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■春始(7)

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それで千里は桃香のエンゲージリングを受け取った。そして桃香と千里は2012年9月9日(日)大安にふたりだけで密かに結婚式を挙げた。
 
その時千里は思っていた。私、女の子に興味はないけど、桃香とだったら、まあ仲良くやっていけるし、桃香の奥さんということでもいいかなあ、と。もう薄情な貴司のことは忘れちゃおう。保志絵さんにも私が貴司を諦めたと言わなきゃいけないなあ。いつ言おう?と。
 
しかしその千里の決心(?)はわずか半月で壊れることになる。
 
9月14日から22日まで、大田区総合体育館で男子FIBAアジアカップが開かれ、貴司は日本代表の一員としてこれに参加していた。日本は予選グループBをイランに次ぐ2位で通過して決勝トーナメントに進出。中国・カタールを破って決勝まで行く活躍。しかし最後は決勝で再びイランに53-51の1ゴール差で敗れ、準優勝に留まった。
 
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実際には貴司は代表12人の内12番目くらいの位置づけなので、ほとんど出番は無かったのだが、千里は日本の試合を全部観戦した。何度かコート上の貴司と目が合ったので笑顔で手を振ると貴司も笑顔を返していた。
 
決勝戦が終わった後、今日はちょっと「精神的な浮気」をしてしまったかなあと思いながら、桃香にお詫びにと思いケーキを買って千里は千葉のアパートに21時頃、帰宅した。
 
「ただいまあ」
と言って玄関を入るが返事が無い。
 
「桃香留守?」
などと言いながら、ケーキの箱を台所のテーブルに置いてから居間に入り、そこに居ないので寝室との間の襖を開ける。
 
すると布団の中に2つの影があることに気づく。
 
「え?誰?」
と千里が声を掛けた時、桃香がギョッとした顔で飛び起きた。桃香は(少なくとも上半身は)裸である。そして桃香の隣で裸で寝ていた《女の子》も
 
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「誰?」
という声を出して。こちらを見た。
 

「信じられない!私だけを一生愛すというあの誓いは何だったのよ!?」
 
激怒した千里はそのあたりの物を手当たり次第桃香に投げつける。
 
「待ってくれ、話せば分かる」
と桃香は防戦一方である。桃香がセックスしていた相手の女の子は慌てて服を着て逃げ出している。
 
「痛い。ちょっとやめて。暴力反対。千里、君は物を投げる力が強すぎる」
「私、小学校の時はソフトボールのピッチャーだったし」
「それに何だか私の顔にばかり飛んでくるんだけど」
「当然、桃香の目に向かって投げてる」
 
「やめて〜。私が壊れる」
 
千里の周囲にあったものが全部桃香の所に飛んで行った段階で、千里の投擲は終了するが、それでも千里の怒りは収まらない。取り敢えず今日自分が「精神的浮気」をしてきたことは忘れて棚に上げている。
 
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「指輪も返す。私、出て行く。サヨナラ」
 
そう言って千里は婚約指輪の入っているジュエリーボックスと、結婚指輪を入れているビニール袋まで桃香に投げつけると、荷物をまとめはじめた。
 
そこに桃香が必死になって説得する。それで結局千里は「結婚生活」は解消し、従来の友だち同士に戻るという条件で、桃香との同居は継続することに同意したのであった。つまり、桃香と千里の結婚はわずか半月で終了した。この後、千里は年末まで桃香との同衾も拒否して、別の布団に寝ていたし、一切セックスに応じなかった。
 
「あ、なんか美味しそうなケーキがある」
「それも桃香に投げつければ良かったな」
「食べ物をムダにするの反対」
「それは同意だ」
「お茶入れるから一緒に食べようよ」
「まあ、そのくらいはいいか」
 
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それで桃香が紅茶を入れてくれて、一緒にケーキを食べた。そして桃香は再度エンゲージリングとマリッジリングを千里の前に置いて言った。
 
「この指輪も千里のためだけに作ったものなんだ。もしよかったら千里、これファッションリングとしてでもいいから再度もらってくれない?」
 
この2つのリングには MOMOKA TO CHISATO という刻印が入っているのである。
 
千里はまだかなりはらわたが煮えくりかえっていたのだが、桃香がほんとに低姿勢で頼むので妥協することにした。
 
「じゃファッションリングということで。つける時は左手じゃなくて右手の薬指につける」
 
「うん。それでいい」
 
そういう訳で、千里は桃香からもらったエンゲージリングとマリッジリングは右手薬指につけるようになり、桃香もそれに合わせて自分も右手薬指にマリッジリングをつけるようになったのである。
 
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もっとも千里はふだんはバスケットをしているので、指輪の類いはつけられない。千里がマリッジリングをするのは、何か特別な時だけである。
 

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千里は2012年1月に貴司のプロポーズを受け入れた時点で、大学院には進学せず、就職もせず、大学を卒業したら、そのまま大阪に行って貴司と暮らすつもりだった。しかし貴司と破局したことで、桃香と一緒に修士課程まで行くことを決め、秋になってから指導教官に打診し、追試を受けて修士課程に合格した。それで秋から年末に掛けては、入試対策で忙殺されていた。
 
12月22日(土)。
 
本当は今日は自分の結婚式の予定だったのにと思うと、急に寂しい気持ちに覆われた。何かに動かされるかのようにして千里は新大阪行きの新幹線に乗った。そして自分が式を挙げる予定だった大阪市内のNホテルに行く。そしてラウンジ・レストランでスペシャルランチを注文して食べていたら、そこに入ってくる影がある。
 
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貴司であった。
 
千里が笑顔で手を振ると、貴司は驚いたようにして寄ってきて、千里の向かい側の席に座った。
 
「何かこちらに用事あったの?」
「まあ、お昼でも食べない?」
「うん、それもいいかな」
 
貴司はここに来た理由を何も話さなかったが、千里はここに貴司が居るということだけで、自分が救われる思いだった。千里はボーイを呼んで、貴司にもスペシャルランチを注文する。
 
「それと、モエ・エ・シャンドンの・・・何か美味しいのあります?」
と訊くと
「少々お待ちください」
と言ってボーイはソムリエを呼んできた。
 
「今日は私たちの結婚記念日なの。モエ・エ・シャンドンのシャンパンで何かふさわしいものあるかしら?」
 
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「それではモエ・ロゼ・アンペリアルの2004年ものはいかがでしょうか?」
「うん。じゃ、それで」
 
シャンパングラスを2つ持って来てくれて、ソムリエがポンと勢いよく蓋を開ける。
 
「結婚記念日おめでとうございます」
と言ってグラスに注いでくれる。綺麗なロゼ色だ。
 
「じゃ、私たちの幸せを祈って」
と言って千里がグラスを掲げると、貴司も少し迷ったような様子でグラスを掲げた。グラスをチンと合わせる。
 
飲むと貴司が「美味しい!」と言った。
 
「まあ安いシャンパンとは違うよね」
「これ高いの?」
「1万円くらいだと思うけど」
「高い!」
「これドンペリニオンを作っている会社なんだよ。貴司の顔を見てドンペリは勧めなかったね」
「うーん。貧相に見えるか」
「もっともいきなり15万円とかのシャンパンを勧められても困るけどね」
「うん」
 
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と言ったまま貴司は言葉少なである。
 

「千里、戸籍の性別は直したんだっけ?」
と貴司は尋ねた。
 
「直したよ」
と千里は答える。
 
「性転換手術は予定通り、あの後すぐ、7月18日に受けて、10月9日に私の戸籍は正式に女になった」
「それは良かった」
 
「精神的に物凄く不安定になってたからさ。手術の時は私死にかけたんだよ。何とか持ちこたえたけどね」
「大変だったね」
 
「でもおかげでちゃんと法的にも女になれたから、私がこの婚姻届けを役場に出せば貴司と法的に夫婦になれるよ。貴司が阿倍子さんとの婚姻届け出す前にこれ出しちゃおうかな?」
 
と言って千里は笑顔で、6月にふたりで書いておいた婚姻届けを見せる。貴司の父と、千里の母の署名も入っている。
 
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「その件に付いてはあらためて済まん」
と貴司は謝る。
 
「まあいいや。提出はしないけど、この婚姻届けはこの後も度々貴司を責めるためにとっておこう」
などと言って千里はその書類を自分のバッグにしまった。
 

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「ねえ、千里一度ゆっくり話したいんだけど、うちのマンションにでもちょっと来ない?」
 
「でも阿倍子さんと同居してるんでしょ?」
「まだしていない。結婚式が延びたから、同居開始もそれまで延びた」
「ふーん。セックスはしてるんだよね?」
 
「それが。。。」
「うん?」
「全然立たないんだ」
「天罰かもね。貴司、女を泣かせてばかりいるから、とうとう男の機能が無くなったのかも。もういっそ貴司も性転換手術受けて女になる?女なら立たなくてもセックスできるよ」
 
「うーん・・・・」
「悩んでる?女になろうかって?」
「いや、女になるつもりはない」
と言ってから、やがて貴司は決心したように言った。
 
「ねえ、千里、僕とセックスしない?」
「私、貴司を誘惑して再略奪しようかと思ってたのに、貴司から誘ってくるなんて、凄いな」
 
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「いや、悪いけど結婚は阿倍子とする。でも千里とセックスしたい」
「なんかとんでもないこと言われている気がするけど。でも立たないのなら、セックスもできないでしょ?」
 
「千里となら立ちそうな気がして。緋那と付き合っていた時も、緋那の前では立たないのに、千里とならちゃんと立って射精もできていた」
 
千里は本当は貴司をうまく誘惑して、このままホテルのお部屋に連れ込むつもりだったのだが、貴司の側からこういうことを言われて態度を変えた。それで厳しい顔で通告する。
 
「私は貴司の妻ではあるけど、貴司の愛人でもないし、私は売春婦でもないから、そういう話はお断り。私とセックスしたいなら、阿倍子さんと別れて私に再度プロポーズすることね」
 
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「だよなあ、それは分かっているんだけど」
 
その日のふたりの「性と結婚」に関する話し合いはそこまでで終わったものの、その後ふたりはバスケの話題で盛り上がった。最後はけっこう良い雰囲気で別れることになり、千里は上機嫌で千葉に帰還した。
 

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その後も貴司と千里は、毎月のようにこのNホテルのレストランで《偶然遭遇》し、貴司が千里をセックスに誘うも、千里は阿倍子と別れない限りあり得ないと拒否するというパターンが続く。しかしふたりは会う度にバスケの話で盛り上がり、千里も貴司もいつも楽しい時間を過ごしていた。ふたりがいつもモエ・エ・シャンドンのシャンパンを頼むので、気易くなったソムリエさんが
 
「仲の良いご夫婦ですね」
と言ってくれて、そのことばに千里も気をよくしていた。
 

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しかし2013年8月9日(金)、とうとう貴司は阿倍子と決婚式を挙げた。
 
千里は我慢できずに当日、結婚式・披露宴の行われる大阪のRホテルに行ったものの、モーニング姿の貴司とウェディングドレス姿の阿倍子が並んでいるのを見て、激しい悲しみが込み上げてきた。
 
私、ここに来なければ良かったかな・・・・。
 
少し落ち込み気味の気持ちで帰ろうとしていたら、理歌に遭遇する。
 
「千里姉さん、来てたんですか?」
「理歌ちゃん、ありがとうね。出席してくれて」
「出たくなかったけど、千里姉さんが出て欲しいと言うから私とお父ちゃんだけ出席しました」
「お母さんは?」
「『絶対出ない。阿倍子さんを嫁とは認めない』って。美姫も行きたくないと言ったから、異様な結婚式でしたよ。こちら側の親族って私とお父ちゃんの2人だけなんだもん。向こうも親族少ないみたいで。だから披露宴も出席者は全部で10人もいない寂しい式でした。兄貴って友だちも居ないし」
 
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確かに貴司は「男同士の付き合い」のようなものが苦手で、中学高校時代もあまり男性の友人はいなかった。今の会社でもきっとそうなのだろう。
 
「まあ5年はもたないだろうけど、早々に離婚するといいね」
と千里が言うと理歌は吹き出した。
 
(実際には貴司は2013.8に結婚して2018.1に離婚したのでふたりの結婚生活は4年5ヶ月続いている)
 
「そうそう。うちのお父ちゃんったら、新婦の名前を言い間違って」
「へ?」
「お父ちゃん、兄貴が千里姉さんと別れて別の人と結婚すると聞いて、長年兄貴に干渉していた緋那さんかと思っていたらしくて、『貴司、緋那さん、幸せになってください』って」
 
緋那は留萌まで押しかけていったこともあり、千里も彼女の対策にはかなり神経を使わされていた。しかしそれで望信は緋那の名前を覚えていたのだろう。
 
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「緋那さんはもう結婚して今は九州に住んでいるんだよ」
「へー。よくそういう動向をつかんでますね」
「万が一にも干渉されたくないからね。過去の貴司のガールフレンドの中でいちばん手強い相手だったもん」
「なるほどー」
と言ってから理歌は言う。
 
「まあそういう訳で、千里姉さんが兄貴を諦めていない以上、私もお母ちゃんも美姫も、兄貴のお嫁さんは千里姉さんだと思っていますから」
 
「ありがとう」
 

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