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■八犬伝(3)

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信乃が出発する日の前夜、浜路(姫路スピカ)は、信乃が出発してしまえばきっと自分は簸上宮六と結婚させられてしまうと思い詰め、信乃(アクア)に夜這いを掛けます!しかし、堅物の信乃は浜路を抱こうとはしません。結局明け方まで、なんとか信乃を口説こうとする浜路と、いくら許嫁でも結婚する前に抱くわけにはいかないと言う信乃との話し合いは平行線をたどったのでした。
 
そしてこれが2人の今生の別れとなってしまったのです(と言って、語り手の明智ヒバリは目を閉じた)。
 

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1478年6月18日、19歳の信乃(アクア)は20歳の額蔵(後の犬川荘助:町田朱美)を伴い、足利成氏公のいる古河(こが *9)に向けて出発しました。浜路(姫路スピカ)はそれを涙を流しながら見送りました。
 
(*9)鎌倉公方・足利成氏は1455年に鎌倉を対立する関東管領・上杉房顕に奪われ、古河(現・茨城県古河市)に退避。以降、古河公方と呼ばれる。なお原作では古河のことを許我と書く。
 

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翌日、蟇六は浜路に簸上宮六と結婚するよう迫りますが、浜路は自分は信乃の許嫁であるとして、これを拒否。操(みさお)を守れないなら、いっそ死んでしまおうとします。しかしそこに浜路を我が物にしようとする左母二郎(大林亮平)が侵入してきて、彼女を誘拐してしまいました。
 
左母二郎はそもそも蟇六から浜路を自由にしていいと言われていたのですから、彼としては当然の行動です。その場で犯(や)っちゃわないだけまだ紳士的かも?
 
(蟇六は浜路を信乃・宮六・左母二郎へ三重売り!している)
 

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浜路を連れて遠くまで逃げた、左母二郎ですが、円塚山の麓まで来た所で、ここまで来れば大丈夫だろうと、浜路に、自分がまんまと信乃の名刀・村雨丸を騙し取ったことを得意気に語ります。
 
驚いた浜路はその刀を信乃に返してくれるよう頼むのですが左母二郎は断り、ふたりは言い争いになって、左母二郎は浜路を斬ってしまいます。彼がとどめを刺そうとした所に手裏剣が飛んできて左母二郎は倒れます。手裏剣を打ったのは、なんと浜路の兄・犬山道節(恋珠ルビー)でした。
 
道節は浜路を介抱し、自分はお前の兄であると名乗って、父の仇である扇谷定正を討とうとしていることを打ち明けます。そして、そのためにこの村雨丸を貸してほしいと言います。しかし浜路は、信乃が村雨丸を献上しに行っているので早く返さないと大変なことになると、兄に村雨丸の返却をお願いします。しかし道節は同意せず、そんなことをしている内に、浜路は左母二郎から受けた傷が思ったより酷く、事切れてしまうのです。
 
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偶然そこに通り掛かって話を聞いていた額蔵は自分は信乃の義兄弟であると名乗り、村雨丸を返してくれるよう頼みますが、道節は拒否。ふたりはとっくみあいになりました。この時、額蔵が珠を入れていた守り袋が道節に渡り、一方、道節が持っていた球が額蔵の方に来てしまいました。結局道節は逃げて行ってしまいますが、額蔵が自分の所に来た球を見ると“忠”という文字が入っていました。それで額蔵は道節も自分たちの仲間であったことを知るのです。
 
額蔵は浜路を介抱しようとしましたが、もう息をしておらず、信乃に何と伝えようと嘆くのでした。
 

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一方、簸上宮六は軍木を連れて浜路をもらいに蟇六の家にやってくるのですが浜路は居ません。蟇六は言い訳ができず宮六に機嫌を直してもらおうと、名刀・村雨丸を献上しますなどと言うのですが、取り出してきたものは、村雨丸とは似ても似つかぬ凡刀です。怒った宮六は蟇六・亀篠(ケイナ・マリナ)を斬り殺してしまいました。
 
ところがそこに帰って来たのが額蔵です。額蔵はてっきり強盗かと思い、宮六を斬り殺しますが、軍木はかろうじて逃げて行きました。
 
軍木の報せで駆けつけて来た、宮六の弟・簸上社平(高島瑞絵)と卒川庵八は、額蔵を陣代殺しの重罪人として捕縛します。下男の背介(神田あきら)が事情を説明するものの、その背介まで一緒に連行されてしまいました。
 
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さて、信乃の方は、6月19日、古河に到着、足利成氏(阪口有菜)に謁見して村雨丸を献上しようとしますが、そこにあったのは真っ赤な偽物。信乃は献上に見せかけて成氏を狙う扇谷定正(*11)の間者ではと執権・横堀在村(左蔵真未)に疑われ、捕縛されそうになります。しかし信乃は腕が立つので簡単には捕縛されず、逃げまくって芳流閣の屋根の上まで逃げました(*10).
 
(*10) 原作では信乃が成氏の配下の侍を多数斬っているが、成氏の配下の者を斬れば信乃は絶対に許されなくなるし、後の成氏との和解はあり得ない。信乃はそこまで馬鹿ではないと思う。そこで今回の翻案では信乃はひたすら逃げたことにした。だいたい信乃が持っているのはすり替えられた凡刀なので、そんなに多数を斬ることは不可能である。普通の刀は1人斬っただけで、もう斬れなくなる。だから戦場では刀はほとんど使用されていない。戦場の主力武器は槍である。
 
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(*11)1478年当時の関東管領を務めていたのは山内上杉家である。但し、山内上杉家は永享の乱・結城合戦当時の関東管領・上杉憲実の子供・上杉房顕の代で断絶してしまい、この信乃の古河入り当時の関東管領は越後上杉家から養子に来た上杉顕定であった。
 
山内上杉家の分家に当たるのが扇谷上杉家であり、この物語の中で扇谷定正と記述されているのは、実際には扇谷上杉家の上杉定正である。八犬伝は大大名である上杉家に配慮して上杉の名前を直接使うことを避け、敢えて扇谷定正と書いたものと思われるが、八犬伝があまりにも有名になってしまったため、今日ではしばしば八犬伝の呼称通り、扇谷定正と呼ぶ人もある。
 
古河公方・足利成氏は当初この2つの上杉家と対立していたが、山内上杉家の家臣・長尾景春は自らの処遇に不満を持ち、1475年、上杉顕定に対して反乱を起こし、1477年1月には上杉顕定を上野に放逐してしまう。ここで上杉顕定は1478年10月、足利成氏と和睦を結んだ。そのため、成氏の主たる敵は、扇谷上杉家の上杉定正となるのである。
 
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信乃が成氏のもとを訪問した1478年7月はこの和睦直前の時期であった。
 

扇谷家の上杉定正は家臣の太田道灌(江戸城の築城者としてあまりにも有名)の活躍で足利成氏・上杉顕定連合をかなり追い詰める。しかし太田道灌の名声が高くなると、彼による下剋上を恐れて、上杉定正は、1486年、騙し討ちにして道灌を殺害した。
 
その後は、人望も失い、多くの家臣が離反して上杉顕定のもとに走り、定正はじり貧になっていく。
 
功臣を殺すような人に誰が従うだろうか。
 
北条早雲は最初この上杉定正と結んで関東西部で勢力を拡大していったとされるが、後に、関東全てを手中に収めることになる。それはまるで一見、漁夫の利のようにも見えた。
 
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(本編に戻る)
 
ところで、糠助が今際の際(いまわのきわ)に話した、犬飼現八(白鳥リズム)ですが、彼は成氏公の下で、捕り方として活躍していました。しかしこの時は“獄舎長に任命する”という辞令を拒否したことから、執権の横堀在村から「だったらしばらく牢の中で頭を冷やせ」と言われて入牢(じゅろう)をくらっていました(半ば休暇のようなもの)。横掘は、捕り方名人の彼なら捕まえられるかもと思い、現八を牢から解き放ち
 
「お前の出番だ。あの者を捕縛せよ。生死は問わぬ」
 
と命じたのです。
 
それで、芳流閣の上で、アクアとリズム、もとい、信乃と現八の格闘が始まるのです。
 
2人は最初は信乃の刀と現八の十手(*12)で闘っていましたが、やがて現八が信乃の刀を折ってしまいます。その後は2人は素手で取っ組み合いの格闘となります。
 
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(*12)十手は室町時代から使われ始めた。初期の頃は木製だったが、戦国時代になると鉄製の十手も見られるようになった。信乃の刀を折ったのなら鉄製と考えられるが、この時期は多分まだ鉄の十手は無い。今回の翻案では現八に刀を持たせることも考えたが、それなら現八は相手の刀を折った所で信乃を峰打ちして捕縛することもできた。そこで現八には原作通り(鉄の)十手を持たせることにした。実際に使用しているのは、撮影用のアルミ製の十手。信乃の刀は最初から折れるように工作している。
 

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ふたりは互角に組み合い、なかなか決着が付きません。そしてやがて2人は取っ組み合ったまま屋根を転がり落ちてそばを流れている大きな川に一緒に落ちてしまうのでした(*13).
 
(*13) この芳流閣のセットは1億円掛けて制作した今回のドラマ用セットの中の目玉である。下から見上げるためのセット(4000万円)と、屋根だけがあって、信乃と現八が闘うシーンを撮影するためのもの(6000万円)から成る。6000万円の内の2000万円が設計計算の費用である(後述)。
 
アクアとリズムは
「適当に5分くらい取っ組み合って」
と言われたのだが、実際には取っ組み合いに移行した後は、傾斜のある所でやっているので、すぐに転がり落ちてしまった。
 
原作はこの川を利根川と書くのだが、実際には、古河城のそばを流れているのは渡良瀬川である。現代では渡良瀬川はここより4km下流で利根川に合流しているがこれは徳川家康による“利根川東遷事業”(後述)の結果であり、元々は利根川と渡良瀬川はほぼ平行して流れて、いづれも江戸湾に注いでいた。
 
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もっとも馬琴は古河のことを文字を変えて許我(これはかなり古い時代の古河の呼称)と書くなど、敢えて改変している部分もあるので、これは間違いではなくわざと実際のものと変えた可能性はある。むろん芳流閣も架空の建築物である。古河城には江戸時代になって土井利勝(1573-1644)により御三階櫓と呼ばれる実質的な天守閣が建てられた。それ以前にその手の建物があったかどうかは不明。馬琴は1767生なので、馬琴の時代には立派な天守閣状のものが存在したことになる。
 
ここの撮影は、アクアとリズムが抱き合ったまま転がるのは2人がリアルでやっている。芳流閣の屋根の向こうはすぐ下にクッション材が置かれているので、2人は屋根の端から50cm程度(2人の身体がカメラから隠れるのに必要な高さ)しか転落していない(*14).
 
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(*14) 事前に人形で衝撃を確認した上で、あけぼのテレビの男子社員2名で実験してクッションが充分であることは確認している:全くご苦労様である。体重70-80kgの男性で大丈夫なら、アクア45kg+リズム51kgでも大丈夫なはず。
 
「ここで抱き合って転がるんですか?」
と実験台!を頼まれた社員が言う。
 
「人形を転がしたのでは壊れなかったから大丈夫だよ」
と則竹部長が言う。
 
「万一大怪我したら、一生面倒見てくださいよ」
「大丈夫。遺族にはちゃんと年金を払うから」
「ちょっとぉ!」
 
「身体も顔もしっかり密着させてね。両手で相手の身体を抱きしめて。隙間があると危険だから」
「分かりました」
などというやりとりを経て実験したが、幸いにも年金を払うことにはならなかった!
 
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「意外に痛くなかったです」
と2人とも言っていた。もっとも、2人は大学時代はバスケット選手とラグビー選手だったので、少し丈夫すぎたかも?
 
「でも男同士で抱き合うと変な気分だった」
「そのまま結婚してもいいよ」
 
実際には、ちゃんと設計段階で、体重90kgの人が2人抱き合ったまま転がっても大丈夫なように、コンピュータでシミュレーションして傾斜や摩擦係数、必要なクッションの量を計算している。実際にはクッションは計算上必要な量の倍置いた。また屋根を転がる時に痛くないよう弾力のある素材で屋根は作られている。これもきちんとシミュレーション計算している。こういう計算に2000万円掛かったのである。“見上げるための”天守閣の設計計算費用は300万円程度である。
 
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アクアとリズムは2人とも度胸があるので
「事前に実験もしてるなら大丈夫だよねー」
と言って、演じてくれた。
「両手でしっかり抱きしめて、顔も密着させて隙間を作らないようにしてね。隙間が空いてると危ないから。手も身体から離れてたら骨折の危険があるからね」
「分かりました」
 
(演じたのはアクアF:Mは「リズムちゃんと抱き合うのはパス」と言った。リズムは密着して抱き合ってアクアのバスト圧を感じたが、アクアが女の子なのは今更である!)
 
「スリルはあったけど面白かった」
と2人とも言っていた。
 

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八犬伝(3)

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