【春白】(1)
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(C) Eriko Kawaguchi 2021-01-30
風山歩は、10月2日(金)に妹(元弟)のマリナが子供を産んだのに立ち会った後、休んでしまった会社に電話を入れて出産報告をした上で、代々木の自宅(?)に帰ることにする。本来の自宅は川口市にあるが、夫は長距離のトラック運転手でめったに帰宅しない。それで通勤電車の密集を避けたいというのもあり、マリナのオフィスの留守番と称して、代々木のオフィスで日々寝泊まりしている。ここに着換えや調理器具も持ち込んでいる。
コンビニで晩御飯を買っている内に、ナプキンが切れていたことに気付く。
「そろそろ来る頃だし」
というので、ナプキンを買おうとしたのだが、お気に入りのが無い。
「ドラッグストアに寄るか」
などと呟きながら、ダイコクドラッグまで足を伸ばす。それでナプキンを買っていたら、ふと近くに置いてある妊娠検査薬に目が行った。
「そういやこないだセックスしたけど、妊娠してたりしないよね?」
歩はこの時なぜそんなことを考えたのか分からない。しかし妹が出産して、赤ちゃんが可愛い気がしたので、妊娠のことを考えたのかも知れない。結局それも買物カゴに入れた。
他にも色々買っているのだが、レジで金額が大きかったので、そっかー、妊娠検査薬は高いよね?と思ったが、まあいいことにする。
それでやっと自宅(オフィス)に戻る。
奥の部屋で寝転がってスマホでゲームをしながらおやつを食べていたら、チョコと思って手に取ったのが妊娠検査薬だった。
「そっか。使って見るか。まあ陰性だろうけど」
と思いながらトイレに行き、おしっこを掛けてみた。
しばし待つ。
「横線が出てる。これってマイナスという意味だっけ?やはり陰性だ。まあ妊娠する訳無いよね。これまで交際期間含めて9年間妊娠しなかったんだもん」
などと歩は言うと、検査薬をトイレの汚物入れに捨てて来た。
「でもそろそろ生理だと思うんだけど、まだ兆候が来ないなあ」
と歩は呟いてナプキンのパッケージをトイレの棚に置いたが、実際に歩の生理が次に来るのは、1年8ヶ月後の2022年6月である。
(商品の説明書はよく読みましょう)
10月10日、恵真は仮名Aさんと13回目のセッションをするが、
「今日明日で音源を完成させよう」
と言われた。
「もしかして泊まり込みですか」
「そそ。それで2日がかり」
「そしたら来週は休んでもいいですか?」
「うん。じゃ来週は代休にしよう」
ということで、次のセッションは10月24日に行うことにした。また今日は都内のホテルに泊まることにして、Aさんが母に連絡し、了承を得た。
祐天寺のXスタジオという所に入り、最上階の広い部屋に入る、ここを今日明日借り切ったという話だった。吹き込むのは先日から練習していた3曲である。
『風の中のココ』(作詞作曲:桜蘭有好おうらんあるす)
『君に会いに来た』(作詞作曲:星野輝希)
『少女と子ギツネのロンド』(作詞作曲:琴沢幸穂)
伴奏が先日まで練習していたものと少し違うので訊いたら、生バンドに演奏させたらしい。
「今レコード会社の方から、感染防止の観点から、バンドと歌手は必ず別録りにしてくれと言われているのよ」
「なるほどー。でもそれなら私の歌がうまくなくてバンドの方たちに余計なお手間をかけなくて済みます」
「うん。まあ楽曲の制作ではそうなるパターンが多いね」
と仮名Aさんも言った。
これまでかなり練習していたのだが、仮名Aさんの要求は厳しい。フルートの練習でも随分言われたが、感情をこめて歌うことを要求される。
2日間掛けて歌唱・フルート演奏の録音をして、11日の夕方。
できあがった音源を、Aさん、恵真、技術者さん、♪♪ハウスのマネージャーさんの4人で聴く。
この3曲の中で、『少女と子ギツネのロンド』は、有名作曲家・琴沢幸穂さんの作品なので必ず使うと言われている。もう1曲を『風の中のココ』にするか『君に会いに来た』にするかを決めなければならない。
「『風の中のココ』にしようか?」
「私もそちらがインパクトある気がしました。『君に会いに来た』もいい曲なんですけど」
マネージャーさんも頷いているので、同じ意見のようである。
それで羽鳥セシルのデビュー曲は『少女と子ギツネのロンド』と『風の中のココ』になることになった」
「私思ってたんですけど」
とセシルは言った。
「うん?」
「こういうの言うのは生意気かも知れませんが」
「私は生意気なアーティストが好き。おとなしく言われたままやる子は嫌い」
うん。そういう人のような気がした。普通の先生が気に入るような子がこの先生は嫌いなのである。
「『少女と子ギツネのロンド』ですが、こちらも『ココと子ギツネのロンド』とかにはできないものでしょうか?」
「ああ、それはいいかも」
と言うと仮名Aさんは電話する。作曲家さんに許可を取るのかな?と思った。
「ああ、千里?どこかに可愛い男の娘いない?」
といきなり訊くので、恵真は顔をしかめる。
「まあそれはいいや。こちらの男の娘、セルカちゃんに、こないだ書いてもらった『少女と子ギツネのロンド』だけどさ、カップリングする曲が『風の中のココ』という曲でさ。こちらもそれに合わせて『ココと子ギツネのロンド』とかにしたらダメ?ああ、いい?サンキュー。うん、それだけ。じゃ<可愛い男の娘見つけたら教えてね」
と言って、電話を切った。
何か私の名前はわざと間違えて言ってないか?
「OK。了承取れた。こちらも『ココと子ギツネのロンド』にしよう」
「コの音が続きますね」
と技術者さんが確認するように言う。
「うん。だからいいと思った」
とAさんは言った。
タイトルは変更するが歌詞は変えない。
そしてこれでマスタリングしてもらうことになる。なお来週はお休みにしたので、10/24に、PVの撮影をすることになった。
2020年10月17-18日(土日).
東京辰巳国際水泳場で、日本選手権(25m)、つまり短水路の日本選手権が開催された。大きな水泳大会としては、昨年10月の同じ大会以来、約1年ぶりで、参加した選手たちは、文字通り“水を得た魚のように”喜んで泳いだ。但し、この大会は無観客で実施された。
津幡で泳いでいるメンツ、青葉、南野さん、竹下リル、ジャネ、筒石、それに〒〒スイミングクラブ“部長”の皆山幸花の6人が東京に出て来て参加する。ジャネは本当は百万石スイミングクラブの所属だが、移動を最小限にするため、そちらから幸花に委託された。リルも本来は学校の所属だが、そちらも委託された。
6人はコスモスの配慮により、§§ミュージックのホンダジェットで迎えにきてもらい、それで能登空港から羽田に飛んできている。唯一の男子である筒石をコーパイ席に座らせ、キャビン席(4席)に、青葉・南野・ジャネ・リルという女子選手4人、それに補助席に幸花が座ってきた。ちなみにこの6人は全員ドイツの製薬会社BioNTechが開発したCOVID-19のm-RAN型ワクチン"Comirnaty"を治験段階で接種済みである。
青葉は、女子フリー800m, 個人メドレー400m に出場する。実はどちらも17日に実施される。青葉は午前中に個人メドレー400mの予選に出て、お昼頃800mに出た。そして夕方になって個人メドレー400mの決勝に出た。
個人メドレー(IM) 400mは、青葉が優勝して2位が南野さん、800mはジャネの優勝で青葉は僅差の2位だった。ゴール近くまで2人が激しい首位争いをしたが、最後はジャネが逃げ切った。2人のタイム差は僅か0.1秒であった。
400mIMの3位は竹下リル、800mの3位には南野さんが入り、“津幡グループ”の存在感を示すことになった。
この大会では、200mIMに出た大橋悠依が自らの誕生日を祝う日本新で優勝したことがマスコミでは報道されていた。
大会が終わった後、筒石は彼が勤めている会社の社長に呼ばれて出社した。彼は3月までは東京(の尾久のマンション)に住んでいて、ごくたまに会社に顔を出していたのだが、東京近辺のプールがどんどん閉鎖される中、練習場所を求めて津幡に移動して以来、全く会社には出ていなかった。筒石もさすがにちょっと叱られるかなという気がした。
「最近ずっと石川県の方にいるみたいだね」
と社長が言う。
「すみません。時々こちらにも出社しなければと思っていたのですが、向こうは1人1レーンを独占して泳げるもので。それに緊急事態宣言で、県境をまたぐ移動は控えてという話などもあって」
と言い訳する。
「だけど今回の大会も活躍したね」
「はい、おかげさまで優勝して金メダル2つもらいました」
「やはり、石川県の練習場の環境がいいようだね」
「そうですね。24時間、好きな時に泳げますし」
「それで君の処遇を考えたのだけど」
ありゃあ、何か処分されるかなと筒石は考えたが、社長の言葉は意外なものであった。
「金沢にうちの取引先の会社で、KS工業という会社があるのだけど」
「はい」
「それで君にこれを渡す」
と言って、筒石は“辞令”と書かれた紙を渡された。
出向辞令
営業第三課 筒石君康殿。
令和2年10月20日をもって、貴殿の営業第三課の任を解き、KS工業金沢本店・営業部への出向を命ずる。
「これは?」
「向こうでの労働条件は、あちらの社長さんと話して。基本的には、時々会社に顔を出すだけでいい。取り敢えず東京五輪まではひたすら練習していていいから」
「ありがとうございます!」
「取り敢えず20日に1度向こうの会社に顔を出してよ」
「分かりました」
それで筒石は金沢の取引先企業に出向(実質的な転勤)になったのである。
「じゃお引っ越し?」
と事実上の妻であるジャネ(マラ)から尋ねられる。
「うん。でも既に俺、向こうにほとんどの荷物がある気がする」
「確かにそんな気がするね。じゃ、君康はこの後、そのまま帰ってよ。私がこちらのマンションの荷物を整理して必要そうなものは向こうに送るから」
「分かった。じゃ頼む。でも俺たち、火牛ホテルにそのまま滞在してていいんだっけ?」
「向こうに当面住むのなら、向こうにマンションか何か借りてもいいかもね。ねぇ、青葉ちゃん、適当な物件を見つけてやってくれない?こいつに任せたら最悪のマンションを選びそうだし」
とジャネがいうので
「いいですよ。じゃ津幡町か金沢市内かに適当なマンション探しておきますよ」
と青葉も言った。
それで帰りのホンダジェットには、ジャネ以外の5人が乗り、ジャネは尾久のマンションに行った。そして、“マラ”“マソ”の2人がかりで荷物を整理した。
(“ジャネ”は実は2人いて、青葉や千里は“マソ”“マラ”と呼び分けている。ただし“マラ”は2010年に死亡しており、現在は幽霊である。“マソ”“マラ”ともに水泳をするが、大会に出るのは生きている方の“マソ”である。筒石と恋愛関係にあるのは“マラ”であり、つまり筒石は《牡丹燈籠》をしている。“マソ”は処女である。“マラ”は死んでいるから多分妊娠しないが、そもそもオカマさんなので元々妊娠能力は無いはず。“マソ”は天然女性であり妊娠能力はある。また“マラ”は歌が上手いが、“マソ”は音痴である。ちなみに月見里姉妹は、生前の“マラ”とクミコとの間に生まれた子供なので、ジャネは“妹分”と言っているが実は娘である)
10月19日(月)いっぱい掛けて荷物がまとまった。元々ジャネはここに住んでいた訳ではない。ジャネの家はあくまで金沢市内の実家で、ここは東京に来た時の滞在所なので、必要最小限のものしか持って来ていない。君康の荷物はスポーツバッグ2個分くらいしかない。
それで調理器具などを箱にまとめた以外は、3時間ほど掛けて掃除をしただけで、荷物の整理は終わってしまった。連絡を受けて千里が様子を見に来た時はもう片付いていた。
「冷蔵庫とか洗濯機とか布団とか重いし、向こうに持って行くまてでもないから、千里さん、適当に処分してくれる?」
「いいよ。誰か欲しいという人がいたらあげていい?」
と千里。
「うん。その辺も適当に」
ということで、後の処分を頼む。
「でもこのくらいなら、運送屋さんに頼むまでもないね」
と“マラ”と“マソ”は言い合う。
それで、千里がレンタカー屋さんに行ってノアを借りてきたた。そして3人で協力して荷物をノアに運び込むと、ふたりはマンションの鍵を千里に返却し、“マラ”が運転して金沢に向かった。
千里に車を借りてもらったのは“マソ”は免許を持っていないし、“マラ”はとっくに死亡しているからである。ふつう、幽霊には免許は取得できない。ただ“マラ”は死亡するまでは大型免許を持っていたし、運転はわりと上手い。
千里は「お巡りさんに捕まらないようにね」と言って2人を送り出した。
一方、ホンダジェットで能登空港に戻った青葉は、幸花と2人で筒石の新居を探した。筒石はどうせ会社にはほとんど出社しないという話なので、プールに近い所がいいだろうということになる。それで、火牛スポーツセンターに近い、津幡町町内のマンションを借りることにした。そして19日、筒石本人も連れて不動産屋さんに行き、賃貸契約をした。即入居可、2LDKで家賃は5万円である。その場で鍵も受け取り、住所をジャネのスマホにメールした。
荷物を運んで来たジャネは20日朝津幡に到着し、筒石が会社に挨拶に行っている間に荷物を運び入れて、ノアは金沢の支店に返却した(乗り捨てることは最初から通知し、その料金まで払っている)。
こうして、4つの鏡が8月末やっと落ち着き場所か決まったと思ったら、緩菜の鏡を置いていた尾久のマンションが空き家になってしまったのである。
千里は《こうちゃん》に命じてマンションをきれいにクリーニング・消毒までさせ、ジャネが使っていた布団も丸洗いさせたが(筒石の布団は傷んでいるし臭いも酷いので廃棄した)、ここに誰に住んでもらおうかと悩んだ。
「どこかに可愛い男の娘いないかなあ」
しかし、すぐ入居者が見つかることになる。
2020年10月18日(日).
浜梨恵真は吹奏楽の関東大会に出るため他の吹奏楽部員たちと一緒に台東区のホールまで行った。密になるのを避けるため、演奏は無観客!である。指定された時刻にホールに行き、演奏したら退出する。一応他の学校の演奏はネットを通してリアルタイムに見ることはできる。実際この日は学校に2時間前に集合し、貸し切りバスで台東区まで来たが、その途中ずっとネットで他の学校の演奏を聴いていた。
会場外の公園で待機し、時間になった所で会場に入る。しかし無人のホールで演奏するというのは不思議な感じがした。まるで本番前のリハーサルでもしている気分で、みんなどうもやりにくかったようである。
それで審査結果は夕方発表しますと言われて退出する。
「でも女子制服を着て、こんなに遠くまで出て来たのは初めて」
などと恵真は言ったが、
「あれ?浜梨さん、6月のバス遠足でも女子制服着てなかった?」
とクラスメイトでもある男子部員の田中君(バスーン担当)から言われた。
「エマちゃんは、入学式の時からセーラー服着ていた気がする」
などという意見も出てくる。
「だって、その頃はまだ女子制服作ってないよー」
「お姉さんの借りたのでは?」
「お姉ちゃん、別の高校だけど」
「お姉さん、どこだっけ?」
「L高校」
「頭いいんだ!」
「うん。私は頭悪くて」
「だけど入学式の時、ひとり違う制服着てる子がいると思った記憶あるよ。それがエマちゃんだったのでは?」
「そこまで言われると自信無くなってきた」
今回の大会は7月の予選はビデオ審査方式で行われた。不正な編集などが行われないよう、主催者側のスタッフが各学校に行き、一発勝負で撮影録音している。この時は恵真は学生服で出た・・・はずなのだが、愛絵ちゃんたちは
「え?エマちゃん、その時はもううちの女子制服着てたじゃん」
と言う。
「うん。それも制服なんだから、違反じゃ無いよね、と言った記憶がある」
と副部長さんまで言う。
恵真は本当に当時男子制服を着ていたという自信が無くなってきた。
そしてこの大会が恵真にとって、U高校での最後の行事になったし、最後のアマチュア大会参加になった。
10月18日(日).
緒方美鶴は、セーラー服を着て、他の吹奏楽部員と一緒に東京まで出て来た。この日台東区のホールで行われる吹奏楽の関東大会に出るのである。本来は9月に行われる予定だったのが、コロナで開催が遅れていた。美鶴はフルート担当だが、7月に行われたビデオ審査による山梨県大会では、男子制服を着てカメラに映っていた。それが今回は女子制服でリアルの大会に出られたので、あらためて女子生徒になれて良かったなあと思った。実際には、1学期の間、男子制服で部活に出ていた時期も、他のフルート担当(全員女子)とは、女子同士の感覚で話していた。ただトイレに行く時、男子制服では女子トイレに入れないので、トイレに行く度に疎外感を感じていた。それが今は一緒にトイレに行けるので充足感を感じている。
「おしっこ自体、まるで女の子みたいにできるようになったし」
大会での演奏が終わった後、顧問の先生の許可を得て別行動にする。足立区にある§§ミュージックの女子寮に向かう。ここに姉の緒方飛蝶が住んでいる。
実は、姉にフルートを返すのが目的であった。飛蝶も美鶴もフルートを吹く。元々姉がフルートを吹いているのを見て、美鶴は自分も吹きたいと言った。それで母は「ファイフが吹けるようになったらね」と言ったので、美鶴はファイフを一所懸命練習し、半年で吹きこなした。それで母は飛蝶に洋銀のフルートを分割払で買ってあげて、飛蝶が吹いていた白銅のフルートを美鶴にあげるように言った。それで飛蝶が洋銀、美鶴が白銅のフルートを吹いていた。
今年の夏、飛蝶がオーディションに上位入賞し、東京に出て来てタレントの卵として訓練を受け始めた。飛蝶は「寮に住むからたぶんフルート吹けないと思うし」と言い、自分の洋銀のフルートを「使っていいよ」と言って美鶴に渡していた。ところが寮の各部屋は防音になっているし、地下に個別に使える音楽練習室も多数ある。それで姉は「こちらでも練習できそうだから悪いけどやっぱ返して」と言ったのである。
そこで美鶴が今日の大会まで洋銀のフルートを遣い、その後、姉に返すことにしていた。姉は「お給料もらえるようになったらあんたにも洋銀のフルート買ってあげるね」と言っていた。そういう訳で大会の後、使っていたフルートを姉に渡そうと、寮に向かったのである。事前に電話したのでは、土日は研修には出ているかも知れないけど、研修は寮内なので、ずっと寮に居るということだった・
それで大会に出た後の学校の女子制服のまま、足立区の寮まで電車と徒歩(歩くと20分掛かる)で寮まで来てみると、飛蝶は事務所に呼ばれて、ついさっき出て行ったという。それで美鶴は事務所に行ってみることにしたが、
「あんた駅から歩いてきたの!?寮に電話してもらったら、誰か迎えに行かせたのに」
などと言われ、寮に常駐している事務所の女性ドライバーさんに、信濃町の事務所まで送ってもらった。
それで事務所に入っていくと、姉は今仕事で放送局に行ったと言われる。どうも微妙にすれ違いになっている。それで仕方ないから寮に戻って待っていようかと思った時、25-26歳くらいの美人のお姉さんに声を掛けられたのである。
「君、飛蝶ちゃんの妹さん?」
「あ、はい」
「君可愛いね。君もお姉ちゃんと一緒に信濃町ガールズに入らない?」
美鶴は思いもよらない話だったものの、スカウトされるのはいい気分だ。でも“その問題”を黙っている訳にはいかないと思い、自分の性別のことも正直に申告した。
しかしその美人のお姉さんは、それでも構わないと言い、結局美鶴も信濃町ガールズに入ることになる。そして姉と一緒に女子寮に住んで、一緒にレッスンを受けることになってしまうのである。学校もこちらの中学(姉が通っている学校)に転校することになった。
10月24日(土).
恵真はAさんと14回目のセッションをした。この日はデビューシングルのPVを撮影すると言われた。
昨日は雨が降っていたので、どうなるかなと思っていたのだが、今日は晴れている。
「絶好の撮影日和ね」
と言われる。
「じゃ撮影地まで行くから車に乗って」
「はい。着替えは現地でですか」
「そそ」
それでセシルはどこか近郊の公園か何かに行くのかと思ったのだが、到着したのは羽田空港である!
「どこか遠出ですか?」
「うん。室戸岬(むろとみさき)まで」
「どこでしたっけ?」
「あんた学校の地理で習ってない?」
「不勉強なので」
「四国の右側の南端よ。ちなみに左側の南端は足摺岬。紀伊半島の南端は潮岬」
「だったら泊まりですか?」
「ううん。日帰り」
「四国まで日帰りなんですか〜?」
「そのくらい普通じゃん、グアムまで日帰りでPV撮ってきたこともあるわよ」
「なかなかハードですね」
それでANAとかJALとかに乗るのかと思ったら、可愛い飛行機が駐まっている所に連れて行かれる。
「可愛い!」
「でしょ。§§ミュージックが長期レンタルしているホンダジェット。あんたは♪♪ハウスの契約アーティストだから、空いていればこれが自由に使える」
「へー」
中に先客がいる。いつもAさんの助手をしているアナ・オナ姉妹、録音にも立ち会ってくれていた♪♪ハウスの酒本和香さん(会計係らしい)、そして40代の男性。この人からは名刺を頂いた。サンシャイン映像制作の柿沼さんという人で、アーティストのPV、イメージビデオなどの撮影をしているらしい。その柿沼さんの助手らしい女性、それに恵真とAさんの合計7名で四国まで行くということであった。
座席であるが、柿沼さんの助手さんがコーパイ席(機長席の右)に座る。恵真はキャビン席の前向き左側の席に座ってと言われた。ここが一番良い席らしいので少し恐縮する。
「あんたは大事な商品だからね」
その右側に前向きの席にAさんが座り、その向かい・キャビン席の後ろ向きの席に撮影者の柿沼さん、その隣・恵真の向かい側に♪♪ハウスの酒本さんが座った。恵真のスカートが見える位置に女性を座らせてくれたようである。
アナ・オナ姉妹はどうするのかなと思ったら、アナさんは操縦席とキャビンとの間にある横向きの補助席に座り、オナさんは化粧室に入る。あれ?おトイレかなと思ったら、ドアは開けたままである。
「あのぉ、オナさんはもしかしてトイレに入ったまま?」
「そうそう。この飛行機はトイレまで入れて7席なのよ」
「へー!」
「トイレに行きたい人は言ってね。交替するから」
とオナさん。
「そしてトイレに入った人は、次に誰かトイレに入るまで、ずっとトイレの中にいる」
とAさんがコメントする。
「よくある怪談みたい!」
「ホンダジェット・トイレの怪ね」
とそのトイレ内の席に座るオナさんが笑って言う。
「ちなみに本当にトイレする時は、このドアは閉めてね。そしてトイレが終わったらドアを開ける」
「さすがに開けたままはできませんよね!」
「機内の空気は前から後へ流れるから、トイレは後にあるのが良い。でも実は前方にトイレがある飛行機がこれまでは多かった」
「へー、色々考えられているんですね」
1時間ほど待機してから、離陸許可が出て、ホンダジェットは羽田空港を飛び立つ。今年は旅客機がどこの航空会社も減便しているので羽田が普段の年よりは空いていて、このようなビジネスジェットも使いやすいらしい。しかし混雑してきた時のために独自の飛行場も建設中だとAさんは言っていた。
「§§ミュージックって儲かってるんですね」
「そりゃアクアの稼ぎが凄いからね」
「なるほどー。アクアに万一何かあったら大変でする」
「特に怖いのはあの子が声変わりした時ね」
「アクアちゃんは、睾丸は取ってますよね?」
「多くの人がそう思っているが実は取っていない」
「それけあり得ない。じゃ女性ホルモンで声変わりを抑えているんですか?」
「本人はそれも飲んでないと言っている」
「それは全く有りえない」
「だよね?」
とAさんも言っていた。
1時間ほどのフライトで、青いノーズのホンダジェットは高知空港に着陸した。ちなみに飛行中恵真も一度トイレに入ったが、着陸の時にトイレ席に居たのは撮影の柿沼さんであった!
そこから空港で予約していたプリウスα(7人乗り)に乗り、アナさんの運転で1時間ほど掛けて室戸岬に到着する。
風が強い!
「結構寒いです」
「でも頑張って」
「はい」
「でも晴れて良かったわね。雨が降ってたら、暴風雨の中の撮影になってた」
「それだとビデオの趣旨が変わる気がします」
「ふーん」
と言ってAさんは笑顔をする。
「何か?」
「いやいいよ。しかし最初は襟裳岬にしようと思ったんだけどね」
「さすがに凍え死にます!」
「うん。それであんたに死なれたら、ここまでしてきた投資が無駄になるから南国に変更した」
「南国でも寒いです」
小学生の女子が5人手配されていて、彼女たちと一緒に撮影した。小学生たちはロングスカートを穿き、厚手のフリースも着ている。でもセシルは半袖のブラウスに膝丈スカートである。
マジで寒い!
そしてこの強風の中、1時間ほど掛けて『風の中のココ』のPV撮影を行った。
ほんとに寒かった!!
一応、服の内側にホッカイロをつけ、途中何度か暖かいココアとか甘酒とかをもらって飲んだ。
なお小学生たちから「サインお願いしていいですか」などと言われたので、酒本さんが用意していた色紙に羽鳥セシルのサインを書き、5人に進呈した。
『ココと子ギツネのロンド』は、南国市内に撮影場所を確保しているということで、車でそちらまで戻る。帰りはオナさんが運転した。
着いた所は稲荷神社だった。
「ここはお遍路の札所でもないし、観光神社でもないし有名でもないから観光客は来ない。絶好のロケーションなのよ。コネを頼って打診したら、撮影に使ってもいいと言われたから」
「でもここ明るい感じがします」
「うん。よく信仰されているんだろうね」
「金儲け主義の所は入った時冷たい感じや荒れた感じがするんですよ」
「ふーん。でもお稲荷さんだからキツネに似合うでしょ?」
「ですね」
「知り合いのキツネとか居たら、ここに呼んでもらっていいけど」
「生憎(あいにく)、キツネの知り合いは居ません」
セシルは翌月には多数のキツネと知り合うことになることを知らない。
ここでは自由に神社の境内でダンスしてもらい、キツネはあとでCGで書き込むという話だったので、セシルは『ココと子ギツネのロンド』の歌を脳内で歌いながら自由にダンスした。アナさんとオナさんが、ベビーメタルみたいな、キツネのお面を付けてセシルのバックで踊った。どうもドライバー兼ダンサーだったようである。
ここでも1時間ほどの撮影でOKが出た。
帰ることにする。高知空港に車で戻ってレンタカーを返却する。それからホンダジェットに乗り、羽田に舞い戻った。そこで他の人たちと別れ、恵真はAさんの車で自宅そばまで送ってもらった。帰り着いたのはもう19時すぎだった。
今日はさすがに疲れたな、と恵真も思った。
暖かいお風呂に入ったらホッとして、その夜は熟睡した。
その日、千葉市内に住む、季里子とその両親は、季里子の祖母(季里子の父の母)が倒れたという報せを受け、鴨川市の本家に急行した。子供たちをどうするか悩んだのだが、コロナの折、病院には連れて行きたくない。そもそも院内に入れてくれない可能性もある。
来紗(小1)が「私が伊鈴の面倒を見てる」と頼もしく言うので、コンビニでお弁当とカップ麺を買ってきて「これをお昼に食べてね」と言って、自宅に置いて出かけた。なお日曜日なので桃香は塾に出勤している。
それで来紗は伊鈴に絵本を読んであげたり、一緒にレゴで遊んだりしていた。
やがてお昼になる。お弁当も2人で食べたのだが、まだ入る気がする。それでカップ麺を作って食べようと思った。朝季里子が買ってきてくれた、カップヌードルを作ろうと思ったのだが、伊鈴は「ユーホーが食べたい」と言う。それで来紗は朝買ってきてもらったものではなく、元々ストックされていたカップ麺の中からUFOを出してきて作ってあげようとした。
自分はカップヌードルのチーズカレー(これがとても好きである)を作ることにして、2人分のお湯をケトルで沸かす。カップヌードルの蓋を開けてお湯を注ぐ。UFOも蓋を少し開けて、中に入っているソースを“麺の上に掛けてから”お湯を注ぐ。キッチンタイマーで3分計る。
自分のはカップヌードルなのでふたを開ければそのまま食べられる。しかし伊鈴のはそのままではなく、お湯を捨てなければならないことに気付いた。それで湯切り口のシールを剥がし、流しでお湯を捨てた。なんか黒い汁が出るなと思った。
それで蓋のシールを全部剥がしてから、伊鈴の前に置く。自分たちの箸を持ってきて、「頂きます」と言って、食べ始める。
伊鈴が「これおいしくない」と言う。
よく見ると、伊鈴が食べているUFOは妙に色が薄い。あれ?何かおかしい・私、どこか間違ったのかな?と悩んだ。
その時「どうかした?」という声がする。
「あ!京平ちゃん」
とふたりは嬉しそうな声を挙げた。
実は、来紗たちが困っている様子を見て、“おキツネさんたち”が京平を呼んできたのである。
ここで3人の年齢だが、来紗は2013年6月生まれで7歳、伊鈴は2014年8月生まれで6歳、京平は2015年6月生まれで5歳。つまり京平が最も幼い。しかし京平は凄くしっかりしているので、早月・由美とあわせて5人で遊んでいる時、しばしば全体のまとめ役になっていた。
「京平ちゃん、なんかユーフォーがおいしくないみたいなんだけど、何でだろう?」
と来紗が訊く。
京平はそのUFOを見て速攻で事態を把握した。
「これ、お湯を捨てる前にソース掛けちゃったでしょ?僕もうっかりやっちゃったことあるんだけど、カップ焼きそばだけは、お湯を捨ててからソース掛けないといけないんだよ」
「そうなんだ!」
「普通の焼きそばソース掛ければいいよ」
と言って、京平は冷蔵庫の中から焼きそばソースのボトルを取り出すと、適当な量を伊鈴の前にあるUFOのカップの中に掛けてあげた。
「このくらいでどうかな?」
それで伊鈴が食べてみる。
「あ、おいしい」
「よかったね」
それで伊鈴は、京平にリカバーしてもらったUFOを食べたのであった。
この日の午後、京平は夕方桃香が帰宅するまで2人と一緒に遊んだ。
「でも京平ちゃん、今日はスカートじゃないのね」
「ズボンもいいよ。来紗ちゃんもズボン好きでしょ」
「好きー。トイレは面倒くさいけど」
「それがズボンの欠点だよね。トイレの度に脱がないといけないし。スカートなら、そのままできるもんね」
と京平。
「そうなのよ」
と来紗も同意した。
来紗はまだいいとして京平まで、男の子はズボンを脱がなくても、ちんちんだけ出しておしっこできることを認識していない!
京平は夕方までいたので、結局2人に晩御飯まで作ってあげた(京平の得意なチャーハン)。京平は桃香が自宅傍まで来た所で“鏡”の中に帰っていったが、結局桃香もこのチャーハンを晩御飯に食べることになる。
なお季里子の祖母は何とか持ちこたえ、翌朝には峠を越えたので3人は翌日の10時頃帰宅した。その日は桃香が休みだったので、桃香は“ほっともっと”まで行ってお弁当を買ってきて、朝御飯として2人に食べさせた(桃香が自分で作るより賢明である)。そして来紗を学校に送り出した後、伊鈴を連れて幼稚園まで行ってきていた。
「桃香さん、お疲れ様」
「そちらも大変でしたね」
「でも桃香さんが居てくれて助かった」
と季里子の母は言っていた。
むろん、母は桃香が昨夜の晩御飯も今日の朝御飯も作るか買ってくるかしてくれたと思っている。
「いや、来紗ちゃんもちゃんとお留守番してたようでしたよ」
「さすが小学生だね」
2020年の“鏡”の移動。
2020.07月 西湖がアパート建て替えのため白銅鏡(京平主)を持ってアクアのマンションに退避。
2020.08.20 康子が引越。千葉の家の黄銅鏡(緩菜副)を引き上げ。
2020.08.27 西湖が白銅鏡(京平主)を持ってアクアのマンションから橘ハイツに移動。 千葉の家にあった黄銅鏡(緩菜副)をアクアのマンションに。
2020.08,29 明日香が経堂から橘ハイツに移動。青銅鏡(京平副)を季里子の家に移動。
移動してないのは、尾久の洋銀鏡(緩菜主)のみであるが、住人は交替する。
なお京平も緩菜も、自分の鏡のある場所へは自由に出没することができる。
さて、8月29日に明日香が経堂のアパートを退去してからそこは事実上空き家になっていたのだが、その家賃相当額を千里が毎月明日香の口座に振り込むようにしていた(家賃は明日香の口座から引き落とされるため)。
ただ千里はこの操作は多分そんなに長期間続ける必要は無いだろうと思っていた。
2020年10月28日(水)15時58分、千葉県北西部を震源とするM4.3の地震が発生した。
この地震で季里子の家も少し揺れた(震度2)のだが、東京では震度3を観測した地区もあった(中央区勝どき・葛飾区立石・小平市小川町)が、世田谷区はだいたい震度2であった。
震度2というのは、運動などしている人は揺れに気付かない程度の揺れである。建物が倒壊するのは、震度6以上である。震度を加速度 gal (=cm/sec
2) で大雑把に表すと震度2は 4gal, 震度6は 300gal くらいである。つまり、震度2は震度6の100分の1くらいの揺れである。
これで崩れるのはきっと、カードタワーくらいである。
しかし!
経堂のアパートはこの揺れで崩れてしまったのである。
幸いにも、崩れた時、数少ない住人は全員外出中であった。しかし帰宅してみるとアパートが崩壊しているので呆然とする。
通報で消防がやってきて、生き埋めになった人がいないか現場を捜索するとともに、不動産会社の人が住人全員に連絡を取る。明日香は社長を会議に送っていき、車内で待機している所であった(コロナの折、不要であればビル内には入らない。本来はドライバー用の休憩室があるのだが、閉鎖されている)。
「はい。勤務中で自宅には居ませんでした」
と不動産屋さんの担当者に答える。
「良かった!とにかく住民の皆さん全員と連絡を取っているんですよ。同居者の方とかはありませんでした?」
「ええ。一人暮らしでした」
と明日香は答えたが、本当は0人暮らしだよなと思った。
結局この崩壊に巻き込まれた人は居ないという結論に達した。明日香は取り敢えず滞在するためのホテル代を出すと言われたが、友人のところに泊まるからいい、とそれは辞退した。
転居先を世話すると言われたが、そのまま友人のところに住むからいいと答えた。向こうは“友人”というのは恋人なのだろうと解釈したようである。家財道具の保証として保険から500万円まで出ると言われたが、大したものは置いてなかったので要らないと言ったら、御見舞金の名目で100万円くれた。また賃貸契約は解除になったので、本当は8月で退去していたのに違約金も払わずに済んだ。
結局住んでないのに家賃を払ったのは9月と10月の2ヶ月(計98,000円)だけで、逆に100万円ももらってしまった。結果的には4月以来払っていた家賃が全部戻って来た上にプラス70万くらいもらう形になった。もらった100万円については、千里さんと相談した所、
「じゃ山分けしよう」
ということになり、千里さんに50万円振り込んだ。
11月初旬、紅川勘四郎は『とりかへばや物語』に特別出演するため、宮古島から4ヶ月ぶりに東京に出て来た。
ホンダジェットで迎えに来てもらい、宮古空港から羽田へと飛んだ。そして撮影期間中は(紅川の分の撮影は毎日あるわけではないので)熊谷の郷愁村ではなく、都内にオープンしたばかりの男子寮・空き室に泊まった。そこから撮影の無い日はあけぼのテレビに出かけ、自分が父親代わりを自称している春風アルトの“グチ聞き役”もしていた、
紅川が1ヶ月ほど滞在することになった世田谷区の男子寮は、朝晩、双子の姉妹ユキちゃん・ツキちゃんが部屋までご飯を持ってきてくれる(前日までに言っておけばお昼も持って来てくれる)ので食事の心配も要らないし、買物なども頼んでおくと、週2回の買物日に買っておいてもらえる。ここは都心からも近く便利でもある。快適な場所だが、10代の寮生が多い中、自分のような年寄りが住んでていいかという疑問はあった。
もっとも紅川が一番困惑したのは男子寮生たちの“生態”である。
1階の自販機でコーヒーでも買ってこようと部屋の外に出る。エレベータで降りてエントランスの方に向かっていると“スカートを穿いている”木下宏紀とすれ違う。
「お早うございます」
「うん、お早う」
それでエントランスに行くと、ユキちゃんかツキちゃんが(紅川にはふたりが見分けられない)“セーラー服を着た”須舞恵夢・菱田ユカリと何か話している。
「お早うございます」
と挨拶されるので
「お早う」
とこちらも挨拶してから、彼ら(彼女ら?)に尋ねる。
「君たち、その制服で通学してるんだっけ?」
「いえ、通学は男子制服ですよ」
と須舞恵夢。
「でも女子制服も可愛いから買って、寮内でだけ着てるんです」
と菱田ユカリ。
「君たちなら女子制服の採寸に行っても、何も疑問を持たれないだろうね!」
「はい。ノートラブルでした。ボクたちの名前、女の子名前に見えるし」
「むしろ男名前に見えない」
とユキさん?ツキさん?が突っ込んでいる。
「副社長(川崎ゆりこ)からは、その制服で通学しなよ唆されたんですけどね」
「寮母さん(門脇真結の母)からは、女の子に性転換する覚悟ができるまでは女子制服での通学は控えなさい、と言われたし」
「ボクたち、女の子の服を着るのは好きだけど、まだ性転換までは考えてないし」
「何かの間違いで性転換されちゃったら、女の子として生きていく自信はあるけど」
ああ、常識機な寮母さんで良かったと紅川は思った。
「女性ホルモンも飲むかどうか悩んでいるんですよ」
「それは悩んでいる内は絶対飲んではいけないよ。飲んだらもう後戻りできなくなるから」
「寮母さんからも言われました」
そういう訳で、スカート穿いたり、女子制服を着て寮内をうろうろしている寮生がとっても多い。どうも見ていると、そういう“女装趣味”?が無いのは、この寮の住人の中では、西宮ネオン・篠原倉光・弘原如月くらいのようであった。男声を使っているのもこの3人だけである。末次一葉も1度だけスカート姿を見たが、彼はズボンの方が多いようである。但し彼は女声遣いである。
須舞恵夢・菱田ユカリは男装と女装が半々のよう。木下宏紀、上田兄弟(姉妹?)は、いつ見てもスカートを穿いている。他の子に聞くと、その3人は既に睾丸を取っているし、木下君は多分性転換手術も終わっていると思うなどと言っていた。木下君は高3なのに声変わりしてないから、きっと確実に睾丸は除去済みなのだろう。木下君と上田兄(姉?)は胸もあるように見える。
もっとも須舞恵夢や菱田ユカリも胸があるように見えるが「偽装でーす」と言ってわざわざバストパッドを外して見せてくれた。
上田兄(姉?)については、川崎ゆりこは女子寮に部屋をアサインして女子寮のIDカードも渡したらしい。もしかしたら春くらいに女子寮に兄弟(姉妹?)そろって引っ越すのかも知れない、などと他の寮生たちが言っていた。だいたい上田雅水は上田信貴のことを「お姉ちゃん」と呼んでいるようである。
そういう訳で、ここは川崎ゆりこによると「男子寮というより男の娘寮」らしい。女装している所を見たことのない篠原君なども、お店などでトイレの場所を訊くと、だいたい女子トイレを案内されると言っていた。もっともその後、そのまま女子トイレに入ったのかどうかについては言葉を濁した。
そもそも男子寮に生理用ナプキンやパンティライナーの自販機があり、結構売れているらしい。こういう実態はマスコミには見せられないなと紅川は思った。
紅川はコスモスに言った。
「男子寮に居る子たちさ、今はまだ精子があっても、その内、精子が無くなっちゃう子がいると思うんだよ。精子の冷凍保存を作ってあげない?まだ精子がある内に。それで保管費用は会社で出してあげようよ」
「それはいいことですね」
とコスモスも言い、婚約者もいて、精子が無くなる心配は無さそうな西宮ネオン以外の8人の寮生について、キュアルームの看護師・海老原さんにお願いして、各々の空いている日時を調整して産婦人科に連れて行き、精子の冷凍を作らせた。篠原君も必要無い気はしたが念のためである。
この時海老原さんは
「3人だけ、既に睾丸が無いので精子は取れないと申告した子が居ました」
と報告した。むろんそれが誰なのかは個人情報なので、コスモスは海老原には尋ねない。コスモスにはだいたい分かったが。
ちなみにその“3人”が誰かについて、コスモスと千里が話したことがある。
「醍醐先生、去勢済みの3人って誰々か、お互いに書いて見せっこしません?見せたらメモは処分ということで」
「いいよ」
それで2人は各々紙に書いて、見せ合う。
「一致しましたね」
「順序が違うけど」
「取り敢えず五十音順で」
「取り敢えず去勢した順序で」
「そこまでは分かりません!」
「でもケイ先生は誰が去勢しているか分からないみたいですよ」
「マリちゃんはかなり外してるみたい」
「紅川相談役も少し勘違いしているみたい」
「まあ誤解されやすい子がいるし」
とコスモスと千里は言い合い、すぐにそのメモはシュレッダーに掛けた。
なお、海老原さんからコスモスへの報告によると、去勢済みの子3人はいづれも去勢手術前に念のため精子をアンプル1本だけだが冷凍保存してもらったと言ったらしい。つまり1回だけは子作りに挑戦できる訳だ。
なお今回の精液採取は1ヶ月の間を置いて3回おこなった(最低3回というのはケイ会長からの提案)。5人・3回分の精子15個の保管料(1個3万円/年)は会社で負担する。
しかし精液採取前の数日は禁欲しなければならないので篠原君とかは「我慢するのが凄く辛かった」と言っていた。逆に“久しくしてなくて”、いざ出そうとしても、なかなか射精に至らず苦労した子も居たらしい。「手が痛くなっちゃいました」と言っていたとか。
なおこのプロジェクトの対象になっていなかったことに、紅川もコスモスも気付かなかったのが、男子寮寮母の門脇さんの娘(元息子)の門脇瀬那と、最初から女子寮に入居した緒方美鶴であるが、その2人から精子を取ることが可能であったかは、微妙(?)である。但し瀬那は徳島時代に“女性ホルモンを始める前に”精子の冷凍保存はしている(費用は姉(元兄)の真悠が払っている)。
11月4日に貴司と離婚して大阪に戻った美映は大阪のたこ焼きを食べて一息ついた後、その日は取り敢えずネカフェに泊まった。しかしこの後、どこで暮らそうかと考えた。
実家に戻ると、あれこれ詮索されて面倒である。コロナの折、友人の所に居候するのは悪い。ネカフェに何日も泊まるのは体力的に辛いし感染も怖い。一応他人が触ってそうな所は全部アルコールティッシュで拭いているが。(5000万円も持っているのにホテルに泊まる気は無い)。
その時、美映はふと気付いたのである。
姫路の家には入れないだろうか?
姫路の家の鍵はスマホ・キーである。普通ならオーナーである千里が、自分たちが退去した後、こちらのIDは無効化しているはずである。
しかし千里さんの性格だと、それを忘れている可能性がある気がした。
「ちょっと行ってみようかな」
と思い、翌日美映は新快速に乗り、姫路に行ってみた。
黒いインプレッサが庭に駐められている。
あれ〜?誰かいるのかなと思い、門の所のドアホンを鳴らしてみるが反応は無い。それでおそるおそるスマホから門解錠をする。
門が開いた!
玄関まで行き、玄関をアンロックする。
鍵が開いた!
「やはり千里さんって、こういう性格だよね。取り敢えず住む所が見つかるまで、ここに滞在させてもらおう」
などと独り言を言って、美映は中に入った。
半年以上使用していなかったので、水道を開けると水が赤かった。少し出しっ放しにする。電気は点く。たぶん太陽光パネルが動いているせいだろうと思う。誰も使っていない状態だと、作られた電気は、どんどん関電に買い取ってもらっているはずだ。
「たくさん電気起こしてるんだから、少しくらい使ってもいいよね」
などと勝手なことを呟き、取り敢えずバッテリーの残りが少なくなっていたスマホの充電をした。
寝具が無いと夜が辛いが、何か残ってないかなと思って見てみると貴司が使っていた部屋の押し入れに布団が1セットある(実は誰かがここにメンテに来た時のために置いてあったもの)。この布団で取り敢えず寝られるなと思う。
それで取り敢えずその布団を以前“自分の部屋”として使用していた、1階南側の部屋に敷き、布団に潜り込んで少し寝た。
1時間半ほどで目覚める。
「ああ、ぐっすり寝た。ネカフェじゃ安眠できなかったし。でもお腹空いたなあ。何か備蓄食料は無かったっけ?」
などと言いながら台所を探すが、さすがに何も無いようである。
服も昨日東京を出た後、着替えてない。下着だげでも交換したい。
それで美映は食料品と着替えの買い出しに行くことにした。
「庭に駐まっているインプは千里さんの車かな?」
などと言いながら、庭に出て黒いインプの傍に寄ってみる。
ドアが開く!
しかもキーが挿してある!
(この車は《こうちゃん》の車で、時々アクアの送迎にも使用していた。先月関西で使ったので、その後ここに放置していた。彼は“鍵が行方不明にならないように”わりと鍵を車に挿しっぱなしで放置する癖がある。普通はその後外側からロックするのだが、これはロックのし忘れである。ただ門を開(ひら)けない人にはこの車を持ち出すことはできないはずだったし、門を開(あ)けられるのは千里以外では自分や青龍くらいだろうと思っていた。まさか美映のIDを無効化していないとは思いも寄らない)
美映はエンジン掛かるかな?と思ってキーをひねってみたが、掛かる!
燃料はたくさんあるようだ。
「鍵ささったままだったんだから、借りてもいいよね?」
などと言って美映はその車を運転して門の外に出ると、スマホで門を閉じた。そして車をイオンタウンに向けた。
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【春白】(1)