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■夏の日の想い出・何てったってアイドル(4)

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「それがきっかけでまた歌手として活動するようになって。マーメイド5をやめてから5年半経っていたのに、ファンだったって人がたくさん居て、マジびっくりしたよ」
 
「タイミングも良かったんだと思います。マーメイド5の解散後、ハルコさんとミツコさんが作ったデュオ・ハルミツが1985年に解散してしまって、そのファンも松居さんの所に流れてきたんじゃないかって、いつか私の母が言ってました」
と私は言う。
 
「そうか。ケイのお母ちゃんたちが私たちのファンの世代かな」
「私の母は松居さんと同い年生まれですから」
「そっかぁ!」
 
「でも当時私は24歳で2児の母だしさ。でもアイドル並みの衣装を着せられて可愛く可愛く扱われたんだよ」
「いや24歳なら、まだその路線行けますよ」
「子供がいることも非公開になってた。おかげで私の性別問題も誰も気づかなかったんだと思う」
 
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「なるほどー」
「図らずも、翌年歌手に復帰した松田聖子ちゃんの先輩ママドルだったんだよね。あの時の私って」
「松居さんってうまく時代の潮流に乗ってますね」
 
「うん。自分でも私って運がいいんじゃないかと思うことあるよ」
 

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「まあそれで歌手として売る内に、アルバムの中に少しずつ自作の曲を入れさせてもらって。私が歌手として売れたのはだいたい1986年から1992年頃までだと思うけど、最後の方はもう仕事の半分は作曲の方になっていたんだよ」
 
「けっこういろんな歌手に楽曲を提供していましたよね」
「うん。歌手兼業時代はアイドル歌手への提供が多かったけど、自分がアイドル歌手をやってきているからさ。彼女たちの心情がけっこう分かるから、私の曲はこれまるで自分のことを歌った歌みたいです、と随分言ってもらえたよ」
 
「それで結局1994-5年頃からですかね。実質作曲家オンリーになっていくのは」
 
「うん。さすがに32-33歳になってミニスカ穿いて可愛く歌うのは無理があるから」
 
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「私たち60歳でもミニスカ穿こうよなんて言ってるんですけど」
「マジ? その時、私がまだ生きてたら花束あげるね」
 
「それで2000年に美祢子さんがデビューして」
「あれびっくりした。ある日あの子の事務所の社長さんが来て、お嬢さんの契約のお話をしたいというから『は?』と」
 
「親に黙ってオーディションとかに出ていたんですか?」
「そうそう。母親代わりの私の姉にも言ってなかったらしい。それで本人も七光りで売れるのは嫌だから、母親のことも父親のことも非公開のまま歌手活動したいと言うから、そういう線で事務所とは契約したんだよね。だから片原の苗字を使わずに里山という苗字を作ったんだよ」
 
「でもしっかりしてますね」
「うん。あの子は私よりずっとしっかりしていると思う。まあ本坂さんの事故は不幸なことであったけど、あの子なら乗り越えていけると思うね。今度はあの子自身がタレントの親になっちゃったしね」
 
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1970年に始まった「ステージ101」は天下のNHKならではの選曲基準で当時巷で大流行していたフォークなど「低俗な」曲は流さず、洋楽や番組のスタッフが作った「まともな」曲が中心であった。
 
これに対するアンチテーゼとして弱小局のΛΛテレビは1972年「ミュージック・ストリート」という番組を立ち上げ、足で歩いて街角で演奏している若いパフォーマーを見付け口説き落としてテレビに出演させて、彼らの曲をどんどん紹介させた。
 
そしてこの番組でストリート・ミュージシャンたちのバックで踊っていたのが、1973年に発足したマーメイドクラブで、10歳から18歳くらいまでの女の子たちで構成されていた。ここからはマーメイド5、スカイ&フラワー、トリプル16, シーサイドマーガレットなど、多数の派生ユニットが生まれた。この番組はフォークブームが終焉する1978年まで続いた。
 
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私と政子は当時そのマーメイドクラブの中でも一番人気であった松居夜詩子(当時の芸名はヨシコ)から男の娘であったことを告白されてさすがに驚いたのだが、実は当時「あの子たちみんな女の子に見えるけど実は数人男の子が混じっているのでは?」という疑惑はしばしば囁かれていたと私は母から聞いている。
 
1980-1987年に◇◇テレビで毎週日曜14時に放送された「サンデースタジオ」は低視聴率時間帯ならではの局側の「やる気の無さ」を反映して事実上の司会役であった東堂千一夜(前期)や立川つとむ(後期)が好きなように番組を運営したことから、高校生以下の世代から異様な支持を集めた。この番組のアシスタントを務めた(主として)10代の女性たちが自然発生的に「サンデーシスターズ」と呼ばれるようになり、ここからもまた多数の歌手や作曲家、また音楽制作者を輩出することになる。
 
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マーメイドクラブの出身者には歌手や女優になった人が多いのに対してサンデーシスターズの出身者にはシンガーソングライター・作曲者や音楽制作者になった人が多い。番組の傾向としては前者がフォーク番組、後者がポップス番組で、逆になりそうなのだが、これはマーメイドクラブのメンバーはみんなどこかの事務所と契約したタレントであり親主導のケースが多かったのに対して、サンデーシスターズは契約などもなく「来たい?おいで」というノリで連れてきた子が多く契約もしていなければギャラも払っていない。課外活動的な位置づけであったため、意識の高い子が多かったせいでは、と東堂千一夜さんは後に言っている。
 
このサンデースタジオ、またサンデーシスターズには特に明確な企画者は居なかったとされ、番組の名目上のプロデューサーも8年間にコロコロと変わっており(後に取締役となった響原恭平も一時期プロデューサーを務めている)、特に一貫した指針のようなものも無かった。
 
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これに対して1989-1992年に放送されたバラエティ番組「みどりの森」とそれに出演したグリナーズの場合は、放送局の横居剣一プロデューサーと、作詞家の月村山斗のコンビが明確な指導原理を持っていたし、規律もひじょうに厳しかったという。サンデーシスターズの子たちが「彼氏とキスしちゃった」などと番組内で大胆告白したりする事件?もあったのに対して、グリナーズの子たちは恋愛禁止であり、門限破りで解雇された子もいる。しかし番組終了後、このユニットのメンバーで芸能界に生き残った子は無かった。
 
1999年にデビューした「色鉛筆」はオーディションによるメンバー追加と卒業システムが随分とモーニング娘。の二番煎じだと言われたものの、メンバーの歌唱力の高さが一部では評価され、メンバーは全員10代であるのに同世代より20代のファンに支持されたし、ソロデビューして色鉛筆から卒業した後で、むしろたくさん売れた子も多い。このユニットを世に送り出したのは、作曲家の近藤早智子だが、彼女自身がサンデーシスターズの出身である。
 
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色鉛筆に似たコンセプトではあるものの、歌い手と踊り手を完全に分離して企画されたのが2003年にデビューしたマリンシスタである。このユニットはメンバーの入れ替わりが凄まじく激しかったことでも有名である。活動期間は2003-2006の約3年間しか無いのに、最初から最後まで在籍したメンバーが1人も居ない。多くの子が1年程度で脱退してしまっている。しかしその人気は高く、ドーム球場をいつも満杯にしていた。マリンシスタではメンバーは「部品」に徹することを求められたと初代リーダーの辰巳鈴子は後に語っている。マリンシスタは基本的に女声四部唱であったが、ひとつのパートを最低3人以上に覚えさせ、また1人1人が最低2パート以上歌えるようにしておくことを求められていたらしい。
 
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「みどりの森」の制作者の一人・月村山斗は2006年再び集団アイドルFireFly20を世に送り出した。AKB48が専用劇場を持ち、そこでの公演を活動の主軸にしたのに対して、FireFly20の場合はインターネットの有料配信をそのホームとした。ネット上での決済能力があることが前提なのでファン層を敢えて20代メインに捉え、多くのAKBフォロワーたちとは一線を画している。楽曲の売上としては大したことがなくても、10代より経済力があることからグッズの売上が凄まじいと言われている。
 
松居夜詩子が2010年に始めた「金平糖クラブ」は「球ではなく金平糖な子たち」を集めた集団という性格付けでスタートしている。ここに参加しているメンバーたちは各々が強い個性を持っており、むしろAKBのような集団では生き残れないタイプである。そういう子たちを集めるために、松居さんは自ら様々なオーディションを見学させてもらい、最終選考の近くまで残ったものの落とされた子たちに声を掛けていったという。そのあたりで落とされる子は技術的には良いものを持っているが性格的に問題のある子が多い。そしてそういう子こそ、松居さんが求めていた子たちであった。この中には男の娘あり、ヤンママあり、風俗で働いていた経験のある子あり、とおよそ従来のアイドル像とは相容れない子たちも居るが、みんな実は素直なので熱心な指導をする松居さんの元、パフォーマンスをしているのである。
 
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そして「みどりの森」の放送局側プロデューサーであった横居剣一さんが今年の春にまた新たなコンセプトで立ち上げることにしたのがホワイト▽キャッツであった。「ホワイト」というのは、どうにでも染められるという意味で、この集団をステップとして、何らかの形のアーティストとして巣立っていって欲しいという意図がある。従ってアイドルとして売るより、各々を鍛えていくことに主眼を置いているので、給料を払うどころか逆に参加費を毎月徴収するというとんでもない集団である(親の収入が低い場合は減額制度あり)。
 

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「でもケイちゃん、マリちゃんはこの後、どういう形で売っていきたいの?」
と松居夜詩子さんは私たちに尋ねた。
 
「私たちは元々がニューフォークという感じだったので、その路線で行きたいんですけどね」
と私は言う。
 
「でもレコード会社はポップスを求めているでしょ?」
「まあ、そのあたりは常に妥協があります」
 
「あなたたちは最初からアイドルとはちょっと違っていたよね」
「08年組でアイドル路線を維持したのは結局AYAだけですね」
「それと引退しちゃったけど浦和ミドリちゃんだよね」
「そうなんです」
 
「KARIONは4作目の『秋風のサイクリング』から脱アイドル路線になりました。XANFUSも3作目の『Down Storm』からアイドル路線と決別しました。ローズ+リリーも休業中に出した実質3枚目のシングル『雪の恋人たち』でアイドル歌謡から離れてフォーク路線に舵を切ったんですよね」
 
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「あんたたちの休業は、なんちゃって休業だからなあ」
と言って松居さんは笑っている。
 
「なんちゃって休業、なんちゃってアイドル、なんちゃって女の子」
と政子も悪ノリして言っている。
 
「そういやケイちゃんが実は男の子だったという報道があった時に、うっかりマリちゃんが男の子と思い込んだファンが随分いたらしいね」
 
「あれ、ネット見てて混乱しているのが結構面白かったですよ」
と政子は言っている。
 
「まあマリちゃんがアルトだからね」
「私、高い声が全然出ないんだよね〜」
と本人は言うが
 
「でも初期の頃と比べると随分音域も広がったでしょ?」
と松居さんは言う。
 

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「しかしAYAちゃんはアイドルのままで行くんだね」
「いや、あの迷いの無いアイドルぶりが、けっこう高校生に受けているみたいですよ。あの子、もともと童顔だから、知らなかったらまだ17-18にも見えるんですよね」
「うんうん、あれはあれでお得」
 
今年の1月にAYAが出した復帰作『変奏曲』で、ゆみはまるで中高生アイドルのようなミニスカの可愛い衣装、髪も少し切ってまるで中学生の校則遵守したかのような髪型でPVでもテレビでも露出しているのである。
 
「昨年1年間休業している間にいろんな人が心配して訪ねてきてくれたようですが、ああいう路線で行こうというのは、秋風コスモスちゃんとの対話の中で思い立ったようですよ」
 
「コスモスちゃんはまた凄いね!」
 
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「私正直言って、あの子がこんなに長く生き残るとは思ってもみませんでした」
と私。
「うんうん、私も。この子は1年で消えるだろうと思ってたよ」
と松居さん。
 
「AYAの場合、昨年春にヌード写真集を出して、それでもうアイドルは卒業するつもりなんだろうなと思ったのに、アイドルとして復帰した思い切りが凄いです」
 
「あの写真集、私思わず買っちゃったよ」
 
「うちも母と姉が買ってました」
 

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「でも20代になってもアイドルを続けるってのは、松居さんとか、松田聖子さんとかの世代がたぶん嚆矢になりましたね」
 
「結果的にはそうだと思う。まあ私はうまく乗せられちゃってやっただけだけど、聖子ちゃんはスタイルとしてママドルというのを確立したからね。私は子供がいること非公開のままやってたのに」
 
「まああの時の事務所の事情もあったんでしょうけどね」
「そうそう。岡田有希子ちゃんが死んじゃったから、あそこは聖子ちゃんが頑張るしか無かったのよ」
 
 
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