【夏の日の想い出・郷愁】(2)

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埼玉県某市で貸し切ったマンション&仮設スタジオ《仮称・郷愁村》には、苗場から移動してきたメンツと、苗場には行かずにここから参加した組があった。
 
ヴァイオリン奏者8人は、31日(月)のお昼に最寄りの新幹線K駅に集合し、そこからマイクロバスで郷愁村に入ってもらった。
 
苗場に参加していなかった人で、青葉の友人のクラリネット奏者・上野美津穂さんは午前中の新幹線でK駅に出てきた。またバレンシアのメンバー山本心亜と安田礼美もこの日東京から新幹線でK駅に移動。ヴァイオリン奏者と一緒に郷愁村に入る。
 
逆に苗場には参加していた青葉は、まだ大学の試験の途中ということで30日の夜にいったん金沢に戻った。試験が終わってから8月3日に再度来るということであったので、私は青葉の担当楽器である龍笛が絡まない曲から制作を開始した。
 

最初に制作したのはゴールデンシックスから提供された軽快なナンバー『斜め45度に打て』である。これは昭和40年代のテレビは古くなるとしばしば同期が乱れて、画面が斜め線の並んだ状態になってしまい、その時、テレビの上面を“空手チョップ”(力道山やジャイアント馬場が使用したプロレス技)をするかのように掌を開いた状態で、斜め45度に軽く打つと治る、という都市伝説があったことに由来する。
 
実際には昔のテレビは現在のように基板にICをプリントしていくのではなく、真空管をはじめとする様々な部品をハンダ付けで繋いで作られていたので震動で接触不良部分がちゃんと通電して一時的に治ったように見えるというだけのことであり「治った」状態には持続性が無い。なお60度が良いという説もあった。
 
この曲は、ほぼスターキッズの基本構成で作られており、間奏と後奏にフルートの多重奏が入るので、その部分は田中世梨奈・久本照香と風花の3人で吹いてもらった(七美花の方がうまいが、上手すぎて田中・久本と合わない!ので風花にお願いした)。
 
この曲は7月31日から8月2日まで掛けて制作した。
 
「3日間で作ったにしては良い出来だ」
と見学に来ていた和泉が言った。
 
「漫画家さんが16ページの原稿を作る時、最初に表紙に漫画のタイトルと第○話という文字を書いて『1ページできあがり』と言うらしいよ」
 
「それで16分の1はできた、と自分を奮い立たせる訳ね」
 
しかしこんな会話ができたのは、この日までであった。
 

8月3日の昼過ぎ、青葉から霊関係のお仕事の関係で東京入りが遅れるという連絡が入る。どのくらい遅れるのか尋ねてみたのだが、青葉は口を濁す。それで千里の後輩の巫女で龍笛のうまい林田風希さんに連絡を取ってみたのだが、運転免許を取るための合宿に入っているということであった。
 
私は千里に連絡を取ってみた。すると彼女は青葉が関わっている事件も把握しているようだった。
 
「青葉は今抱えている案件で8月中旬くらいまで掛かると思う。更にその最中に別の事件に巻き込まれてしまって、最終的にフリーになるのは12月になると思う」
 
「それでは間に合わない!」
 
「去年の春のツアーに参加した謎の男の娘さんが平日の午前中、6時から12時くらいまでなら稼働できると思うんだけど、彼女じゃダメ?土日は朝から晩までOK」
 
「それでいい。頼みたい。6時では誰も起きてないから、8時から12時か13時くらいとか頼める?」
 
「13時までならいい。彼女は実はバスケット関係者なんだよ」
「あぁ」
 
「それで午後はチームの練習があるので出られない。でも今の時期はまだリーグが始まってないから土日は全部稼働できる」
 
「助かる。でも午前中こちらで音源制作に参加して、練習に間に合う?」
「13時に音源制作から上がれば、K駅までバイクで走ると距離7kmだから10分程度で到達できる。13:33の新幹線に間に合うから、それで練習場に行けば間に合う」
 
「申し訳無い!交通費・ガソリン代は全部出すから」
「OKOK」
 

それで翌8月4日朝8時、謎の男の娘さんは来てくれたが、昨年春のツアーと同様プロレスラーが被るようなマスクを付けて、青い塗装のヤマハYZF-R25に乗ってやってきたので、びっくりする(ヘルメットはちゃんとつけてる)。
 
「このバイクは千里さんが青葉ちゃんから借りてきたんですよ。あの子今は1300ccに乗っているから」
「へー!そんな大きなバイクに乗っていたんだ!」
 
「でも、あくまでお顔は内緒なんですね?」
と七星さん。
 
「私のスペック上、顔は開示できないことになっているので」
「楽器が演奏できれば、顔も性別も関係無しでいいですよ」
「はい、それでお願いします。私の性別も謎ということで」
「分かりました」
 
彼女にもマンションの部屋を1つ割り当て、鍵を渡した。
 
「ありがとう。練習が終わった後、こちらに戻って寝ているかも」
「食事なども管理人室に言ってもらえば、冷凍のお弁当とか牛丼とかもチンして渡せますので」
「了解〜」
 
実際には彼女は毎晩1時半くらいに戻って来るようであった。終電で戻って来たにしては遅すぎる時間なので、コンビニなどで食糧を調達してから戻って来ているのかな?と私は考えた。
 

それで8月3日から始めた『青い浴衣の日々』には七美花の笙と、謎の男の娘さんの龍笛を入れることができて、かなりスムーズに音源制作は進んだ。謎の男の娘さんは土日はフル稼働できるということで、8月5日は丸1日参加してもらえたので、これでかなり良い出来になった。
 
私はこの日の最終段階の録音を、七星さん・和泉と3人で改めて聴いて検討した。
 
「充分良い出来だと思います。時間も無いし、これはこれで完成ということにして先に進みませんか?」
と七星さんは言った。
 
しかし和泉は5分くらいたっぷり考えてから言った。
「あと1日続けよう。これは私は96%の音だと思う。ちゃんと100%にしてから進みたい」
 
「でもそのペースで進めると、月末までに10曲間に合わないですよ」
「たとえそうなったとしても、ここまで出来ているものはきちんと完成させた方がいいと思うんです」
 
3人でしばし議論をした。念のため再度音源を聴いてみる。
 
「誰かニュートラルな頭の人に聴いてもらおうか」
と私は提言した。
 
それで深夜で申し訳無かったのだが、浜名麻梨奈に電話してみる。彼女はまだ起きていたようである。電話を通してでは分からないからmp3で送ってくれというのでデータを変換してメールする。
 
5分後に電話が掛かってくる。
「あと2日は練るべきだと思う」
と彼女は言った。
 
「じゃ7日の午前中までやろうよ」
と和泉が言う。
 
七星さんはそれでも3分くらい考えてから言った。
 
「分かった。後のことは考えずに、取り敢えずこの曲を完全に仕上げよう」
 

それで結局、私たちは8月6日(日)も朝から晩まで調整を続け、7日(月)の午前中まで掛けて和泉も「ここまで練ったら大丈夫かな」と言うレベルに到達した。
 
この後私たちは方針を変えることにした。
 
取り敢えず全曲スコア通りに演奏したバージョンをいったん収録したのである。この作業で7日午後から11日まで掛かる。それでいったんお盆休みとした。この後の作業は17日から再開する。
 
私と和泉、七星さん、それに氷川さんと近藤さんまで入れて私たちはお盆の間に話し合った。
 
本来和泉はローズ+リリーには関係無いのだが、私が判断能力を喪失していると心配して、この会議に割り込んで来た。
 
「どう考えても間に合わない」
というのが全員の一致した意見である。
 
「取り敢えず完成と言えるのは最初に作った2曲だけど、これは割と易しい曲だった」
「全曲いったん録音してみて分かったけど、難しい曲は、やはり各演奏者が弾きこなすの自体で時間が掛かると思う」
 
「だけどスケジュールを延ばすことは許されない」
 
「逆算してみましょう」
と氷川さんが言う。
 
「求められたのは『11月上旬』の発売です。上旬というのはいつまでだと思いますか?」
「11月10日じゃないんですか?」
「11月10日は金曜日なんですよ。ですから、CDの発売日は水曜日が良いからと言って11月15日(水)に発売すると主張します」
と氷川さんは言う。
 
「うーん・・・・」
 
「一方録音が終了した後に掛かる時間を考えてみましょう。録音が終わった後で最終ミックスダウンしてマスタリングしてで通常は半月。一方ミックスダウンが終わったものから順次PVを撮影します。これが10曲なら最低でも20日掛かると思います。この撮影した映像をマスタリングが終わった音源と合わせてPVの編集をします。この作業がどんなに頑張っても半月掛かります。そこからDVDのマスターを作ってプレスに回し、常識的に考えてどんなに急いでもプレスには半月。ですからCD/DVDのセット版を発売できるのは、録音終了の2ヶ月後です」
 
「ということは?」
 
「録音終了が9月15日(金)、音だけのマスターの完成が9月末というのが限度だと思います。PV用映像撮影のリミットが9月25日(月)の朝一番くらい」
と氷川さんは言った。
 
「それプレス工場にかなり無理を言わないといけないですよね」
「最初から話を通して前金を割り増しで払っておけば、スケジュールを空けてくれると思います。海外のプレス工場を使う手もあります」
 
「その代わり、万一スケジュール通りにマスターを入れられなかったから、数千万円レベルの違約金が発生する」
「仕方ないですね」
 

「今氷川さんがおっしゃったスケジュールまで延ばしましょう。どんなに納期が厳しくても、一度でも品質の悪い商品を発売してしまったら評価は地に落ちます。品質か納期か究極の選択を迫られたら納期を選ぶべきです」
と和泉は言った。
 
「納期?」
「あわわ、品質!」
 
和泉もかなり煮詰まっている(誤用)である。
 
「そのあたりがテレビ放送とか雑誌の掲載とかだと、納期を選ばざるを得ない場合もあるけどね」
と近藤さん。
 
「まあそれで落書きが雑誌に載ったり、テレビの放送に流れたこともかつてはありましたけどね」
と七星さん。
 
「そういう訳で8月17日から9月15日までの30日間で残り8曲の制作を頑張ろう」
「平均して3.75日か。。。」
「厳しい」
「最低でもその倍の時間が欲しい」
「いやこの後はハイレベルの曲が多くなる。3倍欲しい」
 
「でもこれ以上延ばすと発売に間に合わない」
 
私たちは重苦しい雰囲気に沈んだ。
 

9月以降まで制作期間を延ばした場合、演奏者が確保できないという問題もあった。この《郷愁村》は5月に契約して念のため今年いっぱい12月まで8ヶ月間借りている。しかし演奏者は8月いっぱいの拘束ということで契約している。学生さんは9月以降の平日は出てこられないし、それ以外の人でも9月以降は別のスケジュールを入れているだろう。
 
そこで現在参加している人に9月上旬の参加の可否を尋ねると共に出られない人があった場合、その代替演奏者の確保を至急おこなうことにした。この作業は氷川さんがやってくれることになった。
 

8月17日(木)、参加者が戻ってくる。
 
和楽器をフィーチャーした曲を優先することにして『刻まれた音』の制作を始める。和楽器の場合、そもそも洋楽器と和楽器の音程が異なっている問題があり、音が美しく響き合うポイントを見い出すのに時間が掛かる。結局この曲の制作は21日まで掛かってしまった。
 
「まだ完成していないと思う」
と風帆伯母から言われる。
 
「でも制作時間が無いです」
と七星さんが言う。
 
議論の結果、この音源はいったんここで留保して、時間の余裕ができたら後で再度調整するということにした。風帆伯母はかなり不満そうであった。
 
しかしこの「いったん留保」がその後に制作した全ての曲で起きていくことになってしまった。
 

8月31日(木).
 
当初の予定ではこの日までに全ての録音が終わっていなければならなかったのだが、ここまでできた(ことにした)のは5曲である。
 
9月以降は参加できない人も出てくる。
 
風帆伯母は私に言った。
 
「こういう品質の音源制作にはこれ以上協力できない。契約は守らないといけないから今日までは参加していたけど、この後、若山一派は全員引き上げさせる」
 
「分かりました。本当にごめんなさい」
 
それで和楽器奏者は、龍笛担当の謎の男の娘さん以外全員引き上げてしまう。謎の男の娘さんは、リーグが始まるのが9月下旬ということで、9月15日までなら付き合ってくれるとということであった。
 
「和楽器パートどうする?」
と鷹野さんが訊く。
 
「無しで制作するしかない」
と七星さん。
 
「それでは音の響きが足りない」
「でもどうにもならない」
 

ヴァイオリニストに関しては、9月以降参加できない人の代替をアスカが手配してくれたので、何とか8人体制を維持できた。しかし第1ヴァイオリンの田中成美さんは女子高生で学校が始まってしまうので無理ということだったので、代わりに私が弾くことにした。彼女のレベルのヴァイオリニストは、さすがに簡単には確保できないのである。
 
「でもヴァイオリンまで冬が弾いていたら、冬は疲れて歌唱にも影響が出る」
と和泉から指摘されるが、代替策が無い。
 
そして9月15日が来たが、まだ録音は終わらなかった。何とか最後の曲の録音を私が「これで完成ということにしよう」と言ったのが9月18日(月)の朝であった。
 
「だったらこれでミックスダウン、マスタリングの作業を始めるよ」
と氷川さんが言う。
 
「お願いします」
と私は力なく答えた。
 

氷川さんと七星さんが話し合い、PVの映像でロケなどをしなければならない部分にはケイとマリは出演させないことを決めた。あちこちで他の俳優さん・女優さんを手配してイメージビデオ的に撮影し、スタジオで演奏しているケイとマリの映像と合わせ付けていく。不満のある制作方法だが、疲れたような顔のケイとマリを映すよりマシという決断だった。
 
私は9月下旬はミックスダウン、マスタリングをしてくれる技術者さんに付いて、その内容のチェックや指示などをしていた。
 
「本当にこれでいいんですか?」
と技術者さんが言うのを
「すみません。それでお願いします」
と言って無理に進めた。私は罪悪感で心の中がいっぱいになった。
 
音源のマスターは10月3日(火)に完成した。すぐにPVの編集に入るが、そちらは私が疲労のピークに達しているということで、七星さんが見てくれることになった。
 

10月7日(土).
 
私はその日“政子に起こされて”、佐良さんの運転するエルグランドに乗り、佃島(つくだじま)に向かった。
 
ここ2ヶ月ほどの体力的、精神的な疲労が激しくて、正直寝ていたかったのだが、最近アクアのCD制作の度に関係者の誰かが大きなトラブルに見舞われているというので、一度お祓いに行って来ようということになったのだそうである。それで私たちもアクアの関係者ということで、政子が張り切って参加を決めてしまった。
 
参加するのは、アクア本人と山村マネージャー、アクア専任の影武者・リハーサル歌手でもある今井葉月、事務所社長の秋風コスモスと副社長の川崎ゆりこ、それにやっと退院した前マネージャーの鱒渕さん、わざわざ富山から出てきたアクア・プロジェクトのプロデューサー青葉、ディレクターの和泉、私と政子、それに丸山アイと運転手の佐良さんという12名である。
 
「エレメントガードの人たちとかは?」
と私が訊くと
 
「9日に回る」
と和泉が答える。
 
「今日だけじゃないんだ!? 千里とかも?」
「千里は11日」
「3回もやるんだ!?」
 
「関係者が多すぎて、まとめて回っていたら目立ち過ぎるし、ファンが騒いだりしてまともな参拝にならない可能性があるから、日程を3つに分けたんですよ。その他に映画関係者が来週行くらしいです」
とコスモスが説明した。
 
「4つに分けるのか!でも他の3日程はアクア抜きで回る訳?」
「それはあまりに間が抜けているからアクアは毎回参加します」
 
「大変だね!」
 
「だからボクはバスガイドさんの気分です」
などとアクア本人は言っている。
 
「バスガイドさんの衣裳つける?」
「それは勘弁してください」
 
しかし翌日政子はミニスカの可愛いバスガイド・コスチュームを調達して、§§ミュージックに持ち込んだらしい!
 

この日は月島駅前に集合したのだが、いったん車を近くの駐車場に駐めて、歩いて住吉神社まで行った。拝殿前でお参りした。
 
駅前まで戻ってから3台の車に分乗して東京駅に向かう。その車内でエルグランドに同乗した青葉から言われた。
 
「今回の音源制作に参加できなくて済みませんでした。でもケイさん凄く焦燥してる。大丈夫ですか?」
 
「うん」
と答えたまま私は少し放心状態になっていた。
 
新幹線で新大阪まで移動し、レンタカーのマイクロバスに乗る。これが何だか豪華な仕様のバスであった。
 
「こんなマイクロバスもあるんだね〜」
「今日の参加者がワゴン車には乗りきらないのでマイクロバスにしたんですが、偶然、VIP仕様のバスが空いてて借りられたんですよ」
「確かにこれVIP仕様だよね!」
 

このマイクロバスで住吉大社まで行き、ここでは昇殿してお参りをした。代表者のアクアだけでなく、参加者全員の名前が読み上げられ、全員玉串拝礼までした。私はここに参列していて、心が洗われるような気分だった。
 
その後、近くの和食の店でお昼を食べ、滋賀県の多賀大社(御祭神はイザナギ・イザナミで、天照大神の親に当たる)にお参りする。その後、伊勢に移動して外宮近くのホテルに泊まった。
 
ここで私は今日の参加者みんなから
 
「ケイの元気が無い」
と指摘された。
 
コスモスが
「やはりアルバムの進捗がよくないの?」
と訊く。
 
それに対して和泉が
「私は作り直すべきだと言っている」
 
と言った。そして私のパソコンを勝手に開けて、ハードディスク内にコピーしているマスター音源を再生した。
 

音源は65分間再生されたが、再生が終わってから全員が言った。
 
「これはローズ+リリーの音ではない」
 
退院したての鱒渕さんは言う。
「全体的に未完成だと思います。これは音の素材をお鍋に入れただけのもので掻き混ぜ不足、煮込み不足です。これはお料理ではなく、素材のままなんです」
 
丸山アイは
「レコード会社と喧嘩しても、違約金払ってもいいから延期して作り直すべきだと思う」
と言った。
 
「私もそれを考えた。でもどうやって交渉しよう?」
と私は本当に困って言った。
 
するとアクアのマネージャー山村が言った。
 
「自分に任せてくれませんか?絶対村上社長を説得してみせますから」
 
彼女はこういうことも言った。
 
「だいたいローズ+リリーって、マネージャーが居ない。細かいことまでケイが交渉している。その負荷のせいで、それでなくても厳しいスケジュールが更に厳しくなっている。交渉力のある専任のマネージャーを雇うべきです」
 
この時、政子が発言した。
「ケイはこの通りで、もう判断能力を失っています。ローズ+リリーのリーダーとして私がお願いします。山村さん、そのレコード会社との交渉をしてもらえませんか?」
 
「分かった。任せて。どのくらい延期すればいい?」
と山村さん。
 
「最低半年。だからこのアルバムは来年の3月か4月の発売」
と丸山アイ。
 
「よし。そのくらいの延期を呑ませてみせる」
と山村さんはは力強く言った。
 

翌日はまだ暗い内からホテルの玄関に集合し、外宮まで歩いて行って参拝した。歩いて行く内に空が明るくなり始めた。いったんホテルまで戻り、荷物を持ってチェックアウトし、マイクロバスに乗って内宮に移動した。そして宇治橋を渡るところで日の出となった。
 
その美しい情景に感嘆の声があがっていた。
 
内宮にお参りしてきてから、駐車場で解散となった。
 
この後マイクロバスは名古屋駅に寄ってからレンタルした大阪まで回送するので名古屋駅・大阪方面に行く人はそのまま乗っていて、他に行く人は適当な所で降りて下さいとコスモスが案内した。すると丸山アイと青葉が宇治山田駅前で降りて別行動になるということであった。
 
そういえば丸山アイはアクアと何で関わっているんだっけ??
 

青葉たちを降ろした後でバスは伊勢自動車道に乗り、名古屋方面に向かう。8時半すぎに名古屋駅に到着。大半の人がここで降りた。佐良さんとゆりこが大阪に行くということであった。政子が
 
「しのぶちゃん、休憩取りながら運転してね」
と声を掛けて降りていた。
 
名古屋駅で降りた私たちはそのまま新幹線に乗って東京に帰還した。鱒渕さんと葉月がみんなにお弁当とお茶を配っていた。
 
「私たちだけもらっていいのかな」
「佐良さんと副社長は途中のSAで朝食を取って休憩するとのことでした」
「早く降りたアイさんと大宮先生にも社長が朝食代を渡してましたから」
「さっすが」
 

10月10日(火)午前10時。
 
★★レコードの社長室のドアがトントンとノックされた。村上は秘書か誰かと思い「はい」と声を出した。入って来たのは、見覚えの無い24-25歳かと思う女性である。
 
「どなたでしたっけ?」
と村上は怪訝な表情で言う。来客であれば秘書が連れてくるはずだ。社内の人間か?その場合でも普通は部長クラスの人間が一緒に来るだろう。
 
「お初にお目に掛かります。私、この度、ローズ+リリーのマネージャーに就任しました、鱒渕水帆と申します」
 
と言って、彼女は名刺を出した。
 
《サマーガールズ出版マネージャー・ローズ+リリー担当 鱒渕水帆》
 
と印刷されている。
 
「おお、新しいマネージャーさんですか」
と笑顔で応じながら、なぜこの人はひとりでこの部屋に入ってきたんだ?と思っている。
 
「今日はちょっと村上社長にお願いがあって参りました」
「はい?」
「良かったら佐田副社長も一緒にお話したいのですが」
 
「制作関係のことなら、私より町添専務と話してもらった方がいいと思いますが」
と村上。
 
「あら、町添さんがこの話を聞いていいのかしら」
と鱒渕は言った。
 
「・・・・君は何を話したいのかね?」
「佐田副社長がいらっしゃったら、お話しましょう」
 
「要点を言いなさい」
と村上は怒った口調で言う。
 
「要点は、ローズ+リリーのアルバムの発売時期を来年の4月下旬以降に延期して頂きたいのです」
 
と鱒渕は笑顔で言う。
 
「それはできない。多数の関係各社を集めた制作会議で11月上旬発売が決まっている」
「ですが、村上社長が延期するとおっしゃったら、他の会社は異論を出しませんよね」
 
「私は延期するつもりはない」
 
「そうですか。村上社長は***という言葉に心当たりは?」
と鱒渕は笑顔で言った。
 
村上がピクッとした。
 
「・・・何の話だ?」
と言うものの、顔色が青くなっている。
 
「佐田副社長も一緒にお聞きになった方がよいかと思いますが」
 
村上は鱒渕を睨みながら、佐田副社長の携帯に電話した。
 

同日13時。
 
私は精神的な疲れから寝ていたのを電話で起こされた。スマホの画面を見ると、★★レコードの村上社長なのでびっくりして取る。
 
「おはようございます。ローズ+リリーのケイです」
「ああ、ケイ君。例のアルバムだけど、進捗はどう?」
「すみません。それを少しお話したいと思っていたんです。あの期日ですが、何とか2ヶ月くらいでも延ばして頂けないでしょうか?」
 
「やはり本当に大変そうだね」
「あ、はい」
「いや、実はさっき君のマネージャーさんと少し話したのだけど」
「うちのマネージャーですか?」
 
と答えながら、それ誰のこと?と思う。
 
「急にタイトルを変更したので準備が間に合わないという話を聞いてね」
「はい、実はそうなんです」
「やはりアルバムを作るとなると1年は掛かるという説明をされて、もっともだと思ったので、発売日を延期することにした」
 
「本当ですか!?」
と私は驚いて答えた。
 
「来年の6月か7月くらいまでに発売できるようになる?」
「はい。それならしっかりした物を作ることができます」
 
「だったら、そのスケジュールで頼むよ。ああ。浦中さんとかには僕が連絡しておくから」
「ありがとうございます!助かります」
 
私は一体何が起きたんだ!?と思いながら、本当に嬉しい気持ちで村上社長に返事した。
 

鱒渕さんが14時頃、私のマンションを訪問した。
 
「秋風コスモス社長、山村マネージャーと話したのですが、当面の間、私にローズ+リリーのマネージャーをやらせて下さい」
 
と鱒渕さんは言った。
 
「マネージャーですか?」
 
「ローズ+リリーの制作関係の細かい交渉、ライブなどの管理などをさせて下さい。音源制作の際の伴奏者の手配なども氷川さんと共同でできたらと思っています」
 
「それは助かりますが、お身体は大丈夫ですか?」
「はい。もうすっかり元気になりましたから」
 
「あのぉ、鱒渕さん、★★レコードの村上社長と何かお話になりました?」
 
「それなんですけど、山村が私に変装して交渉してきたそうです」
「変装ですか!?」
 
と私は驚いて言った。
 

私は政子を起こしてきたが、鱒渕さんがローズ+リリーのマネージャーになると聞くと
 
「おお!アクアのあんなことやこんなことも知ってそうな水帆ちゃん、仲良くしましょう」
などと言って、笑顔で握手していた。
 
「ところでアクアって本当は去勢してるんでしょ?」
などといきなり政子は聞く。
「去勢はしてないですよ〜」
「だったら去勢させるのに拉致するの手伝ってくれません?」
「それはマリさんといえどもNGです」
「だってあの子が声変わりしたら世界の損失ですよー」
 
15時頃、氷川さんがマンションにやってきた。
 
「私も驚いたのですが、お昼過ぎに、森元係長と私と2人、村上社長に呼ばれまして。その場に佐田副社長もおられたのですが、ローズ+リリーのアルバムの発売時期を来年の7月までの適当な時期に延期すると言われました」
 
「私もさっき村上社長からの電話で言われて驚いていた所です。アクアのマネージャーの山村さんが何かしてくれたみたいで」
と私は言う。
 
「多分山村は村上社長をゆすったのだと思います」
と鱒渕が言う。
 
「ゆする!?」
 
「あの人、安倍首相やトランプ大統領をゆするネタも持っているよ、などと言っていました」
「うーん。トランプの場合は、ツッコミ所が多すぎて」
 
「でも多分、村上さんも11月発売なんてのは元々何かの根拠があって主張したものではないのかも知れません。だから言うこと聞かないと・・・と言われたら簡単に撤回したのかも」
と鱒渕。
 
「確かにそんな感じはありました」
 
「ただ、佐田副社長の方から打診されたのですが」
と氷川さんが言う。
 
「ローズ+リリーの最後のCDが2016年12月発売なので、2017年に1作も発売しないというのは避けられないかと。それでシングルでもいいから年内に1枚出せないかと言われたんです」
 
「シングルなら何とかなると思います」
「何を出しますか?」
「アルバムの制作の中で本当に自分でも納得いくレベルまで仕上がっている『青い浴衣の日々』を中核にして、あと2曲くらい入れて3曲構成なら、今月中に音源制作が可能です」
と私は言う。
 
すると政子が言った。
「当初の予定の『Four Seasons』を出せばいいんだよ。だから曲目は『春の詩』、『青い浴衣の日々』、『村祭り』、『冬の初めに』」
 
「なるほど!」
「そのラインナップいいですね。それで作れます?」
と氷川さんが言う。
 
「作りましょう。現在の『郷愁』の制作に関する作業はいったん全部中止して、そちらの編曲を先にします。時間的に完全なスコアを書いている余裕が無いのでアバウトなスコアを書いて、後は演奏者に集まってもらって各自の裁量で音を出してもらってまとめます。それなら10月中にこの3曲は行けると思います」
 
「確かに精密なスコアを作ったのは、演奏者全員集めての収録に必要な時間を節約するためでしたからね」
と氷川さん。
 
「結果的には全然短縮できなかった気がするけどね」
と政子は言っていた。
 

私は風帆伯母に電話して、村上社長が妥協してくれて、『郷愁』の音源は作り直すことにしたことを説明し、再度の協力を求めた。伯母は
 
「きちんとしたものを作るなら、若山流鶴派としていくらでも協力するよ」
と言ってくれた。
 
私は龍笛について結局誰に聞けばいいのか分からなかったので、取り敢えず千里に電話してみた。
 
「それだいたいいつ頃からいつ頃まで?」
「『Four Seasons』の制作は今月いっぱいからひょっとしたら来月上旬まで。『郷愁』の作り直しは、その後11月中旬から2月末か、ひょっとすると3月中旬くらいまで」
 
「バスケットのシーズンとぶつかるから、土日は無理だけど、平日の午前中なら私自身が参加できる」
 
「ほんと!?」
「特に11月の後半はWリーグが休みだから土日も参戦できる」
「それは助かる」
 
「普段の平日は、レッドインパルスの練習が基本的に午後1時から夜9時くらいまでなんだよ。だから午前中、7時か8時頃から12時くらいまでならOK」
 
「参加者の足の都合を考えて、平日は新宿のXスタジオ分室でやる。連休や土日は例の《郷愁村》で制作しようと思っているんだけど、移動にどのくらい掛かるかな?」
 
「新宿なら川崎まで40分で移動できるから、昼12時で上がらせてもらえれば問題無い」
「じゃそれでお願いできるかな」
「了解了解」
 

私は若葉に連絡して、12月まで借りることにしていた《郷愁村》を3月か4月まで借りられないかと聞いてみた。
 
「結構長期間使うなら買っちゃおうか?」
「でも12億円でしょ?」
「平気平気。私、お金が余って困っているから」
「困ってるの!?」
 
それで結局若葉はほんとに不動産会社からあの物件を買い取ってしまった!
 
買い取り価格は6億円だったらしい。あそこは土地は二束三文で買ったものの建築費が10億円ほど掛かったので、不動産会社としては売るなら12億と言っていたらしいが、若葉の代理人の不動産取引のプロが交渉した所、半額の6億で売っていいということになった。しかも6億から5〜12月に借りた賃貸料の2000万を引いて実際には5億8000万の支払いにしたらしい。
 
私はあらためて今年5月から来年5月までの賃貸料を若葉に払いたいと言ったら「3000万円でいいよ〜」と言っていたので、それで既に支払っている2000万円に追加する形で新たに1000万円払った。なおスタジオの建築費は元々サマーガールズ出版が直接支払っている。
 

ヴァイオリニストに関してはアスカと相談した所、しばしばメンツは入れ替わるだろうが新宿に夕方以降と、土日の郷愁村なら、常時8人の確保は可能と言ってくれた。
 
「どうしても女が足りなかったら男にドレス着せて行かせるから」
「ヴォイオリンさえ弾けたら、お股の形状は問いません」
 
特に伊藤ソナタ・桂城由佳菜の2人は来年の3月まではほとんどの毎週土日と冬休み期間中は入れるということだった。この2人は地理的な問題で郷愁村へのアクセスが比較的容易らしい。また鈴木真知子ちゃんが今月下旬以降の土日はほぼ出席可能ということだったので、私は助かった!と思った。また田中成美ちゃんも赤羽駅近くの高校に通っているので、平日夕方以降なら毎日新宿のスタジオに入れるということであった。
 
私はあちこち連絡している内に、平日に制作する曲目と土日に制作する曲目を分けた方がいいと考えた。
 
平日に動ける人と土日に動ける人とが結構別れるのである。また平日でも千里のように午前中がいい人、主婦などをしていて日中がいい人、学生や勤め人で夕方以降が良い人がある。結果的に多重録音になるのはやむを得ないが、各々の人の都合を聞いていると、どうも平日の作業の続きは次の月曜以降に、土日の続きは次の土日にやった方が、同じメンツで制作の続きができる感じなのである。
 
全ての日程に入れるのは私とマリ、スターキッズのみである。
 
追加楽器の奏者について、バレンシアの2人は
 
「どうせお仕事無いから、コンビニでバイトとかするより、こちらに参加したいです」
と言った。
 
長尾泰華と長丸穂津美は
「先の制作は凄く不満だったから、やり直すなら頑張るよ」
と言ってくれた。
 

青葉の友人3人は学校があるので参加は難しい。それでフルート奏者とクラリネット奏者を探すこととなった。
 
あちこち問い合わせている内に、丸山アイから電話がある。
 
「フルート奏者を2〜3人、探してるんだって?」
「うん。誰かいい人知ってる?」
「期間はいつまで?」
「だいたい2月いっぱいまでと思っているんだけど。平日の夕方新宿または金曜の夕方から月曜朝まで、埼玉県K市に泊まり込み。どちらかの日程でいい。18歳未満は夜10時まで」
 
「女の子がいいよね?」
「できれば。でも最悪男でもいいよ」
 
「だったらレインボウ・フルート・バンズのジュンとモニカとアリスを参加させようか?」
 
「ほんと!?彼女たちなら技術的に全然問題無い」
 
「演奏技術の揃っている人が3人欲しいんでしょ?」
「そうなんだよ!技術差があると使いにくいんだ」
「あの子たちはフェイ以外、だいたい技量が揃ってるから」
「助かる。お願い」
 
それで、その3人が参加してくれることになった。
 
でも何でレインボウ・フルート・バンズのことで丸山アイが連絡してくるんだ??
 
なおフルート奏者が3人確保できたので、クラリネットは詩津紅に頼むことにした。
 

私、和泉、七星さん、氷川さん、森元課長は話し合い、私を中心とした音源制作作業と並行して、和泉を中心としてベストアルバムの制作をすることにした。
 
仮題は『Rose+Lily the best vol.3』である。ローズ+リリーのベストアルバムは2009年に出した『長い道』、2013年に出した『RPL投票計画』がある。それで2013年以降に発売したシングル・アルバムの中から和泉・小風・美空の3人が選ぶベスト12曲程度をまとめてアルバムにしようという魂胆なのである。
 
これを10月20日くらいまでに曲目を選択し終えたら、実は元々『郷愁』をプレスするためにプレス工場に入れていた予約で、それをプレスできる。そうすればプレス工場に違約金を払わなくて済むし、何よりもプレス工場の信頼を失わなくて済む。
 
和泉たちは10月10日の夕方、和泉のマンションに急遽集まって、その日一晩で曲目を選んでしまった。これが和泉たちが選んでくれた Rose + Lily the best between 2013-2016 である。
 
『振袖』『寒椿』『愛のデュエット』『ダブル』『ずっとふたり』『幻の少女』、『花園の君』『雪虫』『夜ノ始まり』『灯海』『雪を割る鈴』『苗場行進曲』、『Heart of Orpheus』『コーンフレークの花』『門出』
 
12曲ではなく15曲あるが演奏時間の合計が68分47秒で曲間と前後の無音時間合計90秒を入れても70:17になり、ちゃんと1枚のCDに入るのである(74:42を越える収録時間のCDは古いCDプレイヤーで再生できない場合がある)。リミックスは行わないことにして、マスタリングだけ有咲の手で行ってもらう。
 
セットするPVであるが、一般発売していなかった《ライブ併映バージョン》を使用することにする。その編集(主として長さの調整)は氷川さんと小風とでやってもらうことにした。
 
また各曲について、和泉が自らライナーノートを書いてくれることになった。
 

こちらがアルバムの制作スケジュール変更でバタバタしていたのが少し落ち着いたかなと思った、10月16日(月)、コスモスが電話して来た。
 
「アルバムの制作日程が延びたということで良かったですね」
 
「いや、そちらの山村さんのおかげです。本当に生き返った気分です。鱒渕さんもこちらに貸して頂いて」
 
「鱒渕ですが、こちらからの出向ということにして、籍はこちらに置いたまま給与をそちらで払ってもらうとかではどうでしょうか?」
 
「ええ。それでいいです。そちらでもらっていたのと同程度出したいと思うのですが、そちらではいくら出していました?」
 
「額面で**万円、それから税金・厚生年金・健康保険を引いてだいたい手取り**万円くらいなのですが、そちらは年金とか保険とかは?」
 
「ありますよー。ではそれと同額ということで」
 

「ところで物凄く忙しい時に申し訳ないのですが、もし可能ならアクアに1曲、楽曲を頂けないかと思って」
とコスモスが言うと、それをスピーカーで聞いていた政子が割り込んだ。
 
「アクアちゃんのためなら書くよ〜。今度はどんな曲が欲しいの?」
「アクアが1〜3月に主演するティーンズ向けドラマの主題曲なのですが」
 
「何のドラマ?」
「実は少年探偵団なんですよ」
「おぉ!」
 
「1月放送開始ですので、CDの発売は年末。ですから実は制作まであまり時間的余裕がないのですが」
 
「大丈夫大丈夫。ケイが書けなかったら私が曲まで書いちゃうから」
などと政子は言っている。
 
「でもそれだったらアクアは小林少年で、女装するよね?」
と政子は訊く。
 
「はいそうです。アクアに女装させないと、ファンがうるさいですから」
とコスモスも言っている。
 
「ちなみに明智探偵は本騨真樹さん、文代さんが特別出演の山村星歌ちゃんで」
「本当の夫婦が夫婦を演じるんだ!」
「怪人二十面相が大林亮平さんです」
「リョーか!そういえばこないだからあいつ何か隠している感じだったけどこの件だったのか」
 
大林亮平は狙われた学園で京極、キャッツアイでは課長を演じるなど、アクアのドラマには縁が深い。
 
「ちなみに第1話は乱歩の『少年探偵団』後半の物語なので、小林少年が女中に化けます」
「素晴らしい素晴らしい」
 
それで結局政子は勝手にこの仕事を受けてしまった!
 

シングルの音源制作に入る前、私と政子は七星さんや風花の勧めで旅行に出ることにした。『郷愁』の制作で精神的に疲労困憊したので、一度リフレッシュしてから新たな制作に入った方が良い、と七星さんが言ったのである。
 
但し付き添い!で★★チャンネルの琴絵が付いてくる!
 
彼女はドライバー兼撮影係で旅行中の私たちの表情をたくさん撮影し、シングルのPVに一部使うという話であった。
 
私たちは羽田から長崎空港に飛んだ。
 
そのまま長崎市に入り、眼鏡橋などを見てから中華街の新和楼でちゃんぽんを食べる。政子はこのちゃんぽんを食べただけでご機嫌である。
 
その後、琴絵の運転するレンタカーでハウステンボスに行き、夕方少し前から閉園時間まで過ごして、佐世保市内のホテルに泊まった。
 

翌日は午前中鹿子前桟橋から遊覧船に乗って九十九島(くじゅうくしま)を見た。その美しい景色に政子が歓声をあげていて、私はそれを見て心が弛む感じだった。その後、市の北部・大野地区にあるハンバーガーショップ《らりるれろ》でお昼を食べた。ここは《佐世保バーガー》の元祖のひとつである。
 
(2015年現在《らりるれろ》は大野と西海橋の2店舗がある模様)
 
「これは・・・・」
と一口食べてから政子が言葉を停める。
 
「ん?」
「ほどほどに美味しいハンバーガーだ」
 
私は微笑んだ。
 
「うん。里美おばちゃんの旦那さん・忠吉さんは《佐世保バーガー》なんて言われるより遙か前に、この店が佐世保中心部のスーパーの店内にあった頃から時々食べていたけど取り立てて味が記憶に残っていなかったらしい」
 
「でもだったらかなり昔からあるんだよね?」
「少なくとも40年以上前にはあった計算になる。マクドナルドより古いかも」
「それも凄いなあ」
 
食事をした後、近くにある《眼鏡岩》を見る。
 
「これは面白い!」
「昔はよく子供が登って遊んでいたらしいけど、崩落の危険もあるというので今は登るの禁止になっているみたいね」
 
「ああ、禁止って書いてある」
「忠吉さんは小さい頃ここに登っていて、蛇とお見合いして泣いて逃げ降りてきた思い出があると言っていた」
 
「ああ、それは怖い」
 

眼鏡岩の後は、佐世保富士の異名もある烏帽子岳に登った。そろそろ夕暮れである。
 
「九十九島がきれーい!」
と政子は言うと、詩を書いていた。タイトルを見ると
 
『夕暮れ少女』
と書かれている。
 
歌詞を見ると《少し自信が無くても夕暮れ時なら大丈夫》などというのが入っている。一体何を唆しているんだ!?
 
「もしかしてアクアに渡す歌?」
「そうそう。冬、今夜これに曲をつけてよ」
「まあいいよ」
 
私たちは夕焼けの中少し散策した。
 
「何か碑があるね」
と政子が言う。
 
「『美しき天然』の碑だね」
「なんだっけ、それ?」
「メロディー聴いたら知っていると思う」
と言って私はドレミで歌う。
 
「ラーラ、シラシ、ミーファミー、ファーミラーファミー」
 
「あ、ちんどん屋さんの歌だ」
と政子は言った。
 
「うん。昔はよく『サーカスの歌』と言っていたらしいけど、最近は日本のサーカスが衰退してしまったから、むしろ『ちんどん屋さんの歌』として認識する人の方が多いね」
 
「ちんどん屋さんも衰退してる」
「サーカスはもう絶滅危惧状態だから」
 
「佐世保の海軍の軍楽長と佐世保女学校の教師を兼任していた田中穂積(1855-1904)が女学校の生徒たちの愛唱歌として作ったものなんだよね。結構全国的に広まったんだけど、戦後ある程度経ってからは、サーカスやちんどん屋さんの歌として記憶されることが多くなった」
 
「一種の流行歌かな」
「だと思う。今ならアニメの歌なんかを演奏したら人が寄ってくるのと似たような感覚で演奏されてたんじゃないかな。田中はこの烏帽子岳から見える九十九島の風景を見ながらこの曲を書いたともいうんだよ」
 
「まあきれいだよね〜。ここって本当に島が99個あるの?」
「最初は100個だったけど、1個流れてしまって99個になったという伝説がある」
「へー!」
「ちゃんと数えると200を越すらしいけどね」
「なるほどー」
 

私たちは山を下りて、そのまま西九州自動車道に乗った。
 
そして琴絵の運転で福岡方面に向けて走っている車の中で政子は唐突に言った。
 
「私ね。実は亮平と別れた」
「いつの間に!?」
 
「自分たちこのまま結婚するのかなあ、とかふたりで話していたのよ。でも自分たちが結婚する未来というのが、私には描けなかった」
 
「なんで?」
 
「私、主婦とかできそうもないし」
 
「別に御飯とか作らなくてもいいし、お掃除とかしなくてもいいと思うよ。マーサ、お金はあるんだから家政婦とか雇えばいいじゃん」
と私は言う。
 
「そういうのもあまり好きじゃ無いなあと思って」
「彼が御飯くらい作ってくれるかもよ」
 
「亮平は私に、何もしなくてもいい。ただ家に居てくれるだけでもいいと言った。でも私はそういう家庭生活にも耐えられない気がした」
 
「音楽聴いたり、旅行したりとかでもいいんじゃないの?」
 
「いろんなパターンを話し合ったんだけど、どうしても自分の納得のいく家庭の姿が描けなくて。それで別れようと言った」
 
「でも亮平さんのこと好きなんじゃないの?」
と私は言う。
 
「好き・・・だと思う。でも私、彼の恋人にはなれても奥さんになれない」
「恋人のままでもいいじゃん」
「それは彼を拘束するだけのような気がして。だから私は指輪を返そうと思った」
 
「彼は?」
「俺に返すつもりならば捨ててくれと言った」
 
「・・・」
 
「だから指輪は持っておくことにした。もうつけないけど」
 
「そう・・・」
 
「だからこないだの日曜日のデートが私たちの最後のデート」
 
政子はそう言うと、私の身体に肩を寄せた。私は黙って政子の肩を抱いた。政子は泣いていた。
 
 
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【夏の日の想い出・郷愁】(2)