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■春泳(8)
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「ね、私の占い絶対当たる自信ある。貴司、ちょっと今夜は奥さんに付いてあげなよ」
「でも合宿が」
「今夜、向こうに行ってとりあえず阿倍子さん病院に連れて行って、明日の朝までに戻って来ればいいじゃん」
「そんなのできるんだっけ?」
と彰恵が横から言う。
「合宿は昼間なんだから、許可さえ取れば夜間外出してくるのは大丈夫だと思うよ」
と江美子は言う。
「交通手段は?」
と玲央美が言うので、千里は新幹線の時刻を確認した。
「大阪に行く最終連絡は赤羽20:43-21:00東京21:23-23:45新大阪。明日朝の帰りは新大阪6:00-8:23東京8:43-9:07赤羽」
「それ練習終わってからでは間に合わないし、明日の練習開始にも間に合わない」
ふーん。奥さんの出産より練習優先か。まあそういう男だろうけどね、と千里は思う。それとも私の占いが信用されていないか?
「今まだ奥さんは産気づいてない訳?」
「さっき電話で話したのでは、赤ちゃんは元気っぽいけど、まだ出てくる気配は無いということだった」
じゃ、やはりこれから始まるのだろう。
「じゃ、練習終わってからレンタカー借りて大阪まで走って、奥さんを病院に連れていき、あるいは先にひとりで行ってたら顔見て来て、それからまた車を運転して帰ってくればいい。24時間開いてるレンタカー屋さんはあるよ」
「それで明日の合宿の練習をする自信が無い」
と貴司が言った時、唐突に玲央美が言った。
「千里さ、あんたが代わりに見て来てあげたら」
「ああ、確かに出産の時って男はあまり役に立たないよね」
と江美子まで言う。
うーん。。。。私が行ったらさすがに阿倍子さん怒ると思うぞ、とは思うものの、千里はここはその方がいいかも知れないと思った。そもそも玲央美も結構な巫女体質だ。彼女がそう自分に言ったということは、自分が行く必要があるのかも知れないと千里は思った。
「しょうがないな。じゃ私が見て来てあげるよ」
「すまん」
それで貴司はマンションの鍵を千里に渡した。うーん、別にもらわなくても1本持っているんだけどなあとは思ったが、取り敢えず預かった。
それで千里は食事を終えた後、篠原監督の所に行き、友人女性が産気づいて苦しんでおり、他に頼る人がいないというのでヘルプを求めているのでちょっと外出してきたいと言った。
「明日の朝までには戻りますので」
「分かった。あまり無理しないようにね」
「はい」
監督にはその「友人」というのが大阪にいるとまでは言っていない。言ったらさすがに呆れられるだろう。
それで部屋に戻って簡単に旅の荷物をまとめてから、さて、と思う。
こんなことならインプを車検に出すの、もうちょっと待ってたら良かったなと思った。レンタカーを借りるかなとも思ったのだが、唐突に冬子に車を借りることを思いついた。なぜそう考えたのかは千里にも良く分からない。
それでこういう長距離を運転する時は矢鳴さんを呼び出しておかないと叱られるなと思い電話して出てきてもらうことにした上で、自身はタクシーを呼んで恵比寿の冬子のマンションまで行った。すると秋風コスモスと川崎ゆりこが来ていて、冬子たちもちょうど大阪に移動する所だったので一緒に行こうということになる。
ところが先に帰るコスモスたちを駐車場まで送って行った冬子が、エルグランドがライトの消し忘れでバッテリーが上がっていると連絡してきた。千里は誰かヘルプを呼ぼうと思い、まず和実に連絡してみた。わりとアパートが近いし、新婚さんだからこの週末はきっと家に居るだろうと思ったのだが、何とボランティアで東北まで走っている最中だと言う。全く頑張るなあ!と思う。
桃香に電話してみたら今ビールを飲んでいる所だと言う。うむむ。
それで他にも何人か電話してみたものの、使えそうな人が捕まらない。すると川崎ゆりこが、自分の車・ポンガDXで大阪まで行きませんかと提案した。結局、彼女の車に、千里・冬子・政子、そして冬子担当ドライバーの佐良さんが乗って大阪に行き、冬子のエルグランドは千里の担当ドライバー矢鳴が適当な車を持って来てバッテリーをつなぎ再起動してから、衣装や楽器などを乗せて追ってひとりで大阪まで走ることになった。
それでポンガDXを最初は佐良さんが運転していたのだが、川崎ゆりこが自分が運転したいというのでやらせる。この時、途中まで運転してきた佐良さんは後部座席に行って仮眠してもらい、千里が助手席に乗った。
ところがここでゆりこはブレーキの踏みすぎでフェード現象を起こしてしまう。それで千里は運転中に運転席と助手席を交代するというワザでゆりこと入れ替わり自分が運転席に就いた上で、車の左側を防護壁に微かに擦って減速するという方法で何とかこの車を停止させた。
正直、こういう停め方は初心者のゆりこには無理だったろうなと千里は思った。自分がこの車に乗っていてしかも助手席に居たというのが重要だったんだと思う。しかしこの時、千里もさすがに、この事故からとんでもない大ヒット曲が生まれることになるとは知るよしも無かった。
さてこの事故が起きたのが夜11時すぎであったが、先行して大阪に行ってくれていた《びゃくちゃん》と《りくちゃん》から連絡がある。
『千里、奥さん産気づいたけど自分では動けなくて台所に倒れて苦しんでる』
『すぐにも産まれそう?』
『産まれそうにも見えるけど、まだ半日以上かかると思う』
『びゃくちゃんのできる範囲でサポートしてあげて』
『了解』
それで《びゃくちゃん》は阿倍子さんに毛布を掛けてあげて、その後体調管理をしていてくれるようだ。彼女に119番してもらう手もあるのだが、その場合、彼女の身元を説明できないので話がややこしくなるおそれがある。それはどうにもならなくなった時の最後の手段だ。千里は一刻も早く大阪に行かねばならないと判断した。
なお貴司からは『阿倍子が電話に出ない。メール送っても返事が無い』というメールが来ている。まあ電話にも出られないくらい苦しんでいるんだろうな。しっかし・・・京平の奴何やってんだ!?
千里は静岡在住の雨宮先生の弟子・福田さんに電話し、事情を話して彼女の車を貸してもらえないかと頼んだ。彼女を選んだのは、音楽関係者ならこの時間帯は「宵の口」の感覚であること、彼女がフリードスパイクを持っているからである。
そこで彼女と次のSAで落ち合い、彼女の車を貸してもらう。傷だらけになったポンガDXは福田さんがそのまま静岡市内の工場に持ち込んで修理してもらうことにした。
千里がフリードスパイクの運転席に座り、佐良さんが助手席、後部座席に左から冬子・政子・ゆりこと乗って出発する。千里は《とうちゃん》にお願いした。
『みんなを眠らせてくれる?』
『了解』
それで全員深く眠ったところで千里は近くの非常駐車帯に車を停める。そして《くうちゃん》に頼んで車を豊中市の貴司のマンションの前に移動してもらった。
千里がエンジンを停めると、そのエンジン音が停まったことで冬子が目を覚ました。
「ここどこ?」
と冬子が訊くので千里は
「大阪府内某所。冬、悪いけど運転席にちょっと座っててくれる?」
と言って、車を降りマンションの玄関に歩いて行った。
貴司から預かった鍵でエントランスを開け、33階に上がる。3331号室に行き、『細川貴司・阿倍子』という表札にちょっと嫉妬を覚える。しかし気を取り直してドアを鍵で開けて中に入り、倒れている阿倍子さんに声を掛けた。
「阿倍子さん、阿倍子さん、大丈夫?」
それで意識がもうろうとしていた阿倍子さんは少し意識を取り戻したようである。
「千里さん?」
「今、病院に連れて行くから待ってて」
「何しに来たの?」
と苦しそうな顔の中から不快な表情を作って訊く。
「貴司に頼まれたのよ。様子見てきてくれないかって。本人が来たかったみたいだけど、合宿初日でどうしても抜ける訳にはいかないっていって」
「大阪近辺に居たの?」
「私もあいつと同じ味の素トレセンで合宿中なのよ」
「同じ場所なの!?」
きっと睨むような表情をする。怒りで意識がかなり明瞭になった気がした。
「お互い日本代表の合宿中だし、そもそも阿倍子さんがこんな時にあいつと寝たりはしないから。私もそこまで無節操じゃないからね」
「うん・・・それは信じることにする。貴司は信じられないけど、千里さんは信じてもいい気が最近してきた」
と彼女は脱力したように言う。やはり物凄く苦しい状態なので、怒りを維持するだけのエネルギーが無いのかも知れない。
「まあ、あいつはほんとに無節操な奴だけどね」
「ほんとになんであんな人を好きになったんだろう?」
「ああ、それは私も何百回思ったか分からない」
苦しそうな表情の中、阿倍子さんは少しだけ笑った。
それで千里は冬子に電話して阿倍子さんを病院に運びたいので手伝って欲しいと言った。冬子と佐良さんが登ってきてくれた。
それで3人で協力して阿倍子さんを下まで降ろし、代わりに貴司のマンションでゆりこと政子には休んでいてもらうことにし、鍵をひとつゆりこに渡した。この鍵は昨夜貴司から預かった鍵である。
佐良さんに運転してもらい、千里は後部座席に寝せた阿倍子さんに付き添ってしゃがむようにして乗っている。冬子が助手席である。
千里はその車内からまず貴司に電話した。貴司はさすがに練習を休ませてもらって明日朝いちばんの新幹線で大阪に来ると言った。それを伝え、千里の携帯で貴司と阿倍子さんに少し会話させると、彼女は少しホッとしたような表情をした。
それから千里は青葉に電話した。
「補習があるのに申し訳ないけど、明日の朝いちばんのサンダーバードでこちらに来てもらえない?これリモートでは済まないみたい」
「分かった」
と青葉は返事した。
結局阿倍子さんを病院に運び込んだのは1時半頃である。医師は阿倍子の様子を見てすぐに分娩室に運び込ませた。
千里だけが付いていることにして、冬子と佐良さんには貴司のマンションに行って朝まで寝ていてくれるように言った。
「マンションの合い鍵、冬に渡しておくね」
と言って千里は自分のバッグから鍵を出して冬子に渡した。冬子はそれを受け取ってから変な顔をした。
「ね、この合い鍵ってまさか普段から千里持ってるの?」
「うん。その件はあまり突っ込まないで」
「大いに突っ込みたいんだけど!?」
阿倍子が分娩室で頑張っている間に入院の手続きをする。それで病室を割り当ててもらったので、千里はその病室で待機することにした。千里も1日合宿の練習をした後大阪まで移動し、阿倍子さんを病院に運び込んでと、さすがに疲れているので、分娩室の方の様子を見てきてから病室に戻り、ベッドの下に置いてある仮眠用簡易ベッドを出してそこで寝た。『動きがあったら起こしてね』と後ろの子たちに頼んでおいた。
千里は夢を見ていた。
夢の中で千里はまだ小学1−2年生くらいの感じだ。あの頃は・・・自分が男だなんて思っても見なかったなあ、などと思っていた。誰かおとなの女の人がいて、女の子が何人も並んでいてあめ玉をもらっている。千里もそのあめ玉をもらって食べた。
美味しい〜!
と思っていた時、千里たちにあめ玉をくれた女の人が今気づいたように言う。
「ねぇ、まさか君、男の子?」
「よく分からなーい」
すると友だちの女の子が言う。
「ちさとちゃんは女の子ですよ」
すると女の人は安心したように言った。
「良かった。赤ちゃんを産めるようになる素だから。男の子が赤ちゃん産もうとしても産む穴が無いもんね」
「千里ちゃんはきっと赤ちゃんを産むよ」
と友だちが言ってくれた。
千里が目を覚ましたのは7時である。4時間ほど寝たようだ。《びゃくちゃん》が『まだ産まれそうにないよ』と教えてくれた。
取り敢えず篠原監督に電話する。親族の人が今急行しているので、その人が来るまで留まっていたいので、申し訳ないが今日の練習は遅刻しますと言い、了承してもらった。貴司からは朝6時の新幹線に乗ったとメールが入っていた。これは新大阪に8:22に到着するので、病院に到着するのは9時頃だろう。青葉からも金沢を朝5:00のしらさぎに乗ったというメールが入っていた。
しらさぎ!その手は考えなかったなと千里は思った。
分娩室の様子を見てきたのだが、今にも産まれそうなのに産まれないので医師もこのまま分娩室に置いておくべきか病室にいったん戻すべきか悩んでいるということであった。千里は分娩室の中に入って阿倍子さんの手を握り元気づけてあげた。30分ほどしていても状況が変わらないので結局いったん病室に戻すことにした。
阿倍子さんのスマフォはダウンしたままなので(機械音痴の千里にはこれをリブートさせるなんてのは無理)、千里の携帯で貴司に電話を掛け少し話をさせたら、また阿倍子さんは安心するような顔をしていた。
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