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■夏の日の想い出・花園の君(4)
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目次 8
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3月20日に政子の実家に新しく買ったグランドピアノ(YAMAHA S6B)が納入され、政子は夢中で一日中ピアノの練習をしていた。それで私もずっと政子の実家の方で過ごしていた。
そんな23日土曜日、さいたま市に住んでいる従姉の友見から
「ちょっと相談事があるんだけど」
と連絡があったので、政子の実家の方にいるからと言って場所を教える。その場所なら電車で来るということだったので、駅まで私が車で迎えに行った。友見は娘(私の従姪)の三千花(槇原愛)を連れていた。
「近くに住んでるのにご無沙汰ばかりしてて済みません」
「いや、こちらこそ娘がずっとお世話になってるのに全然挨拶にも来なくて」
「うーん。その件では実は私も三千花ちゃんに何だか申し訳なくて。まだ1万枚を越えるヒットを1度しか出してないからね」
三千花は高校1年生の春に「槇原愛」の名前で歌手デビューし、ここ2年ほど活動してきた。楽曲はマリ&ケイが「鈴蘭杏梨」の名前で提供する曲(下川圭次編曲)と、他の作曲家の人の作品とをカップリングする形で制作されている。実際の編曲は下川工房のロック系が得意なアレンジャーの方が担当している。初代の方が最初の1年強を担当し、2代目の方が昨年夏以降担当している。デビュー曲は1.2万枚売れたのだが、その後はだいたい5000〜8000枚くらいのところをウロウロしていて、まだクリーンヒットという感じの曲が出ていない。
「実はその件なんですけどね。この子も4月から高校3年になるので、進路のこととか、今後の歌手活動のこととかで、娘と話し合ってたんですけど、なかなか話がまとまらなくて」
「あ、そういう話なら政子も呼びましょう」
と言って私は、ピアノ部屋のドアを開けて
「政子、ちょっと来て」
と言って呼ぶ。
「うん?」
「槇原愛ちゃんが来てるから、ご挨拶、ご挨拶」
「おお、愛ちゃん。可愛くて好きだなあ」
などと言って出てくる。
ピアノ部屋を覗き込んだ三千花が
「わあ、すごいグランドピアノ!」
と声を挙げる。
「今、マリ先生、ピアノ弾いておられたんですか?」と知見。
「ええ」
「全然音が聞こえなかった!」
「防音工事しっかりやってるから」
「すごーい」
「これやっておかないと、こういう住宅街でピアノは弾けないですよね」
「マンションの方もやはり防音工事したんですか?」
「マンションはですね、ヤマハの『防音室』って言って、部屋の中にポンと置けるタイプの防音ユニットを置いて、その中にエレクトーンとクラビノーバを入れてるんですよ」
「へー」
「お母ちゃん、うちも防音設備したら、夜中でもお母ちゃん三味線の練習できるんじゃない?」
「うん、そうかも。防音工事っていくらくらいかかりました?」
「ここは200万ですね」
「きゃーっ」
「この部屋でピアノ弾いても上の階で寝ている人に聞こえないようにというので完璧にやったからそのくらい掛かったけど、ふつうに隣の家に音が漏れない程度なら80万くらいでもけっこういい感じになると思いますよ」
「まあ、そのくらいなら考えてもいいかなあ」
政子と知見・三千花がしばらく話している間に、私はオレンジペコーの紅茶を入れ、ファンの方から頂いた『長崎物語』を開けて出した。
「ファンの方からの頂き物で、なんかおやつには事欠きません」
「私もけっこう頂くけど、事欠かないほどではないな」と三千花。
「それはやはり100万枚売れる歌手と1万枚しか売れてない歌手の差よ」と知見。
「いや、この業界では1万枚売れる歌手はトップクラスの歌手の扱いですよ」
と私は言う。
「まあ、トップとスーパートップの違いかも」と三千花。
「それで三千花の今後のことなんですけどね」と知見が切り出す。
「私はこのまま歌手を続けたいし、大学にも行かなくていいと言ってるんですけどね」
と三千花。
「私はこのあたりで歌手には見切りを付けて大学に進学して卒業後OLでもしたら、と言うんですけどね。民謡教室を手伝ってもらってもいいけど」
と知見。
「三千花ちゃん、もう民謡の教授免許持ってるんだっけ?」
「冬ちゃんと同じ状況。冬ちゃんほどのレベルじゃないけど。もう先生の免状あげてもいいけど、本人がその気が無いみたいなので授与保留している段階」
「なるほどー」
「それなら大学に進学して歌手も続ければいい」
と政子が言う。
政子がこんなに現実的な妥協案を提示するのは珍しい。
「ああ、でもそれって、高3の時の、政子とお父さんとの妥協案と似てるね」と私。「まあ私にはOLできないけどね」と政子。
「私もOLできないと思うなあ。3日で首になりそう」と三千花。
「でも取り敢えず大学に行ってみるのもいいんじゃない? この時期にお勉強するのは良いことだよ。40歳50歳になってから勉強しようとしても、なかなか頭が付いていかないからさ」
「そうだなあ」
「大学受験のため半年くらい休養させてくださいと言えば、津田さんも受け入れてくれると思うし」
「うーん、その線かなあ」と三千花。
「やはり、その線ですかねぇ」と知見。
両者とも落とし所はそのあたりかというのは考えてはいたのだろう。
「ねぇ、冬、愛ちゃんが休養する直前に出すCDにさ、渾身の曲を書いてあげたら? それが大ヒットすると、休養明けに復帰しやすいよ」
と政子が言う。
「それは確かにそうだね。私たちがすんなり復帰できたのも、休養前の最後の作品『甘い蜜』がミリオン売れたせいだし。事実上の復帰作『夏の日の想い出』
もミリオン行った」
「似たような例って割と多くない?」
「そうだね・・・たとえば薬師丸ひろ子は大学受験直前の『セーラー服と機関銃』
を86万枚売って、復帰作の『探偵物語』を84万枚売ってる。松田聖子は結婚前の『ボーイの季節』を35万枚売って、復帰作の『Strawberry Time』は31万枚。ゆきみすず先生とかもスノーベル時代の最後の曲『Ring Ring』は42万枚で、結婚出産後のソロ歌手としての復帰作『深窓』は38万枚売れてる」
と私は売上枚数データベースを確認しながら言った。
「休養後の曲って、休養直前の曲とだいたい同じくらい売れてる?」
「あ、そうかも知れないね。燃え尽きて引退した人や落ち目になってから休止した人は復帰しても全然売れてないけど、旬の状態で休養に突入してしまった人は復帰後もそれ以前のペースを保ってる気もするね」
「じゃ、冬、愛ちゃんにプラチナ売れるような曲を書いてあげなよ。そうしたら復帰後もプラチナ売れるよ」
「いや、プラチナにしたいと思って曲が作れたらそうしたいけどさ」
「そうだなあ・・・・」
と言って政子は少し考えていたが
「『灯りの舞』が使えない?」
と言い出す。
「いい曲だね。でもあんな静かな曲は愛ちゃんには合わない気がする」
「合うか合わないか、ちょっと歌ってもらったら?」
政子が強く言うので、私は譜面をプリントして三千花に見せてみた。
「きれーい。何か凄いきれいな曲ですね」
と三千花が感動したように言う。
「仮の伴奏音源作ってるから、歌ってみない?」
と言って全員をピアノ室に招き入れ、戸を閉めてから伴奏音源を流す。三千花が初見で歌う。知見がへーという顔をしている。
「これ気に入りました。これください!」
「いいよ」
「これ実は今ローズ+リリーで制作しているアルバムに入れるつもりで編曲して、仮の伴奏音源まで作ってたんだよ。でもやはり今回のアルバムのテーマからは離れすぎるかなと思って外したんだよね」
「今の音源に入ってた胡弓は冬ちゃん?」と知見が尋ねる。
「そうです」
「おわらの胡弓のモチーフが入ってた」
「諏訪町の石畳を見て書いた曲ですから。その後再構成してますけど」
「なるほど」
「冬って結構胡弓弾くのね」と政子は言ったが、「というか、私が習いに来たい」と知見。
「えー!? 冬ってそんなに胡弓うまいの?」
と政子が驚いたように言った。
「カップリング曲はどうする?今回2曲提供するよね?」と私は訊く。「うん。静かな曲と組み合わせるんだから、激しい曲がいいと思う」と政子。
「同感」
「『お払い箱』なんてどう?」と政子。
「は?」
「いいと思わない?」
「いや・・・・それは確かにあれロックンロールだし、愛ちゃんにはピッタリかも知れないけど、歌詞の内容が」
「問題ある?」
「だって休養しようとしている歌手に歌わせるにはジョークがきつい」
「だからいいじゃん」
「どんな曲なんですか?」と三千花が訊くのでMIDIを開いて流しながら歌ってみせる。
「面白いです! 気に入りました」と三千花。
「ほんとに〜〜!?」
それで津田社長に連絡して、4人で訪問する。津田さんの強い要請により、私と政子、知見と三千花は別行動で時間差まで付けて△△社に入った。鈴蘭杏梨とマリ&ケイが同じ人だというのは「公然の秘密」ではあるが、それでも鈴蘭杏梨から楽曲の提供を受けている槇原愛が、マリ・ケイと一緒に△△社に来訪するという図はあまり見られたくないものである。
「大学受験のために半年ほど休業というのは問題無いです。ピューリーズなどの例もありますし、ローズ+リリーも結果的にそれと似たようなものでしたしね」
と津田さんは受験準備のための活動休止については了承した。
しかしその休業前に出すCDの曲として提示したものについては「うーん」と声を出したまま、悩むように黙り込んでしまった。
槇原愛担当の飯田さんと、歌手部門を総括している甲斐さんとを呼ぶ。ふたりにも予定曲を聴かせる。
「『灯りの舞』は凄くきれいな曲でいいと思います。いつも大音量で掛けるような感じの曲が多いから、こんな歌も歌えるということをアピールしてみるのもいいと思います」
と甲斐さんは言った。飯田さんも組み合わせる曲次第では問題無いと思うと答える。
『お払い箱』に関してはふたりとも否定的な意見であった。
「こんな曲出したら冗談と思ってもらえません。うちが愛ちゃんをクビにしようとしていて、それで反発してこんな曲を歌ったんだと思われちゃいます」
「うん、普通そう思うよね。でもだからこそアリだと僕は思う」
と津田社長は言った。
部下から反対意見が出てきたので、安心して賛成意見を出してみたという感じだった。
レコード会社の担当の意見も訊いてみることにする。連絡して担当の竹岡さんに来てもらうことにし、それを待つ間、とりあえず昼食にすることになる。このメンツで外に食べに行く訳にはいかないので出前のお弁当を取った。マリ用には3人前を頼んである。
「でも私、マリ先生が作詞をしてケイ先生が作曲をなさっていると思ってたからマリ先生がピアノ弾いてるの見てびっくりしちゃった」
と三千花が言うので
「マリが作曲する時もあるよ。超大ヒット『神様お願い』はマリの曲」
と私が言うと「へー!」と驚いている。
「あれ?マリちゃん、ピアノ弾くの?」
と津田社長。
「マリは4日前にピアノを買って練習し始めたんです」
「えー!?」
「小さい頃やってたらしいんだけど、先生と合わなくてやめちゃったらしいのよね。だから12-13年ぶりくらいかな?」
「私が怖い先生に叱られて泣きながらピアノのレッスンしてた頃、ケイは優しい先生に女の子の服を着せてもらって楽しいピアノレッスンをしていたらしい」
「ちょっとちょっと」
「でもやはりグランドピアノで弾いてると何か感覚が違うんです。子供の頃、アップライトピアノで弾いてて、どうして自分が思ってる音が出ないんだろうってよく思ってたんですよね。それがグランドピアノだと自分の出したい音が出てくれる感じで」
「確かに三味線なんかも安い三味線と良く出来た三味線とで感覚が違うよ」
と知見さんが言う。
「まあ道具の問題プラス、マリの心の中で10年以上掛けて、ピアノを弾く回路が熟成されてきたのもあるだろうけどね。小学1年生がラブソングを弾いたって音符はラブソングでも中身は決してラブソングにはなり得ないから」
「ああ、そういうのはあるでしょうね」
「マリ先生が弾いておられたの、ヤマハのS6でしたね?」と三千花。
「S6Bですね」と私が答える。
「いいなあ。S6とまで言わないけど、C3くらい欲しい」
「愛ちゃん、プラチナディスク出せば、印税でC3Xが買える。ダブルプラチナ行けばS6B買える」
「うむむ。頑張りたいな」
「でもグランドピアノ買ってどこに置くの?」と知見。
「うーん。何とか置けると思うけどなあ」
「私の友人で4畳半にC3Bを置いてる人がいますよ」
と私は言う。
「置けるんですか〜!?」
「置けます。でもベッドに行くのにピアノの下をくぐり抜ける必要があります」
「なるほど〜」
「というか、C3を置いてベッドも置けるんだ!?」
「更に勉強机も置いてますね。大学生なので」
「すごい。よく入りますね」
「4畳半にC3が置けるなら、私の部屋でも大丈夫だな」
「愛ちゃんの部屋のサイズは?」と津田さん。
「5畳半なんです」
「それは変わった間取りだね」
「ええ。なんか変なサイズなんですよね。だから襖も窓も特注品みたいだし」
「以前あの家に住んでた人が、敷地ギリギリに建てようとして不思議な間取りになったみたいね」と知見。
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