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■春心(3)
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「田中さん、血糖値コントロール、結構うまく行ってますね」
「そうかしら」
「HbA1c は 7 くらい?」
「そうそう。こないだ診てもらった時は7.2で叱られた」
「充分、コントロールが効いている範囲だと思いますけどね。気を緩めないようにすればいいですよ。恐らく血糖値の制御がうまく行っているので目の調子も良くなってきたんだと思います」
「ああ、やっぱり」
と言ってから田中さんは訊く。
「私の耳の病気も糖尿病からきたのかなあ」
「私は医者じゃないので、その手の話をすると法令違反になりますけど、その可能性は高いと思います」
「そうだよねぇ。不摂生な生活を送ってたから」
「忙しいと体力の維持を優先してしまいますからね。すると糖尿をやりやすいんです。特に痩せてる人は危ない。糖尿なんて太っている人の病気と思い込んでいるから。実は痩せててもやるんですよ」
「うん。私も病気で倒れるまでそれ知らなかったんだよ。ほんと健康は難しい」
その週の週末。金曜日の授業が終わってから、青葉は《はくたか》に飛び乗り、越後湯沢で新幹線に乗り継いで東京に出た。
青葉はコーラス部なのだが、人数が少なくてまともな合唱にならない。一方で軽音部も人数が少なくて本格的なバンドを組めない。そこでコーラス部と軽音部がお互い協力して、両方の大会に出ることになったのである。
それで青葉はアルトサックスの担当になり練習を始めたのだが、確かにすぐ音は出るようになったものの、吹きこなすには相当の練習が必要だと感じた。ところが、軽音部にはそもそもサックスの経験者が居ない!
分からない同士で練習していても、どうも迷走しているような気がしてならない。そこで、青葉は先日東京に出た時に、青葉の「マイ・サックス」を選んでくれた宝珠七星さんに連絡して、アルトサックスの勉強をするのに適当な所は無いだろうかと相談してみた。
「ちょっと東京に出てくる?」
と言われて、出て行くことにしたのである。
金曜日の夜はそのままホテルに泊まり、翌朝七星さんと落ち合う。
「お忙しいのに済みません!」
「大丈夫、大丈夫。音楽関係の仕事は、夜更かし・朝寝坊さんのアーティストばかりだから、今日も仕事入っているけど、お昼過ぎからなんだよね。午前中は動けるから」
と言って、七星さんは青葉を都内のスタジオに連れていく。青葉はそこに居た人物を見て、びっくりした。
「鮎川ゆまさん!? ラッキー・ブロッサムの?」
「うん。解散しちゃったけどね。だから私は今失業中」
と言って鮎川さんは笑顔で頷く。
「私と大学の同級生なんだよ」
と七星さんは言う。
「一応スタジオミュージシャンという看板は掲げているけど、今の時期みんな打ち込みで音源作っちゃうから仕事が無いんだよね。だから私はサックス教室がメイン」
と鮎川さん。
「わぁ、大変ですね」
「ゆまちゃん、教え方がとっても上手いし、軽音部のサックスだからポップス吹きの練習を徹底的にした方がいいだろうから、そうすると彼女は最適の先生だと思ってね」
「わあ、ありがとうございます。あの・・・・謝礼は?」
「御厚志で」
「相場が分かりません!」
「じゃ、これから毎週土日で4週間、あわせて8回のレッスンで10万というのではどう?」
と鮎川さん。
「それはさすがに安すぎます。その回数で25万円ではどうでしょうか?」
「うーん。まいっか」
ということで、青葉はそれから4週にわたって、週末には東京に出てきて、鮎川さんからサックスの特別レッスンを受けることになったのである。
一応鮎川さんのレッスンは土曜の朝9時と、日曜の夕方18時からということにしてもらった。土曜の朝レッスンを受けて、その結果を受けて自分で土日ひたすら練習をし、日曜の夕方のレッスンでチェックしてもらうということになる。青葉はその後、20時の新幹線で高岡に帰還する。
青葉の負担は、往復の交通費、宿泊費(2泊)、練習用のスタジオ代、そして鮎川さんへの謝礼で、かなりの金額になる。ちなみに往復の交通を高速バスにしようかなあなどと言ったら、母に叱られた。
なお七星さんにも謝礼を渡そうとしたら「ゆまからバックマージンもらうから不要」などと言われた。
日曜日の夕方、レッスンが終わって東京駅まで来たら、いきなり後ろから抱きしめられる。
思わず「きゃー」と声を出してしまったが、見ると彪志だった。
「びっくりしたぁ!」
なんて言ってたら、青葉の悲鳴を聞いて、近くにいた警備員さんが近づいてくる。
「どうかしましたか?」
「すみません。ちょっとふざけてただけです。ごめんなさい」
と青葉は言う。
「恋人同士?」
「はい」
とふたりで答える。
「人前であまり迷惑なことしないでね」
「申し訳ありませんでした」
ということで、彪志が荷物を少し持ってくれて、新幹線乗り場へと行く。これから越後湯沢まで、1時間ほどの車内デートなのである。
「せっかく東京に来るのに、ごめんねー。緊張感を持ってレッスンを受けたいから、レッスン前にはデートしたくないのよね」
「うん。分かってるつもりだけど、俺セックスしたい」
「あはは。夏休みくらいには」
「そこまでお預け〜?」
夕食代わりに構内でパンを買い、一緒に新幹線ホームまで行った。
「ちょっと早いけど誕生日おめでとう」
と言って彪志が小さな箱をくれる。
「ありがとう。開けていい?」
「うん」
「わっ、可愛い!」
それはピンクゴールドのハートのネックレスだった。
「つけていい?」
「もちろん」
「あ!これ、左手で引き輪の爪が押さえられるようになってる!」
「うん。普通と逆にチェーンを通してもらった」
「すごーい!」
青葉はいったんウェットティッシュで首回りを拭いてから、ネックレスの金具を両手で持ち、引き輪の爪を利き手である左手の指で開いた状態で左耳の下で合わせ、引き輪をダルマカンに通した。爪を押さえていた指を放すときれいにチェーンがつながる。位置を調節して、ハートが正面に来るようにする。
「青葉、ピンクゴールドのサックス買ったって言ってたからさ、お揃いにと思って」
「ありがとう! キスしたいくらい」
「歓迎」
青葉は周囲を見回すと、素早く彪志の唇にキスした。
「これなんだよねー」
と言って、青葉はケースからサックスを出してみせる。
「可愛いね!」
「でしょ! それでつい買っちゃったのよ」
「高そう〜」
「このネックレスも高そう〜。これ本物のピンクゴールドだもん」
「分かる?」
「分かるよ〜」
「フルートやヴァイオリンの練習もしてる?」
「今はほとんどしてない。取り敢えずサックス優先」
「確かに同時にいくつもやっても、どれも中途半端になるだろうしね」
「そうそう」
20番線で20:12発の《とき347号》を待っていたのだが、その《とき347号》になる予定の東京着20:00の《とき342号》が20:05になっても到着しない。この金沢方面に連絡できる最終便は常連客が多いので入線時刻を知っている人も多く、ざわざわとした雰囲気になる。
そこにアナウンスがあった。
「《とき342号》が大宮駅構内での人身事故のため遅れております。その車両が折り返し20:12発《とき347号》になる予定ですので、《とき347号》に乗車ご予定の方、しばらくお待ち下さい」
待っている客のざわめきがもっと酷くなる。
「人身事故って、やだなあ」と彪志。
「そう? そんなの気にしてたら鉄道には乗れないよ」
と青葉は言う。
「青葉って時々、唯物論者じゃないかと思う」
「あ、私って割とそうだよ」
「日本で五指に入る霊能者の言葉とは思えん」
「うふふ。でもこれが遅れると、彪志帰りの新幹線に間に合わないかも」
本来なら《とき347》が21:20に越後湯沢に着くので、そこから22:24の東京行き《Maxとき352》に乗ると、千葉に0:43に帰着できるのである。しかし万一こちらが遅れてしまうと、その乗り継ぎがうまく行かない可能性もある。新幹線の遅れに、越後湯沢で青葉が乗り継ぐ《はくたか》は待っていてくれる可能性が高いが逆向きの新幹線は絶対に待ってはくれない。
既に時計は21:30を回っていた。
「間に合わなかったら、適当な駅で野宿だな」
「田舎の駅だと野宿可能だよね。都会の駅は全員追い出されちゃうけど」
「でも事故ってばさ、俺の大学の近くによく事故が起きる踏切があるんだよ。そこ遮断機が最近まで付いてなかったんで毎年誰かはねられてたんだけど、やっと付いたかと思ったら、やはりこないだも子供がはねられて」
「ああ、そういう所は一種のダークスポットになりやすいから危険なんだよ」
「やはりそうか」
「引き込まれちゃうんだよね。特に心が弱っている人とか」
「あの手の事故って、時々事故なのか自殺なのか曖昧なのあるからなあ」
「本当は死ぬ気が無くても、フラフラと引かれて入り込むことあるんだよね」
「怖いなあ」
「彪志も徹夜明けとかの時は、そういう場所通らない方がいい。遠回りしてでも他の踏切とか、できたら陸橋を渡った方がいい。彪志、守護は強いけど、霊的な力を持っている人は、逆にそれを付け込まれることもあるから」
「うん、気をつけるよ。あそこはうちの大学の闇スポットのひとつだって先輩が言ってた」
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