【春金】(5)
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(C)Eriko Kawaguchi 2020-12-27
その日、2週間の旅行から戻った玄子絵菜は、上司の鱒渕水帆に
「フォームとか作ってないからネットとかで見て適当なフォームをダウンロードして記入して出してと言われたので」
と言って、書類を提出した。
「ああ、お帰り。どうだった?」
「こういう時期なんで、とにかく基本的には車から降りない観光というので、観光地は車の中から見学して、食事はひたすらテイクアウトとか、お弁当を買って、夜は車の後部座席で一緒に寝て、不自由だけど楽しかったです」
と絵菜は言う。
「結婚式もネット方式だったんでしょ?」
と女装!の古城羽志夢(風花の夫)が言う。
「そうなんです。私と彼は別の所に居て、神主さんは神社からリモートで」
と絵菜。
「そこまでリモートなの!?」
とケイが驚いて言う。
「まあそれは冗談ですけど。結婚式は、私と彼と神主さん、巫女さん2人、双方の両親ときょうだいだけでして、それ以外の親戚・友人は悪いけど遠慮してもらって。その後、祝賀会が、ホテルのネット祝賀会プランで」
「ああ、今どこもやってるよね」
「あけぼのテレビ方式のライブと同じなんですよ。祝賀会会場には液晶モニタが並んでいて、参加者のところには予めシャンパンやサイダーとお料理が届けられていて。でも祝賀会方式で明朗会計だから、お友達とかも「御祝儀幾らにするか悩まなくて済むしドレスも借りなくていいから助かる」と言ってました。
「女はドレスも大変だよねー」
と詩津紅が言っている。
ふと鱒渕が絵菜からもらった書類の誤字に気付いた。
「絵菜ちゃん、字が間違ってる」
「あれ?違ってました?」
「改姓届けじゃなくて、改性届けになってる」
「きゃー」
絵菜が提出した届けは
改性届け
旧姓名 玄子絵菜 くろこえな
新姓名 白石絵菜 しろいしえな
と書かれていたのである。
「結婚で姓を変える人は普通だけど、性を変える人は珍しい」
と古城羽志夢。
「改性届けなら、性転換手術を受けなくちゃ」
「それ、羽志夢さんのことですか?」
「そうなんだよ。妻は姓を変えたんだけど、僕は性を変えることになっちゃて」
などと羽志夢は笑いながら言っている。
「でもトランスジェンダーの人で結婚を機会に性転換手術する人はいるかも」
「ああ、それはいる」
「でもそのパターンって大抵別れちゃうよね」
と詩津紅が言う。
「そうなんだよね。性転換手術した人は、それまでの恋人と別れてしまうことが多い。男性と付き合っていた男の娘は彼のいい奥さんになろうと思って痛い思いして手術を受けて女になると、たいてい捨てられる」
とケイ。
「きっと男の身体のほうが良かったんでしょうね、相手は」
「隠れ同性愛だよね」
「だけど、絵菜ちゃん、玄子から白石へって、色が大転換だね」
「そうなんです。色性転換だと言われました」
「囲碁の石の数のことを“子”とも言うよね?」
「そうなんですよ。だから黒石が白石に華麗なる変身をしたって」
「オセロみたいだ」
「それも言われました。もう黒と白の模様の横断幕を式場に張ろうかと」
「それは別のセレモニーと間違われる」
「でも引き出物にダジャレで黒石と白石のセットをつけましたよ。囲碁盤もおまけで」
「ああ、それは面白い」
「石はガラス製の安物ですけどね」
「いや、本当に安物はプラスチックでできている」
「確かに。でもさすがにプラスチックは安すぎるだろうと思って」
「確かにね」
「碁盤はプラスチックに木目シール貼った安物ですし」
「そりゃ榧(かや)とか使うと高すぎる」
「だけど羽志夢さん、そろそろ女装が癖になったでしょ?」
「お使いでどこかに出てる時にトイレに行きたくなった時困る。多目的トイレを見つけては、そこでしてる」
「女子トイレ使えばいいのに」
「捕まるよ!」
「大丈夫ですよ。羽志夢さん、そうしてると女にしか見えないもん」
「自分でもこんなにきれいになるとは思わなかった」
「これを機会に常時女装で」
「それ癖になっちゃったらどうしよう?と思って」
「既に癖になっていると思うな」
実を言うと、風花が産休中(9月9日に出産した)で、風花は結婚した時
「私の産休中は夫に女装させて代理させますから」
と冗談で言っていたのをマリが覚えてて、本当に代理で出て来てくれている羽志夢をうまく乗せて女装させてしまったのである。それで彼はここ1ヶ月ほど、ずっと女装で勤務している。
最初はケイのマンションの中だけだったのが、最近はこのままの格好でお使いに行ったり、消耗品の買い出しに行ったりまでしている。最初は恥ずかしがっていたのが、だいぶ女装生活に慣れてきて、本当に“癖になりつつ”ある感じだ。
ちなみに彼は雑誌と契約したライターなので、会社出勤などの必要は無く、ケイのマンションで風花の代理をしながら自分の原稿も書いている。納品もネットですればよい。
ルキアは夢を見ていた。
温泉に行き、(普通に)男湯に入り、男物の服を脱いで浴室に移動。身体を洗ってから湯船につかって、少しボーっとしていたら、ふと気付くと周囲にいるのが、女性ばかりになっていたのである。
なんで!?
まさかここって、時間で男湯と女湯が切り替わる所で、うっかり湯船の中で眠ってしまっている間に、女湯に切り替わっちゃった!??などと考えて焦る。女でないとバレたら、通報されちゃう、と困ってしまう。
ところがそこで“バリバリ”っと何かを破るような音がした。
見ると、モナが浴室の壁をバリバリと破って、向こうからやってきたのである。
「モナ!?」
「私うっかり間違って男湯に入っちゃったから、壁を破ってこらに移動してきた」
「間違うもの!?」
「みっちゃんは間違わずにちゃんと女湯に入ったね」
「いや、ボクは間違ったみたいなんだけど」
「一緒にあがろう」
「うん」
それでルキアはモナに手を握ってもらい、一緒に脱衣室に移動した。モナが一緒なら、女湯でも大丈夫な気がした。身体を拭いて、服を着るが、ルキアの服は全て女物である。
「あれ〜。ボクちゃんと男物の服を着てきたつもりだったのに」
「みっちゃんは女の子なんだから、女の子の服を着ればいいんだよ。男の服なんてもう要らないよ」
と笑顔でモナは言って、ルキアにキスした。
それでルキアはおちんちんを後ろ向きに収納して女の子パンティを穿き、何も無い胸にブラジャーを着け、ブラウスを着てスカートを穿き女子制服の左前合わせのブレザーを着た。
「みっちゃん女子制服似合うよ。明日から一緒にお揃いの女子制服で学校に行こうね」
とモナは自分も女子制服姿でそう言った。
「でもボク男子なのに」
「学校に改性届けを出して女子生徒にしてもらえばいいよ」
と笑顔でモナは言った。
そこで目が覚めた。
あらためて衣装ケースの下着を入れている段を探すが、男物の下着は見当たらない。むろんモナが全部持ち去ってしまったのである。
「男物の下着無いと困るよ。今日は体育あるのに」
とルキアは呟いた。
「でも最近、体育のある日以外はいつも女の子下着つけてる状態になってたなあ。なんか女装が癖になりつつあるかも」
先日はテレビ局の人から
「ルキアちゃん、局に出入りする時、無理して男装しなくても普段通り女の子の格好でもいいからね」
などと言われちゃったし。
事務所の社長なんて、アクアちゃんの水着写真集見て、
「ルキアちゃんもアクアちゃんみたいに、おっぱい大きくして女子水着の写真集出しちゃう?」
なんて冗談(だよね?)言うし。
ボク女の子になるつもりなんか無いのに・・・・
でも改性届けとかあるんだっけ??
一方、撮影旅行に来ている恵真。
9月12日の撮影はトトロ岩で終わったので、福井さんの運転する車で山越えの県道を越えて穴水町に出る。確かにこういう道は3ナンバーだと辛いかもと恵真は思った。珠洲道路で長い坂道を上りまた下ってから少し走り能登空港に戻る。福井さんに御礼を言って別れた。
金沢から来た別の撮影隊の人たちと合流する。
「こちら近々デビュー予定の葉山セリア。こちら作曲家の大宮万葉。別名金沢ドリル」
とAさんが紹介する。
「大宮万葉先生!お初にお目に掛かります。でもこの人、他人に紹介する度に、私の名前を毎回違うように言うんですよ。羽鳥セシルです、よろしくお願いします」
と恵真は訂正して挨拶した。
「霊能者の金沢“ドイル”こと、作曲家の大宮万葉です。よろしく、セシルちゃん」
飛行機の中では、大宮万葉さんが金沢のお菓子といって、“きんつば”を渡してくれたのをアナさん・オナさんが全員に配ったが、美味しいきんつばだった、
能登から旭川へのフライトでは
「眺めのいい所に座らせてあげる」
と言われてコーパイ席に座らせられたのだが、ジェットコースター並みの迫力でわりと怖かった。
パイロットの山村さんが待機中に買っておいてくれていた松花堂弁当を機内で食べて夕食とした。
この日は旭川市内のホテルに泊まった。部屋割は、アナ・オナ姉妹はツイン、Aさんと恵真は各々シングルである。
翌日は、北海道でのドライバー役の坂本さんという女性が運転してきたトヨタ・ラウムに乗ってホテルを出る。雪の美術館にお邪魔し、開館前に美しい館内で撮影させてもらった。以前、神奈川県にあったお城のセットの所でも着た豪華なドレスを着て撮影する。
その後、車内で坂本さんが買っておいてくれた朝御飯のお弁当を食べてから、層雲峡まで行く。銀河流星の滝など、層雲峡の景色をバックに撮影をした。ロープーウェイで黒岳にも登り上で撮影する。
お昼をやはりお弁当で食べてから、午後、旭川市内に戻り、旭橋、常盤公園、などで撮影した後、旭岳ロープウェイに乗る。午前中に登った黒岳とは反対側から大雪に登ることになる。鏡池などを背景に撮影する。ここで日没となったが、夕日の中で旭岳を背景に撮影は続けられ、日が落ちてからロープーウェイを降り、空港に戻った。
今日1日運転手とお弁当の調達などの雑用係をしてくれた坂本さんに御礼を言い、空港内に入る。大宮万葉さんたちと合流する。
離陸許可を待つ間に夕食のお弁当(山村さんが買っておいてくれた)を頂いた。
今回の撮影旅行では、外食したのは昨日お昼のムーラン津幡店のみで、それ以外は一貫してお弁当である。基本的に♪♪ハウスのタレントは外食は禁止で、ムーランは特に感染対策がよくできているので例外的に許可されているお店のひとつらしい。
でもさすがにハードスケジュールで疲れた!
今年のWリーグは、9月18日から始まった。
千里たちのレッド・インパルスは“女王”サンフラワーズと大田区総合体育館で2連戦をしたが、70-66, 80-69 で二連敗でのスタートになってしまった。
なお、フランスのLFBは10月14日から始まる予定である。
むろん、Wリーグに参加するのは3番、LFBに参加するのは2番である。
ただ千里としては、近い内にとうとう自分が1人に統合されそうな気がしていたので、その後、どうしよう?と思っていた。
年内は両者のスケジュールは偶然にもぶつからないのだが、1月9日には、LFB, Wリーグの双方の試合があるのである。時間はずれるが、1日2試合は辛いなと思っていた。
恵真は9月19日のセッションでは
「今日は撮影はお休み。歌の練習をしてもらう」
と言われて、譜面を渡された。
「あんたのデビュー曲」
「もしかしてCDとか出すんですか?」
「うん」
「きゃー。まるで歌手みたい」
「あんたは歌手だけど。ちなみにレコード会社はたぶん他の♪♪ハウスの多くの歌手と同様、LPMレコードになると思う」
へー、そんなレコード会社があるのか、と恵真はよく分からないまま聞いていた。
楽曲は3曲吹き込み、仕上がり状態を見て、その中の2曲を入れたCDを発売すると言われた。この日渡されたのは、作詞作曲・桜蘭有好とクレジットされていた。曲名は『風の中のココ』という見た感じ凄く可愛い曲である。風の中で花の飾りを付け踊る少女を歌ったものだ。でも譜面の中の音符の音域が凄い。2オクターブ以上あり、一番上の音はE♭6、自分の声域のギリギリ上まで使っている。これは歌うのは大変だと恵真は思った。
「この作曲者の先生のお名前は何と読むのでしょうか?おうらん・ありす?」
「惜しい!“おうらん・あるす”だよ」
「へー!“あるす”という名前はあまり聞いたことないです」
「ラテン語で指輪という意味らしいよ。アルファベットだと Anulus Aurum(アヌルス・アウルム)」
とAさんはメモ帳に綴ってみせる。
「“ぬ”の音はどこに?」
「それを入れると“アヌス”と思う人がいるから外したらしい」
「アヌスって何ですか?」
「知らなきゃいい!」
何だろう?どこかの神様の名前か何かだったっけ?と恵真は思ったが気にしないことにした。
この曲は前奏と間奏・コーダにフルートが入っており、そのフルートも自分で吹いてと言われた。忙しいが、まあ何とかなるだろうと思った。
この日は歌の練習(フルートパートを含む)を1時間してから、(純粋な)フルートの練習でメルカダンテの『ロシア風ロンド』を1時間やった。
「あんたもう銀のフルートを吹きこなしつつある。凄いよ」
と褒められたので嬉しかった。ここの所毎日2〜3時間は吹いて練習していたもんなと思う。
ルキアはテレビ局で偶然松梨詩恩と遭遇したので、挨拶などして少しおしゃべりしていたのだが、ふと気になってこないだの番組でのことを訊いてみた。
「こないだボクと木下宏紀ちゃんと3人でセーラー服着て肩を組んだでしょ?」
「うんうん。ルキアちゃんも宏紀ちゃんもセーラー服似合ってたよ。まだまだ女子中生でも通るよ」
「あの時、木下くんと肩を組む時に、詩恩ちゃん、あれ?みたいな顔しましたよね?何かあったんですか?」
「そんな顔したっけ?」
と言って、詩恩は少し考えているようだったが
「あ、あれだ」
と言った。
「いや、宏紀ちゃんと肩を組んだ時さ、男の子と肩を組む心づもりで肩を組んだのに、感触が女の子と肩を組んだのと似た感じだったからさ」
「へー」
「それでちょっとびっくりしたんだよ」
「彼、もしかして女性ホルモンとかやってる?」
「かもね、と後から思った」
「女の子になりたいのかな?」
「既に女の子になってたりして」
「うーん」
とルキアは悩んだものの、詩恩から衝撃的なことを言われた。
「ルキアちゃんは触った感じが既に普通の女の子と何も変わらないから、最初からそのつもりだったけどね。春にあちこちの番組の収録が休止になっていた時に、山形市の病院で性転換手術を受けたんだったっけ?こないだ女子楽屋で話題になってたよ」
「山形市の病院?そんなの初耳です!」
「新庄市だったっけ?みんなルキアちゃん、女子楽屋で着替えればいいのにと言ってたよ。男の人ばかりの楽屋じゃ、安心して着替えられないでしょ?今度からこちらにおいでよ。学校にも性別変更届け出して既に女子制服で通ってるんだっけ?わざわざ今日着てるみたいな男子制服に着替えずに女子制服のまま局にも来ればいいのに」
ボクいつの間にか性転換したことになってる!??
性別変更届け??
9月25日(金).
恵真は、学校にいる間に、唐突にまた生理が来た。今回も数日前から、お腹の下の方が痛かったので、来るかも知れないと思いナプキンを付けていたので、問題無く対処することができた。姉に教えられてポケット付きのショーツを穿き、そこに予備のナプキンを入れていたので助かった。
しかし女の子って毎月これをやってるって大変なんだなあと恵真は思った。
9月26日(土).
11回目のセッションとなったが、2つ目の楽曲・星野輝希という作曲家さんの『君に会いに来た』という歌を練習した。これも最高音がE♭6である。先週練習した『風の中のココ』はディスコ調でハイテンポな曲だったが、今日の曲はスローロックのリズムに乗せたゆったりとした曲で、その代わり長く伸ばす音がたくさんあり、肺活量を要求する曲である。先週のとは別の難しさがあると恵真は思った。この曲にも間奏にフルートが入っていた。本当に歌+フルートという路線で行くようである。
1時間ほど歌(+フルート)の練習をしてから、Aさんは言った。
「水着写真の編集をしてたら、あとちょっとだけ追加撮影したくなってさ。夏の営業が終わって現在休業中の屋内プールがあるんで、良かったら撮影したいんだけど、今日いい?」
恵真は答えた。
「済みません。今日は昨日生理が来たばかりで、2日目なので、来週とかいう訳にはいきませんか?」
「生理?なんであんたに生理があるのよ?」
「ボクもよく分からないんですけど、今月初めに1回目が来て、昨日で2度目です」
「だって生理なんて、どこから出てくるのよ?」
「ボクもよく分かりません」
Aさんは少し考えていたが、アナ・オナ姉妹を電話で呼び寄せた。
(彼女たちが来るまではフルートを見てもらっていた)
2人が来るとAさんは彼女たちに言った。
「この子、生理があると言うんだけど、どういう原理で生理が来るのか、あんたたち、ちょっと確認してくれない?私は男だから、見てはいけない気がして」
「それは異性の目に触れさせるものではないですね」
とアナさんは言った。
それでAさんが部屋を出て行く。
「セシルちゃん、悪いけど、パンティ脱いでお股を見せてくれない?」
「生理中で血がついてますけど」
「平気平気。女同士だし」
「はい」
それで。アナさんたちが「念のため」と言って敷いてくれたビニールシートの上に横になると、恵真はナプキンを付けているショーツを下げた。
アナさん・オナさんは
「触ってもいい?」
と言って、ビニール手袋をつけた手でその付近を触っていた。
「セシルちゃん、これは一度病院に行って性別検査を受けた方がいい」
「先月20日に一度行ったんですが」
「診断書もらった?」
「もらいました」
「今持ってたりしないよね?」
「ありますよ」
と言って恵真はバッグを取ってもらい、その内ポケットに入った診断書を取り出すと、アナさんに渡す。ふたりで中を見ている。そしてアナさんは言った。
「セシルちゃん、あんた家庭裁判所に行きなさい。そして性別を女性に訂正してもらいなさい」
「やはりボク女の子になった方がいいですか?」
「うん」
と2人は言った。
「そしたら性転換手術も受けた方がいいですか?」
アナさんとオナさんは顔を見合わせた。
「手術する必要はない」
「そうなんですか?手術しなくてもいいのなら、母に相談してみようかな」
「うん。それがいい」
コスモスたちは§§ミュージック・アワーズの投票結果を9月28日に発表すべく準備を進めていた。そして予め用意していた、金メダル・銀メダル・銅メダルに名前を入れる作業を発注しなければと言っていた時。
NHKからコスモスに電話があったのである。
「済みません。伊藤さん、実はそちらにお願いしていた出場者枠の件なんですが」
(コスモスの本名は伊藤宏美)
「はい。さきほど出して頂く3組を決定したのでご連絡しようと思っていました」
「それ、アクアさん入ってますよね?」
「はい。入ってます」
「アクアさん、白組でしたよね?」
「そのつもりです」
「実は、うっかりアクアさんを紅組で計画していたことに気付いて」
「えーっと性転換でもさせましょうか?」
アクアに性転換手術を受けさせるのは(本人以外)誰も反対しないよな?とコスモスも一瞬思った。
「春先に性転換なさったという噂は?」
「根も葉もない噂です。アクアは男の子です」
「でしたら、アクアさん以外に女性で3組お願いできます?」
「はい、喜んで。アクアは出られるのでしょうか?」
「ええ。それは白組にねじ込みますので」
つまり誰かボーダーラインだった男子が落とされるわけだ。
「じゃアクア以外に女性3組でいいんですね」
「そうです」
コスモスは電話しながら、ケイ・ゆりこと頷き合う。
「では、先ほど決定しましたので。ラピスラズリ、白鳥リズム、品川ありさの3組でお願いします」
「ああ、白鳥リズムちゃん!あの子、30-40代の男性に凄い人気みたいですしね」
とNHKの人は言っていた。
そうなのだ。リズムは若い女子にも人気だが、実は30-40代の男性にもファン層がいる。特に鉄道マニアやカーマニア、出張族・旅行好き・修行僧!などの層が圧倒的にリズムを支持している。リズムは鉄道ネタ・自動車ネタ・飛行機ネタに物凄く詳しい。一度クイズ番組で駆動音から飛行機の種類を全問言い当てて(同じエンジンを使っている機種まで僅かな響き?の違いで当てた)喝采を浴びていた。今回の“総選挙”には、そういう層は、あまり参加していないだろうけど。
アクアが紅組ではなく白組に出ることで結果的に4組出場できることになったのを受け、コスモスたちはメダルの割り当てを変更することにした。
「プラチナ・メダルを作ろうか」
「うん。それが自然だと思う」
「4位にティン・メダルかスティール・メダル設定するよりいいですね」
それでコスモスたちは、金メダルに予定していたのと同じデザインでプラチナのメダルも制作してもらうことにし、名前も
プラチナ Aqua
ゴールド Lapis Lazuli
シルバー Rhythm Shiratori
ブロンズ Arisa Shinagawa
と入れることにして、すぐ発注した。メダルは金銀銅3種は既に作るだけ作ってもらい、金メダルか銀メダルを(ラピスラズリ用に)もう1個頼むかも知れないと伝えていた。それを金メダルもう1個(都合2個)に加えてプラチナメダルも制作して、各々に名前入れをしてもらうことにした。
なお、銀メダルはAg925(スターリングシルバー)だが、プラチナメダルと金メダルは、Ag925にプラチナ・金のメッキをしたものである。
2個も新作するので、時間がかかるかなと思ったが、火曜日に納品できるということだったので、その日に結果発表をすることにした。
9月26日のセッションで性別変更を勧められた恵真は帰宅してから母に相談した。
「あんたはもう女の子になっていいのね?」
「うん。女の子になりたい」
母は実は“引っかけ”で『女の子になってもいいか』と訊いたのだが、恵真はちゃんと『女の子になりたい』と言ったので、恵真の気持ちがまとまったと判断した。
「よし。月曜日に一緒に裁判所に行こう」
「うん」
母は実は既に性別訂正の申請書は書いていたらしい。それで母は多分裁判官からこういったことを訊かれると思うといったことを恵真に言って問答のシミュレーションもした。
そして9月28日(月).
会社・学校に休むことを連絡した母と恵真は、家庭裁判所立川支部を訪れ、書類を提出した。事務の人から数点確認され書類は受け付けられた。
9月29日(火).
秋風コスモス社長から“§§ミュージック・アワード2020”の結果があけぼのテレビで発表されると、多くのファン(特に僅差で次点だった高崎ひろかのファンと善戦していた姫路スピカのファン)から悲鳴のような溜息が起きた。
コスモスがアクアにプラチナメダル、ラピスラズリの2人に各々金メダル、3位の白鳥リズムに銀メダル、4位の品川ありさに銅メダルを掛けてあげた。リズムは「信じられない」という感じの顔をしていた。
得票数は8位の川崎ゆりこまでが公開された。
高崎ひろかが特にメッセージをと言っていたので言わせたが
「みんなおめでとう。これからも活躍してね。私もみんなに負けないように、また頑張るから」
と言い、アクア、ラピスラズリ、リズム、ありさと握手し、特にありさとはハグしていた。
多くのファンが、きっと今年の紅白にはこの4組が出場するのだろうと思った。ところが実は思いもよらぬことが起きるのである。
なお、5位以下の全員に参加賞として“超合金メダル”(亜鉛合金ダイキャストにブルーの塗装)をコスモス社長から授与した。また、不参加を表明していた4人(コスモス社長を含む)には木製メダルを川崎ゆりこ副社長から贈呈した。なお、超合金メダル・木製メダルに名前を記入したのは、花ちゃんである!
9月30日、仕事が終わってから体育館に集まり練習を始めようとしていた、貴司たちTT事務機バスケット部のメンバーは、厳しい顔で入ってきた部長が集まるように言うので、何だろうと思った。
部長はおもむろに言った。
「本日をもってTT事務機バスケットボール部は廃部になります」
貴司たちは呆然としていた。
2020年10月2日、日本水連は、第62回日本選手権(25m)水泳競技大会(10.17-18)および第3回日本社会人選手権水泳競技大会(11.6-8)を無観客試合で実施することを発表した。
この日、青葉は桃香・早月・由美と一緒に北陸新幹線で大宮に出た。青葉はラピスラズリと一緒に『作曲家アルバム』の取材をするのだが、桃香たちは、実は高岡から浦和のマンションに移動するのである。桃香は3月に青葉の卒業式に参列しようと高岡に移動したまま、コロナで移動の自粛が呼びかけられているのもあり、ずっと高岡に居座っていた。
高岡の高園家の家計は、青葉の収入と千里の仕送りで支えられている。子供たちは朋子が見ていられるので、桃香は朋子からしばしば
「あんた、パートとか出ないの?」
と言われていたので、それから逃げだそうというので、埼玉に移動することにしたのである。
おりしも政府がGOTOキャンペーンを始めたので、それを利用して旅行代金を割り引いてもらい、地域共通クーポンもゲットしようと桃香は考えた。
「それって旅行する人向けでしょ?あんた、片道だけじゃん。旅館にも泊まらないし」
「宿泊券と帰りの切符は売り飛ばす」
「不正行為だと思う」
ともかくもそれで桃香が埼玉に移動することになったのだが、桃香は衛生観念がわりといい加減である。桃香はいいとして早月と由美が心配だと朋子から心配され青葉が付き添って一緒に新幹線に乗ることにしたのである。
なお、青葉・桃香・早月・由美は全員、治験中(ということを桃香は知らない)のワクチンを接種しているので、感染の心配は比較的小さい。
それで大宮駅まで出て、彪志にセレナで迎えにきてもらったので、一緒に浦和のマンションに入った。週末、このマンションは次のように使用されることになる。
Room.1 千里・京平
Room.2 青葉と彪志
Room.3 桃香・早月・由美
早月と由美は京平と6月以来3ヶ月ぶりの再会である。早月が
「お兄ちゃーん」
と言って、なついていたが、京平も久しぶりの妹たちとの再会に嬉しそうだった。桃香は、京平を半年ぶりに見て、彼が結構男っぽくなっているので驚いていたが、ずっと彪志と一緒に暮らしているからだろう。(6月にディズニーランドで京平に会ったのは、季里子と一緒に住んでいるほうの桃香である)
青葉は10月3日には八住純先生、4日には蔵田孝治先生の取材をした。そして4日夕方の新幹線で高岡に戻った。ちなみに青葉は『旅行ではなくビジネスだから』と言って、GOTOは使用していない。桃香は「もったいない」と言っていたが。
青葉が帰った後は、部屋割はこのようになった。
Room.1 千里・京平
Room.2 彪志
Room.3 桃香・早月・由美
京平は千里がいない日は彪志と寝る。御飯は千里がいれば千里が作るが、いない日は《てんちゃん》か《すーちゃん》が作って、京平が「お母ちゃんが作っておいてくれた」と言って出していた。桃香にはとても料理などさせられない。桃香には
「感染の危険があるから買物には行かなくて良い」
と言ってある。桃香に買物など任せたら食費が1日1万円かかることになりかねない!欲しいものはメモに書いてもらい、《てんちゃん》か《すーちゃん》が週2回の買い出し日に買ってくれる。
青葉の東京出張中は“巨大熊110番”への対応は、千里が代行してくれた。10月2日、青葉と入れ替わるように高岡に来てくれた。
(この週末、千里3は川崎で試合があるので高岡に来たのは2番である)
千里は金曜日の夕方から日曜の夜まで、ずっと高園家に滞在して作曲作業をしていたので明恵・真珠の2人も高園家にこの間ずっと滞在し、スマホに通報がある度に千里に対応してもらった。
だだ昼間1時間ほどジョギングに出たので、明恵と真珠は自転車で伴走した。
「一緒に走らない?」
「千里さん、ハイペースだからとても付いていけません」
この土日に通報があったのは全てツキノワグマで、1件“遭遇中”!のものもあったが、千里の誘導で、クマと距離を置くことが出来て無事だった。
取り敢えずこれまでの所“巨大熊110番”への通報があった案件では人的被害は出ていない。
ジョギングに出たり、お風呂に入ったりしている間以外は、千里はずっと桃香の部屋で譜面を書いていたが、千里が書いている『少女と子ギツネのロンド』という曲の譜面を見て真珠が言った。
「何か可愛い作品ですね」
「うん。新人アイドル歌手に提供する曲なのよ」
「へー。フルートが入るんですか」
譜面を見るとボーカルとフルートが絡み合うように曲は進行している。
「うん。フルートの吹き語りで歌ってもらう」
「無茶な気がします」
10月6日、日本水連は、春に実施する予定であったものの延期になっていた日本選手権を「2020年12月3日から6日までの4日間、東京アクアティクスセンターでの開催を目指す」と発表した。
アクアティクスセンターは辰巳水泳場のすぐそばに作られたプールで、東京五輪の会場として予定されている。
“巨大熊110番”は10月中旬に、とんでもない“熊”を捕まえることになる。
お昼頃、年配の男性から通報があった。電話を受けたのは幸花である。青葉は偶然ニュースを読み終わったところだったので対応してもらう。青葉は電話を代わった瞬間、溜息をついた。
「それ熊じゃないです」
「え?猪か何かですか?」
実は大きな猪は熊と誤認される場合がわりとある。
「人間ですよ。着ぐるみを着て横たわっています」
「え〜〜〜!?」
通報者と“巨大熊”の距離は50-60mあったので、通報者にも分からなかったのだろうが、男性が近づいてみると、本当にそれは着ぐるみである。もっともとても精巧に出来ていて、ちょっと見には、近くでもかなり本物の熊に見える。
「あんた、何してんの?」
「すみません。****の撮影です」
と“熊”が言う。
どうも写真投稿サイトに上げるのが目的で撮影していたようで、撮影係の人もバツが悪そうな顔をして出て来た。
「あんたたち、こんな格好で山道におったら、本物と間違われて射殺されても知らんよ」
通報者の男性は退職した学校の元校長で、電話の向こうの青葉とも話し合い、警察に通報させてもらうことにした。
「警察が来るまでここに居なさい」
と、元校長ならではの威厳で命じると、撮影をしていた2人も
「すみません」
と言って、おとなしくしていた。
それで2人は駆け付けた警官に道路不法占用の疑いで事情聴取され、厳重注意の上で解放された。
この件は、〒〒テレビの夕方のニュース番組(森本メイが読んだ)でも放送され、石川県中の笑いものとなることになる。富山や福井でも翌日報道された。
彼らは金沢市内の大学生で、北陸のあちこちで写真撮影をしては、写真投稿サイトにアップしており、けっこうな“ファン”もいたと警察に話したらしいが、たっぷり叱られた。また警官からも、本物と間違われて射殺されちゃうよと、さんざん脅されてので、二度としませんと誓ったという。
ニュースでは匿名で報道したし、彼らも報道される前に警察署内から、そのアカウントを削除したので、彼らの名前はネットでもあまり広まることはなかった。
しかし先日からの“巨大熊”騒動は、こいつらのせいだったのかということで、事件はこれで解決したと多くの人が思ったのである。
「霊界ではなくて電網界の事件だったね」
「どちらも目に見えない所にあるのは似てる」
「巨大熊110番はどうする?」
「念のためもう少し続けましょうか?」
実際当初は2日に1回くらいだった通報が、最近毎日あるようになっていた。1日に2件あった日もある。どうもクマたちが冬ごもり前に活動を活発化させている感じである。県がまとめたクマの出没件数もどんどん増えており、報道各社は頻繁に、クマに遭遇しないようにする心掛けや、万一出会った場合の対処についても報道していた。
柿の木などに実がなっていると、それを取りにクマが来るというので、全部取ってしまった人や、そもそも柿の木自体を切った人などもあったようである。
「しかしこれでは霊界探訪のネタにならない」
と幸花は嘆くように言った。
「まあそういうこともあるさ。仕方ないよ」
と神谷内さんは言うが、ここまで結構な予算を掛けているので頭が痛いだろう。
恵真は10月3日(土)に12回目のセッションをし、この日は3曲目の歌で琴沢幸穂作詞作曲の『少女と子ギツネのロンド』という曲を渡された。そして
「この曲は必ず使う」
と言われた。つまり、もう1曲が『風の中のココ』か『君に会いに来た』のどちらかになるということだ。
しかし今回の曲は作曲者名が知っている名前だったので驚く。かなりヒット曲のある作曲家さんだ。こんな有名な人の作品を頂けるなんてとも思うが、有名作曲家だから、必ず使うのだろう。
ボーカルとフルートが絡み合うようにできている歌だ。パート1のボーカルが少女、パート2のフルートが子ギツネを表している。女の子キツネだな、と恵真は思った。でもこれはボーカル2人のデュエットでも歌えそうだ。
これも声域は最高音E♭6まで使用している。フルートの方はF6まで行っている。ボーカル2人で歌う場合は、このF6の音が出せる人がパート2を歌う必要がある。
「この曲はフルートの吹き語りで歌ってもらうから」
「それ無理ですけど」
「録音する時は、別録りで勘弁してあげる」
「実演奏も別でお願いします」
「じゃデビューまでに分身の術をマスターしておいてね」
歌とフルートの練習をした後で、先週パスしていた水着撮影をした。行ったのは深川アリーナである。
「ここはメインプールとサブプールがあって、夏の間は両方開けていて、春秋は8レーンのメインプールだけ営業し、冬は4レーンのサブプールだけを営業する」
「なるほどー。需要に合わせているんですね」
それで恵真たちは現在閉鎖しているサブプールで撮影させてもらったのである。2種類の水着で1時間ほどの撮影であった。ここも津幡のアクアゾーン同様、各レーンがアクリル板で区切られていた。
「ところで性別はどうすることとになった?」
「変更しようというので、裁判所に申請書を提出しました。たぶん来週くらいに一度裁判官さんとの面談があると思います」
「あんた可愛い男の娘として売り出そうと思ってたのになあ。女になってしまうなんて」
「すみません」
「性転換手術して男になった上で女装するつもりない?」
「意味が分かりません」
実際、10月5日(月)に裁判所からは呼び出しがあり(恵真がAさんとのセッションをしていた間に呼出状が届いていた)、母と恵真は再度会社と学校を休み、裁判所を訪れた。裁判官からいくつかの点を訊かれたが、予め母と問答の練習をしておいたので、よどみなく答えられた。
「君、生理はあるんだっけ?」
と訊かれたので
「はい。既に2回来ました」
と恵真は答えた。
「最後に再確認しますけど、あなたは女性として生きて行きたいんですね?」
「はい。女の子として生きていきたいです」
「いったん女への訂正が認められた場合、二度と男には戻れませんけど、いいですか?」
「はい。男に戻るつもりはありません」
裁判官は頷いていた。それで問答は終わり、結果は1ヶ月程度で通知すると言われた。
青葉たちは“お化け熊”という仮想敵?の件が空振りになってしまったので、代わりのネタとしてH高校のミステリーハンティング同好会の子たちが聞き込んできた“幽霊時計”というのを取材に行くことにした。
10月17-18日に、東京で短水路日本選手権が行われたので、青葉がそれから戻った後の、10月24日(土)に取材する。
金沢市近郊のL温泉というところの老舗旅館にある GrandFather's Clock の前で頻繁に幽霊が目撃されているという。それを見に行くことにしたのである。
ミステリーハンティング同好会の米山さん、明恵・真珠のコンビ、青葉と幸花、神谷内さんに、今回なかなか出番が無かった森下カメラマンに城山ドライバーという8人で、城山さんの運転するエスティマに乗りL温泉まで行く。
この日、米山さんは女子制服を着ていた!
「その制服で通学してるの?」
「通学したいですー。今は放課後に着ているだけなんですよ。思い切って先生に打診してみたら、性同一性障害という診断書を出してくれと言われたので、クリニックに通ってみることにしました」
「女子としての通学が認められたらいいね」
「そういうことできるとは思ってもいなかったので期待しています」
「女性ホルモンは飲んでるんでしょ?」
「飲んでます。既に男性機能は消失しました」
「おお、それはおめでとう」
「ちんちん立たなくなったので凄く気持ちが楽になりました。立つ度に凄く辛い気持ちになっていたので」
「良かったね」
「下着はいつも女子下着?」
「男子制服着てても下着は女子下着ですよ」
「だよね」
ルキアはその日、約1ヶ月ぶりにモナと至福の時間を過ごしていた。
ふたりは裸で一緒にベッドに入っているが、ルキアのちんちんが立たないのでふつうのセックスはできない。だからモナはバージン・ワイフである。でもお互いに幸せな気分だった。
「もう私たち、恋人ということでいいよね?」
「うん。そういうことにしよう」
「だけとみっちゃん、もうすっかり女の子下着だけにしたんだって?」
「男の子下着が見つからないんだよ。どこに行ったのか」
ルキアはそれが捨てられているということにまだ思い至っていない。モナはなぜ気付かない?と思いながらも、きっとそもそも男物を着る気が無いのだろうと思った。
「体育の着替えの時ちょっと恥ずかしいけど、みんな後向いててくれてる」
「女子更衣室に来ればいいのに」
「それは通報されるよ!」
「大丈夫だと思うけどなあ。楽屋も女性用を使うようにしたんだし」
「男楽屋から追い出されちゃったから。木下君が女性用楽屋にいるから心強い」
宏紀ちゃんは恐らく密かに性転換手術しちゃったのでは?と女子たちの間では噂になっているのだが、ルキアの耳には入ってないのだろうか。
「学校にも女子制服で登校すればいいのに」
「先生に叱られそう」
「性別変更届け出せばいいんだよ」
そういえばこないだも言われたなとルキアは思った。
「ボクが女の子になっちゃってもいいの?」
「私はバイだから大丈夫。手術してちんちん取っちゃってもいいよ」
「それは無くしたくない」
「女の子の身体になっても結婚してあげるからね」
その夜はルキアが寝ている間にモナは彼の男性器を勝手にタックしてしまったので、朝起きてからルキアがギョッとすることになる。
「寝ている間に手術されちゃった?」
とルキアは一瞬焦った。
幽霊時計の取材に向かう道すがら、明恵は
「なんかこの道、熊でも出そう」
と言った。
「まあ山の中の温泉だからね。一応熊や猪が侵入しないように、旅館の周囲には電線を張った二重のフェンスもあるから、触らないようにという注意」
駐車場に駐めて、旅館への道をたどるがこれが長い!
最初に10段ほど階段を降りてから50mほど平坦な道(でも片側が崖で怖い)を行き、そのあと50段くらい階段を登る。金沢市内なのに秘湯の雰囲気だ。
「この階段結構きつい」
「斜面だし旅館の建物は眺望のため崖のそばに建っているから仕方ない」
森下カメラマンが息が上がっている。「運動不足だね」などと言われている。そのあと更に200mくらい緩い上りを歩いた。
旅館への入口の所は熊や猪の侵入防止のためゲートになっていて、ボタンを押して開いて中に入るようになっていた。
90歳くらいかな?という感じの女将さんが案内してくれた。
「この時計ですか」
「かなり古いものてすね」
とても古風な時計だが、ちゃんと動いているのが凄いと思った。メンテが良いのだろう。
「以前鑑定家の人に見て頂いたら、明治初期のものだろうということでした」
Grandfather's clockが主に制作されたのは、18世紀と言われる。明治時代には既に骨董品の部類だったろうが、きっと昔の旅館の主人が輸入して設置したものであろう。この旅館自体は安政年間に創業されたものらしい。
日本語タイトル『大きな古時計』で知られる歌 "My Grandfather's Clock" は1876年に Henry Clay Work が書いたものである。
My grandfather's clock was too large for the shelf,
So it stood ninety years on the floor;
It was taller by half than the old man himself,
Though it weighed not a pennyweight more.
It was bought on the morn of the day that he was born,
And was always his treasure and pride;
But it stopp'd short - never to go again -
When the old man died.
Ninety years without slumbering
tick, tick, tick, tick,
His life seconds numbering,
tick, tick, tick, tick,
It stopp'd short never to go again when the old man died.
↑で見るように、よく知られた日本語歌詞は原詩にかなり忠実である。
日本ではスローテンポで唱歌風に歌われることが多いが、アメリカではバンジョーの伴奏でアップテンポでカントリー風に歌われたりする。
「何か怪しい所ある?」
と幸花が尋ねる。
青葉は時計をあちこち眺めていたが
「悪いものは感じない。幽霊が出るとしたら、ご先祖様かもね」
と言った。
「じゃ祓うべきものでもない?」
「だと思うよ。守り神みたいなものだよ」
「ああ、私もそんな気はしていました」
と老齢の女将さんは言った。
「辛いこととかあった時、この時計の前に立つと気持ちが落ち着いてくるんですよ」
と女将さん。
「ええ、いい時計だと思います。大事にしてくださいね」
と青葉も言った。
そういう訳で、ここもあまりネタにはならない感じだったが、この大時計の前で90代の女将さん、70代の若女将!に、取材班一同、女子制服姿の米山さんも入れて記念写真を撮った。
「でもコロナでお客さん減って大変じゃないですか?」
と幸花は訊いた。
「ここは元々お客さん少ないから、あまり影響は感じないですね」
と女将さん。
「うーん。相槌が打てない」
「それにうちの旅館は窓や戸を閉めていても、たくさん隙間風が入ってきて、換気はいいですよ」
「それは古い建物の利点ですね!」
と幸花は笑顔で言った。
折角ここまで来たので、ここのお風呂(天然温泉)や、お部屋の様子(割と立派!)、お料理(早めの夕食として頂いた)なども撮影させてもらってから、7人(神谷内・森下・青葉・幸花・明恵・真珠・米山)でぞろぞろと旅館を出る。
「料理美味しかったね〜」
などと言いながら獣侵入防止のゲートを出る。
これが夕方4時すぎであった。
「そろそろ熊が活動しはじめる時間だなあ」
「ごめーん。僕が会議で出るの遅れたから」
と神谷内さんが謝る。
「いや、お食事のんびり頂いたし」
と青葉。
「まあ熊が出ないことを祈ろう」
などと幸花が言いながら、駐車場への道を進む。ゲートを出てから、比較的傾斜の緩い坂道を200mほど降りて行く。
「あっ」
と声を挙げたのは、米山さんだった。
「みんな騒がないで」
と明恵が声を掛ける。
前方に巨大なクマの姿があった。
「3mくらいある気がする」
と真珠が言う。
青葉は他の人に動かないよう手で制してから、ゆっくりとクマに近づいて行った。
クマが立ち上がる。青葉の倍くらいの背丈がある。向こうが威嚇する。
青葉は静かに印を結ぶと素早く真言を唱えた。
「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダンマカロシャダ・ソハタヤ・ウン!タラタ!カン!マン!」
巨大な熊の姿がはじけるように消えてしまった。
竜巻のような風が起きた。
青葉が大きく息をついた所に、他の6人が近づいてくる。
「何だったの?」
と幸花が訊く。
「クマのお化け」
と青葉は笑顔で答えた。
「え〜〜〜!?ほんとにクマのお化けがいたの?」
「いたね」
「森下君、カメラは?」
と神谷内さんが訊く。
「すみません。回してませんでした」
と森下カメラマンが謝るが
「どうせカメラには写りませんよ」
と青葉は言った。
「だったら再現ドラマするから、みんなさっきの位置に戻って」
と神谷内さん。
森下さん以外が元の位置に戻り、米山さんが声をあげる所、明恵がみんなに静かにするよう言う所、青葉がクマに近づいて真言を唱える所を森下さんが撮影した。後でCGでクマを描き加えるという。森下さんはその他、周囲の映像をかなり撮っていた。
しかしこれでかなり時間を取ってしまったので、もう17時過ぎる。日没時刻である。
「じゃ後は局に戻ってから、少し編集方針を話し合おう」
と神谷内さんが言い、全員階段を降りる。
「暗くなってきたから、足を踏み外さないようにね」
「ここ夜中には通行不能ですね」
「そんな時刻にはお客さんは来ないんだろうね」
そんなことを言って50段の階段を降りた後、少し平坦な道を行く。階段より片側が崖という、この道の方が怖い。そして今度は階段を10段上る。この時、先頭に立っていたのは幸花であった。
階段を登り切って駐車場に出た所で立ち止まる。
「どうしたの?」
と言って続いていた神谷内さんも駐車場面に出て絶句する。
異変を感じた青葉が「ちょっと」と言って、明恵・真珠の横を通り抜けて先に駐車場面に出た。
目の前に大きクマがいる。
「青葉、これも熊のお化け?」
と幸花が訊いた。
「いや、これは本物のヒグマ」
「本物なの?」
「騒がないで」
ヒグマはこちらを見ていたが、やがて近づいてくる。青葉は幸花の前に立ち、相手との距離を見計らった。
向こうは地面を叩いたりする、いわゆる威嚇行動を取らない。まっすぐこちらに歩いて来た。その距離がもう至近距離3mくらいまで来た所で、青葉は印を結ぶと、大きな“気”の塊をそのヒグマにぶつけた。
クマがのけぞるようにして向こう側へ倒れた。
しばらく誰も動かなかった。
「死んだ?」
と幸花が言ってクマに近づこうとするので、青葉は
「ダメ」
と言って静止し、彼女の前に立つ。
その時、ヒグマは立ち上がった。グルルという感じの怒ったような声をあげる。そしていきなりこちらに飛びかかってきた。
しまった!
と青葉は思った。いったん倒れたクマがこんなに速く行動できるとは思ってもいなかったのである。
「みんな逃げて!」
と大きな声で言う。
クマが飛びかかってくる。
やられた!と思った。脳裏に亡き姉・未雨の顔が浮かんだ。
目を瞑る。
大きな音がした。
痛くない!?
青葉がおそるおそる目を開けると、クマが左手の方で倒れていた。
「青葉、甘すぎる!」
という声がする。
千里姉である!
「どうしてこんな時に手加減するのさ?ここで青葉がやられたら、青葉だけでは済まない。他の人たちも続けて襲われる危険があったんだよ。一発で殺せるだけのエネルギーをぶつけなきゃ」
と千里姉は青葉を叱っている。
「ごめん」
と青葉は素直に謝った。
正直先日からクマという動物について取材していて、かなり情が移っていた。それで殺さずに気絶させようとしたのだが、どうもエネルギーが小さすぎて、気絶させるには足りなかったようであった。ヒグマのパワーを見誤ったかも知れないと青葉は思った。
「金沢コイルさん!?どこから?」
と神谷内さんが言う。
「偶然ここの駐車場で楽曲の構想をまとめようとしていたんです。そしたら何か騒ぎがあるから見たら、ヒグマが人を襲おうとしてるから、私が走り寄って倒しました。偶然ここに居て良かった」
などと千里姉は言っている。
嘘だ!きっと《姫様》の通報で、ここにテレポートしてきて、クマを倒したんだ。
青葉は後ろを伺うが《姫様》は知らんぷりしている。姫様が直接助けてくれても良さそうなものだが、そういうことはしないのが、姫様のポリシーである。神様は人間に直接関与しないというのが、神様と人間との関わり方のルールである。その代わり、千里姉に教えてくれたのだろう。
「でも助かりました。ありがとうございます」
と神谷内さんが御礼を言う。
車の中で待機していた城山ドライバーも出てくる。
「いや、大きなクマの姿を見て生きた心地がしなかったけど、階段の方で音がしたら、そちらに行ったから助かったと思ったんですよ。でも皆山さんたちだったから、やばい!と思いました」
と城山さん。
「ところでそのクマは死んだんですか?」
と森下カメラマンが訊く。
すると千里姉は言った。
「気絶させただけです。動物園の人か何かを至急呼んで下さい」
「え〜〜〜!?」
と米山さんが声をあげる。
青葉は、どっと疲れた。
ちー姉ったら、人には一発で殺せと言っておいて!
と、青葉は嬉しい気分になって涙が出た。
通報で動物園の獣医さんがまずは駆けつけて来て、ヒグマに麻酔を打った。
「よく気絶させましたね」
「合気道の技で急所を打ったんです」
「へー。凄いですね。どこも怪我していないみたいだし」
と獣医さんは感心していた。
「怪我させて半矢とかにしたら超危険ですからね」
「です。とても危険です。よく猪の罠にかかって怪我して凶暴化する例があるんですよ」
「怖いですね」
その後、猛獣用の檻を持った人たちが来て、そっとヒグマを檻に運び入れた。
それでヒグマは保護されたのである。
動物園の人によると、これはやはり本来はアメリカに住んでいるヒグマの亜種・ハイイログマ(グリズリー)で、きっと誰かがペットとして飼っていたものかもしれないと言っていた。
その後は、神谷内さんが呼んだ〒〒テレビの報道カメラマンたちも現場を撮影していた。ヒグマが檻に収用されてから、神谷内さんたちも再現ドラマを作るための撮影を慌ただしく行なった。。
ようやく精神的な余裕が出た幸花が
「これってラスボスを倒したと思ったら、真のラスボスが登場するっていうゲームによくあるパターンだよね?」
などと言っていた。
しかしこの日を境に“巨大熊”出現の噂は消えた。通報が実際途絶えたこともあり“巨大熊110番”の電話も、11月以降は県との話し合いにより、そちらに引き継いでもらうことにした。それで青葉たちも2ヶ月ぶりに普通の生活に戻ることができた。この顛末は12月の『霊界探訪』で取り上げられることになる。
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