代のムスリムは婚前交渉に対して厳しく、国によっては双方鞭打ち刑という国もあるし、比較的緩い国でも周囲から白い目で見られたりする。しかし中世はもっと緩くて“すぐ結婚すればいい”みたいな考えもかなりあった模様である。アラビアンナイトはわりとそういう話であふれている!)
モルジアナはお店の女奴隷頭を務めていたので、これまで同様、朝出勤して午後には家に戻る生活をします。モルジアナが帰宅した後の会計については、今まで通りマルヤムに頼むことにしました。
アリは最初の数日はモルジアナ・ムハマドと一緒に出勤していましたが
「やはり僕は商売のことはさっぱりだ。モルジアナに任せた」
と言って、店には出てこなくなってしまいました。
そして日々、男奴隷のアンタルとシャトランジ(チェスや将棋のルーツとなったボードゲーム)に興じたり、川に釣りに行ったりしていました。
それでお店は事実上、ムハマドとモルジアナの2人で切り盛りすることになりました。ムハマドが明らかに自分に気のある視線を送ってくるのは、どうしたものかとモルジアナは悩みました。
(押し倒されたら逝かせればいいし、などとは考えている。女でないことがバレないようにする自信はある。何といってもムハマドは女性経験が無い!)
世間ではこんな噂をしていました。
「ダニヤさんとモルジアナがカシムの妻だったから、弟のアリと息子のムハマドで1人ずつ相続したのでは?」
ということで、この時点で既にモルジアナはもうムハマドの妻になったのだろうと世間の人たちは思っていました。
なお、10歳の時から、モルジアナがカシムにもらって飲んでいた“女の素”の薬(牝精)ですが、毎月カシムの所にその薬を扱っている行商人が売りに来ていました。それで彼がカシムの死を知らずに売りに来たのをモルジアナが(自分のお金で)買って、今後も頼むと言っておきました。