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■夏の日の想い出・長い道(8)

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★★レコードを出る時、政子がひじょうに昂揚した顔をしていた。それで私は言ってみた。
 
「スタジオに行って、ちょっと歌ってみない?」
「あ、いいね!」
 
それで私は政子を隣の★★スタジオに連れて行った。受付の人に声を掛け空いている部屋を案内してもらう。2階の鈴蘭に行く。階段を登って2階に上がったところで、バッタリと貝瀬日南に遭遇した。
 
「おはようございます」
「おはようございます」
と挨拶を交わす。
 
政子は貝瀬日南の歌を無茶苦茶言ってたのに
「日南ちゃん大好きです。いつも聞いてます」
 
などと言う。本音が多すぎる政子もこのくらいの社交辞令はできるようだ。
 
「日南ちゃん、レコーディング?」
「ううん。ちょっと疲れたから寝てた」
 
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「ああ。空調利いてるしね。けっこう休憩に使うアーティストもいる」 
「ケイちゃん、マリちゃんは?」
「歌おうかなと」
「わあ、見てていい?」
「いいよ」
 
というので、日南は受付にインターホンで連絡して自分が使っていた部屋の利用が終わったことだけ伝え、私たちと一緒に鈴蘭の部屋に入った。
 

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「何歌うの?」
「そうだね。2月に『長い道』と『カチューシャ』歌ったし、『明るい水』
『その時』『遙かな夢』『甘い蜜』『涙の影』『ふたりの愛ランド』というコースでどう?」
 
「ベスト・オブ・ローズ+リリーだ!」
「うふふ」
 
それで私は連休中にKARIONツアーの最中のホテルの中で作った新しいアレンジの打ち込み音源を鳴らし、一通り歌った後で、スタジオの技術者の人を呼び、録音してもらった。
 
貝瀬日南が凄く真剣なまなざしで私たちが歌う所を見ていた。その視線を受けて政子は気合いが入っている感じであった。例の大騒動の後で、政子が身内以外の人の前で歌ったのはこれが最初である。
 
私たちは、また「長い道」を歩き始めたのだということを認識した。そして、貝瀬日南もその「長い道」のどこかに居て、自分のペースでしっかり歩いているのだと、私は再認識した。
 
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私と政子が★★レコードに行った翌日、5月12日(火)。私は学校を午前中で早退し、女子制服に着替えて赤坂の○○プロのスタジオに出かけて行った。最初は放課後になってから行くつもりだったのだが、実際の収録は午後一番から始まると聞き、中家さんからは夕方からでもいいよと言われたものの、やはり早退することにした。
 
伴奏とだけ聞いたのでキーボードかと思っていたのだが、念のためと思って、午前中再確認したらヴァイオリンということだったので、慌てていったん自宅に戻り愛器《Flora》を持ち出してから赤坂まで行った。
 
今日は篠田その歌の6月下旬リリース予定のCDの音源制作である。主力アーティストなら、もう少し時間に余裕を持って音源制作し、PVなども制作したりあちこちに宣伝したりするのだろうが、最近、篠田その歌は既にピークを過ぎた歌手とみなされているようで、結構アバウトになってきているようだ。
 
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スタジオに入って行ったら、上島先生がおられたので、びっくりして挨拶する。
 
「おはようございます」
「おはよう。あれ?ケイちゃん、今日はどうしたの?」
「篠田その歌の伴奏を頼まれました。実は私、篠田その歌の初期のバックバンドに居たんですよね」
「あ、そんなこといつか言ってたね!」
 
篠田その歌のプロデューサーは上島先生なので、来て当然だが、これまで何度かその歌の音源制作に参加していて、上島先生と遭遇したのは、何とこれが初めてである。
 
「12月の騒動以来、色々先生にお手数お掛けしているのに、全然挨拶に行かずに申し訳ありませんでした」
「いやいや、あまり出歩けない状態だったろうしね。でも、こうやって伴奏とかにも出て来られるようになったら少しは安心だ」
 
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「私の性別のこともきちんと言ってなくて済みませんでした」
「別に問題無いんじゃない。それにもう性転換手術もしちゃったんでしょ?」
 
「いえ、まだ手術はしてません」
「そうなの? 雨宮が、ケイちゃんもう手術しちゃったみたいね、と言ってたから」
 
雨宮先生・・・・わざと変な噂バラまいてるのでは?
 

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やがて篠田その歌と中家係長、その歌のマネージャーの諸江さんが入って来て、上島先生に挨拶する。その歌は私に手を振るので、こちらは会釈を返す。
 
「遅くなって済みません。あれ?伴奏で来てるのは冬ちゃんだけ?」
と中家さん。
 
「そうみたいです」
 
「バンドの人たち遅れてるのかな。まあ、いいや。取り敢えず説明を始めます。今回吹き込む曲は3曲です。上島雷太先生の『風と太陽』、ボニータ高橋作詞・東郷誠一先生作曲『忍ぶ夜』、それからコンペで採用した作品ですが秋穂夢久という新人さんの『愛の定義』です」
 
ああ。コンペの作品ということにしたのか。素性を隠すにはそれが自然だ。そのあたりは丸花さんがうまく処理したのだろう。
 
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「取り敢えず打込み伴奏に、花村唯香という子の仮歌を入れています。今年の年末くらいにデビュー予定の子です」
と中家さんは説明し、仮音源を流した。
 
最初が上島先生の作品のようである。聴いていて、何だか適当だなという気がした。でも仮歌を入れている子はかなりうまい子だ。年末くらいにデビューというが良い曲をもらえるとよいがと思う。歌手はもらえる曲で大きく運命が変わる。その歌がアイドルとして活躍してこられたのはやはり上島先生の曲をもらえたからだ。私が真剣な表情で聴いていたら、上島先生が何だか恥ずかしがっているような顔。
 
上島先生は私に自分はケイちゃんをライバルと思うと宣言した。そのライバルの前で少し手抜きした自作曲を流されると居心地が悪いかも知れない。
 
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篠田その歌はポーカーフェイスで聴いている。変な表情を見せるのは禁物だ。このあたりはさすがにこの世界で伊達に5年も生きてきてない。しかも曲を書いてくださった上島先生の前である。
 
次は東郷誠一先生の作品だ。私もその歌も上島先生もお互いに緊張が解ける(のをお互いに感じた気もする)。
 
可も無く不可も無く。一応プロの作品だよなという完成度は感じられるが、ヒット性も感じない。東郷先生というのは、この手の「埋め曲」作りが上手いのである。
 
そして3曲目に秋穂夢久の作品が流れる。最初の数小節を聴いただけで、上島先生が「え!?」という顔をした。
 
「この曲、譜面ある?」と言うので、中家さんがお渡しする。
 
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食い入るように譜面を見詰めながら聴いている。
 
そして曲が終わった時、先生は言った。
 
「申し訳無い、中家さん。僕が出した『風と太陽』はボツにしてくれない?書き直す」
 
「はい。ただ時間が」
「明日、別の曲を持ってくる。すまない。今日は帰る」
「はい、お疲れ様でした」
 
それで先生は慌ただしく帰り支度をするが、去り際に私に
「ケイちゃん、明日も来るよね?」
とだけ訊いた。
 
「参ります」
と私が答えると、先生は大きく頷き、きりりとした表情で出て行った。
 

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「えっと、今日はどうしましょうか?」
とマネージャーの諸江さんが言う。
 
「時間が無いので、取り敢えず『忍ぶ恋』から収録しましょうか」
と中家さん。
 
少しして、他の伴奏者が到着したので、『忍ぶ恋』と『愛の定義』の練習をした上で、『忍ぶ恋』の伴奏を確定させ、その歌の歌も吹き込んだ。しかし今日はもう1曲も練習するつもりができなかったので、結局4時頃終了し、早い時間帯の帰宅となった。
 

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翌日も私は午後の授業を早引きして、また女子制服に着替え、スタジオに行く。その歌だけが来ていた。
 
「おはよう」
「おはよう」
と挨拶を交わす。
 
「そういえば私、冬ちゃんの学生服姿とか見たことないなと思った」
「人に曝すようなものじゃないし」
「今はもう女子制服で通ってるの?」
「ううん。学生服だよ。学校を出る時に女子制服に着替えて来た」
 
「面白いことしてるね。どうせみんなに性別のこと知られちゃったんだし、堂々と女子制服で通えばいいのに」
「うん、友だちからも言われた」
 
「冬ちゃんって、変な所で意気地が無いからなあ」
「マリからも言われる」
 
「マリちゃんとケイちゃんが恋人なのかってのは、ファンの間でも議論があるみたいだけど、意気地の無いケイちゃんのことだから、きっと友だちのままで踏み留まっていると見た」
「うふふ」
 
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「でも学生服着てる時って男子トイレ使うの?」
「使うけど、私が男子トイレに入って行くと、なんかみんなの視線が固まるのを感じる」
「立ってするんだっけ?」
「まさか。個室だよ」
「あ、そうだよね。おちんちん取っちゃったから、もう立ってできないもんね」
 
「えっと・・・まだ取ってないけど」
「嘘! ケイちゃんは性転換手術したみたいだねって前田課長も言ってたのに」
「なぜ、そんな話になってる!?」
 

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やがて中家さんと諸江さんが入ってくる。
 
「やあ、お早う。上島先生からさっきメールが来たんでプリントしてきた。仮歌まで入れてないけどいいよね?」
と言って、私たちに譜面を渡し、MIDI音源を鳴らす。
 
昨日聞いた曲はひたすら単純な8ビートのリズムに乗せたシンプルな曲だったのが、今日のは躍動感があり、変則的だが心地よいリズムに乗せ、スケール的な動きを多用した、その歌の歌唱力を引き出すような曲作りになっている。その歌がかなり歌える歌手であったことを思い出した!という雰囲気だ。サピも凄く魅力的でキャッチーなモチーフが使われている。よく1日でこんな曲を書くものだ。さすが上島先生は凄いと思った。
 
私がヴァイオリンを持っていたのを昨日見たからだろうか。ヴァイオリンパートにポップスでここまでやるか?という感じの凄い音符が踊っている。私は気を引き締めて譜面を読みながら指使いを頭の中で描いた。
 
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「上島先生、無茶苦茶気合い入ってる!」
と中家さん。
 
「秋穂夢久さんの作品にかなり刺激を受けられたようですね」
と私が言うと
 
「この場にケイちゃんがいたから、マリ&ケイに負けられないという気持ちも出たんだよ。上島先生は同時に2組のライバルに遭遇して、闘争本能が掻き立てられたんだな」
と中家さんは言った。
 
篠田その歌はその件に関しては何も発言しない。表情も見せない。その歌はただ渡された曲を歌うのみである。どんな曲であっても、もらった曲を全力で歌うのが彼女だ。
 
やがて上島先生が到着する。昨日とは打って変わって、しっかりした視線で私を見る。私は笑顔で会釈した。
 
やがてバンドの人たちが到着し、私も演奏に参加して上島先生が新たに書いた曲『Drinving Road No.10』の練習をする。ヴァイオリンパートの難しい音符の列を私が1発で弾きこなしたので、バンドの人が
「君、凄いね」
と言ったが、
 
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「ヴァイオリン科の学生さんとかなら、このくらい初見で弾きますよ」
と私は言っておいた。
 
「あ、君♪♪か芸大の学生さんだっけ?」
「私まだ高校生です。♪♪狙っていたんですけどね。私じゃ無理っぽいから諦めて、△△△狙いです」
 
「へー。君より上手い人たちがたくさん居るのか。凄い世界だな」
 
上島先生は私の演奏を聴いて頷いておられた。
 
その歌もブースでMIDI音源を聴きながら歌の練習をする。3時間ほどの練習の後、いったん休憩し、2時間ほど掛けて収録したが、上島先生は、練習中から積極的に、バンドの演奏にも、その歌の歌い方にも、かなり注文を付けていた。
 
上島先生と一緒に音源制作をしたのはこの時が初めてだったので、私は「やはり熱く指示するんだな」と思っていたのだが、実際には上島先生は普段制作現場でほとんど発言しない人である。この時のその歌の制作は、ちょっと特別だったのだろう。
 
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上島先生は翌日3日目の制作にも顔を出し『愛の定義』の演奏についてもバンドの人たち、その歌に色々指示を出していた。この曲のヴァイオリンパートも難しい。が実は自分で書いた譜面なので楽々と演奏したら、バンドリーダーさんから
 
「ね、君、ザット・ソングの固定メンバーにならない?」
などと誘われてしまった。中家さんが慌てて
「ごめーん。この子は他で予約済みだから」
と言ってくれた。
 
しかし、上島先生はこの秋穂夢久の曲をよく解釈していて、私も「なるほど」と思う所が多くあった。
 
「中家さん、このCDの曲順はどうするの?」
「はい。先生の『Drinving Road No.10』を先頭に置き、タイトル曲にして、『忍ぶ恋』『愛の定義』の順の予定です」
 
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「僕の曲の次に『愛の定義』を置いて、両A面にしよう。この曲は売れる」
「え?でも無名の新人さんの曲ですし」
 
「『上島雷太が絶賛する超強力新人作曲家』とでも、うたい文句入れて」
「はい!」
 
そして2009年6月24日に発売された『Drinving Road No.10/愛の定義』は18万枚のヒットとなり、篠田その歌は久々のゴールドディスクを達成したのである。単独ダウンロードは『愛の定義』6割、『Driving Road No.10』4割で上島先生がそれを聞いて悔しがっていたらしい。この曲のヒットで九州の国道10号線に全国からいろんなナンバーのスポーツカーが集まってくるようになったという余波もあった。
 
政子が音楽活動に復帰したのは一般には鈴蘭杏梨名義で提供し、kazu-manaが歌った2009年7月15日の『ドミノ倒し』でと思われているが、実はその1ヶ月ほど前、この秋穂夢久名義で提供した『愛の定義』で密かに復帰していたのである。
 
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■夏の日の想い出・長い道(8)

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