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「まあそんな感じで姉貴を溺愛してたから、そのショックも凄まじくて、最初は葬式の最中に心筋梗塞起こして病院に運び込まれて」
「わぁ」
「その後、糖尿を発症して、目も白内障になってこれは両目とも手術したし、更年期障害が一気に出てきて、ホルモン補充療法とかもやってたけど、これは糖尿を悪化させるんだよね」
「難しいですよね、それは」
女性ホルモンは血糖値を上昇させる。だから女性ホルモンを錠剤や注射などで摂っている人は食事のカロリーコントロールをして適度に運動もして血糖値に注意する必要がある。
自分も女性ホルモンを小学生の頃から摂っていたから、カロリーオーバーしないように、かなり医者から言われていたよな、と冬子はもう10年くらい前のことを思い出していた。
「まあその後は病気の百貨店状態だよ」
「ああ」
「今回は肝機能が低下しているから2〜3ヶ月入院させて様子を見る。だいたいあの人、食生活に問題があるからさ。色々注意するけど、わがままで言うこと聞かないんだよ」
「それは困りますね」
「まあ入院したら、厳しく食事管理されるからね」
「大変でしょうけど、頑張ってほしいですね」
「私が言っても聞かないから、今度孫に注意させに行かせるよ」
「ああ、お孫さんから言われたら聞くかも」
と言いつつ、冬子はお孫さんって、誰の子供だろうと思った。ワンティスのメンバーの中で上島先生・雨宮先生は長い付き合いなので個人的なことも多少把握していたが、夕香・支香の姉妹についてはあまり知らなかった。支香に子供がいるという話は聞いたことないので、ふたりの他にもきょうだいが居たのかな?
「お孫さんって何歳くらいなんですか?」
「まだ小学生だけど、しっかりしてるんだよね」
「へー。男の子ですか?」
「そうだなあ。去年は学習発表会で白雪姫やってたけど格好良い白雪姫だった」
「御免なさい!女の子でしたか」
と冬子が言うと、なぜか支香は笑っていた。何?何?と思う。
「そういえば上島先生とは長かったんですか?」
と冬子は聞いてみた。
支香は苦笑いしたもののこう答えた。
「恋人関係になってからはそう長くない。ただ・・・」
と言って、支香は口ごもる。冬子も無理には聞かない。
「そういえばこんなものが出てきたんだよ」
と言って支香はボールペンを1本出して来た。
「母ちゃん入院させるのに部屋の中のものを整理していたら唐突に出てきた。姉貴がいつも詩を書くのに使っていたボールペン」
と支香は言う。
「夕香さんも詩を書いておられたんですか?」
と冬子は意外に思って訊いた。
「元々は高岡さんが大学生時代に使っていたものなんだけど、姉貴が譲り受けたんだよね」
「へー!」
「でも私はほとんど詩とか書かないからさ。たくさん詩も曲も書いている上島にケイちゃんから渡してやってくれない?その方が姉貴も高岡さんも喜ぶ気がしてさ」
そう言って支香はボールペンをこちらに差し出す。冬子は一瞬考えたものの
「では取り敢えずお預かりします」
と言って受け取り、バッグの中に入れた。
「でも夕香さん、詩を書いていたのなら、それをシングルのB面とかにでも入れたりしても良かったのに」
と冬子は何気なく言った。
すると支香は一瞬何かに怒ったような表情をした。
え?と思っていたら、支香はしばらく沈黙した後で言った。
「これ誰にも言わないでよ」
「はい。私は言わないでといわれたことは、絶対に他人には言いません」
「ワンティスの歌詞は高岡さんが書いていたことになっているけど、実際は姉貴が全部書いていたんだよ」
「え!?」
「例の事故があった夜も、姉貴はこのペンで『疾走』を書いた。その後、高岡さんとドライブに出かけて事故死した」
「・・・・」
「初期の頃は高岡さんが書いていた。ところが彼は作品が売れていくにつれ、自分の書いた作品が多くの人に聴かれているというプレッシャーに耐えられなくなった。それで物凄いスランプに陥ってしまった」
その怖さは自分もある時期感じたなと冬子は思った。自分が作った作品を日本中で自分が会ったこともない何百万もの人が歌っている状況というのは、物凄く恐い。
「それで高岡さんは、全く詩が書けなくなってしまった。でもワンティスの作品を出さなければいけない。それで姉貴が歌詞を書いて高岡の名前でリリースした。元々高岡さんと姉貴は大学の文芸サークルで出会ったんだよ。だから元々ふたりとも詩を書いていた。少し傾向が違うけどね」
「でもでも、なぜそれ夕香さんの名前で公開しなかったんです?わざわざ高岡さんの名前を使う意味が分かりません」
「事務所の社長が、高岡の名前でないと売れないから、高岡の名前にしてくれとレコード会社の担当から言われたと言って。それで姉貴としては高岡と結婚するつもりだったから、どちらの名前でもいいと思って同意した」
「そんな無茶な。だったらワンティスの曲の作詞印税は夕香さんが受け取っていたんですよね?」
「高岡が受け取っていたよ」
「おふたりが亡くなった後は?」
「高岡のお父さんが受け取っている」
「夕香さんのお母さんには?」
「一銭も行ってない」
「非道い」
「その件については私も細かい事情はよく分からないんだけど、こちらに印税が全く払われないのが申し訳無いと言って上島がずっと私たちの生活資金や、母ちゃんの病気の治療費を出してくれていたんだよ」
「そんなことが・・・・」
「だから私と上島は最初からつながりがあった。私は上島には本人のせいではないのにずっと経済的な負担をしてくれていることに感謝していた。それはいつしか愛情に似たものになっていった」
「・・・・」
「でも恋愛はきっちりやめようと上島と話し合った。経済的な支援も断ると言った」
「それでは、支香さんやお母さんの生活が困るのでは?」
「それは何とかするよ。芸能活動禁止だから、どこか工場のパートでも探そうと思っている。私、へたに顔が売れてるから、ファミレスとかコンビニでバイトしたら、騒がれてお店に迷惑掛けるだろうしさ」
「それは大変ですね」
と言って、冬子は少し考えて言った。
「差し出がましいですけど、私に上島先生と話をさせてもらえませんか?」
「話しても仕方ないと思うけど。だって私への経済支援なんて、アルトさんが絶対に許してくれないよ」
「でも話をするだけはいいですか?」
「まあいいけどね」
と言って支香は難しい顔をした。
2月17日“朝4時”。
冬子は自分のフィールダーを運転して行き、上島先生の御自宅を訪ねた。
敢えて何の連絡もせずに、わざわざこんなとんでもない時間に行ったのだが、先生はご在宅で、中に入れてくれた。
「済みません。ちょっと先生に仲介を頼まれたものですから」
「何だろう?」
と上島先生は早朝の来訪に当惑しているようである。しかしアルトさんが紅茶を入れて
「何も無いですけど」
と言ってシュークリームを出してくれた。
「非常識な時間とは思ったのですが、私、この後、放送局に行かないといけないもので。実は昨日は仙台でライブやってて、今東京に戻ってきたんですよ」
「ああ、時間は気にしないで。雨宮さんなんか夜中の2時や3時にふつうに訪ねてくるし」
とアルトさんは笑顔で言っている。
まあ雨宮先生は時間感覚が崩壊しているよなと冬子も思う。蔵田さんとかもだけど。
「もしかして自分で車を運転して戻ってたの?」
と上島先生。
「ええ。ライブが終わった後、少しホテルで仮眠してから走って来ました。それで実は昨日のライブの時に、偶然高岡さんの“ご遺族”と会いまして」
と冬子は言った。
嘘は言ってないよなと思う。支香は高岡さんの奥さんの妹だ。充分遺族である。
「高岡の!?」
「それでこれを言付かったんです」
と言って冬子は青いボールペンを出した。
上島先生はそれを見てギョッとしたようであった。しかし受け取ると触っている。
「高岡が使っていたボールペンだ」
「創作に使われていたものだそうですね」
「うん。あいつこれを使うといい詩が書けるようだったよ」
「それで自分たちの手元にあっても仕方ないから、盟友だった上島先生に渡して欲しいと言われたんです」
上島先生はしばらく考えていたようであった。
「このボールペン、ケイちゃんとマリちゃんで使ってくれない?」
「はい?」
「多分ね、このボールペンは女性が使った方が良い作品を生み出す」
「へー!」
それはそんな気がした。だから高岡さんよりも夕香さんがたくさん使ったんだ。
「『疾走』みたいな良い作品を書いてよ」
「分かりました!」
と言って冬子はそのボールペンを受け取った。
このボールペンを冬子と政子は《青い清流》と呼ぶようになる。
冬子は上島先生がここで『疾走』の名前を出したことで、先生は支香さんを支援する用意があるなと感じた。
上島先生はごくさりげなく言った。
「でもケイちゃん、車を運転して戻ってきたのなら、途中何か食べた?」
「いえ。まだどこもお店がしまっていたんで、食べ損ねたんですよ」
すると上島先生はアルトさんを見て言う。
「茉莉花、この子に野菜炒めか何かでも作ってあげてくれない?」
「うん」
と笑顔で答えて、アルトさんは台所へと向かった。
その背中を見送って先生は小声で冬子に尋ねた。
「支香と会ったの?」
「はい。単刀直入に。支香さんはもう先生と会ったりしないこと、そして騒動の責任を取って半年間、芸能活動を謹慎することになったと言っておられました」
「うん、聞いた」
「でもそうなると支香さんの生活が成り立ちません。支香さんは病気のお母さんも抱えておられます。不倫問題は不倫問題として、本当に私がこんなことを言う筋合いではないし、そんなことを言えるような立場でもないのは分かっていますが、何とか経済的な支援だけでも、続けて頂けないでしょうか?」
と冬子は真剣な顔で言った。
「うん。それはそのつもりでいた」
と上島先生が言ったので、冬子はホッとした。
「ただどういう形で支援しようかと悩んでいたんだよ。今回の件で実は支香への送金に使っていた口座がアレにバレてしまった。新たな口座を今作るのは、今は警戒されていると思うから難しいし」
アレというのはアルトさんのことである。確かに新規の口座を作ればそこから郵便で連絡が入る。その郵便は真っ先にアルトさんが見るだろう。
「先生は隠し子さんがおられますよね」
「いるけど・・・」
「そのお子さんに送金なさってますよね」
「うん」
「そのお子さんのお母さんの誰かに協力してもらって、そちらから送金してもらうことはできませんか?その人への送金額にプラスしてあちらへの送金をするとか。増額がバレそうなら、取り敢えず年間の支援額を、秘密を守ってくれる人、たとえば雨宮先生あたりに仲介をお願いして現金で渡す手もあると思います」
「なるほどそれは使える。いや、そういうのに協力してくれそうな子はいる」
「他に下川先生とかにお願いする手もあると思いますし」
「うん。でもその仲介、ケイちゃんがやってくれない?雨宮は別の意味で信用できん」
「あぁ」
雨宮先生は絶対その女性に、あるいは支香さんにまで手を出すよなと冬子は思った。
「下川は堅物で融通がきかないから、この手の話を嫌がるしね。今回の件でもだいぶあいつに叱られた」
「なるほど」
「支香に言って欲しい。これは僕たちの関係とは無関係に、本来なら夕香さんが受け取るべきお金を渡しているだけなんだからと」
「分かりました。お伝えします」
それで結局、冬子は取り敢えず半年間の支援額として1200万円を上島先生が放送局に顔を出した時にさりげなく現金入りのバッグで受け取り、自分の取引銀行に行って、バッグの中に入っていたメモに書かれていた株式会社・プリゲートというところに振り込んだ。
そのプリゲートというのが、上島先生の隠し子の1人のお母さんが経営している会社らしく、その人に上島先生が話を付けてくれて、そちらから夕香さんのお母さんの口座に毎月200万円ずつ振り込むことにしたらしい。それで支香さんとお母さんの生活費、お母さんの病院代などが出るはずである。
冬子とプリゲートの社長と2つ仲介することでバレにくい送金となった。
アルトさんが野菜炒め、そしてラーメンまで作って持って来てくれたので、冬子は
「わっ、ありがとうございます」
と言って、頂いた。
ラーメンは冬子と上島先生に丼で、アルトさん自身も茶碗サイズの器に盛っている。それを食べながら、冬子はふと訊いた。それは特に意味があってそのことを訊いた訳では無かった。
「そういえば、ワンティスの★★レコードの担当さんって、どなたでしたっけ?」
すると上島先生は考えるようにして言った。
「いちばん売れていた時期は加藤銀河だよ」
「わっ。加藤課長でしたか」
冬子は加藤さんの性格でそのような名義の書き換えは考えにくい気がした。
「でも初期の頃は去年の春まで次長をしていた太荷馬武だったね」
「あの人が・・・・」