【夏の日の想い出・郷愁】(1)

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「現代では《おとこ》と《おんな》が対(つい)の言葉とされていますが、元々は《おとこ》と対の言葉は《おとめ》でした」
と国語の先生は言った。
 
龍虎たちは「へー」という顔で先生の説明を聞いていた。
 
「古い時代に、男女を表す言葉は3組ありました。《おきな》と《おみな》、《をぐな》と《をみな》、《をとめ》と《をとこ》です」
と先生は黒板に3種類、単語のペアを書く。
 
「《おきな》を分解すると、《お》は年長を表し、《き》は男性を表し、《な》は人間を表します。《み》は女性です。日本神話にイザナギのみこと、イザナミのみこと、と出てきますが、この《ギ》と《ミ》が男女を表す音なんですね」
 
という説明に龍虎は「ハッ」とした。“アクア”という彼の芸名は、イザナギのみことが黄泉(よみ)の国から戻った時に、川の水で禊ぎをしたことに由来する。
 
「それで《おきな》《おみな》は年長の男女を表します。それに対して《を》という音は年少者を表し、若い男女を《をぐな》《をみな》と言いました。《ぐ》は《き》の変化ですね。古代の英雄・ヤマトタケルは、やまとをぐなとも呼ばれています」
 
「一方《をとこ》《をとめ》の《をと》は乙姫の《をと》と同様に小さいという意味で、少年・少女を表します。《こ》と《め》は《き》と《み》の音韻変化とされます」
 
「ですから、皆さんは昔の言葉で言うと《をとめ》から《をみな》に成長していく過程にあるわけですね。そして良き《をぐな》と出会って、妻問いへと進みたいところです」
 
と先生が言うと、多くの生徒が頷いている。田中成美は普通に頷いていたし、龍虎(この日出てきていたのは龍虎M)もうっかり頷いてしまったものの、若干の抵抗感を感じたようで俯いた。武野昭徳は少し居心地の悪いような顔をしている。彩佳はその3人の男子(?)の様子を眺めて微笑んでいた。
 
「後に《お》と《を》は同じ音で発音されるようになり、年長女性《おみな》と若い女性《をみな》が音韻的に同じ音になってしまいました。更に音便により《おんな》と発音されるようになります。《おうな》も音便ですが別の変化形ですね。また《をとこ》は年齢に関係無く男性一般を指すようになって《をぐな》は使われないようになっていったと言われています」
 
と先生は説明を続けた。
 

2017年6月。
 
龍虎の学校では水泳の授業が始まった。
 
水着にならなければならないので、この授業を受けるのは基本的にNの担当と“3人の龍虎”は話し合って決めた。それでNは男子用スクール水着を持って初日の授業に出たのだが・・・
 
親友の彩佳にその男子水着を取り上げられて、女子用スクール水着を着て授業に出るハメになってしまう。
 
そもそもその水着に「田代」と名前が書いてあったことで、クラスメイトから「やはり女子用水着を着るつもりだったのね」などと言われた。
 
彩佳は男子水着を返してくれなかったので龍虎Nはこの夏、ずっと女子水着で授業を受けることになってしまった。
 

ちなみにこの女子用スクール水着に田代という名前を書いていたのは龍虎Fで、自分で着るつもりだったのだが、行方不明になって困っていた。彩佳の仕業だったかと納得がいったのだが、その日の放課後、Fは《きーちゃん》と一緒に別の水着を用意して深川アリーナの地下トレーニング室にあるプールに来た。一般には開放していないのだが、千里のツテで利用者証を発行してもらっている。
 
ここには4コースではあるが25mの温水プールが作られていて、24時間利用できる。実は千里も(日本時間で)深夜のバスケ練習の後、ここでクールダウンを兼ねて泳いでいたりする。
 
この日はトレーニング室には、暢子と渚紗がいたものの、
 
「おお、アクアちゃんか。歓迎歓迎」
と言って、アクアが全然泳いだことがないというと、わざわざバタ足の指導とかまでしてくれた。
 
「だけど、アクアちゃん、バストがある」
と暢子が言う。
 
「これ、ドラマの撮影で使うブレストフォームを貼り付けたままなんですよ。取り外すのには剥がし液を使うから肌の負担になるので」
 
「しかしそんな胸があったら、男の子としての生活に支障が出ない?」
「それが出るので、人の少ないここに泳ぎに来ました」
「なるほどー」
「でもその胸があるなら、アクアちゃん、女子更衣室使っていいよ」
などと渚紗が言う。
 
「うん。他の女子たちも歓迎してくれると思うし」
 
その《歓迎》がちょっと怖いなと龍虎Fは思う。
 
「今日はどこで着換えたの?」
「よく分からなかったので、青いUFOのマークの入った部屋で着換えましたが」
 
「うん、そこが女子更衣室」
「わっ、そうだったんですか!?ごめんなさい!」
「いやだから、君は女子更衣室で着換えて構わないって」
 

一方同時刻、龍虎Mは《こうちゃん》に連れられて、埼玉県某市の市民プールに来ていた。ここは実は龍虎の出身中学の近くにあるプールである。龍虎が「大人・男」のチケットを買って入場しようとした時、係の人は《こうちゃん》には青い札のついた鍵、龍虎には赤い札のついた鍵を渡そうとした。
 
《こうちゃん》が気付いて係の人に言う。
「すみません。この子、男の子なんで」
「え?ほんとに」
「すみません。ボクよく間違えられるんです」
と龍虎が言うが、その声が女の子のような声なので
 
「あんた声だけ聞いたら女の子みたいだけど」
などと言われる。
「生徒手帳とかある?」
「あ、はい」
 
それで龍虎は生徒手帳を出す。
 
「あんた、C学園って女子校じゃん。この写真もちゃんと女子制服着て写っているし。あんた男の子になりたい女の子?でもまだ身体が女の子であるなら、ちゃんと女子更衣室で着換えなきゃダメだよ」
 
などと係の人に言われる。
 
龍虎は困ったような顔をして《こうちゃん》を見る。
 
「龍、女子更衣室に行く?」
「うーん。。。どうしよう」
 
などと龍虎が悩んでいた時、そこに中学時代の1年先輩・真希が来た。
 
「あ、真希さん」
「あら、龍ちゃん、久しぶり〜」
 
「あなた、この子の知り合い?」
と係の人が訊く。
 
「はい、そうですが」
「この子、女の子だよね?」
「男の子ですよ」
「ホントに?」
 
「まあ普通に女の子に見えるし、女子更衣室で着換えても何も問題は起きないと思うけど、生物学的には男の子のはず」
 
「女子更衣室で着換えられるって、もしかして性転換してるの?それで女子校のC学園に入ったとか?」
 
「性転換はしてないはずですが、まあ女子更衣室にいても誰も気にしませんね」
「だったら、やはりあんた女子更衣室を使うべきでは?」
 
「うーん。。。。」
 
龍虎はマジで悩んでしまった。
 

結局、この日は真希が
 
「私が連れて行きますから」
 
などと言って、結局女子更衣室を使って水着に着替えることになってしまった。係のおばちゃんが、どうしても男子更衣室の鍵を渡してくれなかったのである。
 
「龍ちゃん、温泉とかでもこんな感じで女湯に入ってしまってるでしょ?」
と笑いながら真希が言う。
 
「それ困っているんですけどね〜」
と言いながら、龍虎は何の抵抗もなく女子更衣室の入口を通る。その様子を見て真希は少しツッコみたくなった。
 
龍虎がトランクス型の水着を取り出すので
 
「男子水着なの?女子水着は持って来てないの?」
と真希は言う。
 
「そんなの持ってませんよ〜」
 
と龍虎は言っていたのだが、よくバッグの中を見ると、女子水着も入っている。
 
「なぜこんなのが入っているんだろう?」
「それを着なさいということだと思うよ。それに女子更衣室で男子水着に着替えるのはさすがにやばいよ」
 
それで結局、龍虎Mもこの日は女子水着をつけて水泳の練習をすることになってしまった。むろんバストは無いものの、お股の所もタックしているので盛り上がりができたりはしない。ウェストもくびれているので、胸は無くても女の子にしか見えないシルエットである。その外見を見て、真希はまた少し悩んでいた。
 
ちなみに《こうちゃん》はちゃんと男子更衣室で男子水着に着替えてきて龍虎Mに水泳の初歩を指導した。
 

2017年5月1日(月).
 
★★レコード、◎◎レコード、%%レコード、KGレコード、〒〒レコード、∂∂レコード、SRレコード、の7社が発起人になり、他にも多数のレコード会社が共同出資して、《株式会社・音源図書館》が設立された。
 
この図書館は、日本で発行された全てのレコード類を収集し保管することを目的とする。収集したレコード類は媒体自体を適正に温度湿度を管理した書庫(群馬県館林市と広島県福山市の2ヶ所に設置)に保管すると同時に、全てデジタルデータに変換して同社のデータベースに記録するが、一般の利用者には原則として貸し出さない。テレビ局・ラジオ局・インターネット放送局などにのみ有料でそのデジタルデータを貸し出すものとした。それ以外では東京・大阪・札幌・福岡(当面4ヶ所)のサービスステーションまで来てもらえば、一般の人でもデータ検索と試聴が可能である。
 
近年著作権の保護期間が長くなる傾向があり、結果的に保護期間中の音源媒体がコピーできないために消滅する危険が高まっているという声が一部の音楽関係者から出ていた。それに対処するため、メジャーやインディーズのみならず自主制作されたCDなどでも、一定の水準を満たしていると判断されたものは購入して保管していくことにしたのである。
 
古いSP版などで音質の悪い録音に関しては最新の技術でノイズ除去やダイナミックレンジの拡大などの補修も行うことにしている。運営費は音源のレンタル料と各レコード会社の拠出金でまかなっていく。
 
この音源図書館の代表取締役社長(兼館長)にTKRの松前社長(前★★レコード社長)が就任した。これに伴い、松前氏は★★レコードの会長を退き、相談役になることになった。なおTKRの社長の方はこちらと兼任で継続する。
 
しかし松前さんの★★レコード会長辞任は、★★レコード内部の創業者グループにとっては、昨年度にもまして発言力が弱くなることとなった。
 

2017年のローズ+リリーのアルバムは『Four Seasons』というタイトルで行こうと私は考え、2016年の『やまと』の制作中から、そのアルバム用の曲を少しずつ書いていた。
 
それで春のレコード会社なども入った制作会議の席でその承認を求めたのだが、否決されてしまった!
 
一昨年の『The City』は多少揉めたものの何とか押し通したし、昨年はレコード会社の内紛に乗じて、うやむやの内に『やまと』通したのだが、今年は抵抗勢力が多すぎた。代わって提示されたのが、★★レコードの村上社長から提案された『郷愁』というタイトルである。しかも発売時期を11月上旬と指定された。
 
これまでアルバムの制作には構想を練り始めてからだいたい1年半程度の時間を掛けていたのを、ここまでの作業を全部ひっくり返され、ゼロの状態からわずか半年で制作するというのは、絶対に無理だと思った。そもそも楽曲を揃えることができない。
 
それで、七星さんと話し合った結果、今回のアルバムでは自作曲にこだわるのはやめて、友人たちから大半の楽曲を提供してもらい、曲数を揃えることにしようと決め、何人かの友人作曲家に呼びかけた。また村上社長には、この制作期間でいつものように12曲入りのアルバムを作るのは無理なので10曲構成でいきたいと打診。その点は了承してもらった。
 

ところが、5月上旬、その件で千里・青葉の姉妹、その場に居た七星さんと4人で話していた時、千里は
 
「そういう事情なら、まるでケイが書いたような曲を私は2曲提供する」
と言い出した。
 
そしてその場で「ケイ風の曲の作り方」の講座を始めたのである!それを聞いた青葉と七星さんも
「だったら私たちもケイ風の曲を1曲書く」
と言ってくれた。
 
ただ実際に青葉と七星さんが書いた曲は、私が自分の名前で発表するには微妙な曲であった。しかしそれを見た千里は2人に連絡して改造の許可を得ると、数日できれいに本当に私が書いたかのような曲に直してしまった。
 
私は千里の特殊な「技」と才能を見て、惚れ込むと同時にライバル心も掻き立てられた。
 

ところがその千里が7月上旬“事故”に遭い、一時は心臓が停まったのを近くにいた青葉が蘇生させるという事態が発生する。蘇生はしたもののその後遺症は大きく、彼女は霊的な能力をほぼ喪失、バスケットの力も大幅にダウンさせて日本代表から落とされた上に、作曲や演奏の能力も著しくダウンしたと伝え聞いた。
 
私は唐突なライバル消失に戸惑いを隠せなかったし、私のやる気も20%くらいが消えてしまった。
 
しかし千里はそのわずか10日後には、怪我した選手と入れ替わる形で日本代表に復帰してしまった。私はその超人的な千里の復活劇に心を打たれ、私も泣き言を言ってないで頑張らなければと思った。
 

制作する楽曲は7月中に下記の14曲が揃った。
 
私自身の作品 同窓会、春の詩、刻まれた音
醍醐名義の作品 縁台と打ち水
醍醐作ケイ風作品 お嫁さんにしてね、冬の初めに
青葉作ケイ風作品 硝子の階段
七星作ケイ風作品 青い浴衣の日々
Sweet Vanillasの作品 トースターとラジカセ
ゆまの作品 セーラー服の日々
青葉の作品 靴箱のラブレター
七星さんの作品 村祭り
琴沢幸穂の作品 フック船長
ゴールデンシックスの作品 斜め45度に打て
 
琴沢幸穂は千里(醍醐春海)の後輩作曲家らしい。千里が7月上旬に事故に遭い、今まともな作品が書けないので、代わりにこの人の作品を使ってくれないかと推奨された。但し千里は事故のせいで記憶が混乱しているようで本当はそれ以前に3曲もらっていたのだが、優秀な新人作曲家と聞いて興味を持ったので、作品を送ってもらったら、ひじょうに良い出来だった。それで使わせてもらうことにした。ゴールデンシックスは、私が困った状態にあると花野子が聞きつけ「もし足りなかったら使ってください」と言って送ってきてくれた。
 
この他に上島先生の様子を奥さんの春風アルトさんに尋ねてみたのだが、複数のアイドル歌手のアルバムが同時進行していて、声も掛けられない状態とお聞きしたので、上島先生には声を掛けなかった。
 

そういう訳で14曲も揃ったものの、時間的にこんなに作ることは困難である。それで七星さん、近藤さん、鷹野さん、氷川さんと5人で話し合い、最終的にやはり10曲に絞ることにした。
 
外すのは下記の4曲である。
 
村祭り(七星)、春の詩(マリ&ケイ)、縁台と打ち水(醍醐)、冬の初めに(ケイ風醍醐)
 
こちらの窮状を察して書いてくれた人たちに悪いので、遠慮の要らない七星さんと親友の千里の作品を外させてもらった。
 
結果的に次の10曲で構成する。
 
ケイ名義 同窓会・刻まれた音(本当にケイ)、青い浴衣の日々(実は七星)、お嫁さんにしてね(実は千里)、硝子の階段(実は青葉)、
 
それ以外 トースターとラジカセ(Sweet Vanillas)、セーラー服の日々(ゆま)、靴箱のラブレター(青葉)、フック船長(琴沢)、斜め45度に打て(Golden Six).
 
本当に自分が書いたのが2曲だけという状態で出すのは罪悪感を感じるのだが、取り敢えずケイ名義の曲が5曲で体裁としては整っている。
 
これを実質8月の1ヶ月で音源制作し、9月にPVを制作する。PVの制作と並行して音源の調整とマスタリングを進める。
 

私は6-7月に必死でこれらの曲のスコアを書いた。最初からある程度スコアができていて微調整で済んだのは、七星さん・ゆま・千里の作品と千里がスコアを書いてくれた琴沢さんの作品の4曲で、自分の曲2曲、青葉の曲2曲、Sweet Vanillas, Golden Sixの曲の6曲のスコアを書く必要があったがスコア1つ書くのにはどんなに頑張っても(私には)1週間は掛かる。それで全10曲のスコアが揃ったのは7月の中旬であった。
 
私はこれを音源制作に参加してくれる約30人のミュージシャンにコピーして送った(実際のコピーと郵送の作業は★★レコードの人がしてくれた)。
 
これが7月19日くらいであった。
 
今回お願いしたミュージシャンは下記の人たちである。
 
スターキッズ&フレンズ(7) Gt.近藤嶺児 Sax.近藤七星 Bass.鷹野繁樹 Dr.酒向芳知 Marimba/Vib.月丘晃靖 Gt.宮本越雄 Tp.香月康宏
 
ヴァイオリン演奏者(8) 田中成美・伊藤ソナタ・桂城由佳菜・前田恵里奈・佐藤典絵・富永英美・杉本一美・長崎詠子
 
和楽器(6) 笙.若山鶴海(今田七美花)・琵琶.若山鶴風(田淵風帆)、胡弓.若山鶴宮(中村美耶)・箏.若山鶴朋(今田友見)・三味線.若山鶴花(今田三千花:槇原愛)龍笛.大宮万葉(川上青葉)
 
追加楽器(7) Sax.山本心亜(バレンシア) Tp.安田礼美(バレンシア)Fl.田中世梨奈 Fl.久本照香 Cla.上野美津穂 (この3人は青葉の友人)KB.長尾泰華 Pf.長丸穂津美(スリーピーマイス)
 
これに私とマリが加わって30名である。
 
今回は制作期間が短く、多重録音をする時間的な余裕が無いので、基本的に使う楽器を全部同時に鳴らして一度に録音していく方式でいかざるを得ない。そのため、原則として1人が1つの楽器を演奏することにした。例外はフルートも吹く七星さん、龍笛とトランペットも吹く七美花、サックスも吹く青葉である。
 
スターキッズで普段キーボード/ピアノを弾いてもらっている月丘さんは今回はマリンバ・ヴィブラフォン専任とし、メインピアニストは長丸穂津美(エルシー)にお願いすることにした。
 

今回いつも第1ヴァイオリンをお願いしている鈴木真知子ちゃんが海外のコンテストに出場するため参加できなかった。その代わりにと言って国内の大会でよく一緒になるという女子高生ヴァイオリニスト田中成美ちゃんを推薦してくれた。彼女は私も自分が参加した大会で見かけたことがあり優勝経験こそないものの入賞は何度もしていて腕は確かであり歓迎した。
 
ただ私は彼女の性別がよく分からない。実は彼女は何度か男装で大会に参加しているのである。真知子ちゃんに尋ねると
 
「女の子だと思うけど」
と言っていたので多分女子高生ということでいいのだろう。男装趣味??
 

この音源制作メンバーの中から、ヴァイオリン奏者を外したメンバーを基本に一部都合のつかない人を代りの人で補って、7月30日の苗場ロックフェスティバルに出場することにした。
 
今年はいつも出ていた横須賀市のサマーロックフェスティバルも出場を辞退した。苗場も辞退したい気分だったのだが、ずっと露出の無い状態が続いていると活動休止しているのではと思われるからと氷川さんに言われ、これだけ出ることにした。
 
苗場には27日の前夜祭から最終日の30日まで滞在するが、その後、全員で東京方面に移動し、そのまま音源制作に入る方針で行く。
 

苗場には、KARIONも出場するのだが、私は今回とてもそちらまで関わる余裕が無かったので、全部和泉にお任せした。ただ
 
「あんたもKARIONの一員なんだから、パフォーマンスには参加してもらわないといけないから」
と言われ、苗場に入る3日くらい前から和泉は私を新宿のスタジオに呼び出して小風・美空、トラベリングベルズと一緒に苗場での演奏曲目の練習をした。
 
27日のお昼過ぎにKARION関係者、ローズ+リリー関係者と一緒に苗場に向かう。一部は昨日の内に向こうに入っている人たちもあった。機材関係は共同で4トントラックに積んで越後湯沢まで持って行き、越後湯沢と会場の間は出演者と一緒に、マイクロバスやワゴン車などで運んだ。
 
KARIONが29日、ローズ+リリーが30日なので、29日の夜に合同で多くの出演者を集めて打合せをした。
 

打合せの後、私は少し寝ようと思ってベッドに入る。政子は
「ちょっと出てくる」
と言って部屋を出たので、今回のフェスに今日28日に出演したWooden Fourの大林亮平の部屋に行ったんだろうと私は思った。
 
1時すぎ、その政子の電話で起こされる。
 
「朝一番のシャトルバスではアクアのステージに間に合わないらしい」
といきなり言う。
「は?」
 
それで話を詳しく聞いてみると、アジア選手権でインドに行っている千里からわざわざ青葉に電話があって、明日午前中のアクアのステージは、徹夜組だけで埋まってしまうので、朝1番のシャトルバスで行ったら既に満員になっていると予言したらしい。それで青葉も政子も何件かタクシー会社に電話したものの、今夜は予約がいっぱいと言われたらしい。
 
私は夜中に申し訳無いと思ったのだが、佐良さんに電話してみた。すると佐良さんと矢鳴さんで話し合い、矢鳴さんが朝4時にエルグランドで会場まで往復してくれることになり、それを政子に連絡した。政子が青葉にも連絡すると言っていたが、正確に伝わるか不安を感じたので、念のためこちらからも青葉にメールを送っておいた。
 

そういう訳で私は3時半に起きて会場入りの準備をする。ワゴン車で会場に行くのは、結局
 
私、政子、小風、美空、青葉、田中世梨奈、久本照香
 
の7人である。田中さんと久本さんは青葉の友人で、田中さんは金沢市内の大学に通学しており、久本さんはまだ高校3年生である。
 
和泉はきついから寝ていると言った。私も寝ていたかったのだが、政子が「一緒に行くよね?」というので仕方なく同行する。実際政子ひとりで行かせるのは怖い!
 
エルグランドは4時出発なので3:50くらいに私はホテルの玄関の所に降りていった。すぐに小風と美空が降りてきた。美空は起きる自信が無いので小風の部屋で一緒に寝ていたらしい。すぐに青葉たち3人が来る。
 
3:55になっても政子が来ない。
 
政子の携帯に掛けるも反応が無い。多分マナーモードにしてるなと私は思った。
 
仕方ないので私は大林さんの携帯に掛けた。
 
「朝早く申し訳ありません。朝4時出発なのに政子がまだ来なくて困っているのですが」
「ああ、すみません。起こしますね」
 
それで大林さんに起こされて、やっと政子はやってきて、エルグランドは出発した。
 

外はかなり雨が降っている。
 
「楽器持って来ちゃったけど、どうしよう?」
と私は独り言のように言ったのだが、すると矢鳴さんが
 
「私がKARIONの楽屋に持って行っておきますよ」
と言うので、お願いすることにした。結局、矢鳴さんが私のヴァイオリンとウィンドシンセサイザ、青葉のサックス、田中さん・久本さんのフルートを楽屋まで持って行ってくれた。
 
私たち7人は既にかなり出来ているアクアの会場に入る列に並んだのだが、私たちが並んですぐに「31000人」という札が立てられていた。アクアの会場は混乱防止のため35000人に定員が制限されているので、もう少し後に来ていたら、入れない所であった。
 
到着したのが5時すぎであるが、5時半には「アクアのステージはもう満員」というアナウンスがある。7時から客を会場に入れ始める。私たちも7時半頃中に入ることができたが、いちばん後ろのブロックである。政子が
 
「ステージが遠い」
と文句を言っていたが、徹夜していた人たちにはかなわない。
 

9時から会場内の出店が営業を始めたので、じゃんけんして負けた小風と青葉がおでんを買ってきてくれてみんなで食べる。それで人心地ついたものの雨はずっと降っていて、裏フリースのレインコートを着てホッカイロも入れているものの、結構体力を奪われる(会場内は傘禁止)。
 
10時半すぎにエレメントガードのメンバーがステージにあがってきて機材を設置しはじめると歓声があがっていた。ヤコが音響チェックを兼ねて軽く『Nurses Run』を1コーラス演奏すると大きな拍手が送られていた。
 
これでけっこう元気が出た客も多かったようである。
 
伴奏者たちもいったん下がったものの10:55くらいに出てきて、再度音出ししてチェックする。11:00、アクアが王子様のような白をベースに金色のテープなども貼った衣裳で登場すると35000人の観衆はすぐに興奮のるつぼとなる。
 
今日のアクアはあまりMCを混ぜずに、自分の持ち歌を中心に一部他の歌手のカバー曲を歌った。
 
政子は
「今日のアクアは凄く女の子っぽくていいね!」
 
などと言っていたが、確かに今日はほんとに女の子の歌手が歌っているのではと思いたくなるほど女の子っぽい雰囲気があった。やはりあの子も男と女の間をけっこう揺れているのかな、などとも思う。
 
ラスト近くになって、青葉が私たちに声を掛けて客席から離れ、ステージそばの楽屋に向かった。ステージが終わった後のヒーリングをしてあげることになっていたらしい。
 
やがて最後の曲『エメラルドの太陽』を熱唱して観客に何度もお辞儀をし手を振ってからステージを降りた。物凄い歓声と拍手が消えない。その拍手がいつしかゆっくりとしたリズムに揃い、アンコールを求める拍手になった。
 
このフェスでは毎日各ステージのラストのアーティスト以外は原則としてアンコールはしないことになっている。しかしアンコールの拍手は鳴り止まない。
 
5分以上経過した所で、その鳴り止まない拍手に応えて、アクアが出てくるとひときわ大きな歓声と拍手が鳴る。アクアはアンコールを求める拍手に感謝の言葉を言い、フェスの進行係の人から1曲だけアンコールの許可をもらったと言った。
 
それでアクアは『想い出海岸』を歌い始めた。どうもこの曲は万一アンコールをすることになった時のためにキープしていたようである。大きな手拍子とともにアクアは熱唱するが、私はアクアが凄いと思った。1時間疾走するかのようなステージを務めた後なのに、まるでこれが1曲目であるかのようにパワフルな歌唱なのである。
 
「凄い。私にはできん」
などと私が言うと
「それがやはり女子高校生のパワーだよ」
などと小風が言っていた。
 
うーん。。。“女子”高校生ではないはずだが、やはりこれが若さなのだろうか。
 

アクアはこのアンコールの曲を熱唱した後、再び何度もお辞儀をして手を振ってステージから降りた。
 
アクアのライブが終わった後、政子は美空といっしょに会場内を歩くようだったが、美空は小風から「3時までには控室に来ること」と言われていた。この2人を放流するのはちょっと怖いのだが、まあ1人ずつ単独よりはマシだろう。
 
小風と私は田中さん・久本さんと一緒に屋台エリアに行って食糧を確保した上でパフォーマーズ・スクエアに向かった。私と小風は今日有効の出演者パスを持っているが、田中さんと久本さんは持っていない。しかし臨時に演奏をお願いしたのでと言って、一緒に入れてもらった。「まあケイさんならいいですよ」とスタッフの人は言っていたので、私に配慮しての特別扱いだったようである。
 
「屋根のある所は素敵だ」
という声があがる。
 
「雨でかなり疲れたね〜」
などと言いながらKARIONの控室に行く。レインコートを入口そばのフックに掛けて暖房!の入った室内でひとまず椅子に座ると、どっと疲れがでてきた感じであった。
 
調達してきた食事に加えて、∴∴ミュージック側で用意していた食糧も結構食べ、暖かいお茶なども飲むと眠くなってきた。
 
「御婦人用のベッドはその衝立の向こうにあるからね」
と畠山社長が言っていたので、4人ともそちらに行って仮眠する。青葉が既に寝ていたが、私たちが入って行っても気付かない。かなり熟睡しているようである。私たちも適当にベッドに横になり、タオルケットを身体に掛けて熟睡した。
 

和泉に起こされる。
 
「そろそろ起きて」
「うん」
 
私の後で小風も起こされていた。美空は政子と一緒に花恋が《回収》してきたようである。
 
「美空、仮眠しなくて大丈夫?」
「私はごはん食べれば平気」
「なるほどー」
 
美空や政子は睡眠と食事が交換可能なようである。
 
それで衝立のこちらがわの女性用エリアで今日のステージについて打合せしていたのだが、衝立の向こう側に黒木さんと海香さんの声がしたので2人もこちらに呼んで一緒に打ち合わせる。
 
「鮎川ゆまさんから連絡があったんですが」
と花恋が言う。
「南藤由梨奈ちゃんのステージで転んで指を痛めたらしいんですよ」
「ありゃりゃ」
「それでもし誰か代理が確保できたら、KARIONの演奏はキャンセルさせてもらえないかというのですが」
 
私は青葉がサックスを持って来てくれていたことを思い出し、寝ていた青葉を起こして、悪いけどゆまが怪我したので代わりにサックスを吹いてくれないかと頼んだ。
 
「いいですよ。私が吹きます」
と青葉は快諾する。それでスコアを渡して見てもらった。
 
「でもどうして青葉ちゃんはサックス持って来たの?」
と美空が訊く。
「千里姉が持って行きなさいと言ったんですよ」
と青葉。
 
「さすが千里!」
と美空。
「どうもそのあたりの霊感は戻って来たみたいだね」
と私は言う。
「本人はその辺りも全然ダメだと言っているんですけどね」
と青葉。
 
「でもあの子、以前から自分には霊感とか無いって言ってたよね」
と小風。
 
「そういえばそうだった!」
 
私は、ゆまに電話して、代替演奏者が確保できたことを伝えた。彼女は今日はもう大事を取ってホテルに戻って温泉に入ってから寝ていると言っていた。
 

18時すぎに出演者がほぼ揃い、一度打合せをしてから、衣裳に着替えメイクをする。18:30に伴奏者が一度ステージに出て行き、機材のセッティングとPAの確認をした。18:50に伴奏者が出ていく。歓声と拍手があがる。
 
そして18:54に私たちKARIONの4人もステージに向かい、18:55(今日の日没時刻)になるのと同時にDAIのドラムが鳴り響き、最初の曲『秘密の洞窟』の演奏が始まった。
 
1時間の演奏時間の間に私たちは今年春に出したアルバムの中から『秘密の洞窟』、『恋愛二十面相』『少女探偵隊』『青銅の愛人』『アクア人魚』の5曲、過去のヒット曲の中から『エーゲ海の夕日』『雪の世界』『黄金の琵琶』『アメノウズメ』と演奏し、最後に『雪うさぎたち』を演奏してステージを降りる。
 
これが20:00少し前である。
 
アンコールを求める拍手がある。
 
進行係さんからOKのサインがあるので、私たちは全ての伴奏者たちと一緒にステージに上がり、SHINと青葉のサックス、更に私のウィンドシンセを入れたサックス3重奏をフィーチャーした『月に想う』を演奏する。そして最後はKARIONの4人とピアノ・グロッケンの演奏者だけ残って『Crystal Tunes』を演奏してこの日のステージを終えた。
 
2曲のアンコールは29,30日の各ステージのラスト・アーティストの特権である。
 

演奏が完全に終わったのが20:10くらいで全員で手分けして撤収作業をする。大型バスに機材と一緒に乗り込み、越後湯沢に戻った(一部の機材は事務所のヴォクシーにも載せた)。21:30から打ち上げを始めたが、この日はリダンダンシー・リダンジョッシー・スペシャルで、妊娠中の信子の代理で《女装演奏》をした田船智史(バインディング・スクリュー)のことが随分話題になっていた。
 
このことを事前に知っていたのはここにいたメンツの中では美空だけで、美空はそれを千里から聞いていたらしい。千里から美空は聞いていたものの青葉は聞いていなかったということで、青葉はステージ直前に田船さんが女装で楽屋から出てきたのを見て知ったらしい。
 
「楽屋から出てきてトイレに行く所に偶然遭遇したんですよ」
と青葉は言っていたが
 
「それトイレは男女どちらに入ったの?」
という質問がある。
 
「男子トイレに入ってましたよ。今痴漢で捕まったらやばいからとか言ってました」
 
「田船さんの女装は実際問題として女にしか見えないから、男子トイレに入るので痴女として捕まったりして」
「あり得るなあ」
 

その日も政子は大林さんの部屋に行っていた。私はふたりは結婚するつもりなんだろうなと思い始めていた。その場合、ローズ+リリーはその時点で解散ということになるかも知れない。
 
そうなるとひょっとしたら今回の『郷愁』がローズ+リリー最後のアルバムになるかも知れないと思うと、名義借りの曲で構成することにとりわけ抵抗感を感じてしまう。しかし今はこの方針で進めるしか無い。
 
場合によっては、政子と大林さんの結婚を発表した後で、10億円か20億円くらい違約金を払って★★レコードとの契約を解除してでもローズ+リリー最後の本当のローズ+リリーのアルバムを作りたい。
 
私はこの時期、そのようなことを考えていた。
 

7月30日(日)。
 
私は朝7時に起きたが、政子が大林さんの部屋から戻ってこないのをいいことに午前中ごはんも食べずにずっと目を瞑って瞑想していた。
 
とにかくひとつひとつの演奏をしっかりやっていくしかない。
 
そう決意して私はヴァイオリン(雨なので愛用のRosmarinやAngelaは持ってきていない。今回持って来ているのはMarilynである)を取り出して、自由に演奏した。
 
それから私はレストランに降りて行って遅い朝食を取った。これが10時半頃であった。
 

多くの出演者は12時頃にお昼を取ったようである。
 
出演者が多いので13時と15時、2回大型バスを運行して運ぶことにした。私や政子は13時の便で会場に入った。16時からパフォーマーズ・スクエア内のローズ+リリーの控室で出演者全員で打合せをする。演奏者のステージへの出入りや、楽器の持ち替えのシミュレーションもした。年末年始のツアーの時にも使用した、その出入りや持ち替えを各自に指示する小型スマホも付けてもらい問題無いことを再確認する。
 
このスマホには静電気の酷い人のためにアースも付けている。政子などは極端な例だが、ミュージシャンにはやはりエネルギーの高い人が多いのか、けっこう静電気の酷い人がいる。
 
「でも静電気のひどさでは多分政子ちゃんと千里ちゃんが双璧」
などという意見も出ていた。
 
「政子ちゃんはずっと出演しているからこのスマホ必要無いし、千里ちゃんは今日は来てないし」
 
「千里姉は今日はインドのバンガロールに行っているんですよ」
と青葉は言っていた。
 
青葉もけっこう静電気が大きいほうだが、さすがにATMを落としたりするほどではない。
 

KARIONのステージは昨日18:55の日没から始まったが、今日のローズ+リリーは日没の18:54に終わらせることにしている。
 
それで始まりは17:54からということになっているものの、実際には17:50くらいから始めていいですよと言われていたので、私たちは17:50くらいにステージにあがり、『夜ノ始まり』から演奏を始めた。
 
この日演奏したのはこの10曲である。
『夜ノ始まり』『同窓会』『振袖』『門出』『寒椿』『コーンフレークの花』、『影たちの夜』『苗場行進曲』『ピンザンティン』『あの夏の日』
 
私の歌唱力を限界まで使う『振袖』『門出』『寒椿』の3連発は歌う側は大変だったものの、観客はかなり盛り上がったようである。その状態で『コーンフレークの花』『影たちの夜』と人気曲を演奏するので観客の興奮は頂点に達する。
 
ここで今年は政子がオーナーになった東京の江戸娘のメンバーに行進してもらって『苗場行進曲』を演奏した。
 
『苗場行進曲』に出てくれたチーム
2014苗場 ローキューツ
2014大宮 ローキューツ・ジョイフルゴールド
2015苗場 40 minutes
2016苗場 レッドインパルス
2017苗場 江戸娘
 
マリが「江戸娘(えどっこ)の皆さんでした。実は私が5月からこのチームのオーナーになったんです。クロスリーグとかの試合にも出るんで、みなさん良かったら深川アリーナまで試合見に来てね」などと宣伝を兼ねて紹介すると拍手が湧き上がっていた。
 
なお江戸娘のメンバーを大型バスの“第3便”で運ぶ計画もあったのだが、この日1日会場に入れるパスを発行すると聞いて、全員が「朝からシャトルバスで見に行きます」と言ったので、17:30集合厳守という集合時間だけ伝えて自由に会場に入ってもらっていた。
 
江戸娘のユニフォームには、マリの似顔絵が入っている(描いたのは私)。
 

江戸娘のパフォーマンスが終わった後は、全演奏者がステージに上り、お玉を振って『ピンザンティン』を演奏、そのあと私とマリの2人だけになって『あの夏の日』を演奏して1時間のステージを終えた。私の弾くピアノの最後の音が消えた所で会場の時計が18:54を指した。
 
私たちは大きな歓声と拍手を送ってくれる観衆に手を斜めに挙げて応えると大きくお辞儀をしてステージを降りた。
 

演奏終了後は全員で協力して機材を撤収。エルグランドとヴェルファイアに多くの機材を詰め込み、エルグランドには矢鳴さんと鷹野さん、ヴェルファイアには風花と近藤さんが乗って越後湯沢に向かう。私とマリは氷川さんの運転するプリウスαで会場を離れるが、これに美耶・友見・七美花も同乗した。私の親戚の中で風帆伯母は今夜も会場で徹夜、三千花(槇原愛)はラストまで見てからシャトルバスで帰ると言っていた。
 
他の演奏者は佐良さんが運転する大型バスで越後湯沢に移動した。
 
帰る人も多いので道は混んでいて、プリウスαが出たのが19:10頃、大型バスが出たのが19:25くらいであったが、越後湯沢に到着したのは私たちが20:45くらい、バスは21時すぎであった。
 
それから打ち上げをする。
 
しかし今回は疲労がたまっているので私は最初の30分くらいだけ顔を出して、その後は氷川さんと七星さんにお願いして部屋に引き上げて熟睡した。
 

翌日は苗場の出演者の多くにそのまま東京に移動してもらい、ヴァイオリニストたちにも入ってもらい、アルバムの制作を始めた。
 
今回1ヶ月間にわたって演奏者を拘束するので、宿泊を考えなければならない。それで実は埼玉県某市にある、不動産会社が建てたものの、あまりに不便すぎるところにあって誰も買わなかったというワンルームマンション(30平米×8部屋×6階建て・エレベータ付き)をまるごと借りることになった。
 
ここを見つけて借りる交渉をしてくれたのは若葉である。
 
「建設費は10億円だったらしいから、買い取ってもいいんだけどね」
と若葉は言っていたが
「買ってその後どうすんの?」
と私は言った。
 
しかし所有している不動産会社としては不良物件が少しはお金になるというので喜んで貸してくれたようである。
 
スタジオはこのマンションの傍に1棟軽量鉄骨構造で建ててしまった!これの建築費は電気工事・防音工事を含めて3000万円である。このあたりも若葉が指揮してやってくれた。このあたりの作業は5月に短期決戦でアルバムを作らなければならないことが確定した時点から動いてくれて、スタジオも7月中旬までに完成させてしまったのである。そこに録音用機材を搬入したが、この機材は(制御用のパソコン関係以外)レンタルである。
 
それ以外にマンションの1階の部屋2つにヤマハの《防音室》を2個ずつ設置して、練習用とした。
 
そういう訳で、今回のアルバム制作では、演奏者が全員ここのマンションで暮らしながらそばにあるスタジオで演奏することになる。各演奏者は自分の出番の時以外は割り当てられた部屋で寝ていてよいということにする。
 
食事に関しては近隣の仕出し業者に頼んだが、近隣のスーパーまでマイクロバスを適宜運行することにした(バス会社から運転手付きで1ヶ月間レンタル)。
 

誰も買わなかったマンションというので私は霊的な問題を心配した。千里に相談したら、忙しい中、6月17日に現地に赴いてくれた。
 
千里は現地を見るなり
「うーん・・・」
と考え込んでしまった。そして
 
「悪いけど出直してくる。午後からまた来るから、**駅で待っていてくれる?」
と言った。
 
それで私が駅の傍の食堂で待っていたら、3時間後、千里がアテンザを運転して、やってきてくれた。友人だという中年の男性2人と一緒であった。
 
「現地見せてくれる?」
と言うので私もアテンザに同乗して再度そちらに赴く。
 
そして千里は30分くらい考えるようにしていたものの、やがて頷くようにし、その後、土地の四隅に、連れてきた男性2人と一緒に何かを埋めていた。
 
「ここは色々工作物を作ってもいいと言っていたよね?」
「うん。当面買い手が無いから。スタジオも用事が済んだ後崩さずにそのまま放置していいと言われている」
「だったらここに木を植えていい?」
「構わないと思う。もし後で撤去した場合はどうなる?」
「その場合、ここの土地が元の木阿弥になるだけ」
「なるほど」
 
それで、その何かを埋めた各々の場所の上にアテンザに載せてきた苗木を植え、更に周囲に丸いステンレス製の柵(さく)を設置した。
 
「この木はアルバム制作中は絶対に切ったりしないでね」
「もし台風とかで倒れたら?」
「その時は私か青葉に連絡して。青葉でも修復はできると思う」
「分かった」
 
「でもこれでもう大丈夫だよ」
 
と千里は笑顔で言う。
 
どうもかなり大変な処理をしてくれたようであったので、私は
「ありがとう。処理料は300万円くらいでいい?」
 
と訊いた。すると千里は
 
「そうだなあ。冬にはお世話になっているし、そのくらいでもいいかな」
と言ったので私は
 
「ごめん。1000万円払うね」
と言い直した。
 
「じゃ700万円で」
と千里が言うので、それで払うことにした。
 
「まあ四隅に埋めたものが実は1個150万円するんだよ」
「わっ、本当にごめん」
「苗木は1本10万円だから大したことないけどね」
「けっこうするもんだね」
「普通の苗木なら5000円くらいだけど、この苗木は少し特殊な加工をしているんだ」
「なるほどー」
「あとは出張費と手間賃ということで」
 
私は頭の中で再計算した。
 
「ごめん。やはり1000万円払う」
「そう?まあもらえるものはもらっておくかな」
と千里は言った。
 
「青葉ならたぶん内訳を明確に言わずに100万しか取らない」
「それで大丈夫なの?」
「だからあの子は最近毎回赤字になっている」
「うーん・・・・」
 

しかし、このマンションに買い手がつかなかったのには、どうもそれなりの理由があったようだ。
 
「何か処理をした上で結界を作ったみたいだけど、この結界はこのままにしておいた場合、どのくらいもつの?」
と千里に尋ねると
 
「今日仕掛けたものなら50年は大丈夫」
と言う。
 
「だったらこの後このマンション売れる?そのこと言えば不動産屋さんはこの木とかはそのままにしてくれると思うけど」
と私は訊いたが
 
「そもそも立地が悪すぎるね」
と千里は笑っていた。
 
「でもアーティストが閉じこもってアルバム作るのにはいいかもよ。土地も含めて12億円と言ってたっけ?値切って8億円くらいで、冬買っちゃったら?」
 
「うーん。。。アルバムが完成してから考えてみる」
 

そういう訳で、苗場組とヴァイオリン組を7月31日にそのマンションとスタジオに連れて行ったのだが、
 
「こんな人里離れた所にこういうマンションがあるとは」
とみんな驚いていた。
 
一応参加者には
 
・無断撮影・無断録音の禁止
・午前2時から午後6時までの飲酒禁止
・ピザ宅配、出前、デリヘルなどのサービスを呼ぶの禁止(セキュリティ上の理由)
 
とだけ言い渡した。もっとも女性参加者からは「こういうことしている時にデリヘルなんて非常識」という声があがっていたが。
 
日常の買物などを心配していたが、マイクロバスを随時運行しますからと説明すると安心していた。1ヶ月間の管理人として頼んだ友人の川越翔太・倫代夫妻の部屋に大量のおやつやインスタント食品、ジュースやお茶なども置いていて、いつでも自由にもらえるからというと、それも安心していたようである。また新聞雑誌などは、朝日・読売・毎日・産経・日経の各紙と、主な音楽関係の雑誌をデイルームに置くことにした。
 
なお川越倫代は私の中学の時の合唱部の同輩で、風花や古城美野里と同じ大学を出ている。現在はスタジオミュージシャンをしていて、彼女には状況次第では演奏にも参加してもらうことにしてスコアを予め送っておいた。ご主人の翔太さんはライターをしているので、ネットがつながる所であれば、どこに居ても仕事ができるということだった。彼もむしろこの何も無い環境を「集中しやすい」と言って喜んでいた。
 

翔太さん以外にも、ここが気に入った人があるようである。
 
「ここは何か集中して取り組むのにいい」
と、やはり言っている。
 
「人目が無いから女装して外を歩く練習ができるかも」
などと田中成美ちゃんが言っているので
「女の子がわざわざ女装する必要はないじゃん!」
と七美花から言われていた。
 
伊藤ソナタさんなどは
 
「防音のスタジオもあるし、大会に出る前のヴァイオリンの練習に使いたいかも」
などと言っていた。
 
「そういう用途があるなら、ここマジで買っちゃってもいいかも知れないなあ」
と私は言った。
 
 
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【夏の日の想い出・郷愁】(1)