【娘たちのタイ紀行】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2016-09-23
2009年6月、小学6年生の青葉は、交通事故に遭った後なかなか快復せずに退院できずにいるという鈴江宗司さんという人の「霊障」を解決したが、その時、宗司の息子で当時高校1年だった彪志と親しくなる。
宗司は青葉が霊障を取り除いたら一週間で退院してしまったのだが、まだ完全ではなく、会社には復帰したもののデスクワーク中心に仕事をさせてもらっていた。青葉も何度も宗司の自宅まで行き、ヒーリングをしていたが、まだ当時の青葉のヒーリングは、そんなに強力なものではなかった。
千里は2009年3月に高校を卒業した後、バスケは辞めようと思っていたものの、結局辞めることはできず、自主的に体育館で練習をしはじめたのだが、そこで千葉ローキューツというクラブチームに誘われ、リハビリするかのように半年ほど活動を続けた。そして2009年12月、ウィンターカップに出場するため東京に出てきた母校・旭川N高校のメンバーをサポートするため宿舎に行っていた時、同様に母校・札幌P高校のサポートのために来ていた佐藤玲央美と一緒に半年前の2009年7月頭にタイムスリップしてしまった。
結果的にはふたりとも代表活動から逃げていたのが、時間を飛んでU19世界選手権に出ることになる。ふたりは他のメンバーとともに7月初旬の東京NTCでの合宿を経て、鶴田早苗に誘われて山形D銀行の練習に参加させてもらった後、7月16-18日には伊勢市で第2次合宿を行い、Wリーグのチーム3つと試合をした。
そして7月19日、一行は大阪に移動。東京から来てくれたバスケ協会幹部の人たちも入った壮行会を経て、11:45関空発のTG623便でバンコクに飛ぶことになる。「U19女子日本代表応援団」の子たちも関空まで来て見送りをしてくれた。
千里たちがリムジンバスで関空まで行き、空港の建物の中を歩いていたら
「千里さ〜ん」
と呼び止める声がある。
「天津子ちゃん!」
「千里さん、どこかお出かけ?」
「うん。ちょっとタイまで」
「へー。あ、バスケットの試合ですか?」
「そうそう。アンダー19の世界選手権」
「へー。凄い。頑張って下さい」
「天津子ちゃんは、どちら?」
「私もバンコクなんですよ。ちょっと向こうの友人に頼まれごとをして」
「へー」
千里は彼女がわざわざ関空からタイに行くということは関西のクライアントの件であるか、あるいは神戸の竹田宗聖さんか誰かに会ってきたのかもと思った。
「そうだ。少し面倒なことになるかも知れないから、万一の時はパワーを貸してもらえます?」
「試合中じゃなければいいよ」
と千里は言っておいた。
「必要な時はできるだけ事前に言っておきますね」
「よろしくー」
彼女は千里たちよりひとつ早い10:25の便で発つということで足早にセキュリティの方に行った。
搭乗手続きを済ませて荷物を預け、セキュリティを通る前に見送りの星乃や留実子たちと一緒にしばしおしゃべりをしていて、百合絵が言い出す。
「でも、せっかくの世界選手権なら、フランスとかドイツとかでやってくれたら、シャンゼリゼ通りとか、ロマンティック街道とか、観光できるのに」
「フランスやドイツに行ったとしても観光している時間とか無いよ」
と彰恵は言った。
「まあ、練習につぐ練習だろうね」
「みんなパスポートの入出国欄は去年アジア選手権でインドネシアに行ったまま?」
と桂華が尋ねた。
「あの後どこにも行ってないね」
と言っている子が大半である。
「きみちゃんはアメリカまでの往復だけ?」
「ええ。そうです。今年の春にパスポート作ったんですよ。それ作る時に性別間違えられそうになって『すみませーん。私、一応女です』と言ったんですけど、そしたら『戸籍の性別は修正終わっているんですか?』と訊かれて、何と答えたらいいか、一瞬焦りました」
と王子。
「キーミンはたぶん男のパスポートでも問題なく入出国できる」
と華香。
「あ、それなら僕も自信ある」
とサクラ。
サクラはバイト先で男性と誤解されたおかげで、性別男の健康保険証を持っている。
「千里はフランス・ドイツに行って来たんだ?」
と桂華が千里のパスポートを覗き込んで言う。
「うん。パリ経由ハンブルグ・フランクフルト、日帰りやってきた」
「日帰り!?」
「成田を夕方出て、翌日朝パリ到着。ハンブルグまで行って知人に会い、フランクフルトを夕方の便に乗って、翌日の午後成田到着」
「弾丸ツアーだ!?」
「パリのクロワッサンもドイツのソーセージも美味しかったよ」
「そういうのはしっかり味わってきているのか」
「あれ?千里、性転換手術はどこで受けたんだっけ?」
「タイだよ」
「ああ。タイなのか」
「じゃタイに行くのは2度目?」
「うーん。そういうことになるのかなあ」
「やはりバンコクかどこか?」
「プーケット。いい所だったみたい」
「みたい?」
「ああ。手術とかで行ったのなら、観光とかできなかったよね」
「でもプーケットってタイだったのか。インドかどこかと思ってた」
「その出国記録はこれには載ってないの?」
などと言って桂華はページをめくっている。
「このパスポートは去年の春に作ったからね」
「それで性別がちゃんと女になっているのか。手術を受けに行った時はパスポートは性別男だったんでしょ?」
「うーん。どうだっけ?」
「性別を変更した場合は、ESTAなんかも取り直す必要あるらしいね」
と少し離れた所で朋美が言っていたが、玲央美は腕を組んで「うーん」と声を出し悩んでいた。
それで星乃たちのエールに見送られてセキュリティを通り、出国手続きをしてウィングシャトルに乗り、搭乗口まで行く。
それで搭乗を待っていた時のことである。
「千里、どこ行くの?」
という声がする。
ん?と思って声のした方を見ると、江美子が髪が長く背の高い女性を呼び止めている。江美子はその女性の肩に手を掛け、女性が驚いたように振り向くが、千里では無い。
「あ。ごめんなさい!間違いました」
と江美子。
「えみちゃん。私はここだよ」
と言って千里は寄って行く。
「いや、この長い髪を見たら千里かと思っちゃって」
「ああ。だいたい私はこの髪で認識されているんだよねえ」
と千里が言うと、向こうの女性も
「私も友人たちからこの髪で認識されているんですよ。髪をアップにしていたりすると友人どころか家族にも認識してもらえなくて」
と彼女は笑って言っている。
「私もですよ。髪を揚げていたり夜会巻きとかにしてると、彼氏も気づかないんです」
と千里も笑いながら言った。
「何かの選手団の方ですか?」
と彼女が訊く。
千里たちはお揃いの赤いポロシャツを着ていて、胸にはNIPPONの文字が入っている。実は彼女も似たような色のポロシャツを着ていたので、うっかり江美子が間違ったのである。
「ええ。バスケット・アンダー19の代表なんですよ」
「すごーい!日本代表ですか!」
「19歳以下のチームですけど」
「ちなみに女子代表ですよね?」
「若干性別に疑惑のある人も混じっている気はしますが、一応女子代表です」
「オリンピックか何かでしたっけ?」
「いえ。世界選手権なんです」
「わあ、なんか凄い。どこであるんですか?」
「タイのバンコクなんですけどね」
「何日からですか?」
「7月23日から8月2日までです」
「わぁ。体力が足りたら見に行きたいなあ」
「あなたもバンコクなんですか?」
「ええ。そうなんですよ」
「観光か何か?」
「あ、いや、実は」
と言って彼女は頭を掻いて、小さな声で言った。
「実は性転換手術を受けに行くんです」
と彼女が話した声は男声である。
「え〜〜〜〜!?」
と百合絵が驚いたように言う。
彰恵が
「静かに」
と注意する。
「じゃ、あなたまさかM?」
と小さな声で百合絵が尋ねる。
「パスポート見せてあげますね」
と言って彼女は自分のパスポートを見せる。
Genta Suzuki Sex:M
と書かれている。
近くにいた高田コーチも「へー」という顔をしている。彼女は完全に雰囲気が女性なので、男のようには見えないのである。
「でも何か男らしい名前」
「私ふだんジーナを名乗っているんです。Gentaから t を外すとGenaになるので」
と言って、彼女は自分のパスポートの名前のtの所を小指の爪の先で隠してみせる。
「なるほどー」
「1文字の違いでゲンタがジーナになるとは画期的」
「tを取るって、つまりtesticlesを取るんだろ?と友人から言われました」
「おぉ!すごい」
「ちなみにtは除去済?」
「まだです。一緒にとってもらいます。もっともホルモンの影響で機能停止済ですけど」
「やはりねぇ」
「手術の日程は?」
「今日入院して明日20日検査して問題無ければ21日に手術なんです。一週間入院して27日の月曜か28日の火曜に退院予定なんですよね。そのあと試合を見に行けたらいいな」
「でもそんな大手術した後でバスケの試合の観覧とかできるかな」
「車椅子にドーナツ座布団持って行けば何とかなるかも」
「ドーナツ座布団?」
「あのあたりを切った後で痛いから、ふつうの椅子に座れないんですよ」
「ああ」
「いろいろ大変ね」
「じゃ、見に来られそうだったら連絡下さい。チケットは何とかしますよ」
と高田コーチが横から言った。
「助かります!」
と言ってから彼女は言った。
「あ、もし良かったら皆さんのサイン下さい」
と言って、スケッチブックとサインペンを取り出す。
「サイン?」
「考えたこと無かった」
などと言い合っていたら、玲央美が
「千里は素敵なサインを持ってる」
と言う。
「お、それ見たい」
という声があったので、千里はスケッチブックの上の方に、鳥が飛んでいく様のようにも見えるサインを書いた。
「格好ええ!!」
「レオのサインも格好良い」
と千里が言うと、玲央美は千里のサインの下に、崩し字の全体がライオンの顔のようにも見えるサインを書く。
「なんでみんな、そんな格好良いサイン持ってるわけ〜?」
「まあ過去に5回くらい頼まれて書いたかな」
と千里。
「私も高校時代から10回くらい書いてる」
と玲央美。
「なんて有名人たちなんだ」
「私たちは寄せ書きで行こう」
などと言って江美子がスケッチブックのページをめくり、次のページに筆記体で《Kira》と書いた。
「だったら私も」
と百合絵は《Lily》と書く。
それで他の子も自分のコートネームを思い思いの字体で書き、ページは寄せ書き状態になった。
「あ、日付書いとこう」
と言って、最後に記入した渚紗が2009.7.19と今日の日付を、寄せ書きページと玲央美・千里のサインページに入れ、あわせて「ジーナさん江」と書いた。
「じゃ手術頑張ってね」
「みなさんも試合頑張って下さいね。テレビとかで中継するかなあ」
「あ。えっとネットで速報くらいは」
「じゃ病院で頑張ってネット接続して見てよう」
千里が代表して連絡用に彼女と電話番号・アドレスを交換した。
「この子も性転換手術してるんですよ。だから連絡相手には最適」
「え?そうなんですか」
「千里もバンコクだっけ?」
「私はプーケット」
「だったら$$$病院ですか?」
「いえ。***病院という所なんですよ」
「うーん。知らない」
「最近できたんですよねー」
「へー。でも性転換して日本代表になれるんですね?」
「手術から一定期間経っているとOKなんですよ」
「なるほどー。いいなあ。私も女子選手としてオリンピック目指そうかな」
「何かスポーツなさるんですか?」
「ラクロスなんですけどね」
「オリンピックでやってましたっけ?」
「実は近代オリンピックが始まった初期の頃はあったんですよ」
「へー!」
「知らなかった」
「長いこと行われてないので、ぜひ復活をと運動しています」
「うまく行くといいですね」
「ラクロスって男子と女子ではルールとかも全然違っていてほとんど別のスポーツなんですよ。でもずっと私女子のラクロスチームに入れてもらってプレイしてたんですよね。試合には出られないけど」
とジーナさんは言う。
「手術終わって2年すれば出られるようになりますよ。きっと」
と彰恵。
「そのあたり、もし色よい返事もらえなかったら、僕も口添えしてあげるよ。IOCの基準で性転換した後2年以上女性ホルモンを投与していればOKとなっているんだから各競技団体もその基準で考えてもらえるはずだし」
と高田コーチが言った。
彼女に出国の時、揉めたりしませんでしたか?と尋ねたが、特に問題は無かったと言っていた。やはり、写真と本人が一致しているのがいいのかな、などとみんなは言っていた。
「千里は過去に入出国で揉めたことある?」
「ううん。一度も」
「もしかして完璧に女すぎる人は問題無いのかも」
「ああ、そうかも」
「逆に女装しているけど見るからに男という人も問題無いよね」
「うんうん」
「多分揉めるのは微妙な人」
「あぁ」
そういえば雨宮先生は過去に何度も入出国で揉めていると言っていたなあと千里は思った。
なお、この日、元の時間の方の千里は19日0時に上島さんと雨宮先生をエスティマに乗せて東京の中野駅前を出発し、ひたすら東名・名神と走り、こちらの時間の千里が関空に来た頃は元の時間の千里は広島で休憩中であった。
飛行機は11:45に関空を飛び立ち、15:35にタイのスワンナプーム国際空港(BKK)に到着した。日本との時差は2時間であり、バンコクの15:35は日本の17:35である。つまり5:50の旅であった。
取り敢えずホテルに入って夕食を取ろうと言っていたのだが、
ホテルのロビーで千里はタイ人っぽい女性に
「Is there Ms Murayama?」
と呼び止められた。
「I am Murayama」
と千里は答える。
彼女はタイ特有の合掌するポーズで「コンニチワ」というので、こちらも合掌して「サワディ・カー」と応えた。
「My name is Hattanadayasrada "Pattie" Rojanawat. I am a FIBA medical staff. Would you come with me to the medical check?」
「Yes?」
と千里は高居代表と視線交換しながら承諾の返事をして、食事に行かないまま、その人に付いて行くことになった。
この時点では千里はドーピング検査か何かと思っていたので、ホテルのトイレに行くのかと思ったのだが、女性はホテルの外に出て行ってしまう。
「Where we go?」
「King ****** Memorial Hospital」
「Oh!」
「Can you go?」
「Of course」
そんな大きな病院まで行くというのは驚いたものの、ドーピング検査に非協力的な態度を取ることは、そのままドーピングの疑いを掛けられるということでもある。ここはちゃんと協力的な姿勢を見せなければと千里は思った。
それにしてもお腹空いた!!
それでパティさんが運転する車で、バンコク市内の王立大学病院まで行く。
そして夜の病院で3時間にも及ぶ検査が始まった!!
パティさんからは最初にカルテと紙コップを渡され、指示された番号の部屋に行ってくださいと言われただけである!
紙コップということはおしっこを取って来いという意味だろうなと思い、トイレを見つけて男女表示を見比べて、たぶんこちらが女子用だろうという方に入り、個室でおしっこを取る。
最初に7という数字の書かれた札をもらっていたので、7番の部屋に行けということかと考えそちらで提出する。血圧計などが並んでいる。検査室のようである。ここの係の人は日本語ができるようで
「最初に体重と身長を測ります」
と言って測定する。体重は着衣のまま測定して、衣服の分を目分量で引いていた。
「脈拍と血圧を測りますね」
と言われる。それで左腕に血圧計、右手の人差指にパルスオキシメーター(脈拍・酸素濃度計)を付けられる。
それで看護婦さんが見ていたのだが首をひねる。
「脈拍が無い?血圧が無い?これ壊れているのかも」
と言って、別の血圧計とパルスオキシメーターを取り付ける。
「ゼロ?ゼロ?」
千里は看護婦さんが悩んでいるので、何だろうと思ったものの、あっ!と気づいた。
実はうっかり心臓が停まったままになっていたのである。
「あ、ごめんなさーい。心臓を動かしますね。もう一度測定してください」
と言った。
看護婦さんは「ウイ!?」と一瞬言ったものの、再度計り直してくれた。
「血圧 72 110、脈拍 55. 低血圧ぎみですか?」
「はい。割とそうです」
それで看護婦さんも最初機器がゼロを示したことは忘れてくれて、再測定した数値をパソコンに入力していた。
なお千里にとっては心臓が停まっているのは別に異常ではない!疲れている時などは結構勝手に停まっていたりするが、今回は長旅で少し疲れたので、心臓も停まっていたのだろう!??
普通の人間は心臓が停止していると数分で脳に致命的な損傷が出るらしいのだが、千里は30分程度は心臓が停まっていても全然平気である(時々千里は自分は本当に生きているのだろうかと不安になる)。蓮菜が一度千里の血流をチェックしていたが、千里は心臓が停まっていても勝手に血液が流れているらしい!?
「採血しますね。腕を出してください」
と言われるので、右腕をまくる。それで看護婦さんはゴムチューブを巻き付けて静脈を浮かび上がらせ、消毒して注射器を差して採血した。とても上手な人で、ほとんど痛くなかった。
その後、
「次は23番の部屋に行って下さい」
と言われて23と書かれた紙をもらうので、23番の部屋を探して行く。するとここではお腹を出して何かパラフィンのようなものを塗られた上でエコー検査のような感じのことをされた。その後、様々な部屋に行っては、内科検診をされ、マンモグラフィー??をされ、婦人科検診!?(内診を含む)をされ、更に造影剤のようなものを注射されてMRIに放り込まれる。このMRIが物凄く時間が掛かり、1時間ほど掛けて検査されていた。
何の検査してるんだ〜?と思う。しかし最初の部屋で血圧などを測ってくれた人以外はみんな日本語は分からないようであった。千里はタイ語があまり得意ではないので(特に医療関係の言葉はほとんど分からない)、医師や看護師に尋ねようも無かった(英語で話してみれば良かったというのは後で思った)。検査室の番号を指示されて、そこに行くのみである。夜間で他に患者が居ないので、その部屋に行けば即検査された。
最後の最後になってまた日本語のできる女性医師と面談する。
が何かの本を開いて、ひたすら質問攻めである。
「あのぉ、これ何の検査なのでしょうか?」
と尋ねたのだが、
「それは最後に説明します」
と言われてしまった。
結局心理テストのようなものを経て本当に最後に
「これであなたの性別検査は完了です」
と言われた。
そうか!本当に私が女かどうか、国際バスケット連盟が直々に検査したのか!と、私はやっと思い至った。
しかし性転換者の検査をするのであれば、ここタイというのは絶好の地である。性転換者が多いので、医師が性転換者を見慣れているであろう。一部の性器を温存するなど変則的な手術をしている人のことも知っているはずだ。もっともいちばん重要なのは睾丸をどこかに温存していないかだろう。
そんなの無くて良かった!!
千里は女の身体で2年半生きて来ているし、実は小学5年生頃から様々な偶然の作用で女性ホルモン優位の状態にある。
「結果はFIBAに報告するとともに、あなた御本人にも通知したいと思いますが、それでよろしいですか」
「はい、どうぞ」
と千里は答えた。こういう検査にも協力的でなければ、よけいな疑惑を招くだけである。
しっかし女子選手というものをするのも大変だ!!
「性別再設定手術はどちらで受けられました?」
と医師は報告書にサインをして封筒に入れた後で千里に訊いた。この先は検査ではなくて雑談のようである。
「プーケットの***病院です。ちょっと待って下さい。手術証明書があったはずです」
と言って千里はバッグを探る。実はこの証明書は関空で待っている最中に、いつの間にかパスポートに“挟まっていた”ものである。2007年にインターハイ直前に東京で性別検査を受けさせられた時に美鳳さんからもらったものより、きちんとした雰囲気の証明書だが、困ったことにタイ語で書かれていて、千里には読めない。
美鳳さんの鉛筆の手書き文字で「性転換手術の証明書だよ〜ん」と日本語で薄く書かれていたのは千里が消しゴムで消しておいた。
「ああ。あそこの病院か。ワンティー・スイップジェット、カラカダーコム、2549年だから日本語でいうと2006年7月18日の日付になっていますね」
と医師はテーブルに貼ってある換算表のようなものを見ながら言った。
2006年!?
実は日付までタイ語で書かれているので千里はそれも読めなかったのである。(カラカダーコムは7月。タイの紀元は西洋紀元より543年古い)実際に千里が「目が覚めたら女の子になっていた」のは2007年5月だが、その時に実際の性転換手術は2012年に受けるんだと美鳳さんから説明された。しかし現時点で様々な問題を矛盾無く説明するには、その2006年くらいの日付でないといけないのかもと千里は思った。
「でもこれはタイ語で書いてあるから、タイ国外では不便でしょう?」
「ええ。日本国内ではほとんど読める人がいないみたいで」
「病院に照会して英語の診断書も書いてもらうといいですよ」
「そうですね。今度頼んでおこうかな?」
などと言いつつ、出羽の方角を見ると、美鳳さんが後ろ向いてる!わざわざ後ろを向いているというのが、何ともこちらを意識しているようだ。
結局この医師が話し好きなようで、雑談?が30分以上掛かった!
長時間の検査が終わって千里が病院から解放されたのはもう夜の12時である。おそらく夜間に空いている検査機器を使って検査をしたからこの時間で終わったのだろうと思った。今日受けた診察内容なら、普通の人間ドックなどなら丸一日掛かる内容だ。
またパティさんの車で戻ったが、千里が晩ご飯を食べ損なったがどこかで食料が調達できないかと尋ねると、深夜営業のレストランにつれていってくれた。
「You'd better use a taxi on return to the hotel」
「Thank you. Khob khun Kha」
と言って別れた。彼女も微笑んで
「MaiPenrai Kha」
と返してくれた。
千里が分かるタイ語はSawasdee kha(サワディ・カー:こんにちは)、Khob khun Kha(コップクンカー:ありがとう)、MaiPenrai Kha(マイペンライ・カー:気にしないで)程度である。サワディとかマイペンライはタイ語をあまり知らない人にも結構知られている。
(子供の頃の友人でフィリピン人の子がいて彼とは今でも実は交友が続いているので、千里はタガログ語は少し分かるものの、タイ人の友人はいないので、タイ語はほとんど分からない)
レストランに入る。玄関の所にVISAのマークがあるのを見て安心する。千里は入国したばかりなので、タイのお金は用意していない。レストランは営業しているが、千里が入って来ても誰かが寄って来る訳ではないようだ。勝手に座っていいのかなと思い中に入り、空いている席に座った。
通りがかりのウェイターに手を挙げて呼び止める。
「コードゥーメニュー・ノイカー(メニュー下さい)」
すると少ししてその人がメニューを持って来たが、何か言う。
『いんちゃん、なんて言った?』
『今の時間はパッタイとバミーとトムヤムクンしかできないって』
『どれがおすすめ?』
『パッタイ』
「コーパッタイ、ラー、チャローン、ノイカー(パッタイと熱いお茶を下さい)」
それでウェイターは伝票に何か書いて行った。15分ほどで料理が出てくる。何だか焼きそばみたいな料理だ。フォークが付いているのでそれを右手に持って食べようとしたら、《いんちゃん》が『フォークは左手』と注意してくれたので、それで左手に持ち替えて食べる。
千里は基本的に右手でも左手でも食事をしたり字を書いたりすることができる。
握力なども左手の方が強いのだが、千里は左利きを矯正された覚えは無い。千里と腕相撲をして右手では勝って左手では負けた暢子などは「千里って、潜在的な左利きかもね」と言っていた。
『味が薄い』
『自分で好きなように味付けして食べればいいんだよ。そこの左から2番目の瓶がおすすめ。ただしちょっとだけ』
『ありがとう』
パッタイは美味しかったし結構ボリュームもあって満腹した。お茶は砂糖が入っているようで、かなり甘かった。
一息ついたところでウェイターを呼び、VISAカードを見せた上で
「チェックビン、ノイカー」
と言って会計をしてもらう。
ウェイターが伝票を持ってくる。このレストランはチップ制ではなくサービス料10%が自動的に加算されているようである。それとVAT(消費税)7%も加算されていた。サインして伝票を渡す。控えを受け取った。
お店を出てからタクシーを拾おうとして、ふと気づく。
『ね、ね、レストランはカードで払えたけどタクシーはカードで払える?』
『まあ現金だろうね』
『使えないじゃん!』
『明日にでも少しバーツを用意しておいた方がいいよ。ホテルのフロントでもやってくれるよ』
今日は到着するなり病院に連れて行かれたので両替などしている時間が無かったのである。
『そうする。じゃ、今夜は、りくちゃんホテルまで連れてってくれる?』
『了解了解』
それで千里は《りくちゃん》の背中に乗ってホテルに帰還した。戻ったのはもう1時である!
部屋割りは玲央美と一緒になったことを玲央美からのメールで把握していたので、教えられた部屋番号に行き(玲央美が寝ているようだったので)《げんちゃん》に鍵を開けてもらって中に入った。
お風呂のお湯出るかな?と心配したものの、ちゃんと出てくれたので、きれいに今日の汗を流してから寝た。
翌20日。
朝は玲央美に起こされた。
「何時頃帰って来たの?」
「1時過ぎ」
「よく部屋に入れたね」
「私、オートロックの鍵を開けるの得意」
「危ない奴だ」
と言って玲央美は笑っている。
千里が徹底的な性別検査されたというと「大変ね〜」と同情するかのように言っていた。
一緒に食堂に降りて行く。ジョーク(タイ式おかゆ)・ムーピン(豚の串焼き)・それにソーセージエッグ、豆乳などをトレイに取り、座って食べ始めた時、華香たちのそばに座っていた、20歳くらいの長身のタイ人女性が席を立って、こちらに来た。
「おはようございます」
と合掌して言うので、千里も合掌して
「サワディ・カー」
という。
「タイ・バスケット協会、Basketball Sport Association of Thailandのワンナポーナミラ“アミ”カリャノンドです。アミとお呼び下さい。私はこの世界選手権の期間中、日本チームの皆様のサポートのためにチームに付いております。もちろん守秘義務を守りますので、何でもお気軽にお申し付けください」
「ありがとうございます、アミさん。村山千里です。コートネームのサンでいいですよ」
「分かりました。サンさん・・・あれ?」
「千里はコートネームに更に敬称をつけると変だよね」
と玲央美が言う。
「敬称無しでいいかもね」
と隣から彰恵が言う。
「もうみんな敬称無しでいいんじゃない?」
と江美子も言う。
「では敬称無しで。アミでいい?」
「はい。いいですよ。サン」
「でもアミって日本人みたいな名前ですね」
「私、日本大好きです。それで日本の女の子のような名前を付けたんですよ」
「なるほどー」
「タイって自分のミドルネームは自分で付けちゃうらしいね」
と彰恵。
「ミドルネームというより愛称と言った方がいいよね。そして結構コロコロ変えますよね」
と玲央美。
「そうですね。私も小さい頃はケンって呼ばれていたけど、中学生くらいからノンになって、高校ではポイになって、高校卒業してからはアミにしています」
「タイの人って愛称だけじゃなくて正式の名前も苗字も結構変えますよね」
「ええ。私も名前は最初ソンバットテルトイナク・チャイヤカーンだったんですけど、小学3年生の時に個人名をワンナポーナミラに変えて、高校を出る直前に家族名をカリャノンドに変えました」
「しばらく会ってなかったら姓名、愛称全部変わっている訳だ」
「顔も変わっていたりして」
「性別も変わっていたりして」
「タイは多いよね」
「あ、私も性別変えました」
とアミさん。
「え?そうなんですか?」
と千里は驚く。
「そうそう。その件で昨日も食事の時にけっこう盛り上がった」
と彰恵。
「声も女性の声ですね」
「ええ。声変わり前に去勢したので」
「なるほどー」
「私が出た中等学校(タイは日本でいう所の中高一貫校が一般的)は緩い所で女子制服での通学を認めてくれたので、女子中学生、女子高校生を6年間やることができました。実際には小学校の頃から、女の子の服で通学していたんですよ」
「タイはそのあたりが本当に寛容みたいですね」
と千里は言ったが
「日本も昔はそのあたりがかなり寛容だったみたいだけどね。むしろ戦後一時期変にかたくなになったんじゃないかな」
と玲央美は言う。
「確かに元々日本って性の問題には寛容な国だもんね」
と千里も言った。
「アミさん、高校2年で手術したらしいよ」
「同級生で高校1年で手術しちゃった子がいて、私も早く手術したいと親に言ったら翌年受けさせてくれました」
「いい親御さんですね」
「そうだ。両替って、どこでするのがいいですかね?」
「ここのホテルは割といいレートですよ。もしクレジットカードをお持ちなら、それでバーツで引き出すのがもっと率がいいです。このホテルの1階にもありますよ」
「じゃ食事が終わったら行ってこよう。昨日の病院の帰り、もうホテルのレストランはしまってるだろうと思って深夜営業のレストランの所で降ろしてもらって、食事の代金はカードで払ったけど、タクシーは現金が無いからジョギングで帰って来た」
「そんなことしてたんだ」
「鍛錬だな」
「あ、でもタイのタクシーは特に深夜は結構危険ですよ。ぼったくりが多いですし、女性1人だと、たまに悪いことしようとする運転手もいますから」
などとアミさんは言っている。
「タクシーに乗る時は必ずメーターを倒させることが必須と言ってたね」
と玲央美。
「そうそう。メーターで走ればそこに表示されている料金で乗れますから」
とアミさんも言っていた。
「あとはできるだけ2人以上で利用することですね」
「でも昨夜はそんなに遅くなったの?」
と彰恵が訊く。
「病院を出たのが夜の12時だったから」
「そんなに掛かったんだ! 千里がそんなに遅くなると知ってたら少し食事を取っておいたのに」
と江美子が言う。
「病院って、何かお怪我でもなさいました?」
とアミさんが訊く。
「性別検査受けてました」
「ああ」
「またやってたのか」
「全身くまなくMRIに掛けられて、どうも身体のどこかに睾丸が温存されてないかチェックしていた感じ。MRIの中に1時間以上入っていたよ」
「たいへんねー」
と彰恵は同情するように言うが、アミさんが怪訝な表情。
「コウガンって、男性の生殖腺ですか?」
「そうそう。ルーク・アンタ。私も性転換しているので」
「え!?そうだったんですか?全然気づかなかった。ごく普通に女性に見えるのに」
「アミもごく普通に女の人に見えるよ」
と千里は言った。
「でも女でも誰かの睾丸を体内に移植したら筋肉とか発達するのかね?」
と彰恵が言うが
「睾丸があったら男性ホルモン濃度がドーピングで引っかかるよ」
と千里は答える。
「あ、そうか。でも大会とかのあまり無い時期にこっそり睾丸埋めといて大会が近づく前に取り出すとかは?」
「ドーピングは試合とかとは関係無く、抜き打ちで検査するんだよね」
「うん。そうでないと、無理に睾丸移植しなくても、男性ホルモン剤打っても確実に筋肉はつく」
「ただし男性ホルモン剤をやると声変わりしたりする危険もあるよね」
「昔の東欧の女子選手とかには、そういう選手いたみたいね」
「逆に男子選手でおっぱいが膨らんじゃった人もいたらしいよ」
「男に女性ホルモン打って何か役に立つんだっけ?」
「柔軟性とかは増すかもね」
「まあそういう訳で、抜き打ち検査なんだよ。トップチームの日本代表の人たちとかは抜き打ち検査が可能になるように、常に所在を報告しておかないといけない。所在がつかめない状態が何日も続くと、ドーピング検査拒否のためではと疑われる」
「それも手間が大変そう」
「所在を通知する携帯アプリを入れているんだよ」
「なるほどー」
「あのアプリか」
それで千里の所在地は常に江美子の携帯で分かることになっている。
20日から22日までは練習場所として提供されているバンコク市内の中等学校の体育館で調整を続けた。
21日の日はFIBAのスタッフの人が来て、千里の性別検査の結果報告書を渡してくれた。むろん結果は「Chisato Murayama is perfectly a woman. She can participate any FIBA/IOC basketball competition as a woman」ということであった。
その人はしばらく日本代表チームの練習を見ていたのだが・・・・
その日の夕方、王子がFIBAの医療スタッフから呼び出されて病院に連れていかれていた!!
この日千里の携帯に、関空で会ったジーナさんの付き添いの人から
「性転換手術は無事成功しました」
というメールが入っていた。
千里は
「ようこそ、すばらしき女の子の世界へ」
と返信しておいた。
王子は結局、夜中に帰って来て「参った参った」と言っていた。
「内診された?」
「されました。びっくりしたー! 私あの検査道具に処女を捧げてしまったかも」
「大丈夫だよ。処女の人の場合は、ちゃんと処女膜を傷つけないようにして検査するから」
「だったら良かった!でもお腹空いた!もうレストラン開いてないですよね?」
「ご飯、取っておいたよ」
「ありがとうございます!」
それで王子は千里たちが確保していた夕食を食べていた。念のため3人前くらい取っておいたのだが、王子はペロリと食べて
「おごちそう様でした。まだ入るけど」
などと言っている。
「もう遅いから今日は寝た方がいいよ〜」
と彰恵。
「うちの部屋に少しおやつあるけど」
と華香。
「ソラさん、今夜は仲良くしましょう」
実は王子とサクラの部屋は既におやつを食べ尽くしているのである。
「あんたら1時までには寝ろよ。明日もみっちり練習だから」
「はーい」
22日の朝には日食があった。タイでは部分食になるものの、千里たちは朝食の前後にホテルの中庭で日食を観察した。事前に全員に観測用グラスが配られて「絶対に肉眼では見ないように」と注意もあった。
「同じ日食を2度見られるって不思議な感じだね」
と玲央美が小さい声で言う。
「何だか懐かしいよね」
と千里も答える。
「私バイトの友達と一緒に天神の公園でこの日食を見たんだよ」
と玲央美は言っている。
「へー。私は奄美で皆既食を見たんだよね。雲の向こうだったけど」
と千里。
ちなみにこの玲央美と一緒に福岡で日食を見たのは桃香なのだが、そんなことを千里は知るよしもない。
この日食を元の時間で見たのは、千里や玲央美にとっては半年前のことだ。
なお、この日食の最大食分は福岡では0.898(10:56JST)であったが、バンコクでは最大食分0.513(8:03ICT =10:03JST)で、欠け方は福岡よりかなり小さい。
その日の夕方。この日は18時で練習が終わり、食事のあと少し休憩して玲央美と部屋でおしゃべりしていたら、高田コーチから「高居代表の部屋まで来て」という連絡が入る。
電話は玲央美に掛かってきて「村山もそこに居るなら一緒に来て」と言われたので、一緒にそちらに向かうことになった。
集まっているのは、高居さん、篠原監督、片平コーチ、高田コーチ、そしてキャプテンの入野朋美、副キャプテンの前田彰恵、そして玲央美と千里に鞠原江美子、鶴田早苗である。
「全員に伝達してもいいのだけど、あまり人数が多くなって情報漏れが起きると怖いのと、こういう話を聞いているとプレイが不自然になる子もいるだろうと思って、このメンツを選んだ」
と片平コーチが言っている。
「これから話すことは絶対に秘密。チームメイトから訊かれても何も言わないで欲しい。その秘密保持をする自信が無い人は申し訳無いけど、すぐこの部屋を出て欲しい。そのことで選手起用などに影響が出ることはないから」
と篠原監督が言う。
「秘密は守ります」
と朋美が言い、その後、全員同様のことを誓った。
「明日からいよいよ選手権が始まる。日本は一次リーグでCグループに入り、ロシア・フランス・マリと対戦する。普通に戦うとロシアにもフランスにもまず勝てっこない。マリには勝てると思う。それだと一次リーグ3位で取り敢えず二次リーグには行ける皮算用になるんだけど、問題は二次リーグだ」
と片平コーチが言っていったん言葉を切る。
「二次リーグではDグループの上位3チームと合体するが、たぶんアメリカ・スペイン・中国が来ると思う。その中でアメリカとスペインは厳しい。中国は微妙だ。アジア選手権では日本が勝ったけど、向こうはリベンジに燃えてくると思う」
「そこで二次リーグの勝敗を考えてみる。二次リーグでは一次リーグで当たった相手との星はそのまま持ち越されるから、日本がロシアとフランスに一次リーグで負けていた場合、中国に勝ったとしてもスペイン・アメリカに負ければ2勝4敗になって、これでは決勝トーナメントに行けない」
と片平コーチは背景的なものを説明する。
単純な場合で、グループCDで各々3勝、2勝1敗、1勝2敗のチームが勝ち上がったとすると、二次リーグは6勝、5勝1敗、4勝2敗、3勝3敗の4チームが決勝トーナメントに進出し、2勝4敗のチームと1勝5敗のチームが脱落する。
だから決勝トーナメントに行くには、一次リーグと二次リーグで合わせて最低3勝しなければならないのである。
「そこで二次リーグまでに3勝するにはどうするか、という話なのだけど、マリ、中国には勝つと言う前提で、アメリカ・スペイン・フランス・ロシアのどこかに1回は勝たなければならないことになる。そうすると、うまくすればそれで決勝トーナメントに行けるし、最悪得失点差の勝負になる」
こういう「算数のお話」は、サクラとか王子とかに聞かせても途中で眠ってしまうなと千里は思った。彰恵は話を聞きながらメモ用紙に勝敗表のようなものを書いている。そして納得するかのように頷いていた。
「まあ、そこでその中のロシアに勝っちゃおうよ、という作戦なんだよ」
と高田コーチが言った。
「組み合わせを見ると、初日はロシア対フランス、日本対マリ。日本はむろんマリに勝たなければならないけど、ここであまり目立たないようにしておこうという話なんだよね」
と片平コーチが言う。
「それで2日目のロシア戦に臨む」
と篠原監督。
「題して弱いふり作戦」
と高田コーチ。
「ロシアにしてもフランスにしても、日本をなめてると思う。元々バスケの弱いアジアの、その中でも中国より弱い弱小国。アジア選手権はまぐれで中国に勝ったようだが、大したことはあるまいと思っている。だから、その油断を突く」
「すると中国に勝つ前提で3勝になれる訳ですね」
と彰恵は自分の書いたメモを見ながら言った。
「そういうことなんだよ。だから明日のマリ戦では、勝たなければいけないし得失点差の勝負になった場合のためにある程度点差も付けなければいけないけど、日本は凄いぞとは、思わせない程度のプレイにする」
「それ結構微妙ですね」
「そうそう。だからこのメンツを集めて話をした」
千里は目をつぶって考えていたが、やがて言った。
「じゃ明日は私、スリーは撃ちませんから」
「でも点は取ってくれないと困るよ」
「2ポイントだけ撃ちますよ」
「よしよし」
「じゃ私はダンクはしないようにしよう」
と玲央美。
「うん。それもいい。温存する意味も含めて明日は控え組中心に行くつもりだけど、出てもそんな感じで。ただしわざと失敗するのはやめた方がいい。変な癖が付きかねないから」
みんな頷く。そのあたりの精神的なコントロールが難しいことは、ここに来ているメンツなら、みな知っている。バスケットは心のスポーツという面がかなりある。
2009年7月23日。
この日は曇りであった。
千里たちは朝ご飯を食べた後、各自休憩する。ホテルで、あるいは仮眠を取り、あるいはおやつを食べたりして身体を休める。玲央美は瞑想をしていたようだが、千里はひたすら眠っていた。
仮眠から起きた千里は大きく伸びをしてから言った。
『ね、ね、ここにいる女子の中でいちばん運動が得意なの誰かな?』
と千里は唐突に後ろの子たちに訊いた。
『男も入れたら勾陳だと思うが』
『女の中では朱雀では?』
『じゃさ、すーちゃん今日は私がシュートする時は代わってシュートしてよ』
『千里、そういうの嫌っていたのでは?』
『すーちゃん、私より上手い?』
『いや、私バスケットなんてやったことないし』
『超常な力を使って有利になるのならアンフェアだけど、下手になるのは問題ない』
『面白い理屈だ』
『だって私がシュートしたら全部入っちゃうもん。わざと外すとかできない』
『不便な性格だな』
と《こうちゃん》は言った。
『こうちゃんがやったら、女の試合に男が出ることになって問題だけど、女のすーちゃんなら大丈夫でしょ。年齢は気持ちだけ19歳になってもらって』
『勾陳は去年の秋から今年の春に掛けて随分女装してたけど、いっそあそこ切って女になる?だったら出られるぞ』
『若いうちだったら女になっても良かったかなあ』
などと《こうちゃん》は言っている。
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【娘たちのタイ紀行】(1)