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■春風(10)

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翌日。青葉は冬子に連れられて、作曲家の田中鈴厨子さんのオフィスを訪問した。
 
田中さんの楽曲は、田中さんがメロディーラインとコードネーム、ピアノ譜まで書いた後、アシスタントさん数人で明らかな音の誤りなどを修正した上で提供する歌手やバンド向けのアレンジを施してMIDIにして渡している。
 
田中は「耳が聞こえない作曲家」である。元々は歌手だったのだが、病気で突然失聴して歌手稼業は諦めたものの、その後、作曲家として再起した。
 
しかし冬子の話では、その耳の聞こえない田中に、歌を歌わせようという、とんでもないプロジェクトが進行しているということであった。実際には本人が出した声のピッチを視覚化する装置を使い、音程を確認しながら歌ってもらうということなのだが、それにしても少しでも聴覚を改善できたら、本人も歌いやすさが随分変わるのではないかということで、青葉が呼ばれたのである。
 
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青葉はこの人に10年早く会いたかったなと思った。10年前ならこの人の耳をちゃんと治すことができたかも知れない。もっとも10年前の私じゃ治せなかったろうけどね。
 
「どう?何か改善できない?」
「田中先生、ごく低い周波数の音は聞こえますよね?」
「うん。聞こえるというより感じるに近い」
 
「その範囲を少しだけ拡大できると思います」
「ほんとに?」
 
最初に冬子が持参してきたキーボードを使って現在「感じられる」音の範囲を測定した。
 
「E1からC2までですね」
「そうそう。以前に測ってもらった時もそんな感じだった」
「でもFとAが逆に聞こえてるみたい」
「うんうん。それも以前言われた。あとB♭も怪しいんだよ。体調によってはA♭か時には低いE♭に聞こえる時がある」
 
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「ちょっと横になっていただけますか?」
「うん」
 
田中が休憩用の簡易ベッドに横になると、青葉はそのそばに座り、鏡を起動して、病変部分を仔細に観察した。右耳は厳しいが左耳はまだ何とかなりそうだ。青葉は取り敢えずそちらに集中して治療を施すことにした。
 
「左耳の方が症状が軽いので、そちらを集中してヒーリングします」
「あ、うん。確かに左耳の方がまだ少しは感覚がある」
 
青葉は治療すべきポイントとその順序を確認する。ここがこうなって、こうだから、ここをこうすればいいな。青葉は手順を頭の中で一度シミュレーションした上で、まずはその付近の神経を眠らせる。それから剣を起動して手術でもするかのように、問題のある部分を切り開き、また必要のある部分は縫い合わせたりするマイクロサージャリー的な「霊的手術」をしていった。神経を眠らせている上に、余分な所は切らないので、痛みはほとんど無いはずだ。膿が溜まっている部分は道が確保でき次第、ゆっくりと鼻の方に押し出してやった。
 
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「ちょっとごめん」
と言って田中さんは鼻をかんでいる。
 
最後に鈴の作用を使って神経の興奮を鎮める。その上で今度はふつうに手かざしをするようにして、気の流れを調整した。
 
「何だろう。左耳の奥が凄く熱くなったかと思ったら、今はとてもスースーする感じ」
 
「はい。風通しが良くなったはずです」
「へー」
 
「可聴範囲を再度チェックしてみよう」
 
と言って冬子はキーボードを使って、再度低い音を出す。田中さんに感じられる音のところで手を上げ下げしてもらう。
 
「C1からF2までは分かるようですね」と冬子。
 
「さっきの倍くらいに広がってますね」
「それとF1とA1が逆にならずに正しく聞こえるようになってる」
 
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耳の中でショートしていた所を分離絶縁したからね〜と青葉は心の中で思った。
 
「いや、ヒーリングしてもらってから何だか耳の聞こえ方が全然違う気がして」
と田中さん。
 
「青葉、取り敢えずこの後何ヶ月か、こちらに月に1度くらいでも出てこれない?」
と冬子は言ったが、田中さんが
 
「どちらにお住まいですか?」
と高校生の青葉に敬語で尋ねる。
 
「富山県の高岡市という所なんですが」
「私がそちらに行きますから、またヒーリングして頂けませんか? 患者が先生の所に通うのが当然だわ」
 
と笑顔で田中さんは言った。
 
「でも今日は最初だから結構画期的に改善されましたけど、この後ヒーリングしても、少しずつしか良くなっていきませんよ。あといったん改善されても時間経過でまた悪化する場合もあります」
と青葉は念のため言っておく。
 
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「いや、少しでも良くなる可能性があるなら、どこにでも通いますよ。ここ15年何も進歩しなかったんだから。口話法はうまくなったけどね。月2回くらい通ってもいい?」
 
「ええ。いいですよ。予め日時をご連絡頂けたら調整します」
「ありがとう」
 
「先日亡くなった私の師匠がですね。本人実は生まれた時から目が見えなかったらしいのですが、仏教の主な経典をほぼ全部丸暗記してましたし、歩くのなんかも普通の人よりよほど速くて、山道を平気で回峰行とかしてたんですよ。目の前に木とかあったら気配で察して回避してしまう。人の識別もその人が持つ波動で感じ取ってしまう。活版印刷の文字は指でなぞると字が読めると言ってました。実は亡くなる直前に本人から言われるまで、弟子の誰も師匠が目が見えないなんて気付いてなくて」
 
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「それは凄いね。スティービー・ワンダーみたいな人もいるしね」
 
「人間、身体のどこかが不調なのはほんとに大変ですけど、鍛えると、意外に身体の不自由の無い人より、凄い世界に行けるかもです」
 
「うーん。私も頑張ってみようかな」
 

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「あと、私、長い間歌ってなかったから、昔より声域がすごく狭くなっちゃってる気がして。これも何とかしないと、香野美ちゃんに恥ずかしいわあ」
 
などと田中さんが言うので
 
「ちょっと喉の方もヒーリングしましょうか?」
と青葉は言った。
 
「あ、何か改善できる?」
「もう一度横になって下さい」
「うん」
 
「音程気にせずに適当に声を出してもらえますか。《あー》とかで」
「あーーーーーー」
 
確かに発声機構が錆び付いてる感じだ。音程が不安定に変化して行くのはよいとして、声質に濁りがある。でもこれは多分気の滞りなどを直すだけでも結構よくなる。青葉は田中さんが声を出している状態のまま、その付近を調整して行った。
 
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「あれ? 何だか声の出る感覚が変わった」と田中さん。
「田中先生、声が若くなった感じです」と冬子。
「あ、やはり? なんだか声がスムーズに出る感じなのよ」
 
「気の流れを調整しただけです。悪い癖の付いていた所を少し修正しただけですから、良い癖を付け直さないと元の木阿弥になってしまいます。現役時代はなさってたと思いますが、首の運動とか、顔の筋肉の運動とかを毎日していれば、声はもっとしっかりなると思います」
と青葉は言う。
 
「うん。それも頑張ろう!」
と田中さんは明るい声で言った。
 

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田中さんのオフィスを出てから、冬子と歩きながら話をする。
 
「私の声が維持できてるのも、青葉のヒーリング受けてるからというのがあるからなあ。青葉に会ってから私の声の特に高音域が凄く安定したもん。青葉に出会ってなかったら『天使に逢えたら』は歌えなかったよ」
と冬子は言う。
 
「いえ、私のヒーリング以上に日々の練習が凄いからですよ。私はその練習の後のクールダウンのお手伝いをしているようなものです」
と青葉。
 
そんな話をしながら、ふと青葉は呉羽の声のことに思い至った。あの子の声、何とかしてあげられないかな・・・・
 

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マンションに帰ってから、また政子、冬子の順にヒーリングする。
 
「やはり、仙台公演に向けて、かなり練習なさってるんですね。政子さんも冬子さんも疲労が溜まっている感じ」
 
「いや、別件でとはいえ、今の時期に青葉に来てもらって助かった。オーケストラの作業と、仙台のリハーサルと、アルバム制作とが同時進行してるからね」
と冬子は言う。
「更に秘密のプロジェクトが2つ進んでるもんね」と政子。
 
そしてその日は珍しく、冬子はヒーリングされながら眠ってしまった。
 
ヒーリングが終わっても起きない。熟睡している。政子がツンツンツンとするが反応が無い。かなり深く眠っているようである。
 
「そっとしておきましょうよ。疲れてるんですよ」と青葉は言ったが
「私、お腹空いた。晩御飯をまだ食べてない。冬を起こさないと御飯ができない」
と政子。
 
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「私が何か作りましょうか? 冷蔵庫や野菜籠の中のものは適当に使っていいですよね?」
と青葉は笑って言った。
 
「うん。いくらでも使って。私、ビーフストロガノフが食べたい」
「はい、作りますよ」
 
青葉は冷凍室から牛肉を1kg取り出して解凍を掛けると、野菜を切ってビーフストロガノフを作り始めた。ふつうビーフストロガノフは玉ねぎだけなのだが、この家のは、ジャガイモも入れる流儀である。その方が「食べ甲斐」があるという、政子の要望に添ったものだ。玉ねぎ3個、メークイン1kgを投入する。
 
材料を全部投入して30分タイマーを掛ける。それでテーブルの方に行ったら、政子は何か詩を書いていた。いつも詩作に使っている赤いボールペンではなく金色のボールペンを持っている。何だか何度も書き直している。こういう政子を見るのも青葉は初めてだった。これまで何度か見た政子の創作現場では政子はいつも一気に詩を書き上げていた。
 
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やがてペンを置き「できた〜」と言う。タイトルに『遠すぎる一歩』と書かれている。
 
「冬がすぐそばに寝ているのに、私の声を聞いてくれないから、その気持ちを書いてみた」
と政子。
 
青葉は微笑んだ。この人たちの詩は結構文字の表面から想像されるシチュエーションと実際にその詩を書いた状況とが乖離している。その裏の状況は誰にも想像が付かない。
 
「さすがに冬を起こそう。この詩に曲を付けてもらわなくちゃ」
「もう少し寝せておきましょうよ〜。ほんとにお疲れみたいだから。ビーフストロガノフが出来たところで起こして、一緒に御飯にしましょうよ」
 
「うーん。でも私はこの詩にすぐ曲を付けて欲しい」
「あと20分くらいで御飯できますよ」
 
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「そうだなあ。じゃ、青葉これに曲付けてよ」
「えー!?」
「じゃないと、冬を起こす」
 
このあたりは政子のわがままさだが、政子はこういうわがままであるがゆえに天才的な詩が書けるのだ。冬子もそういう政子のわがままをわざと野放しにしているフシがある。その分、冬子に掛かっている負荷は精神的にも肉体的にもまた経済的にもハンパではないハズだが。
 
「じゃ、私ができる範囲で」
 
と言って、青葉は棚に置いてあった電子キーボードを取るとスイッチを入れ、政子が書いた詩を見ながら、半ば探り弾き、半ば詩の流れから想起されるイマジネーションの塊をキーボードに注ぎ込むような気持ちでメロディーを弾いていった。
 
「あ、わりと私が思ってたイメージに近い」
と政子。
「そうですか?」
 
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