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■夏の日の想い出・種を蒔く人(5)
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(C)Eriko Kawaguchi 2016-04-02
患者が頷く。それで手術が始まる。カメラはさすがに手術している患部は映さないものの「切開します」「左の睾丸を引き出します」「結索します」「今左の睾丸の精索を切断しました」と医師の声が流れてくる。更に右の睾丸の摘出も終了する。「去勢は完了しました。もうこれで男性ホルモンは生産されなくなりました。縫合します」という声が流れる。
この間、ネットでは「まさか本当にアクア様、去勢した?」などというつぶやきも流れている。この部分の視聴率はかなり高かったようである。
しかし手術が終わった所でカメラが患者の顔を映すと、患者は嬉しそうな顔をしているが、アクアではない!
「なーんだ!」
「やはり別人か」
といった声がネットに流れる。これはさすがにこういう展開を予想していた人が多かったようである。
しかし手術が終わった後、手術室から出てきた人物のひとりが顔を覆っているマスクと帽子を取ると、それがアクアである!
アナウンサーが寄ってくる。
「アクアさん、去勢手術の見学どうでしたか?」
「ΛΛテレビさんも悪趣味ですね。僕は血を見るの平気だからいいけど、気の弱いタレントさんは、貧血起こしますよ」
などとアクアには珍しく文句を言っている。
「どうです?アクアさんも去勢手術受けてみる気にはなりません?」
「えー、その件に関しては僕に去勢してくださいと署名してくださった40万人の方々には申し訳ないですけど、僕は去勢手術を受けたり、女性ホルモンの注射とかをしたりするつもりはないので、ごめんなさい。でも世の中には去勢していなくても、ちゃんとソプラノ・ボイスを出すことのできる、いわゆるソプラニスタの方もあります。僕はそれを目指したいと思いますし、そのためのボイトレもずっと受けています。ですから、去勢せずに声域を維持することに僕は挑戦しますので、その試みを応援してくれると嬉しいです」
とアクアは笑顔で言って締めくくった。
最後に番組は有名なソプラニスタの男性歌手がグノーの『アヴェマリア』を美しい高音のソプラノボイスで歌う所を映して終了した。
「そういえば、冬は一時期ソプラニスタを主張していたよね」
とその日うちのマンションに来ていた千里は言った。
「ああ。例の高校2年の時に性別がバレちゃった時の記者会見でも、この声はカウンターテナーの要領で出しているんだとか言ってた」
などと、なぜかここに来ている樹梨菜(蔵田さんの奥さん)がブランデーのグラスを揺すりながら言う。
「千里はどうなのさ?」
「私はマジで高校3年の3学期になってから唐突に声変わりしちゃったんだよ。その付近の経緯は雨宮先生に聞いてもらえば分かると思うけど。本当にあれは焦ったけど、雨宮先生が女声の発声法を色々指導してくれて、それで半月くらいで女声の出し方を見つけたんだ。でも安定して出せるようになるまで更に3ヶ月掛かったよ。ちょうど受験シーズンで学校にもあまり行かなくて良かったから助かった」
「何か嘘っぽい気がするけどなあ」
「冬の場合は、むしろ男声の発声法を見いだして声変わりを偽装していた口でしょ?声変わりを経て、そこまでの高音が出るのはあり得ないもん。私はE5までしか出ない。アルトの音域。でも冬はそのオクターブ上が普通に出てるし」
と千里が言うと
「それが真実だと思うよ。だって洋子は小学生の時からずっと女の子の声で話していたし、男みたいな声を出しているの見たことないもん」
と樹梨菜。
「私も声変わりしたんだけどなあ。ただ私は元々民謡のお囃子の声が出せたから、そこから女声の発声法を見つけたんだよ。でももう男声は出せなくなった」
と私は言う。
「男声が出せなくなっちゃったのは私もだなあ。声って習慣なんだよね」
と千里。
「そうそう。使ってない発声法はそのうち忘れてしまって使えなくなってしまう」
と私。
「それはあるかもしれんね。僕は最近はだいたいこんな感じのバリトンボイスで話している。まあ孝治の妻として人前に出る時はアルトボイスで話しているから、そこまでは出るけど、昔みたいなソプラノボイスはもう出なくなった」
と樹梨菜は男らしい声で言う。
彼女は過去に「高木倭文子」の名前で出した何枚かのCDではソプラノボイスで歌っているものの、今はオクターブ下げないと歌えないと言う。
「樹梨菜さん、その格好でその声なら、完全に男としてパスしてますね」
と千里が言う。
「うん。男子トイレで騒がれることはない。ただ困ったことに男湯には入れないんだよ。僕はちんちん無いし、おっぱいあるから。それとスーパーとかの授乳室に入ると悲鳴をあげられる。女を主張して実際に授乳始めるまで疑いの目で見られている」
「結婚生活優先で身体は直さないんでしょ?」
「まあ結婚生活というより家族生活だな。孝治は僕にちんちんがある方がいいみたいだけど、母親が性転換してしまったら、子供はおっぱい吸えなくて困るし。まだ授乳しないといけないから、男性ホルモンも飲めないし」
「まあ子供が小さい内は無理でしょうね」
「孝治に性転換して僕の代わりに母親にならない?と言ってみたけど、あいつは女のお股見るだけでも不快になるのに自分に女のお股が付いてたら自己嫌悪に陥ると言うんだよね」
「蔵田さんは世の中の全ての女にちんちんが生えてくるといいのにとか言ってた」
と私。
「面白い見解だ」
と千里。
「ちんちんがあったら、どこから子供を産めばいいんだと思うけどね」
と私。
「産む時だけちょっと取り外しておくとか。僕も大きいちんちん欲しいんだけどね〜。孝治はまだあと2人は子供欲しいみたいだし。一番下の子が中学出るくらいまでは身体は直せないかも」
と樹梨菜は言っていた。
「私の親友でFTXっぽい子もそんなこと言ってましたよ。子供が大きくなるまではホルモンもできないって。あの子も普段男装しているしトイレは男子トイレしか使わないみたいだけど。男湯にも何度か突撃してまんまと入って来たみたい。あの子けっこう胸あるのに」
と千里。
「男湯に突撃したか! 僕はその勇気無い。偉いなあ」
「でも私も千里も、まだ性転換前から女湯に普通に入ってたね」
「まあ子供だからできたんだろうけどね」
「あ、僕も実は小学4年生頃までは男湯に入ってた。でもおっぱい大きくなってきたから入れなくなっちゃったんだよ。あんたたちよくちんちん付いてるのに女湯に入ってたね」
「隠していたから」
と私も千里も言った。
「ところでアクアが小学校の修学旅行の時に女湯に入っちゃった話は聞いてる?」
と千里が楽しそうに言う。
「聞いてる。男湯に入ろうとしたら『小学生の混浴はダメ』と言われてスタッフさんに追い出されてしまって、困っていた所を女の子のクラスメイトたちにうまく乗せられて入っちゃったみたいね」
と私。
私はこの話は西湖から聞いたのだが、たぶん千里の情報源は佐々木川南だろうなと私は思った。
「うん。でも誰もあの子が女の子ではないなんて気づかなかったみたいと」
と千里。
「まああの子はふつうに女の子で通っちゃうだろうね」
と樹梨菜。
「それにあの子、女の子の裸とか着替えてる所とか見ても何も感じないみたい。だから女子更衣室であっても女湯であっても周囲に溶け込める。実際あの子、よく女性の楽屋に連れ込まれているけど、別に恥ずかしがったり緊張したりしてないんだよね」
と私は説明する。
「あの子、恋愛対象は?」
「本人は女の子が好きですと言っているけど少し怪しいと思う。ひょっとしたらアセクシュアルなのかも」
「まあそのあたりの性的な方向性は20歳くらいまでに決めればいいんじゃない?自身の性別についても、恋愛対象の性別についても」
「うん。性的なアイデンティティの確立だよね。今はまだモラトリアムでいいけど。ただ彼女、じゃなかった彼はやはり女の子になりたい訳ではないみたい」
「おっぱいくらいはあってもいいと思ってるでしょ?」
と千里。
「そのあたりも怪しいね。ブラジャーは普段学校に行く時とかも結構着けてるみたいだしバストパッドを入れてることもあるみたいだし」
と私。
「でも、混浴はダメと言われて男湯から追い出されるというのは私も冬も経験しているよね?」
「まあ私を男の子と思っている知り合いと女の子と思っている知り合いがいたから、そういう微妙なことが起きるんだよね。男と思っている知り合いに連れられて男湯の脱衣場までは行くけど、そこでスタッフさんに追い出される」
と私は言う。
「そうそう。周囲に誰もいなかったら普通に最初から女湯に入ってたけどね」
と千里。
「あんたたちが犯罪者であったことはよくよく分かった」
と樹梨菜は言っていた。
アクアはそっと浴室の戸を開けた。
誰も居ないかな?
そう思うとちょっとホッとして中に入る。
深夜だし、大丈夫だよね?
とりあえず椅子に座って身体を洗い髪も洗う。髪を洗ったあたりでホッとした。
ふぅ・・・。人に見られたらやばいなとは思うけど、こっちに入れって旅館の人に言われたんだもん。いいよね?などと自分に言い訳をする。
それで身体を温めてから早々に部屋に戻ろうと思い、湯船に入る。そして身体を湯に沈めて、ため息をついたところで、近くに別の客がいるのを見て、アクアは『ぎゃっ』と思った。
でも僕たぶん女の子に見えるよね?などと思ったものの、相手はこちらを見て首を傾げた。
「もしかしてアクアちゃん?」
と訊いてくる。
きゃー!僕のこと知られてるよ。あれ?でもこの人見たことある。
「あ、丸山アイさんですか?」
「うん。奇遇だね」
と言って向こうは微笑んでいる。
「丸山アイさんって女の方だったんでしたっけ?」
と言いながら、アクアは水面から半分だけ出ている丸山アイの豊かなバストを見て『いいなあ、こんなおっぱい僕も欲しいかも』などと思った。
「そうだけど。私もよく性別誤解されてるみたい」
「でも丸山アイさんって高倉竜さんですよね?だから実は男の人なのかと思ってた」
「よく知ってるね。誰から聞いたの?」
「だって声が同じですよ」
「それが分かる人はレアだよ。でも一応非公開だから他の人には言わないでね」
「はい。言いません。でもアイさん女の人なら、よくあんな低い声が出ますね」
「うん。私は5オクターブ出るから、低い方の声を使うとまるで男が歌っているように聞こえるんだよね。それでああいうのも出してみたんだよ」
「へー」
「でもアクアちゃんって、実は性転換してたの?」
「ごめんなさい。僕、男の子です」
「だったら、どうしてこちらに入る訳?」
と丸山アイは可愛い感じのソプラノボイスで訊いてくる。でも咎める感じではなく、むしろ単純に疑問を投げかけてくる感じだ。
「実は男湯に入ろうとしたら、脱衣場の掃除をしていた旅館の人に『こちらは男湯です。女性の方は向こう側の女湯に入って下さい』と言われちゃって」
「自分は男ですって主張すればいいじゃん。脱いで見せればいいし」
「何か話を聞いてくれる雰囲気じゃなかったんですよー」
「あれ?でもさっき湯船に入る所見たけど、ちんちん付いてないように見えた」
「実はタックというのして隠しているんです。ピッタリしたズボン穿いた時に、おちんちんの形が外に響くの嫌だから。それに僕けっこう女役するし、女役の時は特にやばいんですよ」
「ふーん。タックは知っているけど、確かにタックしてたら、男湯脱衣場で自分が男であることを証明できないね。むしろ、やはりあんた女じゃんと言われてしまいそう」
「そうかも。でもおっぱい無いですよ」
「タックとかするんなら、おっぱいはブレストフォーム貼り付けておく手もあるけどね」
「ブレスト・・・?」
「ブレストフォーム。接着剤で肌に貼り付けるから下着を脱いで裸になってもバストがあるように見えるんだよ。あとでネットで調べてごらん。結構高いけど、アクアちゃんの経済力なら1時間分のお小遣いで買える」
「僕、月のお小遣いは3000円です!」
「慎ましくていいね」
「中学生の内から何万何十万とか平気で使っていたら、ろくな大人にならないとお母さんに言われているんです。ギャラは全部貯金しています。お小遣いはお母さんの給料からくれるんですよ」
「いいお母さんじゃん」
「ありがたいです」
「あれ?もしかして君って里子?」
「あ、はい」
「実の親は・・・・分かった。君って高岡猛獅の娘だ」
「どうして分かるんです!?」
とアクアは驚いて言った。とりあえず「息子」ではなく「娘」と言われたことは気にしないことにする。
「高岡猛獅にそっくりだよ」
「そんなに似てますか?」
「うん。やはり父娘だね」
そんなことを言われてアクアは心が温まる思いだった。アクアは母(長野夕香)については、きれいな青い振袖を着た姿に少しだけ記憶があるものの、父の姿は全く記憶が無い。
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