【娘たちのタイ紀行】(2)

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10時にホテルを出て会場に向かう。
 
ここは日青ユースセンター(Bangkok Thai-Japan Youth Center)と言い、現在のタイ王室(ラッタナコーシン朝)が1782年に設立されてから200年経ったのを記念して、建てられたスポーツ施設で1982年4月3日にオープンしている。
 
サッカースタジアムはタイ・プレミアリーグに所属するバンコク・ユナイテッドFCのホームグラウンドにもなっている。今回千里たちが使用するのはそこの体育館の方であるが、外装を直しているのか、屋根に青いビニールカバーの掛かった部分もあった。
 
千里はそのビニールカバーの掛かった部分に何か不穏なものを感じた。 
『ね、ね、まさかあの付近に何かいる?』
と千里が訊くと
 
『千里、あれが見えないのか?』
と《こうちゃん》が呆れたような顔をした。
 
『え〜。だって私、幽霊とかも見たことないし、霊感も無いし』
と千里が言うと、後ろの子たちは何だか顔を見合わせていた。
 
眷属たちは千里が冗談を言っているのか、マジなのか判断に迷ったのである。ちなみに霊感のある玲央美はそちらを極力見ないようにしていた。マジで霊感が無い王子でさえ、何かを感じたようでキョロキョロしていた。
 

千里たちが会場に着いた時はオープニング・セレモニーが行われていた。高居さんと篠原監督は出席しているものの、椅子に座っているだけであり、フロアではタイの女子高生たちによるパフォーマンスがおこなわれていた。
 
千里たちはそれをチラッと覗いただけで、今日の控え室に行き準備運動などをしながら気持ちを集中して行く。
 
11時にFIBAの人が来て、王子の性別検査の結果を渡していった。むろん王子は完全に女性であり、参加資格に問題はないと書かれていた。
 
「いやぁ、あんたは男だと言われたらどうしようかと思った」
と王子は言っているが
「キーミンは充分男でもやっていける気がする」
などとサクラや華香などからは言われている。
 
「男だってことになったら、せっかくタイに来ているし性転換手術して男になって帰国する手もあるかもね」
 
「性転換手術って女から男にもなれるんですか?」
「そういう手術もしてるよ」
「へー。やはりちんちん付けるんですか?」
「もちろん。但し、おっぱいは取るよ。子宮や卵巣も取るよ」
「うーん。卵巣は無くてもいいかな。生理面倒だし、あまり子供産む気無いし。むしろ、ちんちん欲しい気もするなあ」
「じゃ性転換する?」
「でもちんちんって、誰かから移植とかするんですか?」
「腕の皮膚を利用して作る」
「腕なんですか?」
「あれも、もう1本の腕のようなものでしょ?」
「おぉぉぉ」
「凄い場所に生えてる腕だね」
 

「でも実は私、男の子からラブレターもらったことはないけど、女の子からは過去に10回くらいラブレターもらったことあるんだよね。バレンタインは毎年もらうし。今年は学校やめたのに、実家にいくつも郵送されてきたらしい。写真だけメールしてもらって、中身は友達に配ってもらった」
 
などと王子は言っている。彼女は1月に倉敷K高校を辞めた後、1度も実家に戻っていないらしい。今回もアメリカから帰国したら合宿所に直行である。別に親とうまく行っていないとかではなく、単に面倒くさがっているだけのようではあるが。
 
「女の子が好きなの?」
「デートしてあげたことはあるけど、私は女の子を恋愛対象にはできないと言っておいた」
 
「きみちゃん、どういう男の子が好きなの?」
と彰恵が訊くと
「それは私よりバスケが強くて、お金持ちで頭が良くてイケメンで」
などと言っているが
 
「そんな人は居ない」
とみんなから言われている。
 
「キーミンよりバスケの強い男の子自体が、かなり少ない気がする」
とサクラは言う。
 
「レオさんとかはどうなんですか?」
「私はバスケが恋人だよ」
と玲央美は言う。
 
「おぉ!」
 
「恋愛をしているっぽいサンは?」
「いや、サンは恋愛というより、実際には既に結婚しているんだよ」
 
千里が頭を掻いていると江美子が指摘した。
 
「サンが煮え切らないのは、彼氏が自分よりバスケ弱いからだと思う」
 
「うーん。。。今のところはまだ一応勝負になるよ」
と千里は言った。
 

11:30。第1コートでAグループのカナダ・韓国の試合が始まった。それから30分遅れて12:00に第2コートでCグループの日本・マリの試合が始まる。日本はこのようなオーダーで臨んだ。
 
PG.鶴田早苗/SG.村山千里/SF.佐藤玲央美/PF.鞠原江美子/C.熊野サクラ 
「空気が読める」メンバー中心である。サクラをここに入れたのはまだ完全ではない彼女に少しでも試合感覚を取り戻させるためである。
 

ティップオフは長身のマリの選手が取り、攻めて来る。マンツーマンで守る。相手選手がシュートするが外れる。日本の攻撃になる。向こうはゾーン気味に守っている。おそらくは一次リーグで唯一勝てる見込みのあるのは日本と見てこの試合に全力を掛けるつもりなのだろう。
 
朋美からパスが来る。ここはスリーポイントラインの外側である。千里の中に《すーちゃん》が入る。《すーちゃん》が千里の身体を使って撃つ。
 
入る!
 
千里も驚くが、《すーちゃん》も驚いているようだ。
 
『入ったね』
『びっくりしたー。入るとは思わなかった』
 

「千里スリー撃たない予定だったのでは?」
と玲央美から小声で言われたが
 
「外すつもりだったのに入っちゃったんだよ」
と千里が言うと
「ほんとに不便な人だ」
と言われた。
 
こちらは八分くらいの力で戦い、向こうは全力なのだが、実力差はどうにもならない。開始10分で4-13である。千里と玲央美を下げ、渚紗と彰恵を入れる。このピリオドは結局10-22で終了した。
 
第2ピリオドは控え組中心で出て行くが、今日の試合は手加減しようという話を聞いていない王子やサクラがどんどん点を取る(点数は取らなければならないので都合が良い)。サクラもリバウンドを取る感覚がかなり戻って来ている感じだ。
 
千里は第3ピリオドの前半でも出たが、2ポイント・3ポイントともに今日の千里のシュートは精度を欠き、この日は11点しか取っていない。スリーは最初に『偶然』入ってしまったものだけである。
 
結局この試合は85-35で日本が勝利した。得点は王子がひとりで36点も取る大活躍で、得意そうな表情であった。試合後には日本のバスケット雑誌の記者がインタビューしていたが、王子は嬉しそうに語っていた。
 

この日の試合結果は下記である。
 
GrpA CAN 73-28 KOR / AUS 75-51 ARG

GrpB BRA 104-45 THA / CZE 84-62 LTU

GrpC JPN 85-35 MLI / RUS 54-46 FRA

GrpD ESP 90-86 USA / CHN 86-60 TUN

 
日本と同じグループCの第2試合ではロシアがフランスを破った。これで多くの人はもうグループCの残り試合は消化試合と思ったであろう。普通に考えると1位ロシア、2位フランス、3位日本、4位マリ、で確定である。ネットを見ていた彰恵は「試合をやる前から1位と2位の順序以外は確定してるなんて書いてあったよ」と言っていた。
 
グループDではスペインが接戦の末アメリカを破っている。千里たちは結果を聞いて驚いた。スペインは殊勲の星である。アジア勢では中国はチュニジアに勝ち、韓国はカナダに敗れている。
 

天津子はその場所に行くと見上げるようにして
 
「こら、あかん」
と言って取り敢えずその日は帰ることにした。
 
タクシーを呼び止めて乗って「フワランポーン・ステーション」と英語で告げる。座席で携帯を取り出し千里に掛けた。
 
「千里さーん。今日明日とかパワー借りられます?」
「ごめーん。明日はロシア戦で、今回の大会でいちばんだいじな試合なんだよ。だから今日もそれに向けて練習するから勘弁」
「明後日は?」
「明後日もフランス戦で。26日は休養日だから使ってもいいよ」
「じゃ26日に貸してください」
「OKOK。できたら時間は前もって教えてね」
「はい。そうします」
 
その後天津子は日本国内にいる姉弟子の桃源と少し話し、そのあと今回の事件のクライアントの鈴木さんと話した。
 

やがてフワランポーン駅に到着するが、その時初めて天津子はメーターが倒されてないことに気づいた。
 
「料金はいくら?」
とわざと英語で尋ねる。天津子は実はタイ語も結構できるが、ここは喧嘩になるのは必至とみて英語を使った。
 
「300バーツ(840円)です」
と運転手は英語で答える。
 
(2009年7月のタイバーツ相場は2.8円くらいである)
 
「それはあり得ない。だいたいなんでメーター倒してないのさ?」
「この区間はよく乗せてますからね。だいたい350バーツくらいするんだけどあんた美人だから300バーツに負けときますよ」
 
運転手も英語で言い返してくる。発音もまあまあである。
 
「女子高生だと思って甘く見てんじゃないよ。こないだここ乗った時は40バーツだったよ。40バーツにチップ少し足して50バーツ(140円)あげるから」
と言って天津子はお金を渡そうとする。
 
バンコクのタクシーの相場はだいたい4kmで50バーツ、10kmで80バーツくらいである。
 
「それはさすがに無茶。それタクシーじゃなくてトゥクトゥクじゃないの?」
と言って運転手は受け取りを拒否する。
 
「あんたね。優しく言っているうちに受け取って降ろさないと、ただじゃ済まないよ」
と天津子がきつい表情で言う(実を言うと、運転手には見えていないものの、《チビ》が運転手を威嚇しているのである)。
 
すると運転手はビクッとしたようである。おそらく何かを感じ取ったのだろう。 
「分かりました。それでいいです」
と言って、天津子が渡した50バーツを受け取って彼女を降ろしたものの 
「本当はこの区間80バーツくらいするのに・・・」
とぶつぶつ文句を言っていた。
 

7月24日。
 
千里たちは朝食前に1時間ほど軽い練習をしたが、その練習を始める前に篠原監督が全員を集めて言った。
 
「今日はロシアとの試合だが、ここでみんなに言うことがある」
 
ここで言葉を切って、あらためて全員の顔を見回す。そしておもむろに次の言葉を笑顔で言った。
 
「今日は勝つつもりなので、よろしく」
 
一瞬、渚紗・百合絵・桂華など、今回の「作戦」を聞いていないメンツの顔に不安がよぎる。勘の良い桂華などは昨日手を抜いていたことに気づいたかも知れないが、百合絵などはマジで心配していた雰囲気だった。
 
ところがここで王子が
「昨日が85対35だったから、今日は105対25で行きましょう」
 
と言う。
 
「うん。そのくらい行こうか」
と高田コーチも笑顔で言い、それでみんな笑顔になった。
 

それから練習を始めたのだが、千里がスリーを百発百中させるので
 
「昨日は調子悪かったみたいだけど、今日は行けそうだね」
と渚紗が言った。
 
「うん。昨日はごめんねー。今日は頑張るから」
「まあ、千里が調子悪かったら、私がスターターの地位をぶんどるだけだから」
「まあお互い頑張ろう」
 

朝食後、今日の対戦相手について簡単な説明がある。中核選手については充分研究しているのだが、直前に言っておかないと、1晩寝ると全部忘れてしまう選手が若干数名居るので、このタイミングでの説明になった。
 
ロシアの選手は名簿によるとこうなっている。
 
PG プロツェンコ

SG モロゾヴァ ゴンチャロヴァ

SF ペトロヴァ イワノヴァ ミハイロヴァ

PF クジーナ マシェンナ クリモナ

C コフツノフスカヤ ゼレンコフスカヤ トベルドフスカヤ

 
「ポイントガードが1人か」
「実際の試合運びでは、シューティングガード登録の2人も実質的に司令塔の役割を果たしているよ」
 
「3人ともガードという枠で捉えた方がいい感じですか?」
「うん。それでいいと思う」
 
相手選手でいちばん要注意なのがパワーフォワードのクジーナ選手で身長202cm, またスモールフォワードのペトロヴァ選手はスリーも撃てばダンクもするし、様々なトリックプレイを繰り出す「くせ者」ということで、説明がある。みんな熱心に話を聞いているのだが、王子は途中で眠ってしまった。隣のサクラが起こそうとしていたのだが
 
「あ、待って。ガイヤーンもう1本!」
などと大きな声で言って、サクラが参ったという表情で頭に手を当てている。 
しかし本人はそれで目が覚めたようである。
 

説明していた片平コーチが渋い表情で王子を見る。
 
「ええ、高梁(たかはし)君の意見は?」
と尋ねる。
 
「えっとそうですね。独自にロシア選手を分析してみたのですが」
「ほほお」
 
「まずヴァとかナで終わる名前が多いです」
「まあ、それはロシア人女性の名前の構造上仕方ない」
 
ロシア人の苗字は男性形と女性形で変化する。ミハイル・ゴルバチョフの奥さんはライサ・ゴルバチョヴァである。男性形+aという女性形の苗字が多いため。どうしてもヴァやナで終わることが多い。
 
「シューティングガードはモロゾヴァ、ゴンチャロヴァ、って、お菓子屋さんみたいな名前です」
「ほほぉ!」
 
「スモールフォワードはペトロヴァ、イワノヴァ、ミハイロヴァ、でみんな凄くありふれた名前」
「確かに、どれもよくある苗字だ」
 
日本で言うと、佐藤さん・鈴木さん・渡辺さんという雰囲気だ。
 
「パワーフォワードはクジーナ、マシェンナ、クリモナ、と全員ナで終わっています」
「なるほど」
「センターはコフツノフスカヤ、ゼレンコフスカヤ、トベルドフスカヤ、と全員やたらと長い名前でヤで終わっています」
 
「確かに長い」
 
「よく分析してるじゃん」
と彰恵が半ば呆れたように言う。
 
「で、誰か注意しておくべき選手はいる?」
と片平コーチは半分笑いながら王子に訊く。
 
「クジーナです」
「ほほぉ。どうして?」
「クジーナなんて、まるで日本人にでもいるような名前は要チェックです」
 
「確かに九品さんとかいそうだ」
 
片平コーチも呆れているようであったが、コーチはおもむろに言った。 
「じゃ高梁君、そのクジーナ選手を押さえてくれる?」
「分かりました!いっさい仕事させません」
「よし、頼むぞ」
 

ミーティングの後で桂華が何かぶつぶつ言っているので、どうしたの?と訊く。 
「いや、ロシア人って男女で苗字の形が違うじゃん。性転換したら名前は女性的な名前に変えるだろうけど、苗字も変わることになるのかな?」
 
「苗字も変わるし、当然父称も変わる」
と千里は答える。
 
「ああ!父称!」
「誰々の息子という言い方が、誰々の娘という形になるから」
「ふむふむ」
「そうか。息子が娘に変わるのか」
「女なのに息子のままだったら変」
「確かに」
 
「だから例えば、アレクサンドル・ニコラエヴィッチ・イワノフという人が性転換したら、アレクサンドラ・ニコラエヴナ・イワノヴァとなる」
 
「画期的だ」
 
「あの父称って、シングルマザーの場合はどうすんの?」
「母親の父ちゃんの名前を借りるみたいだよ」
「つまり母親の父称が継承される訳か」
「そういうことになるよね」
 
すると更に考えている風の桂華が訊く。
「妊娠中に父親が性転換しちゃったら?」
 
「むむむ?」
 
「元々男女両形のある名前なら問題無いかもね。たとえばヴィクトルという名前の人が性転換してヴィクトリアになっても、その人を父親とする子供はヴィクトリヴィッチあるいはヴィクトロヴナでいい気がする」
 
「ああ、それでいい気がする」
 
「ローザとかナディアみたいな名前に改名されると困るな」
「ローザヴィッチとかナディアヴィッチみたいな父称を作るんだろうか?」
「それはさすがに恥ずかしすぎる」
 
自分の父親は女ですというのをわざわざ主張する形になってしまう。
 
「やはりお祖父さんの名前を借りるのでは?」
 

ミーティングの後はお昼まで休憩となるが、千里は少し仮眠して身体を休めた。 
12時すぎに玲央美に誘われて一緒に昼食を食べに行く。ここで少しずつメンバーが集まってくる。
 
近くの席でアミさんが百合絵・桂華と話している。
 
「昨日は買物とかまで頼んで済みませんでした」
と華香が言っている。
 
「いえ。そういう雑用のために私は居ますので」
とアミさん。
 
「何を頼んだの?」
と隣のテーブルで王子と話していたサクラが尋ねる。
 
「下着一式。実は着替えを入れていたバッグのひとつを伊勢のホテルに忘れてきていたことに昨日になって気づいて」
 
「あぁ」
「昨日の試合のあとで、会場の近くに衣料品店があったから入ってみたけど、私の身体に合うサイズの下着が全然無かったのよ」
 
華香は身長182cmである。タイ人の女性はほぼ日本人と同程度の身長だ。 
「それで相談したら、大きいサイズの女性向けの下着売っている所知ってますよ、ということだったからお願いして下着とか、Tシャツとかも買ってきてもらった」
と華香。
 
「いえ、タイはある理由で異様に背の高い女性も結構いるんですよ」
とアミさんは笑いながら言う。
 
「なるほどー」
「それ、元は別の性別だった人たちですか?」
 
「他にもやはりタイに来ている欧米人の女性とかもいますし」
「確かに確かに」
 

「でも、ほんとに何でも雑用で使ってくださいね」
とアミさんは言うが
 
「もっとも、あれは、やばかったね」
「うん。あれはハメ外しすぎた」
などと王子とサクラが言っている。
 
「あんたたち、何頼んだの?」
と彰恵が訊く。
 
「いや、男性のチームとかだと、女の子呼ぶのとか頼まれたりもするんですよ、とか話を聞いたんで、頼もうとしたんだけど」
と王子。
 
「女の子って、まさかコールガール?」
「料金は6000円くらいって聞いたから、そのくらいなら一度話のタネに呼んでみようかと」
 
「あんたたち、そんな子を呼んで何がしたいわけ?ちんちん無いよね?」
 
「えっと、ちんちんは実は日本を出る前にサーヤさんからもらったのが1本あるんですけど」
と王子が言っている。
 
「そんなのよく持ち込んだね?」
「化粧品入れにいれといたから、化粧品か何かと思ってもらえたかも」
 
桂華はその話は初めて聞いたようで、呆れた顔をしている。
 
「ちんちんって化粧品入れに入れて持ち歩くものだったのか」
 
「でもその計画は近くに居た高田コーチから禁止された」
「そりゃ、聞いたら禁止するだろうけど、まさか女子チームでしかもアンダーエイジの選手が、そんなの呼ぼうとするとは思わないよね」
 
「うん。男子チームでは、海外遠征の時、最初にきつく言っておくみたいだけどね」
 

お昼を食べた後で会場に移動する。今日はグループCの第2試合である。第1試合のフランス対マリが行われていたが、ほとんど一方的な試合になっていた。フランスはどうも控え組中心に運用しているようだ。これは昨日のロシアとの試合が総力戦になり中核選手が疲れているのと、明日の日本戦で万が一にも取りこぼしたりしないように、休ませているのだろうなと千里と玲央美は話しあった。
 
フランス・マリ戦が終わる。千里たちはフロアに入った。やがて日本選手とロシア選手が全員コート脇に並ぶ。そしてスターターの双方5人が1人ずつ名前を呼ばれてコート内に入る。他の選手も名前を呼ばれてお辞儀をし、歓声に応えていた。
 
スターティング5はこのようになっていた。
 
RUS SG.12.ゴンチャロヴァ/SF.10.イワノヴァ/SF.13.ミハイロヴァ/PF.11.クリモナ/C.15.トベルドフスカヤ

JPN PG.4.朋美/SG.6.千里/SF.10.玲央美/PF.13.王子/C.14.華香

 
どうも向こうは控え組で様子を見ようという魂胆のようである。背番号も数字の大きい選手ばかりだ。王子は自ら要注意選手と言っていたクジーナをマークする気満々だったのだが、出てきてないのでしかめ面である。玲央美が「11番(クリモナ)をマークして」と囁くと、頷いていた。
 
トベルドフスカヤと華香でティップオフする。身長ではかなりの差があるのだが、華香が絶妙なタイミングでジャンプして、うまい具合にこちらにボールをタップする。玲央美が取って速攻。イワノヴァが何とか頑張って玲央美の前に回り込む。玲央美はオーバーハンドパスするような姿勢から直前でバウンドパスに切り替えて千里にボールを送る。千里はスリーポイントラインの手前からきれいにボールをシュートする。
 
入って3点。0-3.
 
試合は日本が先行して始まった。
 

どうもロシアは昨日の試合を分析して、日本は王子が1人卓越しているチームと思っていたようである(実際王子は手加減しようなんて話は聞いていないのでフルパワーで頑張っていた)。それでクリモナがかなり執拗に王子をマークするのだが、他は割と適当にプレイしていた。
 
日本側は最初千里がスリー、そのあと玲央美がレイアップ、王子がそのクリモナを振り切ってダンクを決めたものの、ロシア側は3回シュートして決めたのはトベルドフスカヤのダンクシュートのみ。他2回はシュート失敗してリバウンドも取れずに攻守反転している。
 
それで3分ほど経った所で千里の2度目のスリーが決まって2-10となった所で向こうはタイムを取った。
 
ロシアとしてはおそらく想定外の展開である。
 
向こうは何だか激論していたようだが、結局全選手を入れ替えてきた。 
PG.8.プロツェンコ/SG.7.モロゾヴァ/SF.4.ペトロヴァ/PF.5.クジーナ/C.6.コフツノフスカヤ、とおそらく向こうのベストオーダーである。背番号も4-8がそろっている。
 
クジーナが出てきたので、王子が張り切っている。
 

日本のスローインから再開である。朋美がスローインして玲央美がキャッチしようとした所にペトロヴァが身体を差し込むようにして横取りしようとする。むろん簡単に取られるような玲央美ではない。ペトロヴァを押しのけるようにしてしっかりキャッチ。自らドリブルして制限エリアに進入する。モロゾヴァがカバーに来る。玲央美はシュートの姿勢から直前でパスに切り替えて千里に送る。モロゾヴァが玲央美の方に行ったせいで、千里は瞬間的にフリーになっていた。
 
撃つ。
 
入る。
 
これで2-13. 千里は既にこのピリオド、スリーが3本目である。
 

この後は、さすがに向こうも最強メンバーで来ただけあって、自分たちの攻撃の時はしっかり得点する。リバウンドもコフツノフスカヤは7割くらい取る感じだ。それでロシアの得点も増え始めるものの、結局このピリオドを12-21とダブルスコアに近い数字で終えた。
 
なお王子は自分で言っただけあってクジーナをかなり押さえた。向こうが結構いらいらしているのが分かった。実際クジーナは王子の防御を突破しようとしてこのピリオドに2つもファウルをおかしてしまった。他にモロゾヴァとコフツノフスカヤも1つずつファウルしている。日本側は朋美と華香が1つずつ取られただけである。
 

第2ピリオドでは王子と玲央美を休ませ、彰恵と江美子を出す。ポイントガードも早苗にするが、センターは華香のままである。
 
向こうはモロゾヴァを下げてペトロヴァを再度出し、ペトロヴァが千里をマークするようにした。
 
ペトロヴァは事前のビデオ分析でも声が上がっていたのだが、ひじょうに器用なフォワードである。マッチングもうまく、千里を2度も止めたが、千里もボールは奪われず、江美子にパスしてつないだ。
 
このピリオドで鍵になったのは江美子・彰恵のペアとクジーナ・マシェンナのペアとの対決である。クジーナとマシェンナは元々同じ高校に所属していて、息のあったプレイを見せていた。江美子と彰恵はチームは別であっても、代表チームでの経験も長くふたりともレベルが高いのでうまい連携を見せる。
 
どちらもうまいコンビネーション・プレイを見せるので、その動きが複雑で観客席がしばしばどよめいていた。クジーナが超絶上手いので、基本的にマッチアップしている江美子も何度か抜かれたりしていたものの、そこをきちんと彰恵がカバーするので、結果的にこのピリオドでクジーナは、なかなか点が取れない。 
それでもクジーナとマシェンナのコンビで8点取り、一方の江美子・彰恵のペアはふたりで13点取った。このフォアード対決で5点差が付いたのはロシア側には誤算であった。
 

ピリオド終了間際。彰恵のシュートが惜しくも外れたリバウンドをコフツノフスカヤが確保して、即浅い位置に居たプロツェンコにパスした。プロツェンコが速攻を仕掛けるが、千里が彼女の前に回り込む。複雑なフェイント合戦から彼女が千里の左を抜こうとした所で、千里が必死に手を伸ばして、指でボールを弾く。 
こぼれたボールを押さえたのはペトロヴァである。彼女は器用さが一番の特徴だが、スピードもある。自ら制限エリアに飛び込んで行き、シュートしようとしたものの、その前に早苗が走り込んで来た。早苗がペトロヴァの目の前に立って防御しようとする。ここでペトロヴァは189cmなのに対して早苗は164cm. ペトロヴァは早苗を黙殺してそのまま突っ込んだ。
 
ペトロヴァのシュート間際に早苗と衝突する。
 
ペトロヴァのシュートはゴールに飛び込んだものの、笛が吹かれる。
 

「早苗!」
と呼んで千里が駆け寄る。
 
早苗が起きない!?
 
『びゃくちゃん、早苗は大丈夫?』
『大丈夫。軽い打ち身。でもこれかなり痛い』
 
実際、早苗は意識はしっかりしているっぽいのだが、痛さで起き上がれないようだ。右足のスネを手で押さえている。
 
ペトロヴァが片言の日本語で『ゴメンナサイ』と言っている。早苗も最初は声も出せなかった感じなのが『ニチヴォ。ノ...イタタタ』などと言っている。途中で日本語になったのは、ロシア語を考えている余裕が無くなったのだろう。 
結局早苗は担架に乗せられてコート外に出される。トレーナーの森山さんが様子を見ている。森山さんも骨折はしてないようだと判断したようで、取り敢えずコールドスプレイを掛けている。念のためあり合わせの板と包帯で固定していた。
 
審判が様子を見ていたが、どうにか大丈夫のようだと判断したようだ。 
それで結局ペトロヴァはアンスポーツマンライク・ファウルが宣告される。むろん得点は無効である。
 
早苗がプレイできる状況ではないので渚紗が入る。そしてその渚紗のフリースローから試合は再開される。渚紗は当然2本とも決めた。その後更に日本のスローインからゲームは再開されるものの、すぐに時間切れでピリオド終了となってしまった。
 
結局、このピリオドは13-20、前半を終わって25-41である。日本が16点もリードしている展開に会場はざわめきが大きかった。
 

早苗は念のためアミさんの案内で森山さんも付き添い、病院に連れて行った。 
ハーフタイムなので、他の選手は控え室に入る。
 
「早苗大丈夫かなぁ」
と心配する声が多いが
 
「私が見た感じでは、骨は大丈夫みたいだから、今日中には痛みも取れると思う」
と千里は言った。
 
「じゃ明日の試合は行けるかな?」
と朋美が言う。
 
「状況次第だけど、場合によっては明日は休ませよう。彼女の分は他のみんなで少しずつカバーして」
と監督。
 

彰恵が首をひねっているので、千里が
 
「どうかしたの?」
と尋ねる。
 
「いや、あのマシェンナという選手、凄いのか凄くないのかよく分からない」
「彰恵にしては結構やられていたね」
 
「単純な動きだけ見ていたら、代表チームで活躍するほどの選手には見えないんだよね。ロシアの背番号は実力順っぽいけど、その中の14だからね。でも何か気合いが凄いというのかな。私が一瞬先に回り込んでも、あの子の鋭い視線を見ると、こちらは何か一瞬気後れする感じになるんだよ」
 
「彰恵が気合い負けするって珍しい」
「気合いで勝負するタイプなのかな」
「合気道とかするんだったりして」
 
「だから後半はあの子の目を見ないように気をつけていた」
「なるほどー」
 
「すぐ対処できるのが、さすが彰恵だね」
と百合絵が言う。
 
しかし千里は腕を組んで考えるようにしていた。
 

ちょうどその頃、天津子はバンコク市内である人物と会っていた。
 
「これ頂いてきました。ちょっと中身は怖くて見てないのですが」
と彼女は言う。
 
「大丈夫ですよ。私はそういうの全然平気なので。それでは使わせてもらいます」
と言って天津子はそれをビニール袋に入れてからバッグにしまう。
 
「でもこれが20年間私を苦しめたのに、その苦しめたものを利用して、もうひとつの苦しみも取り除けるかも知れないのですね」
 
「まさに毒をもって毒を制すですよ」
「なるほど!確かにあれは毒でした。体内によけいなものを撒き散らかして」
 
「仕上げは明後日しますので」
「分かりました」
 

ハーフタイムが終わって、出てきたロシア選手の顔が厳しかった。こちらはずっと出ていた千里を休ませ、朋美/渚紗/百合絵/桂華/サクラというオーダーで出て行く。彼女たちに課したのは「10点差以内で持ち堪えること」であった。
 
向こうはガードを入れずにフォワード5人という「点を取りまくるぞ」という態勢できた。
 
実際、最初は向こうの気迫に押される。ゴールを3つ立て続けに決め、強烈なプレスを掛けてこちらからスティールも成功させる。6-0となり、ロシアの応援席が盛り上がるものの、そのあと冷静な朋美がみんなを落ち着かせ「自分のプレイをする」ように言う。
 
それでその後はこちらも点を取るものの、このピリオドの相手の攻勢は本当に物凄かった。
 
半分まで行った所で日本がタイムを取っていったん試合を止める。ここまでの点数は16-4である。総得点で41-45と、4点差に迫られている。
 
「ごめーん。頭が空白になった」
と百合絵が珍しく弱音を吐く。
 
「でもまあ、このメンツ相手ならこのくらいの点差は仕方ないね」
と玲央美が言う。
 
「30点差までなら取られてもいいから」
「そこまで!?」
 

「でもアキ(彰恵)が言っていたのが分かった。あのマシェンナって気合いだけはタダ者じゃないよ」
 
と主にマッチアップしていた桂華が言う。
 
「そういうのは、実際にコート上で対決した人にしか分からないんだよなあ」
と江美子が言う。
 
「監督、トモ(朋美)がファウル3つになっちゃったんですが」
と桂華が言う。
 
ロシア側が強引なプレイをするので、向こうもファウルがかさんでいるが、こちらも朋美が2つ、百合絵と桂華が1つずつファウルを取られている。向こうもマシェンナとペトロヴァが1つずつ、クジーナとコフツノフスカヤが2つずつファウルを犯している。クジーナとコフツノフスカヤはファウル4つ、マシェンナもファウル3つで向こうはチームファウルも凄いことになっている。 
しかし早苗が病院に行っている時に朋美が退場になったりする事態はまずい。今はまだ第3ピリオドである。
 
「じゃ前田(彰恵)君をポイントガードの位置に入れようか」
と監督。
 

それで彰恵が朋美と交代して司令塔役で出ていく。向こうもクジーナが交代した。ファウルが4つになっているので、彼女のここでの退場はまずいと考えて向こうも交代させたのだろう。
 
朋美や早苗は専門のポイントガードなので、自らはあまりゴールを狙わずに攻撃を組み立て、いちばん得点しやすい人にボールを供給する。しかし彰恵は本来フォワードなので、司令塔を務めていても、誰かに供給するかも知れないが自分でもゴールを狙う。
 
また、朋美や早苗は全体の状況を把握して理論的にゲームをコントロールしようとするが、彰恵は状況は把握しているものの、それよりも割と自分の勘で攻撃のパターンを決める。
 
そのため彰恵が入った後、相手は日本側の攻撃パターンを読めなくなってしまったようであった。
 
合理的に考えればここから攻撃するだろうという場所や人を使わないので相手は虚を突かれる感じになりやすい。
 
そのお陰でこの後日本は何とか得点ができるようになる。しかし相手の攻撃は止められない。彰恵が入った後は、逆にこちらも無理して相手を止めないようになった。その代わり、こちらの攻撃の時は相手のスティールに気をつけ、ある程度時間を使って着実にボールを運び、着実に得点するようにする。 
すると日本が時間を使って攻めるので、相手は結果的に攻撃と攻撃の間があくようになる。更にロシア側のシュートは2回に1回も入らない。対して日本側のシュートは精度が高い。リバウンドではロシア側が優勢ではあるもののサクラも負けてばかりはいない。相手センターと結構渡り合う。
 
また、桂華はハーフタイムに彰恵が言っていたことを思い出し、マシェンナの目を直視しないようにした。それで桂華が何とかマシェンナを止められるようになる。
 
それでこの後のロシアの得点は6点に留まり、日本は逆に10点取ることができて、このピリオドを22-14で終えた。
 
総得点では47-55と日本のリードは8点である。
 
しかし追い上げているのでロシア観客席は異様に盛り上がっている。日本側の応援団も一時は一方的になりかけた試合を何とか持ち堪えたので必死になってエールを送ってくれる。
 

最後のピリオドは江美子/千里/玲央美/王子/サクラというメンツで出て行く。 
向こうはPG.プロツェンコ/SG.モロゾヴァ/SF.ペトロヴァ/PF.マシェンナ/C.ゼレンコフスカヤというオーダーである。
 
オルタネーティング・ポゼッションが日本なので江美子のスローインでゲームが始まる。
 
向こうは日本がポイントガードを使わずにフォワードを3人入れているので大攻勢を掛けるつもりかと思った雰囲気もある。実際には江美子はポイントガード役で出てきている。彰恵とはまた別のロジックでゲームコントロールしてくれることを期待しての登用である。
 
相手はここまで結構な活躍をしている王子と、スリーを前半で5本放り込んだ千里にやはり警戒しているようで、千里にペトロヴァ、王子にモロゾヴァが付く。本来なら千里にSGのモロゾヴァ、王子にSFのペトロヴァが付いた方がよさそうに思えるのに、逆になっているのは、モロゾヴァが第1ピリオドで全く千里に付いていけなかったからであろう。モロゾヴァはパワーはあるものの、瞬発力に欠けるようで、千里の急な変化に付いてこれなかった。ペトロヴァはその瞬発力がある選手である。
 
江美子は、その2組と玲央美にマシェンナが付いているのを見ると、いきなり自分で切り込んで行く。プロツェンコを一瞬で抜き、フォローに来たゼレンコフスカヤも巧みなステップで抜いて、きれいにレイアウトシュートを決めた。 
47-57.
 
相手が攻めて来る。こちらはマシェンナに王子が付き、モロゾヴァに千里、ペトロヴァに玲央美が付いた。このピリオド前半では攻守でマッチアップする組合せが変わることになった。
 
モロゾヴァは千里に完璧にパス筋を消されている。ペトロヴァ:玲央美、マシェンナ:王子、という組み合わせを見て、プロツェンコはペトロヴァにパスする。ここがいちばんまともそうに見えたのである。ロシアはやはり王子を最大に警戒している。
 
ペトロヴァと玲央美がかなり高度なフェイント合戦をして、ペトロヴァが玲央美を抜く。ところが玲央美は再びペトロヴァの前に居る。え!?という顔をしたところで斜め後ろの死角から足音をほとんど立てずに近寄った千里が、さっとボールを掠め取った。
 
すぐに江美子に送る。
 
江美子がドリブルで走って行く。相手選手が必死で戻る。江美子の斜め後ろからプロツェンコがタックルするかのように止めた。江美子はタックルされながらもシュートしようとしたのだが、これはさすがにゴールに届かなかった。 

プロツェンコにアンスポーツマンライク・ファウルが宣告される。プロツェンコはこれでファウルが4つである。
 
この場合、江美子はまだシュート動作には入っていなかったもののフリースローがもらえる。
 
ロシア側はプロツェンコを下げてクジーナを入れて来た。王子が「よし!」と張り切っている。ついでにセンターもゼレンコフスカヤからコフツノフスカヤに交代である。クジーナもコフツノフスカヤもファウルが4つであるが、相手もここは勝負所と見たのであろう。
 
日本側はコート上のメンバーで急いで話し合い、クジーナは王子に任せて、マシェンナは千里、モロゾヴァを江美子が相手することにした。
 
しかしこれでどちらもフォワード3人である。
 
江美子はフリースローを2本ともきっちり決めて47-59.
 

アンスポの後なので、日本が得点しても更に日本のスローインからゲーム再開である。千里がスローインし、王子にパスする。王子はモロゾヴァのガードをほとんど強引に破って中に進入する。一瞬審判がファウルを取るかどうか悩んだ風ではあったものの、ファウルは取られなかった。
 
華麗なダンクを決めて47-61.
 
点差が開き始める。
 
しかしロシアも202cmのクジーナが入っている。
 
ゲームはこちらの予測通りモロゾヴァが司令塔役になるようである。彼女のドリブルで攻め上がってくる。クジーナに送る。クジーナは王子の前で複雑なフェイントを入れて突破。中に飛び込んでサクラも押しのけて豪快なダンクを決めた。49-61.
 
王子をきっと睨む。ダンク仕返したぞ、という雰囲気だが、王子もにらみ返す。こちらも負けてはいない。
 
この後、ゲームは王子とクジーナのダンク合戦の様相を呈した。千里のスリー、ペトロヴァの2ポイントシュートもあったものの、残り3分まで行った所でクジーナが10回中8回もダンクを成功させたのに対して、王子も5回中3回ダンクを成功させた。
 
日本が攻める時、王子に最初はモロゾヴァが付いていたのだが、ゲームの途中からクジーナが付くようになっていた。クジーナが王子を好敵手と認め、自ら対決を望んだのであろう。
 
ふたりはお互いダンクを決める度に睨み合っていたが、これは本来はしてはいけない行為である。おかげで2度も審判から警告を受けていた。
 
しかしクジーナの活躍で、ここまでの得点は68-70とわずか2点差である。 

日本側が江美子のドリブルで攻めあがって行く。
 
千里にボールを送るもペトロヴァが必死にガードしている。そこで千里はいったん玲央美にボールを送る。玲央美は受け取ると即王子にボールを回した。 
王子がフェイントなど入れずにいきなりクジーナの右を抜こうとする。クジーナが止めようとして弾かれ、反動で倒れてしまった。しかし王子は構わず中に突進する。コフツノフスカヤが止めようとしたものの、王子は直前で進路を変えて、コフツノフスカヤの右側、エンドライン側に移動してからゴールそばに迫ろうとした。コフツノフスカヤが必死に手を伸ばして王子を止めようとするが、王子はその手をはねのけて逆にコフツノフスカヤを手で押しのけるようにしながらシュートを撃った。
 
コフツノフスカヤがバランスを崩して倒れる。
 
ボールはゴール飛び込んだ。
 
笛が吹かれる。
 

審判は王子のイリーガル・ユース・オブ・ハンズを取った。
 
千里は、今のプレイでどちらが悪いかは、かなり微妙ではないか、ひょっとしたらダブルファウルでは、と思ったのだが、審判の判断には従う必要がある。 
王子は素直に手を挙げてファウルを認めた上で、「Sorry」とコフツノフスカヤに言った。コフツノフスカヤも「OK,OK」と言っている。
 
ところがそこに今起き上がったクジーナが腰をさすりながら寄ってくると、王子に何かロシア語で文句を言った。
 
しかし王子はロシア語が分からないのでキョトンとしている。するとその態度がクジーナには面白くなかったようで、更に何か早口のロシア語でまくし立てている。どうも今まで我慢していたのが、とうとう堪忍袋の緒が切れたという感じだ。 
王子は日本語で「喧嘩はやめようぜ。バスケットで片を付ければいいじゃん」と言ったのだが、向こうは日本語は分からない。なんか反論されたみたいと思ったようで、ますます激高する。
 
モロゾヴァがクジーナを止める。千里も王子をクジーナから引き離そうとする。 
審判が寄ってくる。厳しい表情をしている。
 
「What are you two doing? I have already warned twice!」
とふたりに英語で言う。
 
これまでもふたりが度々睨み合っていたのを、審判が警告していたのである。 
審判に言われて、やっとクジーナも口を閉じる。
 
そして審判はふたりにテクニカルファウルを宣告した。
 
モロゾヴァと千里が頭を抱える。クジーナが「しまったぁ!」という顔をしている。自分が既に4ファウルであることを一瞬忘れていたのだろう。
 

王子は今のイリーガル・ユース・オブ・ハンズに続けてのテクニカルファウルで、4つ目のファウルになるが、クジーナは5つ目のファウルである。 
従ってクジーナは退場になる。
 
悔しそうな顔をしてクジーナがベンチに退く。
 
ロシア側の応援席が動揺している。日本を激しく追撃していた中心選手の退場はあまりにも痛すぎる。
 
日本側も王子を下げて彰恵を入れた。王子は監督から
「相手選手が激高していてもこちらは無言を貫け」
 
と叱られていた。王子としては不満そうだ。単に喧嘩は止めようよと言っただけなのだが、言葉が通じないと、言い返しているようにしか聞こえない。 
ちなみにクジーナが言っていたのは「てめえ、押しのけるにしても限度があるだろう?今のは酷すぎる。だいたい、てめえ本当は男じゃないのか?チンコ付いてるだろう?それとも、付いてたけど、手術して取ったのか?」などといった言葉であった。
 
千里はロシア語が分かるので、聞いていて少し呆れていたのだが、ポーカーフェイスで聞こえないふりをしていた。
 

ロシアは再度ゼレンコフスカヤを入れて来た。彼女もかなりの長身だ。 
ファウルが立て続けに起きて訳が分からなくなったが、王子のファウルの後なので、ロシアの攻撃からである。ボールを繋いでいってペトロヴァのシュート。これが失敗するも、リバウンドを今入って来たゼレンコフスカヤが取って自らシュートを決める。これで点数は70-70。とうとう同点になってしまった。残りは1:56である。ロシアの応援席が物凄く盛り上がる。
 
しかし次の攻撃で日本は今入った彰恵が得点して70-72.日本応援席が盛り上がる。しかし次の攻撃でロシアが得点し72-72の同点に戻す。ロシア応援席の興奮度が上がる。
 
残り1:28.
 
日本が攻めて行く。江美子から玲央美にボールが送られ、玲央美が中に進入するも堅い守りに阻まれてゴール近くまで寄れない。いったん千里に返す。千里はそのままシュートに行こうとするが、マシェンナが千里のそばに寄ると、空手の突きでもするようなポーズを取った。
 
その途端、ボールが千里の手の中から飛び上がるようにした。
 
へ!?
 
千里は慌てて再度つかもうとしたものの、ボールは転がっていく。千里が追うが、マシェンナが先にボールを確保した。彼女はそのままドリブルで走って行く。日本は必死で戻る。
 
結局、日本側では千里が最速で戻り、マシェンナの前に回り込んだ。
 
マシェンナはそのまま千里に向かってくる。そしてその時千里はハッキリと見た。
 
マシェンナの身体から西洋のドラゴンのようなものが飛び出して、千里を威嚇しようとした。あまりこの手のものを「見る」ことのない千里にも見えるというのは珍しい。
 
『こうちゃん!』
 
と千里が呼びかけるのと同時に《こうちゃん》が飛び出すと、一瞬でそのドラゴンのようなものを食べちゃった!!
 

マシェンナが崩れるようにして倒れた。
 
千里は直立している。
 
笛が吹かれたものの、審判は走り寄って千里との距離を見て、ふたりの間には身体的な接触は起きてないようだと判断した。
 
モロゾヴァがマシェンナのそばに寄ってきて呼びかけている。どうも彼女は気を失っているようである。
 
結局担架で運び出された。
 
しかしまあ担架のよく活躍する試合である。
 
審判は単純な怪我に準じて扱うことにしたようで、ロシア側のスローインで再開される。マシェンナの代わりにはクリモナが入った。
 
そのクリモナからコフツノフスカヤにつなぎ、彼女がダンクを叩き込んで74-72. 
ロシアがとうとう逆転した。
 
ロシアの応援席が物凄く沸く。残り時間は54.7秒である。
 

日本はここで江美子を下げて朋美を入れる。その朋美がドリブルでボールをフロントコートに運ぶ。
 
彰恵にボールを送るが、それと同時に玲央美とサクラが同時に制限エリアに走り込む。彰恵は玲央美にパスする。
 
玲央美がシュートしようとしたところでコフツノフスカヤが止めようとしたがこれがファウルを取られる。
 
コフツノフスカヤは5ファウルで退場になる。
 
トベルドフスカヤが代わって入る。
 

玲央美はフリースローをきっちり2つ決めて74-74.
 
同点に戻す。日本の応援席が沸く。残りは35.2秒。
 
ロシアが攻めて来る。クジーナ、コフツノフスカヤといった中心選手の退場、更にはマシェンナの失神で、ペトロヴァは、ここは自分がやらなければと燃えていたようである。玲央美とのマッチングで絶妙なフェイント合戦に勝ち、玲央美を抜く。玲央美がバックステップしようとする。ところがペトロヴァは玲央美を抜いた直後に停止した。
 
実は玲央美が抜かれた後、バックステップで相手の前に再度出る技は、抜いた直後のところで停止されると出せないのである。
 
千里は凄いと思った。
 
玲央美のこの技を試合中に破った選手は初めて見た。
 
やはりこれが世界のレベルなんだと納得する。
 
ペトロヴァがそこからきれいにミドルシュートを決める。
 
76-74. 12.8秒。
 

千里は実は玲央美が抜かれた瞬間、走り出していた。
 
ゴール下のエンドラインに立った朋美が全力でふりかぶってボールを投げる。 
モロゾヴァは一瞬反応が遅れた。必死で千里の後を追うものの、千里の全力疾走には追いつけない。朋美のボールが飛んでくる。千里の所に到達する直前、千里は振り向きながらボールをキャッチする。両足で同時に着地する。モロゾヴァが千里の左手から迫る。千里は彼女が自分の所に到達する瞬間、ドリブルで彼女が来た方角に進む。モロゾヴァは逆を突かれた形になり、千里と距離が離れる。 
千里はそのままドリブルで、わざわざスリーポイントラインの外側まで出た。 
そしてシュートする。その瞬間全力疾走で追いついてきたペトロヴァが千里に抱きつくようにした。
 
しかし千里は体勢を崩しながらもきれいにボールをシュートしていた。 

ボールはゴールに飛び込む。審判がスリーポイントゴールのジェスチャーをしている。
 
76-77.
 
再逆転!
 
そして、ペトロヴァのアンスポーツマンライク・ファウルが取られて、千里はフリースローももらう。しかもペトロヴァは2度目のアンスポなので退場だ! 
今日のロシアチームで3人目の退場である。ミハイロヴァが入る。
 
千里がきれいにフリースローを決める。
 
これで76-78. 残り3.8秒。
 

ロシアはタイムを取った。
 
どうもロシアはロングスローインから同点のゴールを狙う作戦を取るようである。日本も、対抗するため、サクラ、華香、王子、玲央美、と180cm台の選手4人と勘の良い千里を入れて対抗する。
 
プロツェンコがボールをスローインする。
 
そしてキャッチしたのは、何とモロゾヴァであった。彼女はスリーポイントラインのそばに居る。
 
ロシアは3点取っていきなり逆転という博打を打ってきたのだ。
 
モロゾヴァがボールをセットする。
 
シュートする。
 
そしてその瞬間千里は全力でジャンプしていた。
 

千里の指がボールにわずかに触れた。
 
ボールの軌道がずれる。
 
ボールはバックボードには当たったものの、ゴールには入らずに落ちてくる。 
ゴール近くにいる選手たちが一斉にジャンプする。
 

ボールを取ったのはサクラであった。
 
彼女はそれを取られないように、すぐ王子に送る。王子がガッシリとボールを胸に抱いた所で、試合終了のブザーが鳴る。
 
 
 
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