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■春始(6)

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ホテルの出口の方に行きかけたら、ばったりと保志絵さんと遭遇する。
 
「お母さん!」
「千里ちゃん!?」
 
「お母さん、結納に出なくてよかったんですか?」
「千里ちゃん、やはり気になって来たのね?」
 
「そうだ。これお母さんに返しておきます」
と言って千里は左手薬指から指輪を外すと、ジュエリーボックスに入れてから保志絵に差し出した。物凄く寂しい気持ちになる。これで自分でも婚約解消を認めたことになる。
 
保志絵はそれを受け取らないまま、じっと見ている。
 
「ちょっと話さない?」
「はい」
 
それで千里は保志絵と一緒に近くの和風レストランに入った。
 
「私も理歌や美姫も貴司の行動に激怒している。この結婚は認めない」
と保志絵さんは本当に怒っているようであった。
 
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「千里ちゃんは納得してるの?」
「私、一昨日唐突に別れてくれと言われて、正直まだ事態が飲み込めてない感じです。事態が飲み込めてきたら、私、ものすごいショックに襲われそう」
と千里は正直な気持ちを言った。
 
「今日は相手の女の顔を一目見てやろうと思って出てきたんですよ」
と千里。
「私も!」
と保志絵。
 
「お母さん、見られました?」
「あれ、貴司より年上だよね?」
「たぶん6〜7歳年上なのでは」
「×1(ばついち)だって?」
「それは聞いていませんでした。ヴィラジオ・ノルド・ディ・モンテフィアスコーネをあの席に贈っておきました」
「何それ?」
 
「イタリア産のワインです。昔あった『別れのワイン』という映画に出てきたワインで、主人公のカップルが最後破綻して別れる時にそのワインで乾杯するシーンが印象的なんです。そこまで貴司も向こうの親御さんも気づかないでしょうけど」
 
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と千里が言うと、保志絵は吹き出していた。
 

「10月7日に結婚式を挙げると言っているけど、私も理歌たちも出ないつもり」
と保志絵は言ったが
「その結婚式は延期されます」
と千里は言った。
 
「どうして?」
「喪中では結婚式できないでしょうからね」
「へ?」
「あのお父さん、どう見ても余命1ヶ月って感じですよ」
 
千里も《こうちゃん》同様、もって半月と思ったのだが、少し長めに言っておいた。
 
「・・・・いや、千里ちゃんって結構人の寿命が分かるよね」
「そうでしょうか」
 
「宝蔵さん(望信の父・淑子の夫・貴司の祖父)が亡くなるのを知ってたでしょ?」
「唐突に感じられることがあるんです」
「京平はどうなるんだろう?」
 
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「それは問題ありません。私が産みますから」
「千里ちゃん産めるの?」
 
「産みます。期待していてくださいね。種はちゃんと貴司さんから取りますよ。貴司さんは浮気性だから、たとえ阿倍子さんと結婚していたって、私が誘惑したらセックスに応じますよ」
 
「ああ、それは絶対そうしそう。でも、それじゃ千里ちゃんは貴司のこと、まだ好きなのね?」
「私、貴司さんに振られるの、もう5回目か6回目くらいですよ」
 
「あんた、苦労してるね!」
 

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「貴司さんが実際に結婚するまでは諦めません。私、貴司さんを誘惑して籠絡を試みます」
 
「おお、頑張って! 応援してるから。私も理歌たちも千里ちゃんのことをお嫁さんだと思っているからね」
「ありがとうございます。ふつつかな嫁ですが、頑張ります」
 
思えば千里が貴司に関わり続けたのには、この時のお母さんの言葉で勇気付けられたことも大きい。
 
「でも指輪はいったんお母さんにお返ししておきますね」
「じゃ私が取り敢えず預かっておく」
と言って保志絵はジュエリーボックスをバッグの中にしまった。
 
「これもお返しします」
と言って結納金の封筒を渡す。
「中身は急いで用意したのでピン札がそろってないのですが」
 
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保志絵はその封筒を見て数秒考えたが、やがて言った。
「これは返却の必要無い。一方的に貴司が婚約を破棄しておいて、本当は指輪も返却の必要はないんだけどね。むしろ慰謝料を払うべき」
 
「慰謝料はいりません。そんなの受け取ったら私と貴司さんの仲は本当にそれで終わりになってしまいます。でも結納金の方は、私が貴司さんを籠絡して再婚約した時のために取っておきますね」
 
と千里が言うと
「うん、そうしよう」
と保志絵も笑顔で言った。
 

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7月14日、千里が桃香と一緒に、性転換手術のためタイに旅立とうと成田空港に行くと玲羅が来ていた。
 
「わざわざ来てくれたの?」
「近くまで来てたからね」
 
「もっともお姉ちゃんがいったい今更何の手術を受けるつもりなのかがよく分からないんだけどね」
と玲羅が言うと
「実は私もよく分からないのよねー」
と千里は答えた。
 
「その手術って死んだりはしないよね?」
「うーん。稀に死ぬ人もいるみたいだけど」
「じゃ、死なないように気をつけてね」
「ありがとう。お母ちゃんによろしく」
 
実は実際問題として千里は、いっそ手術中に死んだ方がいいかもと思っていたので玲羅のことばで、少しだけ自分を取り戻すことができた。搭乗する時、なにげなく貴司からもらったスントの腕時計を見ると、SAT 14 JUL 10:40 という数字が並んでいた。日付にも時刻にも1と4が出ているなと思った。千里は暗算で10+40=50, 易で火風鼎、日付まで入れても2012+7+14+10+40=35(mod64) 火地晋、どちらにしても吉だなと思ったことも覚えている。
 
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そしてバンコク空港に着いて、入国審査を通った後で再度時計を見ると、そこには FRI 14 JUL 17:47 という表示が出ていた。あれ〜。なんで金曜日になっているんだろう?時差だっけ?と思ったので千里は桃香に
 
「時差は何時間だっけ?」
と訊く。
 
「2時間だよ。あ、千里の時計、直してあげるよ」
と言ってバンコク時刻に設定変更してくれた(機械音痴の千里はこういう操作も苦手である)。それで時計の表示は15:48になったものの、曜日は金曜日のままなので千里は首をひねったが、まあいいかと思った。
 
その後、16:45→18:05の国内便で更に移動して19時前にプーケットの病院に入院した。入院手続自体は先行してプーケット入りしていたアテンダントさんがこちらがバンコクに着いたという連絡をした時点でしてくれていたので、その日の内に基本的な検査を受けることができた。
 
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7月19日、昨夜受けた性転換手術の痛みは激しかったものの、青葉が自分も同日性転換手術を受けているにもかかわらず国際通話を通じてヒーリングしてくれたのに加え《びゃくちゃん》も問題のある箇所の改善をしてくれたことで、かなり状況はよくなった。
 
普段は寡黙な《くうちゃん》が注意した。
 
『千里。貴司君に振られて、いっそ死にたいと思ってたろ?それで本当に死にかけたんだぞ。生きてないと貴司君を取り戻せないぞ』
『ありがとう。頑張るね』
 
それで千里は「生きる意志」を取り戻したことにより、急速に体力を回復させることができたのである。
 
《きーちゃん》なども、
『せっかく女の子になれたんだから、こんな所で死んじゃダメだよ』
と言ってくれた。
 
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《くうちゃん》は手術中に千里の心臓が一時停止した時、全身麻酔中であるにも関わらず強引に千里の意識を覚醒させた。それで千里は「あ、心臓が停まってる。ちゃんと動け〜」と思うことで、鼓動は再開した。しかしおかげで千里はその後、自分の男性器が解体されていく様子を知覚することになり、苦痛の1時間を体験したが、実はそれでもかなり神経を削られた。
 
お昼くらいになると結構桃香とおしゃべりするくらいの体力と精神力も回復する。それであれこれ話していた時千里の携帯にメールが着信するものの、着信音がモー娘。の『恋のダンスサイト』なので桃香が顔をしかめる。
 
むろん貴司からだが、《阿倍子のお父さんが亡くなった》というメッセージが入っていた。
 
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千里は7月24日(月)午後に退院し、HKT 19:00-20:25 BKK 22:25-6:40 HND 9:30-10:30 TOY という連絡で帰国し、そのまま高岡の桃香の実家に入った。ちなみにプーケットを出発したのは7月24日(月)であるが富山に到着したのは7月25日(水)である。どうも千里たちがタイに居る間だけ時間が6年前になっていたようであるが、そのことに千里が気づいたのはかなり後になってからである。
 
帰国する時の行程が0泊なのは例によって「余分に1泊するなんてもったいない」という安いもの好きな桃香の性格の反映だが、手術から1週間しか経っていない状態でのこの強行軍は、千里にはなかなか辛かった。
 
しかし桃香の実家ではひたすら青葉のヒーリングを受けることができて、千里は急速に体力を回復させていく。
 
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千里たちが高岡に到着した日の夕方、千里の携帯にまた『恋のダンスサイト』の着メロでメールが着信する。貴司からで
 
《結婚式はとりあえず一周忌明け以降に延期になった》
と書かれていた。
 
横になっている千里を覗き込むように座っている桃香が尋ねる。
 
「こないだもそれ鳴ってた。よく考えてみると、以前から結構鳴ってた。千里のボーイフレンド?」
 
桃香は明らかに嫉妬するような目である。
 
「私を振った人だよ」
と千里は答える。
 
「ああ、そうだったのか」
 
「彼、他の女性と結婚するらしいんだけどね。その相手のお父さんが亡くなったので、結婚式を来年の7月以降に延期する、というのが今のメッセージ」
 
「あらら」
「まあ親の一周忌が来ない内に結婚式あげたら結構顰蹙買うよね」
 
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「千里、結婚式が延期されている間に、その彼を奪い返すつもりだろ?」
「よく分かるね」
「千里は簡単に物事を諦めない女だ」
「そうかも」
 
「しかし、その彼、ゲイなんだったら、きっとその女とはうまく行かないよ」
「ふふふ。それは結構期待している」
 
「だけどさ」
「うん?」
「いっそさ。そんな千里のことを振ったような男のことは忘れて、これを受け取ってくれないか」
 
桃香は机の引き出しから小さな袋を取り出した。そしてその袋の中から青いジュエリーボックスを取り出した。
 
開けるとダイヤのプラチナリングである。ダイヤは0.7ctくらいある。これは多分100万円以上する。
 
「へ?」
と千里は戸惑うように声をあげて桃香の顔を見上げた。
 
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「千里、私の奥さんになって欲しい」
と桃香は言った。
 
「え〜〜〜〜!?」
 
千里はこういう事態は全く想定していなかったので驚いた。
 
「桃香、私のこと好きだったの?」
「好きでなきゃ千里と同棲するわけない」
「それ、わたし的には同居なんだけど」
 
と言いつつ、桃香が性転換手術が終わったら言いたいことがあると言っていたのはこれだったのかと思い至った。
 
「でも私、女の子の身体になってしまったけど、いいの?」
 
「私がレスビアンだって知ってる癖に」
と桃香は言った。
 
「千里、私のこと好き?嫌い?」
「嫌いではないけど」
「そういう曖昧な言い方はやめて欲しい。好きか嫌いかどちらかにしてくれ」
「桃香って、いつもそう言うよね。じゃ、好き」
「私も千里のことが好きだ。だから結婚して欲しい」
「そうだね。まあいいか」
 
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