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■続・夏の日の想い出(11)
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そういうわけで私達の震災後最初のツアーが始まったのであった。
私達自身が地震の時に仙台にいたこと、そして凄い状況の現地の道を走って東京に戻ったことをライブでも語った。そして会場には募金箱を置かせてもらい、また私達のライブの売り上げについては会場代・旅費その他の実費を除いた部分の全額を被災地復興に寄付することにした。寄付は赤十字にではなく、現地でボランティア活動している団体に提供する方式とした。赤十字への寄付では、被災者の手に渡るのに時間がかかるが、現地に今すぐ様々な物資や手助けが必要な状態だと、震災後ずっと連絡を取り続けている当地のFM局の人からきいていたためであった。提供する団体もFM局の人に個人的に紹介してもらった。
「でも全額寄付すると、給料方式のマキ・サト・タカはいいけど、マージン式のあなたは無給になっちゃうけどいい?半額でも充分貢献できるよ?」
と美智子は言ったが
「私はレコードの印税もあるからいいです」
と答えた。私は作曲している曲もあるので、結果的に他のメンバーより多く印税をもらっている。またローズクォーツの活動が始まってからローズ+リリーの曲もよくダウンロードされるようになっていて、その分の加算もあった。政子も「ローズ+リリーの印税で学資がまかなえてる」と言っていたが、私もそういう状態であった。
「ただ会社の方は大丈夫?」
「それは気にしないでいい。某氏に少し出させるから。私自身もローズ+リリーの印税で生活費は出てるしね」
美智子はローズ+リリーの楽曲のほとんどの編曲者になっているので、その分の印税収入があるのである。
さて、これまでのドサ回りではマキ・タカ・サトの3人はずっとエスティマで移動していたのであるが、私は毎日東京から現地往復だったので、今回はほんとに3人と話す機会が増えた。会話は楽しかったが「ケイがいると、さすがにどぎつい下ネタは出せないな」などとタカは言っていた。私は笑って流しておいた。確かに私は男の子たちのその手の会話にはついて行けないんだ。高校時代だって辛かったんだから。そうそう。私は震災以来マキとは愛称呼び捨てで呼び合っていたが、このドサ回りの間に、タカ・サトとも愛称呼び捨てで呼び合うようになっていた。
だいたい現地には先行して美智子が行っており、様々な交渉をしたり、下準備の手配などをしていた。ホテルは私と美智子が一緒。マキ・タカ・サトの3人で一部屋(おおむねツインルームにエクストラベッドを入れてもらったり、和室のある所では和室を利用したりしていた)というパターンが多かった。松島さんはこのツアーの最中は、東京の事務所でお留守番であったが、土日にはこちらに来てお手伝いをすることもあった。
この九州ツアーでは、オープニングに「上を向いて歩こう」を演奏した。みんな知っている曲で、何となく元気が出る歌ということで選んだものである。相変わらず民謡の収集は続け、私は毎日一晩で民謡を覚えるというのをやっていた。しかし毎日その民謡のバンド用譜面を1時間程度で書きあげる美智子も凄い。
美智子は若い頃、ホテルのラウンジなどでピアノの弾き語りなどをやっていたらしい。実はレコード(CDの時代ではない!)も何枚か出したことあるそうだが全く売れなかったとか。その頃作曲した曲も数十曲あるというので、いちど聴かせてくださいと言ったが、恥ずかしいからダメなどと言っていた。ただ当時の名前がローズ+リリーの曲の大半の編曲者としてクレジットされている「はらちえみ」というのは聞いていたので私はネットで検索して1曲だけ美智子の歌っているデータを発掘した。可愛い路線の歌い方だった。「きゃー、この曲のレコ−ドは私も持ってないよ」と本人がびっくりしていた。
「でもさ、私があの宇都宮のイベントで譜面見せて冬に歌ってみてといって、初見で冬が歌ったでしょ」
「うん」
「あの時、冬の歌を聴いた瞬間、私は冬の才能に感嘆したのよ。でも凄く惜しいと思ったんだ」
「何が?」
「男の子なのが惜しいと思ったの。これで女の子なら絶対売れると思ったんだもん」
「あはは」
「それで政子ちゃんのことばに乗せられるようにして女装させてみたら凄く可愛くなっちゃったじゃん。それを見た瞬間、この子を絶対売りだそうと思ったんだ、この路線で」
「でも多分、私もそういう素質が元々あったんだと思うな。あまり強く意識したことは無かったけど。私、元々小さい頃とか、女の子の友達とばかり遊んでいたから。きっとたまたまスイッチが入る機会が無かっただけ」
「ところでさ、冬」
「うん?」
「政子ちゃんとは何も無かったの?ここだけの話」
「えっと・・・・その件は何も起きたことは無いというのが公式見解です」
と私は言った。
「ふふふ。そっか。じゃ、私もそう思っておくことにしよう」
と美智子は笑っていた。
3月の九州ツアーはどこでも好評のうちに終了した。
4月になり私はタイに渡り性転換手術を受けた。ふつうはペニスを切断・睾丸を摘出してヴァギナと外陰部およびクリトリス・新しい尿道口を形成するという大手術であるが、私の場合既に睾丸は摘出済み、外陰部も形成済みなので、ペニスを切断、ヴァギナとクリトリスを形成して尿道を付け替えるだけとなり、ふつうよりかなり軽い手術ということだったが、それでも凄まじく痛かった。それで完全な女になれた喜びを感じる余裕ができたのは手術の翌月になってからだった。
実際問題として手術が終わってからペニスが無くなった自分の股間を眺めた時も、特に何も感じなかった。自分自身としてはそこには既に何も付いていないかのような認識でいたので、完全な女性型になったその部分を見ていても自分にとってごく自然な状態のようにしか思えなかったのである。それはいわば、イボか魚の目でも取ってもらったような感覚に近かった。おしっこをする時も今までより出やすい(出てしまいやすい)感じはあるものの大差は無い気がしていた。
むしろ新しく出来たヴァギナという器官はちょっと面白い器官という気がしていた。その後毎日ダイレーションをすることになるのだが、シリコンのスティックを挿入する度に実は私は軽い性的な興奮を感じた。でもここに「ホンモノ」が入れられる日は来るのかな・・・? ま、結婚はできないだろうけどHくらいはしてみたいという男の子は現れるかも知れないな、などと私は漠然と考えていた。
手術にはまた政子が付き添ってくれた。麻酔から覚めた時に政子は私にキスして「これで女の子になれたね。おめでとう」と言ってくれた。政子のその言葉はけっこう私の心の支えになった。政子は数日後、包帯が取れたら即私の形状をチェックして「完璧だね。クリトリスはここかな?」などと言って触っていた。ヴァギナにも指を入れて「おお、入る入る」などと言って喜んでいた。
「あれ?人差し指全部入っちゃった」
「ちょっと〜」
「あはは、冬のバージンもらっちゃったのかも」
「え〜!?」
「でも女の子同士だし、たぶんノーカウントだよ」
「そうか?」
これはむろん私がダイレーションなど始めるより前だったので、ほんとに私は政子にバージンをあげちゃったのかも知れないという気はしている。政子は私のバージンも冬にあげたんだから、あいこかな、なんて言っていた。私は苦笑いした。
政子はせっかくタイまで来たので、その機会にバンコクに長期出張中の両親にも会ってきた。私が手術を受けたというのを聞き、政子のお母さんも御見舞いに来てくれた。私はまだ手術の後の痛みで苦しんでいたが、お母さんにまで声を掛けてもらい、ちょっと元気が出た。私は現地には10日ほど滞在して帰国した。
4月中はローズクォーツのライブ活動はお休みになったが、私は帰国後毎日のようにマキたちと電話やチャットで話したり、日によっては私のマンションの近くのファミレスなどで会ったりしていた(例によって私のマンションに他のメンバーを入れることは厳禁されていた。私がマンションに入れてもいいのは、両親と姉、美智子と松島さん、政子や女性の友人だけということになっていた)。
体調はほんとに辛くて、1ヶ月休みをもらったのが嬉しかった。これは無理はできなかったなと思った。身体を休めていても頭のほうは働いているので私はその期間にたくさん曲を作った。政子もいろいろ詩を書きためていたのでそれに曲を付けるのもしたし、私自身で作詞・作曲した曲も10曲以上あった。この時期、ほんとによくいろいろな発想が得られた。この時期かなり色々な夢を見たが、その夢から覚めた時に頭の中に残っていたメロディーを急いで書き留めたものもいくつかあった。
ローズクォーツの他のメンバーも4月はそれぞれの過ごし方をしていた。マキはウッドベースを弾いてみたいと言い出して、1個買ってきて練習していた。タカは美智子に言われて三味線教室に通っていた。サトは最初お正月に買って、私が少しだけ弾いた箏を少し練習しようとしていたがすぐにギブアップして横笛を数種類、全国各地から取り寄せて練習をしていた。音階がそれぞれの地区で違って奥が深いと言っていた。尺八にも手を出していたがなかなか音が出ないと言っていた。
箏の方は結局私がもう少し練習することになった。しかしなにせ身体に無理が効かないので、箏を自宅にしばらく置かせてもらい、先生に出張授業をしてもらうなどというブルジョア的なことをしてしまった。しかしこの1ヶ月間でけっこう弾けるようになった。
ローズクォーツの活動は5月3日の四国高松でのライブから再開された。私の体調に配慮して連休中はゆったりとしたスケジュールでライブが組んであった。しかし1ヶ月ぶりのステージはまだ少しいろいろと不調であった私を一気に元気にしてくれた。
「いやあ、ステージ始まる直前まで、ケイ大丈夫かな?と思ってたんだけど、前奏を始めたとたん、元気なケイが戻って来たね」
とマキは言っていた。
「ステージが私を呼んでいるのよ。観客席が私に力をくれるのよ」
私は本気でそんな感じがしてみんなに言っていた。
その夜は地元イベンターとの打ち上げには美智子とマキが出席して私は早めに休ませてもらった。
その後、4日は徳島、5日は高知、6日が松山、7日が広島、と都市のライブハウスを巡っていき、8日の岡山のライブで、ゴールデンウィークのツアーは終了した。
ゴールデンウィークの終了後、私達は7月に発売する予定のシングルと、同時に発売する予定の初アルバムのレコーディングに入った。シングルと称していつも6-7曲入れているが、アルバムなら何曲にするんですか?と美智子に訊いたら
「うーん。20曲くらいかな」
などと言っていた。
上島先生は新しい作品用にと「一歩一歩」というマーチ風の曲を書いてくれた。なかなか恋が進展しない状況の中で少しずつ彼に近づいていこう、という歌詞ではあるが、雰囲気的に東北の復興に向けての一歩一歩でもあることは、みんなが感じていた。いつもはマキの曲と私の曲を1曲ずつ入れるのだが、今回マキは「パス」と言って曲を出さなかった。そこで私と政子の作品「恋の勇者よ」と私が仙台で被災した時に突然「降りてきて」書いていた作品「峠を越えて」を入れることにした。有名曲としては「コンドルは飛んでいく」と「上を向いて歩こう」を入れた。「コンドルは飛んでいく」はS&G版ではなく、それより古いスペイン語版を元に新しい訳詞を付けた。
遙かな故郷(ふるさと)の空よ、海よ、田畑よ。
待ってておくれ。
いつか私も帰る、愛するあの家へ。
仲間と共に。
ああ、空を飛ぶ鳥よ、私を連れてって。
お前の見た故郷を、私に教えて。
幸い実るあの大地のことを。
連れてってよ鳥よ、あの故郷へ。
私はきっと帰る、仲間と共に。
そして定番化している民謡としては「相馬盆唄」を入れた。現地で民謡酒場を営んでいたものの、原発事故で今関東方面に避難している人がいると聞いて、美智子が交渉し、その人とその人の知り合い数名に参加してもらって、都内のスタジオで収録した。
「あんた、福島県の出身?」
などと聞かれた。
「いいえ。東京出身です。母の実家が岐阜県なので生まれは岐阜県なのですが」
「あんたの唄い方は、民謡教室とかで教える唄い方じゃないから。直接この界隈出身のお友達か誰かに習った?」
「ええ、まあそんなものです」
と私は曖昧に答えておいた。
「でも、私はそういう唄い方の方が好きだよ」
と民謡酒場のオーナーさんは言っていた。
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