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2008年4月、千里たちは高校3年生になった。東の千里は2年の時と同じ理系進学コースの6組である。N高校では部活は原則2年生までだが、女子バスケ部を含む幾つかの強豪部に限り、成績が20位以内であれば夏のインターハイまで活動を続けられる特例があるので千里は頑張ってこの成績をキープしている(頑張っているのはY1(ゆき)だが)。
「青はどこの大学行くつもりなの?」
とロビンはグレースに訊いた。
青が貴司を追って大阪に出てくると京都に行くつもりの自分との調整が大変そうである。大変なのはグレースやジェーンかもしれないが。
「千葉大学を狙ってるみたい」
「なんで関東に?」
「よく分からん」
「バスケが強いとか?」
「そこはあまり強くない。バスケの強い関東の私立に行く可能性もあると思う。どうも地域的に関東に行きたいみたい」
「まあ関東ならいいや。私立に行く場合、学費は面倒見てやろうよ」
「そうしよう」
4月1日、慶應義塾大学が共立薬科大学を統合し、慶應義塾大学に薬学部が誕生した。
同志社大学が工学部を改組し、理工学部とする。
4月1日、京セラは、この日付けで三洋電機の携帯電話事業を総額500億円で買収。日本国内の携帯電話メーカーの事業統合は初。
4月1日、百貨店売上高第4位の三越と第5位の伊勢丹が経営統合、国内最大の百貨店グループ、三越伊勢丹ホールディングスとなる。
4月1日付けで武矢の弟・弾児さんが転勤になった。これまでは札幌市内の小さな郵便局の局長をしていたのだが、転勤先は室蘭の中央局の副局長である。
「今までより少し遠くなるけど何かあったら旭川まで3時間で来れるから遠慮無く呼んでくれ」
と弾児さんは天子に言っていた。津気子は何かあった時は自分が対応しないといけないだろうなと思った。また美輪子のアパートに下宿している千里に「何かの時は駆け付けてやって」と頼んだ。
そもそも千里が旭川の高校に行くことになった時、美輪子のアパートに下宿する案と天子のアパートに住む案があったのだが、生活リズムの異なる天子と千里が同居するのはお互いに大変そうと思われたことと、天子が
「私の世話とかしてたら学業に集中できないよ」
と言ったことから美輪子のアパートのほうにしたのである。
千里たちは話し合いの末、取り敢えず来年の3月(旭川N高校卒業)までY1(ゆき)に毎日天子のアパートを訪問してもらうことにした。N高校で授業を受けているのはほとんどゆきである。ゆきは授業が終わったら買い物をしてから天子のアパートに行き、そのあと朝までそこで過ごす。Bの方は授業の間はほとんど寝ており、部活をしてから美輪子のアパートに帰宅する。
ただバスケの試合にはY1が出るので、そういう時は取り敢えずVが代行していたが大変なので大神に相談したら大神はY1のコピーΥ(ウプシロン)を作っちゃった。それでこの子に代行させることにした。この子のニックネームは“ゆり”である。“ゆき”から少し音を変えた。
しかしこの年、東の千里はU18の日本代表にも選ばれて合宿に行ったり国際大会(インドネシア)に行ったりしたので、代役がいて助かったのである。むろんインドネシアのメダンでのアジア選手権に出たのもY1である。
(そろそろ作者にも千里が何人居るのか分からなくなって来ている気がする)
金色:オーリタ・オーロラ・オーリン
銀色:サリー・シルビア・スーザン・セリア・ソフィア
虹色:青(Bs,Bw,B'), 赤・ロゼ・黄色(Y1,Y2,y,Υ), G、J、V
これで取り敢えず20人。Wは数えてない。黒は存在しないことが話中で示された。オレンジについては、まだ居るのか居ないのかよく分からない。オレンジについて言及したのは虚空とシルビアだけだが、適当に言っている可能性も高い。藍色はシルビアが言っただけだが、これも適当かも。
4月の初め、以前立花K神社でバイト巫女をしていたこともある生野美鈴さんという人が神社を訪れた。彼女がバイトしていた時代にはまだ和弥も越智さんもこの神社に関わっていないが、和子さんが彼女を覚えていたので応接室に入れて話をした。
(和弥は2006年4月末の姫祭りから。越智も姫路に引っ越してきた2005年秋から)
「あらあ、宮司さん、亡くなられたんですか」
「今孫のまゆりが宮司を継いでるのよ」
「ああ、皇學館に行かれた方ですね」
「そうそう。もう2年前になるけどね。生野さんは今大学生?」
「この3月に卒業しました」
「あら、そしたら今はお務め?」
「この3月に卒業してめでたくプー太郎(*1)になりました」
「あらあ」
(*1) プー太郎あるいは単に“プー”とは無職のこと。1990年代から2000年代にかけて使われたことば。古くは港湾労働者の意味だったらしい。1980年代の後半頃からホームレスの意味で使われるようになり、その後無職の人の意味に使われるようになった。2000年代後半からNEET という言葉が広まると共にあまり使われなくなったが、プー太郎とNEETは微妙に意味が違うと考える人が多い。どこからも雇われていない人の意味で使っている人もあり、自由業や零細自営業者が自虐的にプー太郎を自称することもあった。
「それでこの神社のバイトの口とか無いですよね」
「ちょっと待って」
と言って和子は席を立ち、その間に千里がお茶とお菓子を出した。和子は10分ほどで戻った。
「まゆりが雇うと言っているからあんた採用。平日の午後とか頼める?」
「やります。午後がいいんですか?」
「夕方5時くらいからは高校生のバイトの子が来てくれるのよ。土日も」
「ああ」
「平日のお昼過ぎから5時までが手薄なのよね」
「やります!今新宮司はご在社ですか」
「いるけど、妊娠中でしかも予定日間近なのよ」
「わあ、それはおめでとうございます」
美鈴さんは代わりに和弥(禰宜)に挨拶した。
しかしそれで美鈴さんは平日の午後にこの神社でバイトすることになったのである。千里(夜梨子)たち高校生巫女は夕方5時頃、彼女から引き継ぐ。
姫路の立花北町で昨年秋に火事で焼けた保育園は12月に取り壊され、跡地に1月から新しい保育園の建物を建てる工事が始まった。工事は3月には完了し、4月1日から保育が再開された。保母さんたちもほとんどが復帰した。他学校を出たばかりの新人を3人雇った。また元園児も学齢に達してない子のほとんどが復帰した。子供たちは久しぶりに会った保母さんやクラスメイトとの再会を喜んでいた。
立花K神社では、宮司夫妻が立て込んでいるので、千里と越智さんで話し合い、神社の名前でお花を贈っておいた。越智さんは5万円以下の支出に関する権限を与えられている(一応和子さんにもひとこと言っておいた)。
コンビニのほうは長く放置されていたが、3月になってやっと取り壊された。そして4月に入ってから新築工事が始まったのでどうやら再開はされそうである。
姫路の千里の家に飾られていた雛人形は“月遅れの上巳の節句”4月3日に片付けられた。
「また来年ね〜」
まゆりは4月7日が予定日なので4月3日に分娩予定の病院に入院した。その翌日4月4日に札幌から和弥の母の睦美が姫路に来て、取り敢えず花絵の家に入った。
一方旭川の裕美は4月5日に臨月に入ったので裕美のお母さんがアパートに来て、しばらく滞在することになった。
なお伊藤君はこのアパートに住んでいて毎朝ここから学校に出掛け、夕方からは市内の飲食店で働き、22時半頃帰宅する。買い物はハイジがしてくれるし、お昼と夕食もハイジが作ってくれる。朝食は伊藤君が作る。裕美の様子はグレースも司令室で見ている。
姫路。
まゆり(入院中)は4月6日の24時前に最初の“おしるし”があった。母の光子がお腹をさすってあげる。0時をすぎてから陣痛が始まる。姉たちが来て母と交代する。姉は2人とも出産経験者なので心強い。
朝が近づくにつれ少しずつ陣痛の間隔が短くなる。和弥も朝7時には病院に入った。花絵や睦美は家で待機しているが、いつでも病院に駆け付けられる臨戦態勢である。姉たちと母は交代で朝御飯を食べてくる。8時頃、分娩室に移動する。花絵たちも来る。やがて子宮口が全開になり、胎児の移動が始まる。
そして10:20頃、1人目が出てくる。続いて2人目も出て来た。記録された出生時刻は1人目が10:21, 2人目が10:43 である。ふたりとも太陽が牡羊、月が牡牛になる。そしてどちらにもちんちんが装備されていた。(一卵性双生児なのに片方にしか付いてなかったら大変だ)予定通り最初に出て来た子(法律上長男)に“星弥”、後から出て来た子(法律上二男)に“月弥”と命名することにした。
「次の男の子は“日弥・空弥”で、その後は水金火木土で」
とまゆりが言うと
「まだ7人産むつもりなんだ」
と姉たちが呆れる。
「そのくらい男の子作っておけば、何人か『ぼく女の子になりたい』と言って性転換しちゃっても、男の子のままでいてくれる子が2人くらいは残りそうだし」
「ああ、最近はおとなになるまでに性別変わる子がよく居るしね」
「というか母ちゃん自身が次の出産までに性転換してるかも」
「ああ。ぼくが男になったら和弥に産んでもらうから大丈夫」
「和弥さんのほうがいいお母さんになりそう」
「でもあんたちんちん付いてるの助産師さんに見られちゃったね」
などと姉たちはからかっていたが、助産師さんは
「大丈夫です。私たちは守秘義務がありますから患者さんの秘密は他言しません」
と言っていた。
「ちんちんのある人の出産は時々ありますし」
「最近は色々ですね」
更にお医者さんは
「男の子2人だと育児が大変ですね。どちらか片方はちんちん取って女の子に変えてあげましょうか」
などと言っていたが、まゆりは
「ちんちんでちゃんばらごっこさせますから大丈夫です」
と答えていた。
「でも女の子に変えてあげることもあるんですか」
「一般にお兄さんの方をお姉さんに変えてあげますね。一姫二太郎と言って上が女の子のほうがうまく行くんですよ」
「なるほど」
なお、常弥と睦美は13日の日曜日に北海道に戻った。
「宮司さん、どうでした?」
「男の双子だったよ」
「将来の跡継ぎさんですね」
「まあ本人たちの気持ち次第だけどね。クリスチャンになっちゃうかも知れないし」
「毎日祝詞のテープ聴かせましょう」
「あはは」
でも神社で育てば毎日祝詞のテープ聴いてるようなもんだよなと常弥は思った。(息子で神職にならなかった)民弥の子育ての時期は家が神社とは離れた場所にあり毎日バスで通勤していたから民弥はあまり祝詞を聞く環境には無かった。
常弥は、近年、子供が親の後を継ぐというのが少なくなったのは家庭と職場が離れたからかもとも思う。昔は住と職が隣接していたから“門前の小僧習わぬ経を読む”だったのだろう。そういう時代だから孟母三遷のようなことも起きる。