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「礼装になるのが未婚の方ですと振袖、既婚の方ですと留袖ですね」「ああ」
「それに準じるのが訪問着とか付下げというのがあります」
「その下に小紋とか色無地とかがあり、このあたりまでが外出着」「はあ」
「そして浴衣とか、ウールや化繊の着物が普段着ですね」
「なるほど。振袖って礼装なんですね!」
「未婚の女性の第一礼装ですね。イブニングドレスなどと同じですよ」
「振袖と浴衣しかわからなかった。訪問着、付下げ?、こもん??」
「小紋というのは小さな模様をたくさん型押しして作られた生地ですね」
「ああ、小さい紋ですか」「そうそう」
「訪問着と振袖は似たような作り方をしているのですよ。ちょっとこちらを見てください」といって店内の和服を着たマネキンの所に連れていった。店内には多数のマネキンが並んでいる。
「この服の模様を見てください。縫い目を越えて模様が続いてるでしょ?」
「あ、ほんとだ。凄いですね」
「振袖も訪問着もこういう作り方をするんです。絵羽というんですよ。最初に仮縫いして模様を染めて、またバラしてから仕上げるんです」
「すごい手間が掛かっているんですね」
「付下げというのは小紋との違いで説明するとわかりやすいかと思うのですが長い反物状の布を着物に仕立てる時、最初の模様が全部同じ向きに入っていたら、仕立てた時に上向きの模様と下向きの模様が出来てしまいますよね」
「あ、確かに・・・・」
「小紋の場合はそもそも小さな模様なので上下逆になってもかまわないのですが、付下げはもっと大きな模様を使うので、逆さまになると困ります。そこで、あらかじめ着物の状態になった時にどちら向きになる部分かというのを考えて、上下ひっくり返らないように模様を染め上げた反物で作ったのが付下げです」
「凄い。着物って、よく考えられてるんですね!」
「付下げでも凄くよくできているものは、縫い目で模様がつながってしまうものもあります。それで最近は訪問着と付下げの境界線がけっこう曖昧になってるんですよ」「へー」
「それでお客様、振袖に興味を持っておられたようですが、成人式か何かに着られます?」「成人式!」
そういえば自分も来年の1月は成人式だ。何を着るかなんて全く考えてもいなかった。でも振袖で成人式? 確かに女の子たちは着るよな・・・・・女子会でもそんな話が出ていた。でも男の自分がそんなの着ていいのかしら??
「着てみたい気がします」
え?自分は何言ってんのさ?そんなの着た写真とか親に送れないぞ。
「お客様なら、振袖似合うと思いますよ」鈴木さんはにこやかに言った。
「でも、和服を全然着たことのない人がいきなり振袖着ると、なかなか着こなせないことも多いので、まずは浴衣などで練習なさってはいかがでしょう?今年は猛暑ですしまだしばらく、浴衣を着る機会はありますよ」
そういえば子供の頃は浴衣を着て縁日とかに行ったっけ?
「今から浴衣着てたら、1月には振袖自分で着れるようになるでしょうか?」
「あ、浴衣は少し練習したらご自分で着れるようになると思いますが、振袖は自分で着るのはとても難しいです。最初は当店のような呉服屋か、美容室などで着付けを頼んだ方がいいですね。当店で振袖をお買い求めになりますと、1年間は何度でも着付けは無料でさせて頂きますから」
「ああ、そういうものなんですね」
「洋服などでもそうですが、それを着ている自分を心の中に受け入れてないとまさに「借りてきた衣装」になり違和感が残ります。ですから、成人式で振袖を着たいというお客様にはそれ以前に、浴衣でもウールの着物でもいいから、頻繁に和服を着て出歩くことをお勧めしています。洋服と和服で歩き方から違いますし」
「あ、着こなしってそうですよね」
千里がスカートを穿けないのもそれだった。スカート姿の自分に違和感があった。
「振袖、もしお買い上げになる場合でも、お客様はほんとに和服が初めてのようですので、色々な柄を見てからお決めになった方がよいのではないでしょうか。当店の既製品のカタログを差し上げますね。少し眺めてみてください」
「ありがとうございます」
「今日も店内を自由に見学なさってかまいませんよ。あと来週、着物のミニ講座などしますので、いらっしゃいませんか?」「あ、はい」
千里は「着物ミニ講座」のパンフレットをもらい、鈴木さんにお礼を言うと店内をゆっくりと散策するかのような感じで見てまわった。実に色々な和服がマネキンに着せて展示されている。箱に入れられたものも多数並べられていたが、箱に全部写真が添えられていた。また反物の状態で展示されているものもある。浴衣コーナー、街着コーナー、小紋・色無地コーナー、留袖・訪問着コーナーと見て、やはり振袖のコーナーで足を留めた。
洋服のデザイナーとしても有名な人のブランドの振袖もある。しかし千里はそれは微妙な感じがした。古典柄と書かれたものはどれも好みだという気がした。自分は日本人なんだな、と千里は思って微笑んだ。反物の状態のもので友禅風と書かれたものは、とりわけ千里の心を動かした。
『表地価格35万円・フルセット価格50万円』と書かれている。千里が顔を上げると鈴木さんがやってきた。「すみません。この表地価格・フルセット価格というのは、何でしょうか?」
「はい。表地価格というのは和服の表に使うこの生地そのものの価格ですね。和裁をなさる方でしたら、それだけ買ってご自分でお仕立てなさってもよいのですが、当店にお仕立てを御依頼いただき、それと帯ですとか、長襦袢、各種小物、草履・足袋・帯締め、帯板などなど着付けに必要な品までセットにしたものを『フルセット価格』としております」
「なるほど。お仕立代に帯とかも高そうですね」
「ええ。ふつうはフルセットでお買い求め頂いた方が良いかと思います」
「ショーウィンドウのも良いけど、これも良いなと思って。友禅って、京友禅とか加賀友禅とかいう、あれですね?」
「はい。とても高度な技法で制作されたものです。ただこれは『友禅風』
ですのでお安くなっております」
「ああ、本当の友禅じゃないんですね」「お客様こちらへ」
鈴木さんが千里を店の奥のほうに案内する。店の奥のほうは畳になっていてそこに和箪笥が並べられていた。そのひとつを開けて布地を取り出す。
「こちらが京友禅の品です。京友禅の若手作家が制作したもので、センスが新しいですし京友禅にしては派手なので、お客様にも合うと思います。こちらは表地価格が180万円の品でフルセット価格は選ぶ帯にもよりますが220万円くらいです」
「きれい」千里はその美しい模様に心を奪われ、しばし見とれていた。
「でもごめんなさい。さすがに予算オーバーです。でもすごくきれいですね。頑張ってバイトしてこんなの買えるようになりたいなあ」
「このお品は売れてしまうかもしれませんが、予算がお取りいただけるようになりました時に、また何かご案内させて頂きますよ」
鈴木さんはにこやかに言った。
「ありがとう」
千里は、かなりその気になっていた・・・・でも成人式には貯金が間に合わない。
「そうだ。今日は浴衣を買っていきます」「あら、ありがとうございます」
「すみません。今日はまだあまり勉強してなくてよく分からないので、適当なものを選んで頂けますか?1万円以内で」
鈴木さんはしばらく見ていたが赤い地のシックな雰囲気の花柄の浴衣を選んでくれた。帯・草履とセットで8000円からの値下げ価格6000円だった。
「何でしたら今、お着付けしましょうか?着付け料サービスしますよ」
と言われたが、その格好で家まで歩いて帰るのがまだ恥ずかしい気がした。
「すみません。今日はいいです」
「では浴衣の着方を解説したパンフレット差し上げますね」
「ありがとうございます!練習します」
千里は商品を入れた紙袋を受け取ると、心躍るような気持ちで家まで戻った。
自宅に戻って、まずシャワーを浴び、ついでに肌のお手入れをした。
きれいに仕上げた時のすべすべの足の肌の感触が、千里は好きだ。
自分の身体に自分で惚れてしまいそうになる瞬間。
少しどきどきしながら、タンスから女性用の下着を取り出し、身につける。ふだんは中性的な下着を着けているのだが、一応女性用の下着も持っていた。そしてスカートとカットソーを着てから、壁に寄りかかり、浴衣の着方の解説書を読み始めた。浴衣を着る前に女性的な気分に心をシフトしておきたかったのでスカートを穿いた。スカートは5着ほど持っていたが、それを穿いて外に出たことはあまりない。もっぱら家の中での着用になっていた。