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■男の娘とりかえばや物語・各々の出発(1)

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(C)Eriko Kawaguchi 2019-03-02
 
●これまでの話
 
権大納言(大将)の家には同い年の2人の子供がいました。春姫の子供・桜君(さくらのきみ)と秋姫の子供・橘姫(たちばなのひめ)です。
 
桜君は男の子なのに女性的な性格で、いつも部屋の御帳の中に閉じこもっており、母や女童など以外には会おうとせず、蹴鞠や小弓は苦手、笛や琵琶も苦手、漢字を見たら頭が痛くなる性格。一方橘姫は女の子なのに男性的な性格で、まず部屋に居ることがなく、いつも屋敷の中を走り回り、木登りしたり蹴鞠などで遊んでいます。笛も好きで、男の子が習うようなものを習いたがり、逆に普通の女の子が好むような人形遊びなどはしません。
 
それで父の権大納言は「兄と妹をとりかえばや(取り替えたい)」と悩んでいたのでした。
 
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ある日屋敷の中を冒険していた橘姫は、偶然桜君の部屋に迷い込みます。そこでふたりは初めて出会ったのですが、ふたりはお互いがそっくりであることに気付きます。すると橘姫はそれを利用して、しばしば桜君の振りをして男装して出かけたり、弓矢や馬術の練習をしたりするようになったのです。そして橘姫が桜君のふりをして出かけている間に、舞や箏の先生がやってくると、桜君は橘姫の代理をやるハメになり、結果的に橘姫の服を着て、女装でお稽古を受けました。すると桜君は元々おしとやかな性格でもあり、舞を美しく舞うことができて褒められます。
 
それで結局、本来桜君が受けるべき漢籍や詩の講義、笛や琵琶のお稽古を橘姫が男装で受け、本来橘姫が受けるべき行儀作法・箏・和琴などのお稽古を桜君が(不本意ながら)女装で受けるというのが常態化してしまいます。
 
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それでふたりのことを心配していた大将も、最近桜君は男らしくなってきたし、橘姫はおしとやかになってきた。ふたりのことを心配したのも杞憂であったかと思うようになりました。
 
それで橘姫は祗園祭りに褌(ふんどし)一丁で参加したり、賀茂祭(現代の葵祭)で流鏑馬の射手をしたりと“若君”として大活躍。一方の桜君の方も松尾大社の女子だけの秘祭で舞を舞うなど“姫君”として評価が上がっていきました。
 
ふたりの「入れ替わり」は数年続いたのですが、ある時、とうとうそれがバレてしまいます。大将はショックで落ち込んでしまいました。桜君は自分の後継者に、橘姫は天皇の妻にと期待していたのが全て崩壊してしまいます。そしてふたりは僧とか尼にでもするしかあるまいと思ったのです。
 
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ここでひとつ大きな勘違いがあったのですが、橘姫は活発な性格で、男並みに活躍したいという気持ちがあり、なれるものなら男になりたいと思っていますが、桜君は内向的な性格ではありますが、別に女の子になりたい訳ではなく成り行き上、橘姫の代理を女装で務めているだけで、女の子の格好するの恥ずかしいなどと思っています。しかし父君やお付きの侍女たちは、桜君は女の子になりたいのだろうと思い込んでいました。桜君の気持ちが分かっているのは橘姫の母・秋姫だけで、桜君の母・春姫も「あの子は女の子になりたいのだろう」と思っていました。桜君は、女の子になりたいなら去勢しませんか?と言われて「少し考えさせて」と答えたりするのでした。
 
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ふたりの評判が高まるにつれ、天皇がぜひそちらの息子を出仕させるようにと言います。大将は憂鬱な気分だったのですが、天皇から言われては出仕させない訳にはいきません。それでふたりを成人させることにします。束帯をつけて元服の儀をすることになった橘姫は大喜びですが、橘が元服するので結果的に代わりに裳(スカート)を付けて裳着をするはめになった桜君は「やだー」と思いました。
 
しかしふたりは無事?成人の式を終え、橘姫は“涼道”の名前を与えられて宮中に出仕していくのでした。そして宮中では、左大臣の孫息子が凄い美形で、漢籍にも詳しく、詩(漢詩)も歌(和歌)もうまく、書く字も格好いいというので、女官たちに評判になります。大量のラブレターが舞い込むことになりました。
 
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一方桜君の方は“花子”の名前を与えられ、女子として成人してしまい、本人としては大いに困惑していました。このまま誰かの嫁になれとか言われたらどうしよう?とか、ボク月の物が来ちゃったらどうしよう?などと思っています。更に、今までは色々話し相手になっていた橘が宮中に出仕しているので手持ちぶさたでもあり、自分はこの後、どうやって生きて行けばいいのか悩み、愁いに満ちた日々を送っていました。
 
(これまでの話:ここまで)

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(*1)この物語は“現代劇”ではなく“時代劇”として書かれた。
 
この物語が制作されたのは“古とりかへばや”が11世紀末で、改変版で現代まで伝わる“今とりかへばや”が書かれたのが12世紀末と考えられている。
 
これに対して原作(“今とりかへばや”)の記述を見ていると、吉野宮(天皇の兄弟)を紹介する記述で、遣唐使がしばらく派遣されていなかった所を無理に願い出て中国に渡航したと書かれているので、この物語は遣唐使が途絶えた9世紀半ばを舞台としていると考えられる。
 
遣唐使は838年に派遣されたものが最後で、これも804年に空海らが渡航してから40年ぶりの派遣であった(本来は20年に一度派遣する)。しかもこの渡航は大失敗で何度も天候不順で延期になった末、船の遭難で多数の犠牲者を出している。その後894年に60年ぶりに検討されたものの、大使に任命された菅原道真が「唐はもう衰退していて渡航して学ぶべきものは無い」と言って中止を建議。これにより遣唐使は正式に廃止された。実際唐は907年に滅亡している。
 
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さて、その年、天皇(夢成)は健康を害し、譲位なさることとなりました。引退後のお住まいは朱雀院(*2)に置くことになります。
 
それで弟君の東宮・尊和親王が新しい天皇に即位します(*4)。そして天皇(夢成)の唯一人のお子様であった雪子内親王が新たな東宮に任命されました(*3). なお、この時点で新天皇・尊和にはお子様がありません。
 
つまりこの時期は皇位継承権者が極端に乏しかった時代で、今のままでは、雪子皇太子が即位したとしても、女帝は結婚ができない(*3)ので、もし新天皇に今後皇子が産まれなかったら、天皇の伯父である式部卿宮あるいはその子供の仲昌王(後の宰相中将)が皇位を継承することになる可能性もありました。仲昌王は女性関係が派手なので、跡継ぎ問題には困らないものの、天皇としての品位にやや(?)問題が生じる所でした。
 
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その仲昌王にしても多数の恋人がいて、既に数人の子供もいるものの、自分の正式な妻とすべき貴種の娘が産んだ子供(自分が万一天皇になった場合に親王宣下できるような子供)はまだおらず、そういう女性を得たいと思っており、それで熱心に右大臣の四の君(萌子)と権大納言の長女(桜姫!)に恋文を送っていましたが、どちらの家でもあんな男と結婚させる訳にはいかないとして、全て側近たちが握りつぶし、絶対に手引きをしないようにと家中の者に言い渡していました。
 

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(*2)天皇が譲位なさった後に住む御所を後院(ごいん)という。しばしば唐名(*6)で「仙洞御所(せんとうごしょ)」とも呼ばれる。仙洞とは仙人の住処(すみか)という意味である。
 
現代の平成時代に皇位にあった今上が譲位後にお住まいになる場所も仙洞御所と呼ばれる予定である。実際には現在の東宮御所を改修して仙洞御所にすることになっており、つまり今上(明仁)と東宮(徳仁)が住まいを交換なさることになる。現在の東宮御所を改修するまでの期間は、一時的に旧高松宮邸である高輪皇族邸をご使用になる。ここは昭和天皇が皇太子時代にお住まいになっていた(1915-1924)場所でもある。
 

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(*3)史実では、女性で皇太子になったのは、阿倍内親王(後の孝謙天皇)のみである。とりかへばや物語の原作では(ネタバレになるが)、雪子東宮は、自分のお気に入りの橘姫(尚侍)が今上の皇子を産んだので、その若君に東宮の地位を譲って自分は東宮の地位を返上する。雪子自身が産んだ若君は右大将(桜君)と吉野宮の一宮(海子女王)との子供ということにして育てられることとなる。
 
なお女性天皇が未婚のまま即位して、その後結婚した例は過去には存在しない。女性天皇はこれまで10人いるが、
 
(1)皇后の経験者で夫の天皇が亡くなった後即位
(2)未婚の皇女
 
という2パターンに分けられる(元明天皇は特例)。
 
神功皇后(c400) 仲哀天皇の皇后
飯豊青皇女(484) 男嫌いのため結婚しなかったという(**1)
推古天皇(592-628) 敏達天皇の皇后
皇極・斉明天皇(642-645/655-661) 舒明天皇の皇后
持統天皇(686-697) 天武天皇の皇后
元明天皇(707-715) 皇太子のまま薨御した草壁皇子の皇太妃
元正天皇(715-724) 生涯独身
孝謙・称徳天皇(749-758/764-770) 生涯独身(**2)
明正天皇(1629-1643) 生涯独身
後桜町天皇(1762-1770) 生涯独身
 
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神功皇后は多くの人が天皇として数えており、日本書紀も神功皇后のために1巻使用している。飯豊青皇女は清寧天皇の崩御後、次の天皇がなかなか決まらなかったため、1年近く中継ぎとして政務を執った。そのため、推古天皇を即位させる時に女帝の前例として使われたとも言われる。元明から元正への譲位は史上唯一の母娘継承だが、元正は草壁皇子の娘で男系でもある。
 
(**1)飯豊青皇女は1度男と寝てみたが楽しくなかったので以降男とは付き合わないことにしたという。
(**2)道鏡と称徳天皇の男女関係を示すような信頼出来る資料は存在しない。
 

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(*4)皇位が兄から弟へと引き継がれるのは、そんなに多いことではない。9-10世紀に限って言えば、下記の例があるだけである。
 
●父の先帝は桓武天皇(在位中崩御)
平城天皇(805-809譲位)
嵯峨天皇(809-823譲位)
淳和天皇(823-833)
 
平城天皇には多数の子供がいて、その1人の高岳親王は嵯峨天皇の皇太子となったが、薬子の変に連座して廃太子となり、唐に渡って、その後天竺に向かう途中で虎に襲われ死亡した。嵯峨天皇にも多数の子供がいた。唐に渡った親王という意味では、高岳親王は吉野宮のモデルの1人かも知れない。
 
●父の先帝は醍醐天皇(譲位7日後に崩御)
朱雀天皇(930-946)
村上天皇(946-967)
 
後述。
 
●父の先帝は村上天皇(在位中崩御)
冷泉天皇(967-969譲位) 皇子皇女多数
円融天皇(969-984) 子供は一条天皇のみ
 
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兄に子供が多数いて弟には子供が1人だけというのは、この物語とは逆のパターンである。
 
さて、朱雀帝・村上帝のパターンがこの物語と比較的似ている。しかも兄は“朱雀院”である。ちなみに朱雀院を後院(ごいん*2)として使用したのは宇多天皇、朱雀天皇、円融天皇などがある(そのため宇多天皇も円融天皇も引退後は朱雀院と呼ばれていた)。
 
朱雀天皇には2人の妻があり、子供は煕子女王(兄の保明親王の娘)が産んだ昌子内親王のみである。もうひとりの妻・藤原慶子(左大臣・藤原実頼の娘)には子供が無い。
 
つまりこの物語のパターンととてもよく似ている。煕子女王は出自からして皇后(中宮)になってもよかったと思うが、実は昌子内親王を産んだ時に亡くなっている。結果的には、女一宮だけがいて、その母が既に亡いというパターンも似ている。
 
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史実ではその昌子内親王は村上天皇の息子の冷泉天皇(昌子からは従弟)の中宮になったが、子供はできなかった。
 
なお、物語の流れと大きく違うのは、朱雀帝・村上帝には多数の兄弟がいたというのと、実は昌子内親王は、朱雀帝の譲位後に生まれているという点か。
 

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さて、話を涼道(橘姫)と花子(桜君)の時代に戻します。
 
天皇(朱雀院)の譲位と時を同じくして、関白・左大臣である藤原隆茂(桜君たちの祖父:通称大殿)も高齢のため引退を表明、また少し遅れて大納言を務めていた人の1人が亡くなりました(大納言の定員は2名)。そのため、昇進のラッシュが起きます。
 
桜君たちの父は大殿の後を継いで関白・左大臣に任命されました(*5)。侍従の君(橘君)は権中納言・中将・左衛門督に(物語の中では「中納言」と呼ばれることが多い)、また仲昌王も中将になり「宰相中将」と呼ばれることになります。
 
(*5)兄の博宗を差し置いて重治が左大臣になった理由は不明。普通なら右大臣の兄が左大臣・関白になり、弟の重治が右大臣になりそうなのに。またこのことで兄弟仲が悪化したような気配も無いのがとても不思議である。あるいは重治の母が皇女など高貴な血筋であったため、最初から大殿の跡継ぎは長幼の順で弟ではあっても重治と定められていたのか?
 
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人間関係が複雑なので↓に皇位継承前と皇位継承後の家系図を上げる。
 

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■男の娘とりかえばや物語・各々の出発(1)

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