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■春始(9)
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(C)Eriko Kawaguchi 2016-02-28
そこにピンポンと来客を告げる音がする。モニターで見ると、何と保志絵さんである。
「今開けますね」
とインターフォンに向かって言ってエントランスをアンロックする。やがて保志絵さんが部屋の前まで来たのを認識してドアを開ける。
「いらっしゃい」
と京平を抱いたままの千里が笑顔で言うので、保志絵はびっくりしている。
「声を聞いた時、あれ?と思ったけど、やはり千里ちゃんだったんだ?でもどうして?」
「阿倍子さん、今銀行に行っているんですよ。じきに戻ると思いますから」
と千里。
千里は左手のみで10kg近い京平を抱えたまま、右手でお茶を入れて保志絵に出す。日本代表シューターの物凄い腕力のなせるわざである。
「私、町を歩いていたら阿倍子さんが大きな荷物抱えて困ったような顔をしているのに遭遇して。なんでも貴司さんと一緒に買物に出たら、貴司さん途中で会社から呼び出しがあったとか言ってひとりで帰っちゃったらしくて」
「あらあら」
「だから荷物を私が持って一緒に戻って来たんですよ」
「へー!」
「京平、あんたのおばあちゃんだよ。ご挨拶しなさい」
と言って千里がいったん京平を自分の乳首から離して保志絵の方に向けると京平はキャッキャッと笑うような動作をした。
「おお、可愛い!ちゃんと挨拶してる」
と言って保志絵は京平の頭を撫でる。
それで千里がまた京平を自分の乳首に吸い付かせると、京平は一所懸命お乳を吸っているので、それを見て保志絵は驚いたような声をあげる。
「千里ちゃん、おっぱい出るんだっけ?」
「まさか。でも乳首を咥えさせていると、京平が機嫌いいんですよ」
「ああ、そういうのはあるかもね!」
「この家は搾乳したお乳の冷凍ボトルがたくさんあるから、それを解凍して飲ませてあげたんですよ。それで満腹したみたいだけど、それでも赤ちゃんってやはり、乳首を咥えていると精神的に安心するみたい」
「なるほどー。そうそう。阿倍子さんが最初お乳が出ないと言ってたから少し心配していたけど、搾乳して出るんならいいかもね」
「ええ」
「お母さん、こちらにはよく来るんですか?」
「いや、実は初めて。阿倍子さんと直接会うのも初めてで、今日は結構な覚悟を決めてここに来たのに、いきなり千里ちゃんと遭遇するとは思わなかった」
「孫の顔を見に時々来てあげてください」
「千里ちゃん、それでいいの?」
「ええ。貴司さんと阿倍子さんが早く離婚してくれることを祈ってますから」
と千里が言うと、保志絵は吹き出した。
「でもおばあちゃんは大したことなくて良かったですね」
と千里は言う。
「全く全く。ヒヤヒヤしたよ。でも本人はもう平気な顔でさ、またゲーム三昧」
「いいんじゃないでしょうか。おばあちゃんが若い頃にはこんなの無かったろうし」
「そうそう。フラフープとかダッコちゃんに燃えた時代だと言ってた」
「ああ、そういう世代か」
しばらく保志絵とおしゃべりしていたら、ピンポンが鳴る。見ると阿倍子である。
「千里さん、ごめん。私鍵持って出るの忘れちゃって。エントランスの開け方分かる?」
「うん。分かるよ」
と言ってから千里はエントランスを開けるボタンを押した。そして阿倍子が昇ってきたタイミングで玄関のドアを開けるが、この時千里は京平を自分の乳首から離して、ふつうに抱っこする形にした。
「わあ、ありがとう」
「京平ご機嫌だよ」
「ああ、良かった良かった」
「ほら、ママの所に行きなさい」
と言って千里が京平を阿倍子に渡すが、阿倍子が抱いた途端、京平は泣き出してしまう。
「わ、今までご機嫌だったのに」
「この子、しばしば私が抱いても泣くのよ」
などと阿倍子は言っている。
「いっそベビーベッドの方がいいかも」
と阿倍子が言うので、千里は京平を再度引き取って抱いたままベビーベッドの所に行き、そっと京平を寝かせた。しかし実際には千里が京平を抱いた途端、京平は泣き止み、ベッドに寝かせてもそのままご機嫌であった。
千里が抱いた途端京平が泣き止んだことで阿倍子は不快そうな顔をした。
そこまでした時、阿倍子は初めて保志絵の存在に気づく。
「わっ」
「ごめんなさいね。お邪魔してますよ」
「お母さん、すみません。そちらに挨拶にも行けなくて申し訳ありませんでした」
と言って阿倍子は正座して手を突いて謝る。
「いや、こちらも結婚式に行けなくてごめんね」
などと保志絵は言っている。
「でも出産の時はたいへんだったみたいね」
「理歌さんに助けてもらいました。それと千里さんにも随分お世話になって」
「あの時は、ちょうど私も貴司さんも東京で同じ場所で合宿中で。それで貴司さんから子供が生まれるのはいつか占って欲しいなんて言われたんですよ。それで占うと今夜だと出たんですよね。それで阿倍子さんは実家に行ってるんだっけ?と聞くと、ひとりでマンションにいるなんて言うから、ちょっと様子見ておいでよと、私言ったんですよ。ところが貴司さん、一晩で大阪まで往復してくる体力が無いなんて言うし、私の友人も、お産の時にどうせ男は役に立たないよなんて言うんで、私が東京の合宿所から大阪まで往復して、阿倍子さんを入院させたんですよ」
と千里は当日のことを説明する。
「ああ、そういう経緯だったのか。理歌も当日の状況はよく分かってなかったようだったし」
「貴司さんが合宿に入る前に阿倍子さんを入院させておけば全然問題無かったんですけどね」
「あの子は全く気が利かない子なのよ」
「産気づいたらタクシー呼んで病院に行けと言われていたんですけど、実際にタクシー呼ぼうと思ったら、スマホが落ちちゃったんです。どうしても再起動してくれないし、その内辛くなって意識失ってしまって。千里さんが来てなかったらやばかったです」
「あ、そうそう。京平はお乳1本飲んで満足したみたいで。搾乳ボトルは洗ってミルトンに漬けておいて、さっき取り出して乾燥機に入れたから」
と千里が言う。
「わ、ありがとう。でもよくミルトンとか分かったね?」
「友だちで赤ちゃん産んだ子がやってたから」
「なるほどー。貴司さんは適当なんで困るんですよ。水洗いしただけで布巾で拭いて棚に戻しちゃうし」
「まあ男の人はほんとに役立たない」
と保志絵。
「貴司はそもそも適当だし」
と千里。
「でもお乳が出てるみたいで安心した。出産当初、あまり出ないみたいなこと言ってたよね?」
と保志絵が訊く。
「実はそれ私も不思議なんですけどね」
「うん?」
「自分では搾乳しても出ない感じなんですよ。乳房が痛いだけで。でも搾乳している内に私よく途中で眠っちゃって。それで気がつくと、ボトルにはたくさんお乳が入ってるんですよね」
保志絵が考え込むようにして腕を組む。
「搾乳したボトルは冷凍しているんですけど、何だか自分で搾乳したのより冷凍室に入っている本数が多いみたいな気がして。でも誰かがそこに置いていったりする訳もないし、自分で搾乳したんでしょうね」
などと阿倍子は言っている。
「あと、京平にあげたお乳の空ボトルをよく疲れて放置してしまっている気がするのに、ふと気づくとミルトンに漬けてあったり、乾燥機に入っているんですよね。貴司さんがやってくれるとは思えないので、きっと自分で洗って乾燥させているんでしょうけど」
保志絵は腕を組んだままチラッと千里を見たが、千里は何も言わずに微笑んでいた。
結局千里と保志絵は一緒に貴司宅を辞した。
千里は北大阪急行(御堂筋線)で新大阪駅へ、保志絵はモノレールで伊丹空港に行く予定だったが、保志絵が話したそうにしていたので、千里は結局保志絵に付き合って空港まで一緒に行った。
「私も飛行機で東京に戻ろうかな」
と言って保志絵と同じ便の切符を買う。並びの席を確保した。
「搾乳しているの、千里ちゃんね?」
と機内で保志絵は尋ねた。
「はい、と言いたい所ですが、あり得ないですよ。私そもそも男の娘だからおっぱい出る訳無いし、私京平が産まれた後、ずっと海外合宿したり、海外の大会とかに出てましたよ。貴司さんのマンションに来られる訳ありません」
と千里は言う。
「いや、千里ちゃんなら、そのくらい何とかする」
と保志絵。
「じゃ、そういうことにしておいてもいいですよ」
と千里は微笑んで答えた。
「それにこうしていると分かる。千里ちゃん、おっぱいの臭いがする」
「ああ、このせいかなあ」
と言って千里はブラの中から母乳パッドを取り出した。
「臭いがあまりしないようにこまめに交換しているつもりなんですけどねー。臭いに敏感な人には分かることもあるみたい」
「やはりお乳が出るんだ?」
「まさか」
保志絵は吹き出した。
「どうかしました?」
「千里ちゃんって昔からこうだったなあと思って」
「こうと言うと?」
「『本当のこと』と『常識的なこと』を微妙に取り混ぜて理論的にギリギリ破綻しないように話すんだよね」
「科学的合理主義の世の中に迎合しているだけです」
「うん。そのあたりの匙加減が千里ちゃんは面白い」
と言ってから保志絵は訊く。
「千里ちゃんは、今でも私のお嫁さんということでいいのかしら?」
「そのつもりですよ」
と言って千里は自分の携帯に付けている金色のリングのストラップを保志絵に見せた。
「私と貴司さんは最低でも月に1回は会っています。私は東京の妻、阿倍子さんは大阪の妻という感覚なんじゃないかな、貴司さんとしては」
「なるほど、そういう状況か」
「京平を作った精子は私が出してあげたんですよ」
「へ?」
「あの人、ひとりでは出せないらしいんですね。ですから人工授精をする日は必ず会っていました。京平は私と貴司さんと阿倍子さん、3人の子供のようなものなんですよ」
「自分の息子ながら信じがたい」
「最初に会ったのは貴司さんが阿倍子さんと結婚して1ヶ月ちょっとの頃かな。もっとも貴司さんが婚約してから結婚するまでの間にも10回くらいデートしてますけどね。結婚式の半月くらい前にも帝国ホテルのスイートルームで一晩一緒に過ごしましたよ」
と千里は結構自分に都合のいいような言い方をする(嘘はついていない)。
「犯罪者として告訴したいレベルだ」
と保志絵さん。
「まあそういう女に対する無節操さまで含めて私は貴司さんを好きになったんでしょうけどね」
「だったら、私はやはり千里ちゃんをお嫁さんだと思っておくよ」
「ありがとうございます」
「エンゲージリング、返そうか?」
と保志絵は言うが
「それ、もらう時は再度貴司さんからもらいます」
と千里が言うと
「うん。それがいいね」
と言って保志絵も微笑んでいた。
「多分ですね」
「うん」
「5年後くらいにもらえそうな気がするんですよね〜」
「へー!」
羽田で旭川行きに乗り継ぐ保志絵と別れて、千里は到着ゲートを出て京急のほうに行く。するとそこに桃香から着信がある。
「おはよう。どうしたの?」
「千里、そちらは今、朝なのか?」
「機内で寝てたし」
「どこ行ってたんだっけ?」
「アンティグア・バーブータ」
「四国かと思っていた」
「でも桃香何かあったの?」
「いや、実はミラをぶつけてしまって」
「怪我は無かった?」
「うん。私も青葉も無傷」
「ああ、青葉と一緒なんだ?」
「そうそう。買物に行っていたんだよ」
「でもどこにぶつけたの?」
「縁石なんだけど、派手にぶつけたから車が動かなくて」
「JAF呼んだ?」
「実はJAFの会員期限が切れてる。千里の会員証の番号教えてくれない?それで処理したい。青葉もまだJAFには加入していないと言うし」
2日前。
千里が四国で社会人選手権を戦っていた10月31日(土)、青葉は朝から新幹線で東京に向かった。冬子から緊急に呼び出しがあったのである。
「実はダブルの音源を作り直したいんだよ」
と冬子は言ったのである。実際には作り直すべきだと言ったのはどうも政子の方であったようだ。
「この曲を前回制作した時に凄く違和感があったのよね。この曲はこういう曲ではないはずと思っていた」
と政子は言う。この曲の歌詞を書いた時、政子の頭の中にあったのは、優しいヴァイオリンやフルートの音だったのにできあがったのは、ばりばりに電気楽器を使った曲だった。ただ、あの時は政子もあまりそれを言えなかったのだという。しかし10月末になって既に完成していた『The City』の曲目ラインナップに唐突に美しいアコスティック・サウンドの『灯海』を作って差し替えた時、政子は『ダブル』もこうすべきだと主張。冬子もそれを受け入れ、「他にも差し替えるんですか!?」と困惑する★★レコード側を説得して、録り直すことにしたのであった。
その日のお昼過ぎ、スタジオに入った青葉は参加者のメンツを見て、凄い!と思った。前回とは楽器のラインナップが一新されていた。
アコスティックギター:近藤&宮本、ウッドベース:鷹野&酒向、ピアノ:古城美野里&ケイ、オルガン:山森夏樹&川原夢美、マリンバ:月丘&野乃干鶴子(線香花火)、フルート:秋乃風花&今田七美花、ヴァイオリン:蘭若アスカ&鈴木真知子、サックス:七星&青葉。
電気を使用している楽器はオルガンだけである。山森さんはスタジオのYAMAHA STAGEAだが、川原さんは自己所有のドイツ製バロックオルガンを持ち込んでいる。国内に恐らく他には存在しないのではと彼女は言っていたが、本当に珍しい楽器である。STAGEAは電子楽器だが、川原さんのオルガンは送風部分だけ電気で動く「電動楽器」である(エレキギターなどは電気で音を増幅する「電気楽器」)。山森さんが「これ本当にいいね。私も欲しい」などと言っていた。
「なんか世界一の人が3〜4人入っている気がするんですが」
と青葉が言ったが
「まあ豪華だよね。演奏料を100万円渡すべき人が5人いるし」
などと言って七星さんが笑っていた。実際には川原さんも蘭若さんも古城さんもケイの親友ということで1日5万円で出てきてくれているらしい。
「ここに集まっている楽器もかなり高額な気がする」
と本人も高そうな総銀製のフルートを持っている七美花ちゃんが言っていたが
「いや、値段のこと言うと、アスカ先生の持ってるヴァイオリンが5億円だからそれで他の楽器はどうでもよくなる」
と真知子ちゃんが言っていた。真知子ちゃんも今日はふだんケイが使用している6000万円の古楽器(青葉の推測ではガルネリの奥さんか弟子の作品)を使っている。
アレンジが大胆に変更されており、かなりのシンコペーションが入るが、ケイの「弾き振り」でテンポが管理される。
これを多重録音もツギハギもせずに、一発録りをしようというケイの方針に、演奏者は神経を研ぎ澄ます。演奏者の数は多いものの、みんな一流の人達だけに数回のトライできれいにまとまったように見えた。しかし録音を聴いていたケイも七星さんもアスカさんも
「ここの所が良くないね」
「うん。ここはちょっとスコア直そう」
などと言って、妥協せずに楽曲を調整していく。
そういう調整作業はその日いっぱいと翌日午前中まで続き、日曜日のお昼を食べた後、再度みんな集中を高めて5回録音。この中で比較検討して一番良いものを使うということにした。
そういう訳で一応この録音自体は何とか11月1日(日)の夕方までに終了したのであった。
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