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■春輪(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-11-27
絢人は中の様子をうかがって何も音がしないことから、中には誰もいないと判断する。
そっとドアを開ける。もし誰かいたら「済みません!間違いました!」と言うつもりだったが、誰も居ないのでそっと中に入った。
そこには手洗い場の向こうにドアが4つ並んでいる。男子トイレにあるような小便器は無い。この風景が絢人にはシュールな感じに思えた。ドアの内いちばん向こうのは掃除用具入れのようで小さなドアである。残りの3つが個室のドアだ。絢人はその中の最も手前のドアをそっと開ける。むろん中には誰もいない。
ドキドキしながら絢人は中に入ってドアを閉めロックする。便器を軽くトイレットペーパーで拭いた上で、ズボンを降ろす。するとズボンの中にはこっそりとシフォンスカートを穿いている。そのスカートをめくり、パンティを降ろして便器に座った。
おしっこをする間もドキドキしているし、万が一にも誰か入ってこないだろうかと不安な気持ちでいっぱいだった。
おしっこを出し終わるとトイレットペーパーでそこを拭く。そしてパンティをあげ、スカートを降ろし、ズボンをあげてファスナーを閉めると、水を流して個室の外に出る。そして手を洗うと、外の様子を伺ってから、そっとドアを開けて廊下に出た。
6月中旬、桃香は上司の課長に「ちょっと」と呼ばれて一緒に会議室に入った。
「高園君、君さ、僕ちょっと誤解していたような気がして」
「はい?」
「もしかして君って女性だっけ?」
は!?
「私は女ですけど」
「戸籍上も女なの?」
「そうですが」
「生まれた時から?」
「ええ」
「じゃ性転換とかもしてないんだ?」
「してません」
「ごめーん!」
何だ?何だ?
「いや、実は僕も部長も君のこと、てっきり男性と思い込んでいた」
「男だったら、なぜ女子制服なんです?」
「いや、女になりたい男なのかと思い込んで」
「入社式の日は振袖着るように言われましたし」
「本人の精神的な性別志向に合わせてあげるべきだと思って」
「お茶汲みとかもしてますし」
「うん。女性にお願いしている仕事もしてもらった方が落ち着くかなと思って」
「まあ私は男とか女とか関係無く頑張って仕事するだけですし、女ではありますけど、男に負けずに頑張るつもりです」
と桃香は言う。
「うんうん。君、結構交渉事うまいし、春から既に3件、契約を取ってくれたから、僕たちも評価しているんだよ」
「ありがとうございます」
「それでやはり女みたいな格好してるけど、さすが男性だなあ、なんて言ってたら、ひとり高園さんってひょっとして本当に女だということは?と言い出して」
桃香は何と返事していいのかリアクションに困った。
「それで君が本当に女性だったのなら、実は君の性別を社内データベースでは男として登録していたんだけど、女に訂正していい?」
「訂正というか、私は元々女ですから」
「じゃ、すまないけど、これ書いてくれる?」
などと言って「性別変更届」なる紙を渡される。
「これこそ性転換でもしたみたいですね」
「ごめーん。事務手続き上、本人が女性であることを認めているという書類が欲しくて」
「まあいいですよ」
と言って桃香はその場で性別変更届に氏名:高園桃香、旧性別:男、新性別:女と記入し、認め印を捺して課長に渡した。
「面倒掛けて済まないね」
「いえ」
「それでちょっと言いにくいんだけど」
「はい?」
「実はここまでの君の給料を男性として計算していたんだよ」
「この会社って男性と女性で給料が違うんですか?」
「いや、基本的には同じなんだけどね。してもらう仕事の内容に差があるから、それに伴う差なんだけどね」
「私は男並みに仕事するつもりですけど」
「うん。もちろん業績をあげて行けば、それはちゃんと評価するから。ただ、4月からの給料を女性基準で計算すると、4月5月は払いすぎていたんだよね。それを6月で調整してもいい?」
「まあいいですよ」
「すまない。それでちょっと6月の給料は少し減ると思うから」
そんな話を課長とした桃香であったが、数日して給料が出た時、その額を見て桃香は「なぜだ〜〜!?」と言って絶句することになる。
それで桃香はバスケットの合宿で味の素ナショナルトレーニングセンターに行っている千里に電話した。
「ごめーん。千里。今月ちょっと思ったより給料が少なくて。このままだとクレジットが払えないんだ。少し貸してくれない?」
「いいよ。幾らくらい」
「そのぉ・・・・5万くらい貸してくれると嬉しい。10万あったらもっと嬉しい」
「じゃ取り敢えず15万振り込んでおくよ」
「そんなに借りていい? 来月ボーナス出たら返すから」
「気にしないで。出世払いってことにしようよ。お互い様だし」
「じゃ出世払いで」
優子は友人でマツダのお店に勤めている季里子に誘われて車を見に来ていた。優子も季里子もレスビアンで、実は同じ恋人(女性)を取り合ったこともあるのだが、今ではどちらもその子とは切れていて「穴姉妹」同士ということで逆に純粋な友人関係にある。
実は優子が先日、自分の乗っていた年代物のモビリオスパイクで事故を起こしてしまい、車は全損になってしまったのである。元々の評価額が低かったし、車両保険を使うと保険料が上がってしまうので、保険は使わず自費で次の車を買うことにした。来月にはボーナスが出るしと思って、適当な車を探していた時、それを聞いた季里子が「良かったらうちの車を買わない?」と言ってきたので見に来たのである。
お店は千葉市郊外にあった。
「どういう車がいいの?キャロルとか?」
「軽は嫌い。私絶対また事故起こすから、その時自分を守ってくれる車でないと困る」
「うーん。じゃデミオとか?」
「もっと大きいのがいいな」
「じゃ、プレマシーとか」
「さすがに大きすぎるかな」
「だったらアクセラかアテンザかCX-3,CX-5か?」
「うん。その付近が落とし所かなあ」
それで結局、アクセラスポーツ、アテンザワゴン、CX-3,CX-5を試乗してみることにする。
「あれ〜、ATなの?」
「あ、CVTが好き?」
「違う。MTだよ」
「ごめーん。MTの試乗車は置いてないんだよ」
「これMTのモデルある?」
「アクセラスポーツ、アテンザワゴン、CX-3にはある。CX-5には無い」
「じゃCX-5はボツ」
「了解〜。でもMTが好きなのね」
「ATなんて女の車だよ。男はMTでなきゃ」
「優子、あんた男なんだっけ?」
「確認するのに寝てみる?」
「いいや。あんた激しそうだから、私の身体が持たない気がする」
「季里子ってネコなんだっけ?」
「そうだけど。優子はリバなの?」
「基本的にはタチ。入れる方が好き。でも桃香との間では私がネコになった」
「ふむふむ」
ともかくもAT車というのは不満であったものの、その3車種を全部試乗してみたところ、優子はアテンザ・ワゴンが気に入った。
「これ気に入ったぁ。いくら?」
「うーん。きちんとした見積もりは作らせるけど、360万くらいだと思う」
「5年ローンにできる?」
「いいよ」
それで事務所に入ってローンのシミュレーションをする。
「じゃアテンザワゴンのMTでいいね」
「うん」
「これディーゼルしかないけどいい?」
「あ、ディーゼル割と好きかも」
「色は?」
「赤で」
「残価設定型ローンでいいよね?」
「いや、それだと制約が面倒だし、途中で全損するかも知れないから普通のローンで」
「ああ、あんたはそれがいいかもね。毎月の支払いは?」
「2万くらい」
「頭金どうする?」
「今貯金80万あるから、それ使う」
「するとボーナス月が22万になるけど」
「OKOK」
「じゃ正確な見積もり作って、ローンの計算結果も付けてそちらに送るね」
「よろしく〜」
2015年6月28日(日)。細川阿倍子は男の子を出産した。産気づいた後、足かけ3日に及ぶ難産の末であったし、出産直後に血圧や脈拍が急低下して死にかけるというオマケ付きであった。
しかし翌日には阿倍子自身もかなり体力を回復し、何とか歩いて赤ちゃんを見に行くことができた(この病院は赤ちゃん別室)。抱いて乳房に赤ちゃんの口を咥えさせるものの、まだお乳は出ない。助産師さんは初乳は個人差もありますが、だいたい一週間後くらいまでには出ますよと言っていた。
それでおっぱいが出やすくなるようにマッサージなどもしてもらい、また自分でもやりましょうと言われてやり方を習う。そしてお乳が出そうな時にはこれで取ってと言われて搾乳器を渡された。
「でも私、お産無茶苦茶きつかったから遅いかも知れないなあ」
と思い、本人としては割とのんびり構えていた。
阿倍子は急に寂しくなった病室を見回した。
貴司は合宿があるからと言って、29日の朝1番の新幹線で東京に戻った。母は付き添ってくれていた看護婦さんと一緒に名古屋に戻って行った。千里さんが連れてきてくれた若いヒーラーさんも28日の夜に帰って行った。
貴司の妹の理歌さんだけが、とりあえず一週間は付いてますよと言って付いていてくれる。もっとも阿倍子は本当は彼女を必ずしも信頼していない。普段の言動から見て、どう考えても彼女は「千里派」なのである。ただ、千里さん自身も今回はいろいろサポートしてくれたし、取り敢えずあれこれ親切にしてくれるし、今阿倍子は理歌さんを頼る以外の選択肢が無い。
なお入院が長引いたら、彼女も仕事があるので、もうひとりの妹の美姫さん(女子大生)と交代すると言っていたが、美姫さんは理歌さん以上にあからさまな「千里派」のようなので、気が重かった。それでもそもそも自分をいまだに嫁と認めてくれていなかったふうの保志絵(貴司の母)さんよりはマシなんだけどね。でも保志絵さんも今朝は「おめでとう。お疲れ様」という電話をくれた。出産を機会に少し空気が変わればいいなとも思う。
その理歌さんが戻って来た。出生届を出しに行ってもらったのである。名前については貴司が「京平にする」と言って譲らなかったので、阿倍子は本当は別の名前を考えていたのだが、まあいいかと思い、容認した。
「体調どうですか?」
「何とか」
「取り敢えずお茶買ってきました。お乳出るように水分たくさん取った方がいいらしいですよ」
「助かります。なんか陣痛で苦しんでいた間、何も飲食できなかったから、何か飲みたい気分で」
「点滴されていても、身体は口から取るものを求めますよね〜」
と理歌さんは笑顔で言っていた。
「それとこれカロリー補給にシュークリーム」
「わあ、美味しそう!」
助産師が阿倍子の部屋に入っていった時、阿倍子はベッドで熟睡しているようであった。
「あら、さすがに疲れが出てきたのね。お疲れ様〜」
と眠っている彼女に声を掛けるが、ふと搾乳機を見ると、僅かながら黄色いお乳が入っている。
「あら、もう出たんだ。すごーい」
と言うと、そのお乳を新生児室に持って行き、京平に飲ませてあげた。
「京平ちゃん、あなたのお母さんの最初のお乳だよ」
と助産師が声を掛けると、京平は何だか嬉しそうな顔をした気がした。
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