【夏の日の想い出・郷愁】(8)

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お風呂から上がった後、千里はUSBメモリーと印刷されたスコアを私の部屋まで持って来てくれた。
 
「USBメモリーはこのままあげるよ。中に入っているnostalgyというフォルダの中にCubaseのプロジェクトとmp3に変換したものがあるから」
「ありがとう」
 
しかし印刷されたスコアを持って来ていたということは、最初からこれを私に渡すつもりだったのだろう。
 
私はパソコンを起動してUSBメモリーの中身を見てみた。nostalgyというフォルダがある。他にも幾つかフォルダがあるが何だろう?と思った。取り敢えずnostalgyというフォルダの中にあるmp3を再生してみた。
 
なるほど・・・・そういうことか。
 
と思って私は頷いた。
 

mp3を聴いてみて、千里の意図が分かった。
 
・千里が『青い浴衣の日々』『硝子の階段』『冬の初めに』『携帯の無かった頃』などでも見せた通り、私の高校時代の頃の曲作りの雰囲気に合わせる。これは主として和音の単純化によって、調性の明確な曲にしている。
 
・上記の結果として第1主題は明確なAマイナー、第2主題は明確なCメジャーとなって、第2主題が第1主題の平行調というソナタ形式の原則が遵守される。
 
・感情表現のためのテンポ変化の多用。
 
・スターキッズの積極利用。アコスティックなオーケストラとエレキバンドを融合させる。私の書いた譜面では、全曲オーケストラをバックにした演奏を意図していた。しかし、千里のバージョンでは最初の提示部ではスターキッズのみの伴奏とし、展開部はオーケストラのみ。そして再現部はスターキッズとオーケストラを共演させるという仕組みにしている。
 
私はスターキッズのメンバーをオーケストラに組み込んで使うことを考えていたのだが、考えてみるとオーケストラは最初から一体のものを使い、スターキッズにはむしろ普段の楽器を使ってもらった方がいいのかも知れない。
 
そうしないと、スターキッズはオーケストラに呑み込まれてしまって、音源制作に参加している気分にならない気がする。私はこの千里が提示した方法の方がよいと思った。
 
テンポ変化については、特に自分で意識して使わなくなってきたものではないので、こういうスピードが自在に変化するのもありだと思った。これは千里の修正をそのまま活かしてよいと思う。
 
和音の単純化については、必ずしも私の好みではないので!明日また考えてみることにした。
 
私は取り敢えず寝ることにして、パソコンを閉じると、政子の傍の布団の中に潜り込んだ。政子は眠っているのに私の身体のあちこちに触って来た。
 

午前11時から、あらためてライブの打ち上げ兼新年会をした。
 
この時間の開始になった最大の理由は、このくらいの時間までマリが起きないからである!(私は8時半頃起きた)
 
「そういえば今年はクリスマス会をしてない」
とやっと目を覚ました政子は言っていたが
 
「まあとてもできる状況ではなかったね」
と私は言った。
 
政子が起きたのは10時前で、その後、お風呂に行って来たようである。
 

広間にこの旅館まで来た25人が集まっている。最初に加藤次長に乾杯の音頭を取ってもらい、
「明けましておめでとうございます!」
と言って、おとそ代わりのサイダーで乾杯する。
 
「この後は面倒な挨拶は抜きに食べて飲みましょう」
と私が言うので、すぐ全員にお雑煮が配られ、賑やかに新年会は始まった。
 
政子が鷹野さんの所に寄って行って訊く。
 
「鷹野さん、お風呂には入りました?」
 
「入った。入った。あの注意書きに気がつかなくてさ。そのまま男湯に入ろうとして、中に居た詩津紅ちゃんに悲鳴あげられて、ついでにシャンプーのボトルを投げつけられた」
 
「あはは」
「それで入れ替わっていることを知って『ごめん!』と謝って、あらためて女湯の方に入ったけど、初めての女湯は興奮しちゃったよ」
 
「大きくなっちゃったんですか?」
「そのあたりは生理現象ということで理解してもらいたい」
「大きくなっても入浴には差し支えないの?」
「特に問題はないと思う。ただ湯船に入っている間にサイズが変わった場合、お湯が中に入り込んだりして後で軽い炎症を起こす場合もある」
「男の人も大変そうですね」
 
政子も何を訊いているんだ!?
 

「UTPから今回は窓香さんとマルちゃんが来たのね。(桜川)悠子ちゃんはどこか他のイベントに付いているの?」
と窓香に訊く人がいる。
 
「悠子は今実は妊娠中なので、イベントの付き添いはせずに内勤だけにしているんですよ
と窓香が言う。
 
「え?赤ちゃんできたの?じゃ結婚した?」
「はい。昨年の7月・・・」
と窓香は日付を思い出そうとしていたが、風花が
「7月21日だったね」
と言った。
 
「よく覚えてますね〜」
「まあ、マリとケイの代理で出席したし。しちさん・にじゅういち(7x3=21)と誰かが言っていたのを覚えていた」
と風花。
 
「あれごめんね〜。悠子ちゃんには随分お世話になったから、私とマリ自身で出席したかったけど、どうにも無理だった」
と私は言う。
 
「あの時期は無理ですよ」
と窓香は言っている。
 

「相手はどんな人なの?」
「普通の会社員の人です」
「へー。何で知り合ったの?」
 
「その人がTJGのライブに来ていて、忘れ物をしちゃって。その件で対応したのが悠子だったらしいです。その後、ファミレスで偶然相席になって『あら、先日はどうも』とか言って、それで親しくなっちゃったらしいんですよ」
 
「なんか運命的な出会いって感じだね」
「でも結婚しても仕事はやめなかったんだ?」
 
「本人もあまり専業主婦とかはできないと言っていたし、彼氏もあまり給料が多くないみたいだし。まあ実際悠子に辞められるとけっこう大変ではあるんですけどね。TJGとアウトバーンズは悠子が専任みたいになっているし、一応、敏紀をサブに付けているけど、敏紀ではまだ交渉事とかがひとりでは任せられなくて」
と窓香は言っている。
 
現在、TJGはローズクォーツと並ぶUTPの柱である。UTPの収入は(ローズ+リリーの事務委託料を除けば)ローズクォーツとTJGの分が9割を占めているはずである。アウトバーンズも悠子が担当するようになってから売れ始めている。
 
「まあ今時、専業主婦とかになれる人は少ないよね」
 
「敏紀ちゃんって、少しおっとりした感じがあるしね」
「人はいいんですけどね〜。その分、やや頼りない面があって」
「だと、悠子ちゃんの出産前後は大変じゃない?」
 
「副社長(大宮伸幸:○○プロから出向中)も専務(松島花枝)も忙しいし、結局は私がフォローすることになる気もします」
 
「それは大変だなあ」
「その分、マルちゃんに頑張ってもらって」
 
「私がですか!?」
と本人は驚いている。彼女は昨年秋に入社したばかりである。
 

「でもここだけの話、悠子の結婚式って何か変な結婚式でしたよ」
と窓香は言う。
 
窓香はあまり人の噂話をしない子なのに、こういうことを言うのは珍しい。
 
「あの子、養女だったのね?」
と風花が言う。
 
「ええ。本当のご両親が事情があって子供を育てられなくて、まだ物心もつかない内に養女になったらしいです。特にどうもその実の父親に何か問題があったみたいで」
 
「何かよくないことをした人なのかなあ」
「何かそういう雰囲気もありましたよね」
 
と風花と窓香は言っていた。
 
「しかもその養父母と悠子はあまりうまく行っていない感じで、結果的には須藤社長が実質親代わりみたいな感じの立ち位置で動いていたんですよ」
 
「へー。あの人もまあ世話好きだからね」
「元々小さい頃から、悠子のこと知っていた雰囲気でした」
「ああ、それでUTPに入れたのか」
「そうだったみたいですね」
 
「でもまあ色々事情のある家庭ってあるからね」
と言いながら、私はアクアの生い立ちのことなども考えていた。
 
アクアの場合は、上島先生が彼のことを知るようになるまで、戸籍も存在しなかったので、ともかくも日本の戸籍に登録されるため、裁判所の審判まで起こしている。上島先生がそういう方面に明るい弁護士を付けてくれたので何とかなったものの、何しろ両親ともに数年前に死んでいるし、その両親から彼を委託された志水さんまで死んでいて当時の事情を知る人が居ないし、そもそも龍虎がどこの病院で生まれたのかも不明、という状況で、普通の人なら戸籍を作ること自体を諦めてしまったかも知れないケースであった。
 

新年になったので、§§プロのCMが、今年デビュー予定の石川ポルカと桜木ワルツを入れた13人になって「今年もよろしくお願いします」のセリフのものに変わっていた。
 
年末のCMでは白い振袖だったのが、新年のものは青い振袖に変わっている。もちろんアクアと葉月も青い振袖を着ているので、政子がはしゃいでいた。
 

新年会は11時から13時すぎまで続き、13:15くらいに鱒渕さんが中締めを宣言。飲み足りない人、食べ足りない人は、このあとは各自のお部屋でどうぞということになった。
 
政子は今晩も泊まって明日、鱒渕さんと2人で柳川まで戻り、ウナギのセイロ蒸しを食べるんだと言っていた。スターキッズは2日のお昼から福岡空港に移動して羽田に飛び、3日以降、貝瀬日南の音源制作に付き合う。ゆまや鈴木真知子など、また窓香たちや氷川さんたちも同じ行程で東京に戻る。そのため博多ドームからここまで走って来た中型バス(運転手さん付きレンタル)は2日の昼過ぎに福岡まで戻ることになる。青葉と2人の友人は2日のお昼からスターキッズと一緒に福岡空港まで戻り、彼女らは小松まで飛ぶ。実は鱒渕さんと政子もこのバスに乗って、途中の久留米で降ろしてもらい、そこから西鉄電車で柳川に入る予定である。
 
2日に帰る人たちは1日の午後は泊まっている旅館のすぐそばにある一目八景を見てから、レンタルしている中型バスに乗って青洞門を見に行くと言っていた。
 
それで結局1日に新年会が終わった後、すぐに東京に戻るのは私と千里と風花の3人ということになった。
 

私たち3人は14時頃、妃美貴が今朝、小倉から運転してきてくれたレンタカー・プリウスに乗り込んだ。
 
「妃美貴ちゃん、ごめんね〜。正月早々から」
「いえ、ほんとに大変なのは醍醐先生やケイさんですよ」
と妃美貴は言っている。
 
実は妃美貴は、昨夜の公演が終わった後、小倉のホテルで宿泊する人たちと一緒のバスに乗り、小倉市内のホテルに泊まった。そして朝いちばんに予約していたレンタカーを借りて、耶馬溪まで走って来てくれたのである。彼女が到着したのが9時半頃で、とりあえず温泉に入ってもらい、彼女がお風呂からあがった頃、そしてちょうど政子が起きた頃から、打ち上げを始めたのであった。
 
もっとも実際にはレンタカーで走って来て、お風呂に入ったので、彼女は眠くなり、打ち上げの途中で退席して、詩津紅の泊まっていた部屋に入りしばらく仮眠していたようである。
 
そういう訳でこの旅館に泊まったのは24人だが、お風呂に入った人・宴会に出た人は25人である。
 

妃美貴が運転するプリウスはR500/R212/東九州自動車道を通って北九州空港に向かった。
 
ここで風花が助手席に乗り、後部座席の右側(運転手席後ろ)に私、左側(助手席後ろ)に千里が乗る。妃美貴は持参のポータブル・カーナビに入れた音楽を結構なボリュームで流していた。
 
つまり私と千里が密談しても妃美貴と風花にはほとんど聞こえないようにという配慮をしてくれているのである。もっとも妃美貴も風花も口が硬いので万一何か聞こえても絶対に誰にも言わないであろう。
 
私はまず『郷愁協奏曲』のことを話した。
 
「あの後、少しぼーっとしながら考えていたんだけど、提示部でスターキッズ、展開部でオーケストラ、再現部で双方の合奏というあの構成がいいと思う」
 
「うん」
 
「ただ和音については、再現部の和音は元のままにして、提示部と展開部は千里が修正してくれた形にしようかと思うんだけど」
 
と私は言った。
 
「なるほど」
 
「『郷愁』という名前の通り、昔懐かしい音を提示するには千里が変更したようにシンプルな和音を使った方がいい。でも最近のローズ+リリーの音楽につなぐには、再現部の所に千里がいう所の《グリーン・ノート》を使いたいと思ったんだよね」
 
「うん。それでいいと思うよ。だったら、私が渡したUSBメモリーの中にwominaというフォルダがあるから、その中に入っているCubaseのプロジェクトデータを使って」
と千里は言う。
 
「それも作ってたの!?」
「だって、冬がそのあたりを決めてから、編曲者の所に持ち込むまで時間があまりないと思ったからね」
「つくづく用意がいいね!」
 
「ちなみにwotomeのフォルダには、提示部だけ単純和音で、展開部と再現部が複雑和音のもの、ominaのフォルダには全て複雑和音で、冬が書いたデータから提示部のオーケストラをスターキッズに単純変更したものが入っているから」
 
「参った、参った。だったらそのwominaを使わせてもらうよ」
「うん。そのあたりは適当に」
「ところで、wominaとかwotomeとかominaってどういう意味?」
「古語で女を表す言葉だよ。昔は女を表すのに、若い方から wotome, womina, ominaと言ったんだよね」
 
千里はメモ用紙にローマ字を書きながら説明する。
 
「へー!」
「wominaは英語のwomanと似ているけど、偶然の一致で無関係だと思う」
「そういうのも面白いね!」
 
「ちなみに男は若い方から wotoko, woguna, okina。男の娘はwoginaかも。vaginaと似ているけど、偶然の一致」
 
「昔も男の娘っていたんだっけ?」
「昔からいたと思うよ〜」
「そうかもね」
「髪もミヅラじゃなくて島田に結って、貫頭衣とか着ちゃって」
「島田って昔からあったの?」
「古墳島田といって、髪を折り返して、根本を鉢巻きで留めるやつ。火山の噴火のようにも見える」
「ああ!あれか!埴輪とかでそういう髪型があるよね」
「そうそう」
 
私の頭の中に弥生時代の男の娘のイメージが一瞬見えた気がした。そういう子って、ひょっとしたら男女双方から人気だったかも!? きっと昔はそういう子は有力者の妾とかにしてもらっていたんだろうなあ。普通の女の子より女らしいとか言われて。睾丸は潰すか切り落とすかしていたかも?馬や牛の去勢と同じじゃないかな。陰茎を切り落としたら半分くらい死んでたろうけど、睾丸だけなら慣れた人が手当すれば、そう簡単には死ななかったと思う。
 
「あれ?もしかして、ヲトメの対義語がヲトコ?」
 
「そうそう。そのあたりが後世には混乱してしまったみたいね。だから、倭建命(やまとたけるのみこと)は、ヤマトヲグナという別名もある。大和(やまと)の男って感じだよね。でも女装できたんだから、むしろ可愛い子だったかもよ」
 
私はその時、唐突に新しい曲のイメージが湧いてきてしまった。
 
「はいどうぞ」
と千里は五線紙とボールペンを渡す。
 
私は目を丸くしたが
「ありがとう」
と言って、その五線紙に今思いついたメロディーを書き始めた。
 

その曲を書き上げた後で、私は千里に気になっていたことを訊いてみた。
 
「千里さ、ここだけの話、細川さんとはその後どうなってるの?」
「そうだなあ。冬にはこれを見せてあげよう」
と言って千里はバッグの中からビニール袋に包んだ体温計のようなものを取り出した。
 
私はしばらくそれを見ていたが、驚いて言った。
「これ妊娠検査薬?」
「そうそう。プラスになっているでしょ?」
「まさか、千里、貴司さんの子供を妊娠したの?」
 
「京平を妊娠した時と同じだよ。妊娠しているのは私の子宮だけど、その子宮は別の女性の身体の中に入っている」
 
「別の女性って、阿倍子さん?」
 
「それが阿倍子さんではないから困ったもので」
 
「まさか奥さん以外の女性を妊娠させた訳?」
 
「浮気するならするでさぁ、なんでちゃんと付けないかね?」
と千里は呆れたように言っている。
 

「それどうするの?」
「彼女はそのまま産むと思う。産んでもらわないと困るけどね。ここだけの話。今その女性のお腹に入っているのが、深草小春の肉体だよ」
 
「・・・8月にローズ+リリーの音源制作に協力しくれた深草さん?」
 
「あれはまだ生まれる前だったんだよ」
「え〜〜!?」
と声をあげてしまったが、そういえば以前、貴司さんは言っていた。京平君とは生まれる前から会っていてバスケを教えていたのだと。では小春さんも生まれる前から活動していて、ツアーや音源制作で龍笛を吹いてくれたのだろうか?
 
千里の周囲ではしばしば因果律が崩壊している気がする。千里がよく予定調和を起こすのはたぶん先に結論を見ているからだ。もっとも、千里がいつか言っていた話では「時系列」が混乱しているだけで「因果律」は崩れていないというのだが。性転換にしても、千里はどう考えても性転換手術を受ける前に既に女性の身体になっていた。性転換手術を受けたのは大学4年の時なのに、その手術の結果女性の身体に変わったのは高校2年の時だとも言っていた(蓮菜や花野子によると少なくとも高校1年より前という話なのだが)。
 
それで生まれる前の小春さんが、龍笛を吹いてくれた訳??
 

「だから貴司は今月中にも阿倍子さんと離婚することになると思う」
と千里は言う。
 
「急展開だね?でもそれその妊娠していることになっている女性が貴司さんと結婚してしまうのでは?」
「うん。だからちょっと困っている」
と千里は本当に困っている風に言う。
 
「ついでに私も別の男性と結婚してしまうみたいだし」
「嘘!?」
 
「結婚式は3月の予定。その前にパスポートの関係で来月中に婚姻届を提出する」
「千里、いつの間にそんな人ができたの?」
「彼はね。本当は小春の思い人なんだよ」
「は?」
「だから私は自分の娘の代理でその人と結婚する」
 
「ごめん。もう私、分からなくなって来た」
「そうなんだよね〜。私も分からなくなっている。でも彼との結婚生活は今年の夏には終了するみたいだから、冬は私の結婚については何もしなくていいからね。ご祝儀も不要だし」
 
「千里、まるで他人事(ひとごと)みたい」
「うん。実際に他人事(ひとごと)なんだよ」
と千里は言っている。
 

「高校時代に習わなかった?電子をひじょうに短い間隔で並んでいる2つのスリットに向けて撃つと、電子はその2つのスリットを同時に通過するって」
 
「聞いたことはある」
 
「電子は別に分裂した訳でもないのに、2ヶ所に同時に存在するんだよね。人間も稀にそういうことがあるんだよ。ちょっとここに電話してみない?」
 
と言って千里は愛用のガラケーを私に渡した。
 
ガラケーを使っているのは私の周辺では千里と政子だけだ。ふたりとも強烈な静電気体質で、スマホが使えないと言う。
 
「これは・・・千里のアパートの電話番号?」
と私はその番号を見て戸惑うように言った。
 
「うん」
と千里は難しい顔をして言っている。
 

私は首をひねりながら電話をしてみた。数回呼び出し音が鳴った後、つながる。
 
「はい」
と言う声がするが、千里の声である!?
 
「明けましておめでとう。冬子です」
と私は言ってみた。
 
「ああ、冬、明けましておめでとう。去年の後半はほんと何にもできなくてごめんね。KARIONにも全然曲が提供できてないし。取り敢えず編曲だけでも頑張るからね。『青い浴衣の日々』とか『硝子の階段』とかの編曲うまくできてたかなあ。もしあのレベルでいいなら、いつでも頑張るから言ってね」
 
と電話の向こうの千里は言っている。
 
「うん、無理しないでね。編曲してもらえるだけでも助かっているよ。ゆっくりとリハビリに励んでね」
と私は言った。
 
「そうだ。誰にも言わないつもりだったんだけど、私結婚することになっちゃって」
「ほんと?おめでとう!どんな人なの?」
「千葉の建設会社に勤めている人。正直まだ自分でもピンと来ないんだけど。熱烈にプロポーズされちゃって」
「いいんじゃないの?」
「でもあまり仰々しいことしたくないし、あまり招待客も入れないつもりだからご祝儀とかは無しにしておいて」
「うん。まあいいけどね。じゃお花でも贈るから、結婚式の日と会場を教えてよ」
「分かった」
 
それで千里は結婚式場の名前と結婚式の日を教えてくれた。私はそれをメモした。
 
「3月に結婚式あげた後、新婚旅行に行ってくるから、その間は一週間くらい仕事ができないけど」
「いや、新婚旅行くらいはゆっくり休まなきゃ」
 
そんな会話をして、私は電話を切った。
 
そして考えた。
 
が、分からない!
 

「今電話に出たのは本当に千里?」
「千里だよ」
「電話に出たのが千里なら、ここにいるのは?」
と私は隣に居る千里に訊いた。
 
「私も千里だよ。まあそういう訳で本当に他人事(ひとごと)なんだよ」
 
「千里って双子かなんかだったんだっけ?」
 
「スリットを通過した電子は、通過した後は確実に1個に戻っている。だからこれはあくまで一時的な現象だと思う。私はあくまで貴司の妻だよ」
 
と言う千里はいつの間にか左手薬指に金色の結婚指輪をつけていた。
 
「その指輪は貴司さんとの結婚指輪?」
「当然。ちなみに今電話に出た千里は信次さんから婚約指輪をもらった。結婚指輪も一緒に作ったんだけど、これは結婚式当日に交換する」
 
私はまた考えた。
 
「ねえ、もしかして7月に事故にあったのが、今電話に出た千里で、私の目の前にいる千里は最初から元気なままだったりして?」
 
「うん。そういうこと。混乱するから、あまり人には言わないようにしているけど、何人か、言わずにいるとよけい混乱が起きそうな人にだけ打ち明けている」
と千里は言った。
 
「どうしたら、そういうことになる訳〜?」
「4月に落雷に遭った時に分裂しちゃったみたいでさ」
「え〜〜!?」
 

「冬にはこの名刺もあげておこう」
と言って、千里が出した名刺を見て、私は仰天した。
 
そこには
『作曲家・琴沢幸穂』
と書かれていた。
 
「これ知っているのは、コスモスと青葉だけね。今電話で冬と話した千里が回復するまで、私はこの名前で作曲活動をする」
 
「酷い。完璧に騙された」
と私は腕を組んで言った。
 
「でも落雷で人間が分裂する訳〜? 千里って人間だよね?神様とかじゃないよね?」
「青葉は神様かも知れないけど、私は人間だよ」
「ほんとかなあ」
 

「あと私が複数存在していることは、貴司のお母さんと、うちの玲羅も知っている。千里の結婚を説明するためにやむを得ず打ち明けた」
「貴司さんは?」
「言ってない。貴司は当面放置。私自身ちょっと怒っているから」
「ああ」
 
「ちなみに琴沢幸穂(kotosawa sachiho)は細川千里(hosokawa chisato)のアナグラム」
「うっ」
 
「だから琴沢幸穂に連絡を取りたい時は私に直接連絡していいよ。これは、あくまで1人の千里に戻るまでの一時的な処置だから。今冬が電話で話した千里は事故のショックで色々なものを忘れている。もっとも編曲とかは私より正確かつ高速にやるから、その用事ではどんどん使ってやって」
 
「それリハビリにもなるよね?」
「うん。凄くリハビリになる」
「だったら使わせてもらおう」
 
「あの子が今忘れている物事を全て思い出して、作曲能力やバスケット能力も元に戻った時が私たち3人がひとつに戻る時だと思う」
 
と千里は厳しい顔で言った。
 
「そうか!事故にあって代表落ちした千里と、日本代表に復帰した千里は別人だったのか!」
 
「実はそうなんだよ。いくら私でも、わずか10日でそんなに回復する訳が無い」
 

私はしばらく考えてから、ふと気付いて言った。
 
「3人って言った?」
「だから私と、信次さんと結婚する千里と、Wリーグで活動している千里だよ」
 
「千里は3人いる訳〜?」
「琴沢幸穂が多作なのはそのせいだよ」
「うむむ」
 
私はハッとした。
 
「もしかして、ここにいる千里がソフトハウスで仕事してる?」
「不正解。あれは千里の偽物」
「うーん・・・・」
「私はふだん海外に居るんだよ。これ住所ね」
と言って千里は2枚の名刺をくれた。
 
「フィラデルバーグ、アメリカ? マルセイユ、フランス?」
 
「春から夏はアメリカ、秋から冬はフランスにいるつもり。私まで日本国内にいたら、ややこしいことになるから。それで2番がアメリカに居る時に結婚式を見て『お嫁さんにしてね』を書いて、3番がフランスに居る時に夕暮れの景色を見て『冬の初めに』を書いたんだよ。『縁台と打ち水』は1番が日本の川越で書いた。短期間に3つ作品ができたのは、そのせい」
 
「そういうことだったのか!」
 
と言ってから再度考えた。
 
「1番・2番・3番と言った?ここにいる千里は?」
 
「私は2番。事故にあって壊れているのが1番、日本代表でインドに行って来て今Wリーグに参加しているのが3番。私が3人居ることを知っているのは2番の私だけ。今回3番は皇后杯前の練習で忙しいから私がこちらに出た」
 
「なるほどぉ」
 
「携帯を見ると区別できるから。金色のiPhone7 plus持っているのが1番。でもこのiPhoneは実は7月の事故の時に壊れたから、彼女に連絡を取るには用賀のアパートの家電に掛けるしかない。この赤いガラケーToshiba T008を持っているのが2番、私。ピンクのAquos持っているのが3番。ついでにいうとソフトハウスに勤めている私の偽物さんは、富士通の白いArrowsを持っている。偽物は2人いて、F-01J持っている子とF-02G持っている子がいるけど、どちらも同じ白いArrowsだから区別するのは難しい」
 
「えっと・・・ガラケー持っているのが全部知ってる千里というのだけ覚えた」
「まあそれでいいよ」
と言って千里は笑っている。
 
「その2番の千里に物を送りたいときは、このフィラデルバーグかマルセイユに送らないといけない?」
 
「それは葛西に送ればいい」
と言って千里はまた別の名刺をくれた。江戸川区葛西??
 
「千里住所いくつあるの?」
「うーん。。。。桃香のアパートまで入れたら6つかな?」
と千里は考えるようにして言った。
 
「葛西にいるのはたいてい私だけど、たまに3番が来ることもある。向こうで遭遇して私じゃないようだなと思ったら適当に話を合わせておいて。税金の通知とか、JASRACの報告書とかは全部葛西に送ってもらっている。用賀のアパートに居るのは確実に1番。3番は普段は川崎のマンションに居る。経堂の桃香のアパートには3人とも行く可能性がある。フィラデルバーグとマルセイユは私しか使わない」
 
「ごめん。分からなかった」
 

15時半頃に北九州空港に到着した。レンタカーを返して4人で16:45発のJAL376羽田行きに乗った。737-800(Winglet)のクラスJシートは左側に2席、右側に3席並んでいるのだが、その左側の2席並びの所を2列確保して、まとまって座っている。座る位置は、前に風花と妃美貴、後ろに千里と私、という、プリウスに乗った時と同じ並びである。
 
私は風花と妃美貴に、千里はしばらく作曲活動のため楽器置き場として使っている千葉の葛西のマンションにいることが多いらしいから、何か物を送る時などは、そちらに送ってと言った。千里は直接風花と妃美貴にも葛西の住所を書いた名刺を渡していた。
 
「葛西は一応東京都なんだけど」
「ごめん!」
 
「ここはFAXとネットのために電話は引いているけど、電話機は設置していないから、連絡は携帯に」
 
と言って、携帯の番号も再確認していた。
 
「あれ?私が登録しているの、違う番号だ」
 
と言って、風花は番号を変更していた。たぶん千里の言う“3番”の電話番号だろうなと私は思った。3番のスマホは実際には三宅先生が貸与しているものらしい。でも料金払っているのは雨宮先生らしい!?
 

飛行機の中ではアクアのことが随分話題になった。
 
「アクアちゃん体力が付いてきたのかな。去年は一昨年以上に忙しかったと思うんですけど、いつ見ても元気でしたね」
と風花が言う。
 
「あらためて事務所側にも高校を卒業するまでは学業優先というのを申し入れたみたいだよ。だから、学校の出席率もあがったみたい」
 
「でもその分、放課後と土日のスケジュールが過密になっていたりして」
 
「お膳立てをするためのマネージャーさんの負荷もハンパ無いみたい。葉月や姫路スピカも代役としてリハーサルにどんどん使われているし。マネージャーさんが現在3人、他に、桜木ワルツもしばしばサブマネージャー兼リハーサル要員として駆り出されているみたいだけど、4人でも追いつかないみたい。それ以前に鱒渕さんが1人でそれをやっていたのが信じられない、とか志穂ちゃんが言ってましたよ」
 
「緑川志穂もアイドルとしてスポットライトが当たる側から、裏方に転向してアイドルを支える側になって、色々勝手が違ったろうけど、頑張っているみたいね」
 
「KARIONのマネージャーの花恋なんかと似た立場だね。もっともアクアは凄まじすぎるけど」
 

「あの子、結局去勢とかはしてないんでしょ?」
と妃美貴が訊く。
 
「してないよ」
と私と千里は同時に言った。
 
「女性ホルモンは?」
 
「周囲の人から騙されて飲まされちゃうことはあるんだけどね。本人も分かっていて騙されたふりしているし」
「ああ」
 
「松浦紗雪、マリ、丸山アイ、フェイ、川南、特にこのあたりが犯人」
「こないだ小風にも騙されたと言っていた」
「あれ何度も同じ手口で騙されているし」
「騙されたいんだ!?」
 
「だから結果的には結構な女性ホルモンを摂っているけど、身体に変化を起こすほどの量ではないと思う」
 
「でもボディラインが完璧に女の子ですよね。ウェストのくびれとか凄いし」
「ボディスーツで体型を維持しているからね」
「じゃやはり女の子っぽい身体になりたいんですか?」
「そのあたりが微妙なところで」
 
「昨年の1月にもコスモスはアクアと性別問題について2人だけでかなり長時間話しあったけど、アクアは自分は女の子になりたい訳ではないというのをしっかり言った。実際、少なくともアクアの生殖器は少しずつ男性として発達して行っているよ。ここまで声変わりが起きてないのは、何と言っても小さい頃にした病気の影響なんだよ」
 
と千里は言う。
 
「じゃ、いつかは声変わりが来るのか」
 
「まあ声変わりが来たら、売上げは激減するだろうけど、それを事務所もレコード会社も割り切っている。だからコスモスや紅川さんにしても、TKRの松前さんにしても、今のアクアの売上げがずっと続くとは考えていない。本人も自分の人気がいつまでも続くものではないと思っているから、堅実に演技の勉強をして、俳優としてやっていきたいと思っている」
 
と私は説明した。
 
「結構ベテラン俳優さんと共演するから、その人たちの間の取り方とか、解釈の仕方というのを見て、勉強しているんだと言っていたよ」
と千里が言うと
 
「偉〜い」
と妃美貴が言う。
 
「男の子アイドルは砂上の楼閣のようなものだって誰か言っていた」
「ですよね。女の子アイドルだとそういう問題が少ないけど」
 
「女性タレントも結婚で人気が急落するけど、結婚は20代後半くらいが多いのに対して、男の子アイドルの声変わりは12歳くらいで来るからそれ以前の期間が凄く短いのが普通」
 
「だからアクアというアイドルは、本人の病気からきた奇跡の存在なんだよ」
 

「でもその声変わりが来るまで限定でも、今のアクアちゃんの年収、物凄いですよね」
と妃美貴が言う。
 
「CDを出した場合、歌手の取り分はだいたい0.9%、作曲家の取り分は7.2%なんだけど、アクアのCDは2組のソングライトペアが書いているから1人あたり1.8%になる。1200円のCDが120万枚売れた場合、歌手の取り分は約1300万円、作曲家は約2600万円。アクアは昨年4枚CDを出したからその収入はだいたい7000-8000万円くらいかな」
と千里が言った。
 
「あ、意外と少ない気がする」
「他にライブツアーで50万人動員しているから多分ギャラは4000-5000万円くらい」
「そちらが結構あるかな」
 
「彼はドラマに出ているし、映画に出たし、多数のテレビ番組に出ているし、CMにもたくさん出ている。ドラマのギャラは多分年間4000万円くらいだと思う。諸々のテレビ番組のギャラが恐らく全部合わせて年間3000万円くらい。映画のギャラは恐らく2000万円くらい。本当はもっともらってもいいと思うんだけど、どうしても若手の俳優のギャラは低いんだよ。あとCMが読みにくいけど恐らく8000万円くらい。他に昨年出した写真集は歴史的な売上げになったから、ギャラを1億円くらいもらったと思う。だから昨年の年収は全部で4億くらいかな」
 
「やはり稼いでる〜!」
と妃美貴。
 
「でもその半分が税金で持って行かれるんですよね?」
と風花。
 
「そうなんだよ。まあお国のために貢献していると考えるしかない」
と私は言った。
 
「アクアちゃんのお金の管理は自分でしてるんですか?」
 
「アクアのご両親の方針で、基本的に芸能活動によって得られた収入は全て貯金している。実際には雨宮先生が雇った投資の専門家3人に3分の1ずつ運用させているんだけどね。だからアクアはふだんは、両親が自分たちの給料から渡している月1万円のお小遣いで生活している。食費や家賃・光熱費は別でね」
と千里は説明する。
 
「嘘!?」
 
「本当は月1万円のお小遣いは普通の高校生には多すぎるんだけど、アクアはみんなから高額所得者と思われているから、立場上、色々なもののお金をみんなより多く出さないといけないことが多いから」
と千里。
 
「そういうのがあるのに1万円なら、ほとんど贅沢できない気がする」
「だから彼は慎ましい生活をしているよ」
と私も言う。
 
「中学生や高校生が何千万円ものお金を自由に出来たら、ぜったいろくなもんにならない、とこれはご両親と、上島先生・雨宮先生、全員の意見」
と千里。
 
「わあ」
 
正確には里親である田代夫妻と親権者(叔母)の支香さん、祖母の松枝さん、上島先生・雨宮先生、それに私と千里、川南さんが集まって全員一致で決めた方針である。
 
「だから少なくとも20歳になるまではアクアはそのお金に自分では一切手をつけることはできない。実際には高額の出費が必要なものは、その都度両親の許可を取ってその資産から出しているけどね」
 
高校の学費(制服代などを含む)、忙しい中でも欠かしていない歌や楽器のレッスン代、青葉に依頼している声変わり防止のためのホルモン・トリートメントの施術料も、両親決済で出しているものだろう。ホルモン問題については千里も色々しているようだが、多分そちらは千里の自主的な“余計な親切”っぽい。
 
「いや、その方針がいいと思いますよ。親御さん、しっかりしてますね」
と風花は言った。
 
「両親ではなく、雨宮先生が雇った人に財産を管理させているのもいいよね」
と私は言う。
 
「うん。誰に頼むかは議論もあったんだけど、ご両親は目の前に大金があったら目がくらんで魔が差すかも知れないと言う。それで上島先生が僕も忙しすぎて、その管理者自体をしっかり管理できないから、雨宮頼むと言って、雨宮先生が雇うことにした」
 
と千里は説明した。
 
「確かにそれは管理者をしっかり見てないといけないですよね」
 
まあ雨宮先生もけっこう危ないけど、三宅先生がいつも手綱を引き締めているから大丈夫だろう、と私はあらためて思った。
 
「ちなみに3人雇ったのは相互監視のため。2人でもいいけど2人だとどうしても競争しちゃうから3人にした。それと投機的なことは絶対にするなと厳命している。リスクの高いFXとかワラントとかビットコインは禁止」
 
「玉子はひとつの籠に盛るなってやつですね」
「そういうこと」
 

飛行機は18:10に羽田に到着する。
 
「千里はフランスに戻るの?」
と私は千里に訊いた。
 
「今日は練習お休みなんだよ。明日は練習があるから、フランス時間の朝9時、日本時間の夕方5時から練習に参加する。だから夕方4時くらいまでは日本にいるから、何かあったら対応できるよ。練習はフランス時間で夕方6時に終わるから、日本時間で深夜2時くらいからはまた対応できる。休日はフランス時間で夕方8時からの試合が多い。日本時間だと翌日の朝4時から。どっちみち6時にはフリーになる」
 
どうも話を聞いていると、千里はフランスと日本を瞬間的に移動できるようだ。その問題については、突っ込まないことにしておく。
 
「なるほどー。午前中が都合がいいというのは、そういうことだったのか」
 
「じゃ、あと残りの曲頑張ってね」
「うん」
 
私は千里と握手をして別れた。
 

風花と妃美貴はマンションと★★レコードに寄るということだったが、私は新宿の∴∴ミュージックに向かった。
 
「明けましておめでとうございます」
と言って中に入る。
 
「明けましておめでとう!」
と和泉・小風・美空が言う。畠山社長と花恋も出てきていて、
 
「今お雑煮も持って来ますが、とりあえずおとそを」
と言って朱塗りの杯を渡す。
 
「じゃお正月だし」
と言って飲み干すが薬草の味が何ともいえない。
 
「これ博多のお土産ね」
と言って、毎度おなじみの《通りもん》を出す。実際には妃美貴に買っておいてもらったものである。
 
「ああ、これ好き〜」
と言って、みんなつまんでいた。
 
早速明日からのツアーについて打合せをした。その日は夜9時頃まで打合せをして、解散した。
 

私は夜9時半頃にマンションに帰ると、千里から渡されたUSBメモリーの中のwominaのフォルダを開いた。mp3があるので再生するが、このパターンが私の好みだと思った。それでそこからスコアを印刷した。
 
それでこの日は寝たが、翌1月2日は、朝から尾藤教授のご自宅を訪問した。
 
「明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう。お屠蘇飲んでいきなさい」
「すみません。この後、ライブに出ないといけないのでアルコールは禁止で」
「じゃ、お雑煮とおせち食べて行きなさい」
「では頂きます」
 
そういう訳で私はお雑煮とおせちを頂いて、譜面とCubaseのデータを渡した上で、趣旨の説明もした。
 
「なるほど、最初はロックバンドで演奏して、その後展開部をオーケストラに演奏させて、最後は一緒という訳か」
 
「できますでしょうか?」
「できるできる。面白いと思うよ」
 
それで尾藤教授は譜面を見ていたが、やがて言う。
 
「面白いことしてるね。これ提示部と展開部は19世紀までの調性音楽の世界で、最後の再現部の所は、調性音楽とも、20世紀の無調音楽とも違う、不思議な和音の世界になっている」
 
「ジャズのブルーノートや、そこから揺り戻しをしたロックのペンタトニック音階とも違う、もっと耳に馴染む音階というので、グリーンノートと醍醐春海が命名していました」
 
「ああ、それは面白い命名かも知れない」
 
教授は1週間くらいで書き上げられると思うと言っていた。
 

KARIONのツアーはまず1月2日に東京国際パティオで、翌3日には大阪のビッグキューブで行われた。次は1日休んで5日に福岡なので、他のメンバーやトラベリングベルズはそのまま福岡に移動するということであったが、私は『お嫁さんにしてね』のPV撮影のため、沖縄まで往復して来た。
 
(我ながらハードスケジュールだと思う)
 
その後、ライブは1月5日福岡、6日名古屋、7日札幌と続いて終了した。
 
7日の夕方の便で東京に戻ってきてマンションに帰ると、政子は私にキスして
「まだ姫始めしてないよ」
と言った。
 
「はいはい」
それで私たちはその日になってやっと姫始めをした。
 

どちらもその後眠ってしまったのだが、夜中に目が覚めた。
 
「冬、紅茶でも入れて」
「OKOK」
 
それで私がケトルでお湯を沸かして、ニルギリの茶葉で紅茶を煎れ、ミルクティーにして政子に渡す。
 
「美味しい美味しい」
と言って政子は紅茶を飲んでいる。
 
「そうだ。この曲に歌詞をつけてくれない?」
 
と言って、私は耶馬溪から北九州空港に移動する途中で書いた曲を見せた。
 
「どんな曲?」
と言うので、私はドレミで歌ってみせる。
 
「ああ、これ何となく古代っぽい」
「さっすがー! ヤマトタケルとか『銀の海・金の大地』とかの世界だよ」
「『イーティハーサ』は?」
「そこまで古くはない」
 
ヤマトタケルはだいたいAD380年頃の人、『銀の海・金の大地』はだいたいAD340年頃の話である。『イーティハーサ』は恐らくBC3000年頃の話だろう。
 
「男の娘は出てくる?」
と政子は訊いた。
 
なぜそういう話になる!?
 
「古代の男は“をぐな”、女は“をみな”と言ったらしい。千里の説では古代の男の娘は“をぎな”」
 
「おぉ!をぎな!」
と政子は喜んでいる。
 
「なんとなく分かった。じゃ、冬が伴奏の方の制作をしている間に書いておくね」
「よろしく〜」
 
そして政子の書いた詩には「をぐなも、をみなも、をぎなも、をむなも」などというフレーズが入っていた!をむなは多分“女の息子”を表す政子の造語だろう。
 

私たちはその日から『郷愁』の制作に戻った。
 
制作もいよいよ大詰めである。残りの曲は下記だ。
 
『刻まれた音』(マリ&ケイの作品)
『ふるさと』(マリ&ケイ名義だが実は青葉作ということにしておいて、本当は私が書いた作品)
『郷愁協奏曲』(マリ&ケイ名義だが実は丸山アイ作ということにしておいて、本当は私が書いた作品)
 
つまり残っているのは全部私(とマリ)の作品なのである。今回のアルバム制作では最初の方で他の人の作品をひたすら作り、私とマリの作品は最後の方で作ることになった。
 
残りの3曲はこのようなスケジュールで制作した。
 
1/12-14,19-21,26(金土日x2金)『ふるさと』
1/8-11,15-18,22(平日)『刻まれた音』
1/22-25,27-28『郷愁協奏曲』
 

KARIONのツアーから戻って最初に《平日組》で新宿のサブスタジオで制作したのが『刻まれた音』であった。私はこの曲はダリの『記憶の固執(La persistencia de la memoria)』を少しイメージしながら書いた。例の《柔らかい時計》が描かれた作品である。
 
基本的にはスターキッズのアコスティック版を使用し、それに懐かしさを感じさせる楽器の音を組み込んだアレンジにしている。出てくる楽器(?)はこのようなものである。
 
でんでん太鼓、水笛、オカリナ、銅鑼、灯台の霧笛、蒸気機関車の汽笛、木魚、明笛、口琴、折り畳み式の木琴、小学生用のピアニカ、小学生用のハーモニカ、昔風のトイピアノ。
 
銅鑼、灯台の霧笛、蒸気機関車の汽笛、木魚、は風花と有咲に、実際にその音を収録できる所まで年内に行って録音してきてもらっていたものを使用した。
 
明笛は千里に吹いてもらい、口琴(ムックリ)は以前KARIONの作品で口琴を演奏してもらい、最近は自分の作品にも結構口琴を入れている福留彰さんにお願いして演奏してもらった。
 
小学生用のハーモニカは小風、折り畳み式の木琴は美空、小学生用のピアニカは風花、昔風のトイピアノは丸山小春、水笛は琴絵、オカリナは仁恵に演奏してもらった。
 
「音痴の私が演奏していいの?」
と琴絵は言ったが
「水笛は音程が無いから問題無い」
と私は答えた。
 
でんでん太鼓は、ちょうど見学に来た友人の礼美の子供(3歳)に打たせた。本人は凄く楽しそうに打っていて、とてもいい感じになった。ここは子供が遊んでいる感じが欲しかったのである(最後はお持ち帰りにした)。
 
この作品で月丘さんにはピアノの代りにサマーガールズ出版所有のバージナルを弾いてもらった。『花園の君』で使って以来、久々の使用である。念のため直前に調律してもらったが、ほとんど狂ってないと言われた。
 
この作品のPVにもこれらの楽器を演奏している様が取り込んである。銅鑼は実際に船で打たれている所、霧笛は灯台の映像、汽笛は蒸気機関車の映像が入っている。そしてこのPVの最後はそれらの写真が貼られたアルバムをマリが閉じるところで終わっている。
 

『刻まれた音』と並行して、休日組で『ふるさと』を制作した。こちらは金曜の午後から月曜の朝まで、郷愁村に泊まり込んでの制作である。もちろんムーランの郷愁村店も健在である。
 
最初の週は若葉自身が来ていた。しかもエヴォン時代のメイド服を着ていたので、特に男性陣に好評であった!
 
「そうだ。ボーリングしてみたら温泉が出たんだよ。だから温泉宿を作るから。県の許可は取った」
 
「このマンションを旅館に改造するの?」
「いや、そちらは音源制作専用。旅館にするには、旅館の基準に合わない所も多いんだよ。だから温泉と旅館の建物は別に建てる」
「お金掛かるのに!」
「そんなこと無いよ。ほんの40億程度で済むし」
 
やはり若葉は金銭感覚が違う!
 
若葉が★★レコード株で儲けたお金は、その後、お母さんが若葉本人には株取引禁止!を言い渡し、専門家に運用させているので、当時より既に2割くらい増えているらしい。
 
若葉は仕事柄豪華な友禅の和服を着たりすることはあっても、プライベートではブランド物の服を着て出歩くような子ではなく、ユニクロやしまむらが大好きな子なので(やはり何のこだわりもなく好きな服を着るのが本当のお金持ちなんだろうと私は彼女を見ていて思う)、確かにお金の使い道に困るのかも知れない。
 
なお、本人は全く儲ける気が無かったムーランも、その大胆な運用がしばしば雑誌の取材を受けたりして、わざわざ地方から出てきてムーランで御飯を食べたりする人も出てきたため、まさかの黒字状態が続いている。やはり若葉が高額の報酬を払って、一流の料理人を雇っているので、味の評価は物凄く高い。しかもお代は庶民的なので、凄い人気が出てしまったのである。
 
現在、トレーラーも全部で10台に増えている。予約したいという電話も掛かってくるが、あくまでランチ用のレストランという経営方針なので、予約はいっさい受け付けていない。テイクアウトはイートインの5倍あるらしい。
 

『ふるさと』は『郷愁協奏曲』を書くまでは、この曲を最後に制作しようと思っていた作品である。
 
最初はアコスティックにまとめるつもりだったのだが、『刻まれた音』も『郷愁協奏曲』もアコスティックなので、こちらはスターキッズの電気楽器バージョンを使うことにした。その他に多少の和楽器の音を入れることにして、今田一家に協力してもらった。
 
友見に箏、三千花(槇原愛)に三味線、小都花(篠崎マイ)に太鼓、七美花に尺八を入れてもらっている。これに音源制作の際は私が胡弓を弾いた。
 
この曲のPVに関してはアニメで作る方針を早い時期に決め、11月下旬にアニメ制作会社に発注しておいた。それは1月中旬にできあがってきたが、テレビの『日本昔話』を思わせるような、ノスタルジックなアニメに仕上がっていた。
 
実際、『金太郎』『桃太郎』『たのきゅう』を思わせるようなシーンが挿入されている。
 

「『たのきゅう』って女装して大蛇(うわばみ)をやっつけてお金持ちになる話だよね」
などと政子が言う。
 
「マリちゃんは何でも女装とか性転換に結びつけたがる」
「でも女装した、たのきゅうに大男がメロメロになったのなら、たのきゅうさんの女装のテクはかなり凄いんじゃない?」
「そうかもね〜。あるいはたのきゅうさん自体が凄い美男子だったりして」
 
「あ、たのきゅうは可愛い男の娘だったのかもね」
「やはりそういう話になるのか」
 
 
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【夏の日の想い出・郷愁】(8)