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(C)Eriko Kawaguchi 2015-04-17
2008年8月下旬。湧見昭子は大人びたワンピース姿で札幌駅を出ると予め印刷しておいた地図を見ながら目的地に向かって歩いていった。心臓がドキドキしている。お母さんごめんなさい。ボクもう我慢できないんです。そんなことを心の中で思っていた。
通りで何か配っている人がいる。どうも見ていると若い女性だけに渡している感じ。ボクもらえるかなあ、と思っていたらちゃんと渡してくれたので嬉しくなった。見てみると新商品のシャンプーとリンスのようである。何だかふたりの女性の顔がプリントされている。Dogs×Cats? 知らないなあ。新人歌手かなあ、などと思いながらバッグに放り込んだ。
やがて病院に着き「予約していた湧見と申します」と言う。問診票を渡されたので記入した。湧見昭子・生年月日1988年5月15日・性別女と記入した。病歴やアレルギーなどに関する質問に全て「いいえ」と答える。熱・血圧などを測られやがて診察室に入る。わあ、女の先生だ。
「去勢したいって、卵巣取りたいの?」
「あ、いいえ睾丸を取りたいのですが」
「あんた、睾丸付いてるの?」
と先生が驚いたように言う。
「はい、すみません」
と言って昭子は恥ずかしそうにうつむいた。
「ちょっと見せて」
というのでベッドに横になり、ワンピースの裾をめくってパンティを下げた。
「へー。あんたみたいな子に、こんなものが付いてるのは間違ってるよ。玉だけじゃなくて棒も一緒に取っちゃおうか?」
「でもそんなに手術代がないです」
「分割払いにしてもいいよ」
「えー!?どうしよう」
「君にはこんなものふさわしくないよ。君みたいな可愛い子には割れ目ちゃんがあって、ヴァギナがあるべきなのよ。ヴァギナ欲しいでしょ?」
昭子は実際問題としてそこまで考えたことがなかったので、かぁっと顔が真っ赤になってしまった。ヴァギナ?そんなものがボクの身体にできちゃうの?嘘みたい。
「でもおちんちん取る手術って、回復に時間がかかりませんか?」
「君若いみたいだから、3ヶ月もあれば回復するよ」
「それでは困ります。私、バスケットの選手で13日には大事な試合があるんです。私、中心選手だから抜けたら叱られます」
「うーん。それなら仕方ないか」
と先生は残念そうである。
「じゃ、おちんちん切りたくなったらいつでもおいでよ。ほんとに手術代は分割にしてあげるからさ」
「はい!」
昭子が昨夜8時以降は飲食していないと申告すると、心電図のチェックをした上で1時間後に手術を始めますと言われた。病室に案内され、若い看護婦さんから剃毛されるとドキドキした。
「女性ホルモンやってるの?」
と訊かれる。
「いえ。やりたいけどまだやってません」
「ふーん。でもこれ立たないのね?」
「ボクの立ちにくいみたい」
「でも玉取っちゃったら、もう2度と立たなくなるよ」
「全然構いません」
やがて先生が病室に来て最後の診察と意思の確認をする。
「ほんとに手術していいね」
「はい、お願いします」
「じゃこれ忘れない内に先に渡しておくよ」
と言って先生は昭子に「手術証明書」というのを渡してくれた。
《湧見昭子。右の者は2008年8月**日、当病院にて睾丸の除去手術を受けたことを証明する》
「あんたバスケの選手と言ってたけど男子選手だよね?」
「女子の試合には練習試合とかには出してもらっているんですけど、公式戦では男子の方に出ています」
「これを持っていればたしか2年経過したら女子選手としてプレイできるよ」
「わあ」
と言って昭子はその証明書を抱きしめるようにした。
それでストレッチャーに寝かせられ手術室に運ばれる。部分麻酔をされる。
「最後の最後の確認。睾丸を除去してもいいね?」
「はい、お願いします」
「ね、ついでにおちんちんも切っちゃおうよ」
などと先生は昭子のおちんちんを弄びながら言う。
「これ邪魔でしょ?」
「邪魔ではあるんですけど・・・」
「じゃ切っちゃおうよ」
昭子はかなり心が揺らいだ。でも入院とかしてたらそもそもお母さんにバレちゃうし。
「いづれ切りたいですけど、今日はタマタマだけで」
「了解〜。じゃ手術始めるね」
ジーという機械音がして肉の焼けるような臭いがする。きゃー、今切開されてるんだ、と思う。
「今左の睾丸を取り出した。これを今から切るよ」
「はい」
「プチッ。切っちゃった。ポイ」
昭子はドキドキした。きゃー。ボクもう男の子じゃなくなっちゃった。
「じゃ次は右の睾丸も取っちゃうね」
「はい」
と昭子が答えた時だった。手術室のドアがバタンと開く。
「先生、今日は手術の予定は無かったはずですが」
と入って来た人物が言う。どうも年配の看護婦さんのようである。
「急患なのよ」
「去勢手術が急患というのはどういうケースです?」
などと言って昭子の顔をのぞき込む。
「だいたい、この患者さん、どう見ても未成年ですよ」
医師は渋い顔をして昭子に訊く。
「あんたいくつだっけ?」
「20歳です」
「生年月日は?」
「1988年5月15日です」
「えとは?」
「えとですか?」
「ネズミ年とかトリ年とか?」
「あ、えっと・・・・」
昭子の本当の生年月日は1991年5月15日でヒツジ年である。それを3年誤魔化していたのだが、ここで昭子は焦っていたので3つ前を言わないといけないのを間違って3つ後を言ってしまった。
「イヌ年です」
「イヌ年なら14歳になるけど」
「あれ〜〜?」
医師はやれやれという顔をしていた。
「先生、手術を中止して下さい」
と看護婦。
「でも睾丸1個取っちゃったけど」
と医師。
「もう1個残っていれば機能に大きな支障はないはずです」
「仕方ない。このまま縫っちゃうよ」
え〜!?そんなあ。
そういう訳で昭子の手術は途中で中止され、代金も要らないからこのまま帰りなさいと言われて病院から追い出されてしまった。一応麻酔が切れた時に痛くなったら飲みなさいと言われて痛み止めをもらった。でも傷口保護のためにショーツに大型のナプキンを付けてもらったので、ドキドキする気分だった。
「先生、本人確認をきちんとして、きちんと手順書通りにしていただかないと、資格を失いますよ」
と年配の婦長が先生に注意する。
「日本って面倒くさいなあ。またアメリカにしばらく行ってこようかな。向こうなら、いくらでもおちんちん切りたい放題なのに」
「向こうでも未成年はダメでしょ?」
「本人が20歳以上だと言えばいいのよ」
「そんなことしてたら、向こうでも絶対訴えられますよ」
「面倒くさいなあ」
「それに日本はかなり事情が違いますし」
「だけどさ、日本でも早くおちんちん切りたいと思っている子はたくさんいるはずなんだよ。今の子みたいに」
「とにかく20歳過ぎて、最低2名以上の医師のGID診断書を取ってもらって」
「その20歳まで待てというのがどんなに酷なことか、あんた分からない?あの子たちは、日々自分の身体が男性化していくので、死にたくなる思いをしているんだよ。きちんとした統計は取られていないけど自殺しちゃう子もたくさんいると思う。私はそういう子たちを救ってあげたいんだ」
「手続きは踏んで頂かないと。そうしないと本当に資格を失いますよ」
「その手続きがおかしいんだよ。性転換手術は本当なら10歳、せめて16歳くらいでしてあげるべき」
「日本では認められていません」
「あぁあ、やはりアメリカ行ってくるかなあ」
と言って松井医師は伸びをしたが、ふと床に何か落ちているのに気付いた。
「何だろう?」
「今の患者さんが落としたんでしょうかね」
「届けてあげるべきかな。ん?シャンプーのサンプル?」
「道で配っているものでは?」
「じゃ別に連絡しなくてもいいか」
と言って、松井医師はそのシャンプーの成分表示を見ていた。
「ん?」
「どうかしました?」
「このシャンプーに使用されている成分、日本ではまだ認可が下りてなかったはずだよ」
「そうなんですか?」
「アメリカでは許可下りてるけどね。これ日本では発売できないはず」
「あら」
「通報してやる。楽しい楽しい手術を中止させられた腹いせだ」
「あらあら」
それで松井医師は厚生労働省の課長をしている友人の携帯に電話を掛けた。
千里はオーストラリアでU18の合宿をしている間、ずっとU18以降の自分とバスケットのことを考えていた。
思えばバスケットって中学1年の時に節子さんや久子さんたちに唐突に女子のチームの助っ人に借り出されたのがきっかけで始めて、その後貴司との出会いから正式に女子バスケット部に入ることになったんだった。あれから5年半。いつの間にかインターハイまで行ってBEST4になり、こうして今はU18日本代表候補にまでなってバスケをしている。
でも自分にとってバスケットって何なんだろう。
千里はオーストラリアのコートを走り回っていて、自分のバッシュがかなり傷んできているのを認識していた。最初のバッシュは貴司のお母さんに買ってもらった。今履いているバッシュは事実上、旭川Q神社の斎藤さんに買ってもらったようなものだ。
このバッシュの寿命が自分のバスケット人生の寿命なのかも知れないな。
中学・高校で5年半もバスケやったら充分だよね。
この合宿に来ている子たちはみんな高校を卒業しても大学や実業団などでバスケ続けるみたいだけど、私は彼女たちみたいに大した才能も無いし。U18代表に選ばれたらそのアジア選手権で終わりにしようかな。
でも玲央美から聞いた話、ちょっと心が揺らぐな。
P高校が道予選に出ずに、他の学校で北海道代表を争う。去年総合の道予選に特例で3年生を2人出してもらえたように、今年も3年生を特例で使ってもらえないだろうか?
もしウィンターカップに出られたら、それを自分のバスケ人生の花道にしたい。
千里が東京・オーストラリアでU18の合宿をしていた時期、旭川では国体選抜チームが練習を続けていた。この時期、選抜チームは主として旭川地区の強豪男子大学生チームであるH教育大・旭川校のチームに練習相手になってもらい、男子大学生のスピード感やフィジカルの強さに気合い負けせずに戦う練習をしていた。
図らずも、千里がオーストラリアで大柄な外国人選手との試合を経験している間、旭川組もやはり体格の大きな選手との戦いをしていたのである。これは国体でぶつかる可能性のある、愛媛県チーム(四国代表)との戦いを想定したものであった。
とにかく、背の高い選手に取り囲まれてしまうとどうにもならないので、取り囲まれる前に、ボールを受け取ったらすぐ動くか、パスするかを2秒以内に決断しよう、と指導している宇田先生・瑞穂先生は選手たちに言った。
これが割とすぐにできたのは、暢子・橘花・麻依子の3人だが、2年生の宮子・布留子なども「来年はあんたたちが中核になるんだから頑張れ」と言われて練習に取り組んでいた。
「スピード・バスケットって脳内革命が必要なんですね」
と布留子は感想を言う。
「そう。普通の女子の試合みたいに、チンタラ攻めていたらダメなのよ。無駄に時間を使わず、どんどん走ってどんどん投げる」
「でも急いでも焦ってはいけない。パスもシュートも正確に」
「声も出し合って、今どこにボールがあるのかしっかり把握する」
「なんか脳味噌が疲れるんです!」
「このスピードに慣れたら、男子選手に性転換してもやっていけるかもね」
「性転換もいいなあ・・・」
「ここに居る子は、結構性転換したら?とか言われた経験のある子多いはず」
「ああ、私もよく言われてた」
と橘花が言う。
「小学生の時も中学生の時も、私より背の高い男子がクラスに居なかったもん」
彼女は(公称)182cmである。
判決を聞いて桜川陽子は父、父の元妻、その娘の広子(陽子の異母姉の異父妹)、そして弁護士とともに裁判所を出てきた。近くのレストランの個室に入って少し話をした。
「控訴すれば無罪になる可能性はあると思います。この裁判官は責任能力について検察寄りの判断をしました。それに被害の弁済が終わっていることを過小評価されたと思います」
と弁護士は言ったが、陽子は反対した。
「それは姉が望まないことだと思います。姉はあれだけの事件を起こしたことについて、最低限の償いをしなければならないと考えています。無罪放免されたら、姉は自分の心を安定に保てないと思います。服役することが姉の心の救済にもなるんです」
と陽子は言った。
「私もそれに賛成です。悪いことしたら罰を受けるのが当然であって、それを諸事情で免除したら本人の心の中でもっと罪悪感が大きくなってしまいます」
と広子も言った。
父親が発言する。
「法律用語がよく分からなかったのですが、服役期間から未決拘置期間は差し引かれるのですよね?」
「引かれます」
と弁護士。
「模範囚なら刑期の3分の2を過ぎたら(*1)仮釈放になる可能性もありますよね?」
と広子。
「確実とは限りませんけど」
と弁護士。
(*1)法的には3分の1が過ぎると仮釈放可能なのだが、仮釈放中の人による犯罪が多発したことなどもあり、現在3分の2過ぎてからという運用がなされている。
「再度私自身があの子と接見して確認したいと思いますが、私も控訴はせずにこのまま確定させていいと思います。そして出所してきた時、暖かく迎えてやりたいです」
と父親。
「あの子が出所してきた時、どこで暮らさせるの?」
と母親は少し不安そうな声で言った。
「それだけどさ。うちの牧場に来ないかって、お姉ちゃんに言ってくれない?オーナーも、マジメに更正するつもりがあるなら歓迎と言ってる」
と陽子。
「牧場か・・・・そういう環境がよけい、いいかも知れないな」
と父親が言う。
「私もそこの牧場にお邪魔しちゃおうかなあ」
と広子が言うが
「広子ちゃんは頭良いんだから、ちゃんとマジメに高認(高等学校卒業程度認定試験:昔の大検)受けて大学に行きなよ。学資は自分で稼げそうだし」
「いや、さすがにこれ以上当たり続けるとは思えないよ」
と広子は言った。
「確かにここ1年近く物凄い勝率だったね」
「うん。自分でも信じられない。神様が助けてくれてるとしか思えなかった」
「だけどお前の友だちの八雲ちゃんにも随分負担掛けてしまって」
と父親。
「あぶく銭だから平気って言ってるよ。まあ私はちゃんと借用証書書いてるけどね」
と陽子。
「それ返せるの?」
と広子が尋ねるが
「返せなかったら、身体で返そうかな。あの子のお嫁さんにしてもらって」
などと陽子は言う。
「八雲さんってまさか男の娘なの?」
「内緒」