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■神婚伝説・神社創始編(1)

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(C)Eriko Kawaguchi 2013-06-14

 
志摩が葛城の里で生まれたのは644年(皇極天皇3年)のことである。その地の村長(むらおさ)の第四子で、上に兄の都利(とり)・久真(くま)、姉の夏衣(かい)がいた。
 
志摩が生まれる前年643年に山背大兄王(聖徳太子と蘇我刀自古の子)が討たれ上宮王家が断絶するという大事件が起きていたが、その首謀者であり、もう誰も逆らう者が居なくなった筈の時の権力者・蘇我入鹿自身が、646年、中大兄王子(*)と中臣鎌足に暗殺され排除されてしまい蘇我本家も断絶した。乙巳の変(きのとみのへん)と呼ばれる古代のクーデターであり、この事件からいわゆる「大化の改新」
が始まる。
 
(*.「王子」と書いて「みこ」と読む。現代では「皇子」と書かれるが、その呼称はそれまでの「大王(おおきみ)」に代わり「天皇(てんのう/すめらみこと)」
の名称が確立する天武朝以降であるとされる)
 
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この中央の大事件は葛城のような田舎にも波及した。蘇我本家と関わりの深かった者があるいは失脚し、あるいは殺害されたりする事件が相次ぐ中、志摩の両親も身の危険を感じ、その地の役職を辞して吉野の山奥に隠棲した。志摩の祖父が聖徳太子や蘇我蝦夷の傍に仕えていて、色々「やばいこと」にも関わっていたためである。祖父自身は家族に累が及ばないよう、ひとりで道奥(みちのく)方面へと旅立って行った。
 
この移住が志摩三歳の時だったので、志摩は葛城での暮らしの記憶は無い。物心付いた頃から、山奥で鳥の声や鹿の啼き声などを聴きながら育った。
 
志摩の兄たちは山の中を走り回って遊んでいた。それで志摩も最初の頃はよく兄たちに連れられて山道を歩いたりしていたが、そのうち姉と一緒に近所の川縁や神社の境内などで遊ぶことの方が多くなった。
 
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この時期の神社というのは今のように社殿は無い。純粋に神に祈る場所であり、祭事の時などに使用される、磐座(いわくら)と呼ばれる大きな石があり、そのそばに神籬(ひもろぎ)と呼ばれる棒が2本立てられているだけであった。しかし境内はいつも綺麗に整えられているので、子供たちが遊ぶのにも良い場所であった。そしてむしろ子供たちがそこで元気に遊ぶことにより神様の力は盛んになると言われていた。
 
川縁や神社などで遊んでいるのは、ごく小さな子を除くと女の子が多かったが、志摩はその中に埋没していた。
 
「志摩ちゃんって、夏衣ちゃんの妹みたい」
「ああ、この子可愛いから、私の妹ということでもいいよ」
 
本人も優しい性格で、男の子たちがするような戦ごっこや、弓矢遊びのようなことより、女の子たちがするようなお手玉や石並べのような遊びを好んだ。特にお手玉は小さい頃から上手で、上の年齢の子からも
 
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「志摩ちゃん、教えて、教えて」
と言われて、要領を教えたりしていた。
 
志摩が葛城で村長の息子として育てられていたら、馬の乗り方、弓矢や剣の使い方などを教えられ、官僚や軍人として立派になるよう教育されていたのであろうが、父はむしろ政治的な野心が無いことを示しておきたかったこともあって、長男次男にも剣や弓などは扱わせていなかったし、志摩が女の子たちとそういう「軟弱な」遊びをするのも許容していた。そもそも三男ともなれば、扱いもかなり適当になったという面もあった。
 
それでいつしか志摩がしばしば姉のお下がりの女の子の服を着たりするようになっていったのも両親は許容していた。
 
「志摩ちゃん、可愛いからお嫁さんに行けるかもね」
などと遊び友だちの女の子たちからも言われる。
 
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「お嫁さんか。いいなあ。なりたいなあ」
などと志摩は言っていた。
 

志摩が女の子の服を着ていることを許容されたのには、もうひとつ理由があった。それは志摩が幼い頃からしばしば示していた霊感である。
 
最初は小さな事だった。
 
まだ志摩が物心も付かない頃。志摩の母は志摩を抱いて友人の家を訪問していた。葛城では上流階級の女は家の中に籠もっているものであったので、吉野に来て、最初その生活環境には絶句したものの、身分の上下にかかわらず女が自由に外を歩き回り、気易い同士でおしゃべりしたりできる雰囲気には感激したらしい。
 
その日、友人宅に行くと、友人は何かを探していた。
「どうかしました?」
「いえ、私ったら愛用の筆をどこかに置きっ放しにしたみたいで見つからなくて」
 
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その時、まだ言葉もまともにしゃべれない志摩が「神棚」と言った。
 
「へ?」と言った友人は、言われたので神棚を見ると、そこに筆があった!
 
「そうだった。書をしたためている最中に、神棚のお水を交換してなかったことに気付いて交換してて、その時、ひょいとここに置いたんだった!」
 
志摩が失せ物をよく見つけてくれるというのは、母の友人の間ではその後結構有名になり、あちこちで「ちょっと頼む」と言われて母はよくそれで出かけていたという。
 
やがて志摩が5歳の時、志摩はとんでもないものを見つけてしまう。
 

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その年は雨が降らず、旱(ひでり)の様相を見せていた。川の比較的上流域に当たり元々水に乏しい志摩たちの村では、6月くらいの時点で水争いがしばしば起きるようになり、その喧嘩の仲裁役に志摩の父も借り出されていたが、そもそも絶対的に少ないものをどう分けるかは、お互いに命が掛かっているだけに双方簡単には譲らず、苦悩の毎日であった。
 
そんなある日、志摩の母が志摩と夏衣の2人を連れて神社にお参りに行き、雨祈願をしてから帰ろうとしていた時、志摩が神社の入口の所にある「蛙岩」
と呼ばれていた、蛙の形にも見える5尺(1m)ほどの岩の所を指し
「ここを掘って」
と言った。
 
「ここを掘ると何かあるの?」
と母は言ったが、志摩にもそれは分からないようである。
 
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これは御神託かも知れないと思った母は夫に相談し、志摩がしばしば失せ物を見つけていたことから、何かあると考えた夫も、村の主だった人に相談した。
 
そこでその蛙岩を動かし、少しその下を掘ってみた。
 
すると岩の下を1mも掘ると、妙に土が湿っていることに気付く。
「もっと掘ってみよう」
ということで更に掘ると、2m近く掘った所で豊かな水が湧き出してきた。
 
「地下水だ!」
 
その地下水は物凄い湧出量があり、急遽村人総出の普請でそこから村の水田への水路が作られた。
 
そしてこの水によりその年、村は救われたのであった。
 
この事件により、志摩は「神に愛された子供」とみなされるようになり、そのため志摩が他の子と少し違った趣向を持っていても容認される雰囲気が形成されていったのであった。
 
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この山間(やまあい)の村では毎年春と秋に大きなお祭りが行われていた。春はその年の作物がよく出来て、狩猟でもたくさん獲物が獲れるように祈り、秋はその年の自然の恵みに感謝するお祭りである。
 
その祭には6歳以上のまだ初潮が来ていない女子による巫女舞が奉納されていた。6歳になった年から、先輩の女の子たちに教えられて舞を覚える。志摩が6歳になった年(649年:この物語の年齢は全て数え年)、同い年の女の子たちが舞を教えられているのを見て、志摩は
 
「私もそれ習いたいなあ」
と言った。
 
すると先輩の女の子たちも
「志摩ちゃんなら、覚えてもいいかもね」
 
と言って一緒に教えてくれた。志摩は舞を覚えるのも得意で、すぐきれいに舞うことができるようになり、巫女服も夏衣のお下がりのをもらって楽しそうに舞っていた。
 
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志摩が女の子たちに混じって巫女舞を舞っているのを見た、神社の禰宜(ねぎ)は、この子を本番でも舞わせてよいものか、神にお伺いを立ててみた。すると大吉の御神託が得られたので、志摩の両親とも話し合い、そのまま舞わせることにした。
 

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やがて志摩が12歳になった年。
 
巫女舞は少女たちが扇の形に並んで舞うのだが、その扇の要(かなめ)の位置で舞う少女はいわば舞全体のリーダー格であり、最も重要なポジションである。春の巫女舞でその要の位置で舞った12歳の少女が、6月初潮が来て巫女舞を引退することになった。
 
12歳の少女の中で、まだ初潮が来ていないのは志摩だけになった。志摩は初潮が来ることはないであろうから、このままだと秋の巫女舞では扇の要の位置で舞う役をさせなければならない。しかしさすがにこの子に要の位置で舞わせてよいものなのだろうか。
 
禰宜は神社の世話役、そして志摩の父とこの問題について話し合った。
 
「志摩ちゃんは永久に初潮が来ないと思うので、引退の際で悩みます」と禰宜。「志摩ちゃん、精通は来ているのですか?」と世話役。
「まだのようです」と志摩の父。
 
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「精通が来たら引退させます?」と禰宜。
「いや、同い年の女の子たちがみんな引退しているから、もう引退ということにして11歳の子に扇の要を舞わせては?」と父。
 
「しかし本来要を担うべき子を勝手に引退させると神の怒りを買うかも知れない」
と世話役。
 
古代は人々が本当に神を身近に感じ、神の意志を大事に生活していた時代である。3人はしばらく悩んだ。そして志摩の父は言った。
 
「禰宜、神意を問いましょう」
 

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禰宜の従姉で、神に仕えるために独身を通している巫女体質の女性が普段詰めている天河村の神社からやってきた。
 
深夜、立会人として同席する禰宜、志摩の父、神社の世話役が見守る中、巫女は磐座の前で半裸で祝詞を唱え、やがて神懸かりになった。
 
「その娘に、奥宮に奉納されている鏡を取って来させよ。神の加護あれば、無事持ち帰るであろう」
 
と巫女は言った。
 

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「奥宮って、もう数十年誰も行っていないのでは?」と世話役。
「鏡が奉納されているのですか?」と志摩の父。
 
「私の父から聞いております。遠い百済(くだら)の国より奉納された鏡を、数代前の村長が訳語田大王(おさたのおおきみ:敏達天皇.在位572-585)より拝領し、村宝として奥宮の船岩と呼ばれる磐座の前の地面の中に埋めたのだそうです」と禰宜は説明する。
 
「訳語田大王とはまた、随分昔の話ですね」と志摩の父。
「それを取ってこいと? 12歳の娘に?」と世話役。
「志摩ちゃんって、あまり山歩きしてませんよね?」と禰宜。
 
「しかし神託があった以上、行かせねばならない。そのためにもし志摩が命を落としたとしても、それが神意だと思う」
と志摩の父は厳しい顔で言った。
 
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禰宜は少し考えてから言った。
「巫女は『神の加護あれば』と言いました。『神の加護あらば』ではなく『あれば』なので、神の加護は本当にあるのだと思います」
 
3人は志摩にその「試験」をさせることで合意した。
 

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自宅に帰って、鏡の話をする。
 
志摩の母は驚き
「この子にそんな危険なことはさせられません」
と言った。
 
しかし志摩は表情を変えることもなく言った。
「私行ってくるよ。神様がそれを取ってこいと行ったんだもん。ちゃんと神様は守ってくれるよ」
 
姉の夏衣も
「志摩は神様に愛されている子供だもん。ちゃんと無事に帰って来れるよ」
と言った。
 
そこで志摩は禰宜の指示によって作られた特製の衣装を着せられ、神社でお祓いを受けた上で、おにぎりと水を持ち
「行って来ます」
と明るく言って、山道に入っていった。
 
両親もあまりにも志摩が明るいので、これは無事帰ってくるのではという気がした。
 

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志摩はそんな両親たちの心配をよそに、気軽にお散歩でもするような感じで、禰宜から渡された地図を見ながら山道を歩いて行った。
 
最初はけっこうしっかりした道であったが、次第に長く誰も通ったことがないような感じで、道としては存在するものの雑草やよく分からない花などが生い茂っていて、それを踏みながらでないと進めないような道になってしまう。志摩は最初はその花を踏むのは可哀想だと思って、花を踏まないように歩いていたが、そのうち花を踏んでしか先に進めなくなった。
 
「お花さんたち、ごめんねー」
と言いながら志摩は歩いて行った。
 
そしてかなり歩いた所で、志摩が歩いていた道は行き止まりになってしまう。
 
うーん。。。。
 
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さすがの志摩も悩んだ。
 
少し考えてみる。要するに私は道に迷ったんだ!
 
どこかで地図を読み間違うか、あるいは分かれ道を間違ったのだろう。地図を眺めてみるものの、眺めた所で、どこで間違ったかなんて分からない。困った。
 
取り敢えず志摩は一休みすることにして、椛の木の根元に座ると水を少し飲み、おにぎりを1個だけ食べた。
 
しかし行き止まりということは戻るしかない!
 
そう楽観的に考えた志摩は今来た道を戻り始めた。ところが、見たことの無い分かれ道に遭遇する。私、こんな所通ったっけ?
 
どうも戻ろうとして、また別の道に迷い込んだようである。
 
少し休んでから考えよう。
 
そう思った志摩はその分かれ道の所で取り敢えず座りまた少し水を飲んだ。そして、木々の葉が風で触れ合う音や、小鳥の鳴き声などを聞いていた。ここ何だか気持ちいいなあ。そんなことを考えている内、志摩は眠ってしまった!
 
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神婚伝説・神社創始編(1)

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