【春金】(2)

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「空手で熊を倒したのって、大山倍達(おおやまばいたつ)さんだったっけ?」
 
と、唐突に青山は、ドライブ中に運転している藤尾に尋ねた。彼女は元サッカー選手だが、よくプロレスの話などもしているので格闘技にも詳しそうである。
 
「それは2つの誤解がある」
と彼女は言った。
 
「まず読み方が違う。あの人の名前は“おおやま・ますたつ”と読む。“ばいたつ”というのはよくある誤読」
「そうだったんだ!」
 
「そして大山倍達(おおやまますたつ)が倒したのは牛であって、熊ではない。だから“牛殺し”の異名があるんだよ」
 
「牛だったのか!」
「人間に素手で熊は倒せないと思うよ」
と藤尾は言った。
 
「やはり無理?」
「パワーが違いすぎるもん」
「そっかー」
 
「でもテレビの企画で熊と格闘した男がいる」
「テレビの企画〜?それ命に別状は無かったの?」
「戦ったのは、大山の弟子で、ウィリー・ウィリアムスという外人選手」
「ひぇー、気の毒」
 
「熊を放した後みんな逃げるから自分も逃げたくなったと後日言ってた。実際にはほとんど勝負になってなかったらしい。熊はじゃれてるだけ。たぶん余興の遊び程度に思ってたんじゃないかね、向こうは。それに元々飼い慣らされていた熊で、性格もおとなしい奴だったみたいだよ」
 
「うーん」
 
そんなことを話していた時、車の前方、道ばたに何か黒い物体が立っていた。
 
「・・・・・」
「・・・・・」
 
藤尾が運転する車は、そのそばを通り抜けていった。
 
「熊?」
「熊だと思った。ツキノワグマ」
「通報する?」
「した方がいい。車は止めないからだいたいの位置をカーナビから読み取って通報して」
 
「車を止めるのはやばいよね!」
 

「やはりヒグマは美味しいなあ。やみつきになりそう」
と天津子はつぶやきながら、焚き火で焼いた熊肉を食べていた。
 
天津子は少し仕事の手が空いたので「半月くらい山に籠もってる」と助手の山咲(元ヤクザ)に告げて山に入り、山駆けしたり滝行したりしていた。そして昨日の夕方、バッタリとヒグマに遭遇した。できたら平和にお引き取り願いたかったし、天津子も笑顔でゆっくりと後ずさりで距離を空けようとした。
 
しかしヒグマは勢いよくこちらに走って来て、天津子に飛びかかろうとした。数メートル前で停まって地面を叩くなどの威嚇行動も無しで、こちらを捕食しようとしていると認識せざるを得なかった。
 
それでやむを得ず、そのヒグマに“気の塊”をぶつけ、倒したのである。倒した以上、その死を無駄にしてはいけないので、即血抜きをしてナイフで解体。今そのお肉を味わっている所である。向こうは天津子を晩御飯にしたかったのかも知れないが、逆に熊のほうが、天津子の晩御飯となってしまった。
 
天津子がヒグマを倒したのはこれが4回目である。そういえば初めてヒグマを倒した時に、山咲たちに会ったんだったなあ、と天津子は回想していた。
 
彼らは親分の引退に伴い組が解散したのを機に足を洗ってカタギになった。若頭をしていた高原(彼自身は新たな組を設立した)に頼まれ、山咲たちのグループは、天津子が知り合いの建設業者さんに紹介してやり、建物解体や樹木伐採・植林などの仕事に従事している。みんな真面目に働いている。
 
山咲は特に天津子に惚れ込んで、弟子にしてくださいと言ったので助手にした。運転したり荷物を運んだり、時にはクライアントのボディガードをしたりなどの仕事をしている。天津子の“娘分”織羽がとても山咲に懐いている。織羽は人の心を見通す力があるので、山咲の心が純粋なことを見抜いているのだろうと天津子は思っている。
 
山上はかなり涼しいものの、夏なので冬と違って雪の中にお肉を保存するようなことができない。といって天津子1人で数日で食べきれるものでもない。それで山咲に連絡して数人の弟分と一緒に保冷庫を持ってきてもらい、一部を残して里に持ち帰ってもらうつもりである。たぶん山咲たちは今日の夕方くらいにはこの付近の山道まで到着するだろう。もっとも夕方は熊の活動が盛んになる。あいつら、熊に遭遇しなきゃいいけどね、と天津子は考えていた。
 

「胸がぶつかる」
と恵真は言った。
 
「何何?」
と姉が訊く。
 
「冷房の冷気をあまり逃がさないように、部屋の出入りする時に、ドアを細く開けて出入りするじゃん」
 
「うん」
 
「その時、開ける広さの目測を誤って、通り抜ける時に胸がぶつかって痛いのよね」
 
「ああ、その目測は難しい」
と姉が言ったが、母は
 
「私はお腹がぶつかるなあ」
などと言う。
 
「お母ちゃんは、おやつ減らした方がいいと思うよ」
と姉は言った。
 
「香沙はちんちんがぶつかったりしない?」
と姉は尋ねたが
 
「女には教えない」
と弟は答えた。
 

その日桃香は、早月・由美と遊んでいたのだが、唐突に歌を歌い出した。
 
「たんたん、たぬきの金時計、風も無いのに、ぶーらぶら」
「そーれを見ていた子だぬきは、ぼーくも欲しいと呟いた」
 
朋子が
「教育に悪い」
と渋い顔をする。
 
「性教育だよ」
などと桃香は言っている。
 
さっきまでは「げんこつ山のたぬきさん」を歌っていたのだが。たぬき繋がり?
 
「でも、なんで子だぬきは“ぼくも欲しい”というのかな?メスなのかな?」
 
などと桃香が言うと、青葉が笑って答える。
 
「それ、先日、上島先生から聞いた話だと、ひょっとすると、金玉の方が替え歌で金時計が元歌かもという話」
 
「ほぉ」
 
「だいたいタヌキの睾丸はとっても小さくて、揺れるほどもない」
「でもタヌキの金玉、八畳敷きとか言うぞ?」
 
「あれも由来がよく分からないよね。信楽焼のタヌキの睾丸が強調して作られているから、そのあたりから来たのか。あるいは、金箔を薄く延ばすのにタヌキの皮をかぶせた木槌を使っていたからという説もある」
 
「やはり金(きん)なんだ!」
 
「金時計(*2)なら、普通に風が無くても揺れるでしょ?」
「確かにそうだ。でもそれを羨ましがるんだっけ?」
 
「昔は大学の首席卒業生に金時計とか銀時計を授与していたんだよ」
「へー!」
 
「だから、金時計を持っているということは、優秀さの象徴だったんだね。それで羨ましがられたんだと思う」
 
「そういえば夏目漱石の『坊ちゃん』で赤シャツが金時計を持ってたっけ?(*2)」
「そうそう。優秀な先生だったんだと思うよ」
「教頭まで出世したんだから、本来はいい先生なんだろうな」
「だと思う」
 
(*2)金時計とは、金メッキあるいは金張りの懐中時計のこと。懐中時計とは小型の時計で、チェーンが付いていて、ポケットに入れておき、時刻を見る時はポケットから取り出して見るものである。揺れるのは、そのチェーンが付いているため。チェーンは真鍮の金メッキかもしれないが、18金を使っていたら超豪華。坊ちゃんでは赤シャツの金時計に対して、山嵐は銀色のニッケル時計を使用していた。懐中時計は、腕時計の普及によりあまり使用されなくなった。
 

「ところでこの歌のメロディーは何かの替え歌?」
「上島先生によるとたぶん『タバコやの娘』という曲だって」
と言いながら、青葉はスマホで検索してみた。
 
「あ、これだ。薗ひさし作詞・鈴木静一作曲で、岸井明・平井英子のデュエット。1937年発売」
 
と言って青葉がyoutubeの動画を再生すると
 
「ああ、この曲だ!」
と桃香は嬉しそうに言った。
 
煙草屋の娘→ https://youtu.be/TdAr5nECe44
 
(薗ひさしは実は作曲者・鈴木静一の別名である。鈴木静一は多数の映画音楽を手がけたことで知られる。「姿三四郎」「雪之丞変化」「大菩薩峠」など。なお、この歌を歌った平井英子は後に作曲者の鈴木静一と結婚し歌手を引退した)
 

恵真は学校が始まってからは元の週1回のセッションに戻すことになった。毎週土曜か日曜に仮名Aさん(実はいまだに本名あるいは芸名を聞いていない!が母は知っているようだからいいのだろう)と待ち合わせて、たいていAさんの自宅で歌とフルートの練習をし、その後、どこかで写真撮影をする。
 
ただ、8月29日(土)は変則的になり、早朝からAさんがフェラーリで迎えに来てくれて、千葉県内の植物園に行った。そこを開園時間前に、撮影に使わせてもらえることになったらしい。それで朝7時から9時までの2時間、色々なお花畑の前で撮影をした。
 
その日は写真撮影の後で、千葉市内のAさんの友人の家という所にお邪魔して、そこで歌とフルートの練習をした。そこも広い家で、ヤマハ製のグランドピアノが置かれた防音の音楽練習室があった。きっとミュージシャン仲間の人なのだろうと恵真は思った。
 
「歌もフルートもだいぶうまくなってきた。いっそフルートの吹き語りで歌う歌手とかで売り出す?」
 
「それ無茶です」
 
「誰もやったことのない試みだから」
「口が2つ無いと無理ですね」
「鼻でフルート吹きながら口で歌うとかは?」
「もう曲芸の世界ですね。クラリネットを1人で2本同時に吹いているのは動画サイトで見たことありまずけど」
 
「ああ、それは昔からわりと路上ミュージシャンとかでやる人がいた。肺活量さえあればできる。アルトサックスとソプラノサックスを同時に吹く人も見たことある」
 
「でも歌うのは無理でしょ」
「やってみなきゃ分からない」
「それを練習しろと?」
「いや。普通の演奏の練習をしたほうがマシ」
「でしょうね」
 

「でもあんた最近、私に口答えするようになってきたね」
「Aさんがあまりに無茶なこと言うからです」
「どうしてだろう?私の弟子はみんな私にタメ口になる」
「何となく分かります。アナさん・オナさんとの会話を聞いていても、どちらが先生なのか分からない」
 
「そして私の弟子はみんな、自分は私の弟子ではないと言うのよね」
「それも納得ですね」
 

その日は昼前にセッションが終わったので、新宿に寄って帰ろうと思い、新宿で降ろしてもらった。なお帰りは「電車は使わず、この番号に掛けてドライバーを呼び出して」と言われた。
 
恵真は♪♪ハウスと契約したことで、同事務所のタレント扱いになったが、同事務所ではコロナが落ち着くまで、原則として公共交通機関の使用を禁止しているらしい。その代り、多数の付き人(厳しい健康管理がなされている)がタレントさんたちのドライバーを務めている。
 
それで移動は、家族またはそれに準じる人の車に同乗するか、付き人さんを呼び出してということだったのである。
 
ブックファーストに寄り、少し数学の問題集などを見てみた。また、姉から
「あんた英検の3級は通ると思うから取っておきなさいよ」
と言われていたので、英検の教本も選んだ。
 
その後、漫画本を物色して2冊買い、タレント本コーナーに行ってみた。
 
話題になっていた、アクアの写真集“カナダの休日”を見てみようと思ったのである。多数平積みされている。ビニール袋に入っており立見はできないので、買ってもいいかなと思い、それも籠に入れてレジに並んだ。
 
先日映画出演でもらったギャラがまだたくさん残っているので、恵真は今懐が温かい(母に渡そうとしたが「自分でもってなさい」と言われたので、2万円だけ貯金して、それ以外を自分の常用口座に入れている)。
 

書店を出た所で言われた番号に電話する。
 
「はい。§§コールセンターです」
「済みません。私、先日♪♪ハウスと契約したばかりの、羽鳥セシルと申しますが」
「はい、お疲れ様です」
「あの、新宿から**市までの移動とかお願い出来ますか?私用なんですけど」
「もちろんですよ。新宿のどこにおられます?」
 
それで恵真は、先方に今居る場所、服装や特徴などを告げた。
 
10分ほどの後、日産のエンブレムを付けた黄色い車が停まり運転手さんが降りてきて
「羽鳥さんですか?」
と尋ねる。
「はい、そうです」
「ドライバーチームの森下です。どうぞ乗ってください」
と言って、首から下げている身分証明書を見せてくれる。後部座席のドアを開けてくれたので
 
「ありがとうございます」
 
と言って恵真も事務所からもらった“契約者証”を見せて、車に乗り込んだ。シートベルトを締めると、車は発車した。
 
この車、前席と後部座席の間にアクリル板が張ってある!ちゃんと感染予防をしてるんだ!
 
「**市というのは御自宅ですか?」
「はい、そうです」
「では、そこへお連れしますね」
「分かるんですか!?」
「タレントさんの御自宅、学校、それから主な放送局やスタジオなどは全部登録されていますから」
「すごーい!」
 
「新人さんだそうですね。可愛いからきっと売れますよ」
「そうだといいんですが」
 
ドライバーの森下さんは自宅までずっとおしゃべりしていたが、とても楽しい話で、恵真は終始笑っていた。この人自体、タレントになれる才能がある気がしたが、きっとそういう人を積極的に雇っているのだろう。
 
恵真は御礼を言って自宅にアクセスする路地前で降ろしてもらった。
 

恵真は自宅に戻り、自分の部屋に入ると、まずアクアの写真集を開けてみた。
 
最初、振袖を着たアクアの写真がある。
 
「可愛い〜!」
と声をあげる。
 
これが男の子だなんて信じられない!
 
素敵なお屋敷が写っていて、そこのお庭や邸内で撮影しているようである。
 
振袖写真が少しあった後は、水着写真である。
 
「ほんとにほんとに男の子なんだっけ?」
と再度疑問を感じるが、自分だって男の子なのに、先日女子水着で写真を撮っているから、不可能ではないよなと思いながら見て行く。
 
しかし可愛い!
 
この子が人気な訳が分かる。
 
もしかして自分もこの子と似た路線で売り出されるのかなあ、と一瞬思った。
 
そして見ていくと、ワンピース水着だけでなく、ビキニの写真まである!
 
「よくこんな格好するなあ」
と思わず声に出して言った。
 
もしかして自分もビキニ着せられたりして!?
 
恥ずかしいよぉ!
 

お腹に大きな傷跡がある。
 
何かの手術を受けたのかな?と思い、恵真はスマホでネット検索してみた。
 
するとアクアは小さい頃に大きな病気をして2年ほど入院し、最終的に原因となる腫瘍を摘出していたことを知る。普通の人より成長が遅いのもその病気のせいだという。
 
そして、その腫瘍を摘出する時に、治療のため、同時に睾丸も取ったのでは?という噂があることも知った。
 
うーん。睾丸を取ったというのは、あり得る気がするなあ。でなきゃ、19歳で声変わりしないなんて、あり得ないよ、と思う。
 
そして恵真は、自分も睾丸を取るように言われるかもと思い、ドキドキした。
 
睾丸は・・・取ってもいい気がした。そもそも自分でちんちんさえ切り落とそうとしたことがある。
 

たっぷりと水着写真を堪能してから最後の方のページを見て吹き出す。
 
バスト偽装の仕方がわざわざ写真入りで解説されていた。
 
うんうん、こうやって貼り付けるんだよね、と恵真は思った。
 
そしてふと「これ取り外したい時はどうすればいいんだろう?」と思ったが、恵真は当面取り外す用事もないので、気にしないことにした。
 
そういえばお股のメンテもサボッてるけど、中身が飛び出してきたりはしないみたいだから、いいことにしておこう、などとも思った。
 

あらためて写真集を眺めていたら、突然姉が帰宅する。
 
「わっ」
「何驚いてんのさ?というか何見てるの?」
「アクアちゃんの写真集。新宿に寄ったから買ってきたけど、可愛いね」
 
「ああ、あんたも買ったのか」
「ボクも?」
「私も買ったのに」
「そうだったの?」
「お母ちゃんも買ったらしい」
「じゃうちに3冊?」
「まあいいんじゃない?この子可愛いし」
「可愛いね!でもよくこのご時勢にカナダまで渡航できたね。出入国が大変だったろうに」
 
「アメリカのカナダじゃないよ、福岡県のカナダだよ」
「へ?」
 
「ほらここに“撮影地:福岡県金田(かなだ)町”と書かれているじゃん」
 
「日本なの〜〜〜!?」
 
「日本には、カナダもあるし、ハワイもシカゴもあるし、金浦も百済もあるし、USAもあればソビエトもあるし」
 
「てっきりアメリカの上にあるカナダかと思った!」
 

「そういう人が出ないように、こんなに大きく書いてあるのに」
「全然気付かなかった」
 
「偽カナダで偽女の子の写真を撮ったという盛大なジョーク」
「アクアちゃんって男の子なんだよね?」
 
「世間ではアクアは男の子という建前で実は女の子なのではとか、最初は男の子だったけど、性転換して女の子になったのではという説も根強い」
 
「それ信じたくなる」
 

9月1日(火). 恵真が夕ご飯を作っていると母が会社から帰宅した。
 
「お帰り。お疲れ様〜」
 
「なんかいい匂いがしてる」
「八宝菜作ってる〜」
「よくそういう面倒なメニュー作るね」
「作り方、お母ちゃんから習ったのに」
「そうだね〜、若い頃はそういう複雑な料理も作ってたけど、最近どうも面倒になっちゃって」
「だって毎日お仕事に行っているんだもん。ボクたちが小さい頃とか大変だったと思う」
 
などと恵真が言うと、母は何か言いたそうである。
 
「どうしたの?」
「あんたさあ、女の子になったんだから“ボク”はやめなよ。“私”と言いなよ」
「一希ちゃんからも言われた。努力する」
 

「そうだ。あんたの新しい保険証もらってきたから」
「保険証?」
「これ」
 
と言って手渡されたのは“浜梨恵真”と書かれた健康保険証である。
 
氏名 浜梨恵真 ハマリ・エマ
生年月日 平成17年2月25日 性別女
 
と書かれている。
 
「性別が女になってる」
「あんた女でしょ?」
「名前が恵馬じゃなくて恵真になってる」
「その方が女の子っぽいからね。古いのは返して。会社に返さないといけないから」
「うん」
 
それで恵馬は2階の自室に行き、鞄の中から“浜梨恵馬・男”と書かれた健康保険証を取り出し、今もらった“浜梨恵真・女”の保険証を入れる。古い方を持っておりて母に返した。
 
「でもどうやって変更したの?」
「間違いだと言った」
「それで変更できたの?」
「うん」
 
そんな簡単に変更できるもんなんだ!?
 
「これであんたが確かに女だという公的な書類ができたよ」
 
つまり。。。ボク本当に女になっちゃったんだ?
 

姉が塾から帰宅した後、晩御飯になったが、姉が言った。
 
「なんか顔色よくない気がする」
「昨日あたりから、お腹の付近が調子良くないんだよね」
「生理なんじゃないの?」
と姉は言った。
 
「まさか」
「だって女の子には生理があるんだよ」
「そうかも知れないけど」
 
ボクの場合は女の子に偽装しているだけだし、などと考える。
 
「寝る時、ナプキン付けて寝た方がいいよ」
と姉は言った。
 
でも恵真は、けっこう不純な動機でナプキンを付けて寝た!
 

その日、久しぶりに休みが取れた落合茜(町田朱美)が
「今夜、友だちのところに泊まってきていいですか?」
 
と寮母の天羽亜矢子(高崎ひろかの母)に言っていたら、副寮母の花ちゃんから「これ持って行きなさい」と言われて、避妊具の箱を3箱!渡された。
 
「いくら何でもこんなには使いません!」
「いや分からない。30分に1回やれば5時間で1箱、10時間で2箱消費するから、3箱目は予備」
 
「それ無茶です。そんなにやったら、彼のちんちん壊れちゃいます」
「壊れたら、潔く手術で除去して彼も女の子に」
「私はそれでもいいんですけどねー。でもそれ言うと本人、凄く嫌そうな顔するんですよ」
 
と茜は言うと、一応花ちゃんがくれた避妊具を3個ともバッグに入れて、倉橋光枝マネージャーの運転する BMW 225xe iPower に乗って、埼玉県某市に住むボーイフレンド・平野啓太の所に行った。
 
ラピスラズリの移動は普通ホンダ・インサイトを使用しているのだが、この車はファンの間でナンバープレートまで知れている。それで目立たないように事務所で何台も所有しているBMWのPHVを使ったのである。
 

啓太のお祖母ちゃんに歓迎される。
 
「ごめんなさい。なかなか来れなかった」
「大丈夫ですよ。茜ちゃん、無茶苦茶忙しそうだもん」
 
それでお祖母ちゃんは、紅茶とクッキーを出してくれた後、外出してくれた!
 
啓太はもじもじしている。茜は彼にキスした。
 
「セックスする?避妊具も用意してきたよ」
と言って、茜が花ちゃんからもらった避妊具の箱を3つとも出すと
 
「こんなに要らないよ!」
と啓太は言った。
 
「それに俺、コスモス社長と約束したからさ。高校卒業するまではセックスしない」
「こっそりやればバレないのに」
「そういうことはしないよ。でもセックスしなくても、俺、茜が好きだから」
 
“好きだから”と言われて、茜は嬉しくなった。それで
「じゃ、代わりに舐めてあげるね」
と言って、啓太のズボンを脱がせようとする。
 
「待って。洗ってくる」
と言って啓太はお風呂場に飛び込んだ。
 

30分ほどの後、茜は啓太に言った。
 
「だいぶ大きくなるようになったね」
「うん。女性ホルモンの投与はやめたから、少しだけ機能が戻ってきたみたい」
「射精する?」
「まだ無理みたい」
「ホルモンやめても全く機能が回復しないなら、いっそそのまま女性ホルモンを積極的に摂って、女の子になっちゃう手もあったのに」
 
「女にとかなりたくねーよ」
「セーラー服似合うのに」
「あれは癖になりそうで怖い」
 
啓太には何度もセーラー服を試着させている。石川県の中学で着ていたセーラー服は彼に進呈したが、彼はそれを自室に宝物のように飾っている。
 
「でも私のパンティとプラはまた置いてくね」
「うん。お守りに持ってる」
 
茜は啓太に「私と一緒に病気と闘う気持ちになれるように」と言って、自分の下着を啓太の所に置いて行っている。啓太はそれを机の引き出しに大事にしまっている。
 
「ブラ着けてみてもいいからね」
「俺に入るわけない」
「啓太はもうブラしないの?」
「本当は着けたほうがいいのかも知れないけど、こないだ会った時より後はもう着けてないよ」
 
啓太は治療の副作用でけっこう胸が膨らんでいたので、一時はブラジャーが必要な状態だった。
 
「運動とかしてて痛くない?」
「我慢する」
「我慢せずにブラすればいいのに」
「いや変な気分になるし」
「女の子になりたくなるとか?」
「だから、そういうこと言うなよ」
 
むろんわざと言って、唆しているのである。茜の気持ちとしては初期の頃に彼に言ったように、たとえ啓太のちんちんが無くなったとしても、彼が女装にハマってしまったとしても、彼と結婚したいという気持ちは変わらない。花ちゃんからレスビアンの教本ももらったし!
 
この日は彼に女の子がするように、ちんちんを指で押さえて回転運動を掛けてあげた。彼は気持ち良さそうにしていた。
 
「もう男の子式のオナニーは諦めて、これからは女の子式にする?」
「いや、まだ諦めない」
 
「これ覚えたら、ちんちん切られちゃっても大丈夫だよ」
「もう切られる可能性は無くなったと思うけどなあ」
 

その夜、恵真は夜中に一度トイレに起きた。最近わりとこのパターンが多い。なんか“女の子になった”後、トイレが近くなったような気がしている。あるいはあの付近に色々圧力を加えて股間形成しているので尿道や膀胱が圧迫されているのだろうか。
 
それで部屋に戻って横になるが寝付けない。
 
恵真は“女”と記載された保険証をもらって、急速に自分の“立ち位置”に不安を感じていた。
 
学校にも女子制服で通学し始めた。みんなそれを受け入れてくれている。保険証も女に変わった。母からは気持ちの整理ができたら、裁判所に行って、戸籍上の性別も変更しようよと言われた。ポクこのまま、どんどん女の子への道を進んでいっていいのかなぁ?やはりその内、性転換手術受けちゃうんだろうか?というか学校のみんなはボクが既に性転換手術しちゃったと思ってるみたい。
 
唐突にアクアの写真集の写真が脳裏に浮かぶ。
 
アクアちゃん、女体偽装していると思わせておいて実は既に女の子になっちゃってたりして!?
 

などと考えていたら、唐突に“したく”なった。こういう気分になるのは恵真の場合とっても珍しい。
 
しちゃおうかな?
 
左手の指をあの付近にやる。
 
これどうすればいいんだっけ?? この状態でするのは初めてだ。
 
取り敢えず偽装した割れ目の中に指が入れられるようなので入れる。あれ?ちんちんどこだっけ?
 
指で探していたら、それらしき部分に指が当たる。凄く感じる。
 
なんか凄く小さくなってない?でも、これまでもわりと小さくなっていて、おしっこするのに困ることもあった。そういう時は、ちんちんを摘まんだりもできないので、その付近からじわっとにじみ出てくる感じでおしっこしていた。当然、した後は女の子のようにその付近一帯をペーパーで拭く必要があった。
 
今もそんな状態かな?
 
しかし、こんなに縮んでたら、疑似割れ目ちゃんの接着が少々外れていてもこぼれないわけだ、と恵真は納得した(納得するのか?)。それでまだ接着剤での補修はしなくてもいいかなと思った。
 
いつものように、ちんちんを指で押さえて回転運動を掛けるが、凄く気持ちいい。久しぶりだからかな?
 
(恵真はちんちんを握って往復運動するということをした経験が無い)
 
恵真は今夜は何だか物凄く気持ちいい気がした。こんなに気持ちいいのって初めてかも。
 
それにいつもは指で回転運動を掛けていると、軸の弾力で?しばしば指先から逃げるように外れてしまうことがあるのだが、今日は全く外れず、ずっと気持ちいいままだった。
 
やがて逝った感覚がある。恵真は下着を戻し、そのまま深い眠りに落ちていった。
 

夏樹は爽快に目が覚めた。
 
夏樹は昨年9月、四国お遍路中に唐突に性転換してしまった。法的な元妻である季里子(結婚はしたが性的な関係は無い。人工授精で子供を作るための契約結婚)にも承諾を得て3月までには性別の訂正も完了した。
 
そして性転換以来、完全に自慰にハマってしまった。
 
夏樹は男性時代はあまり自慰をしていなかった。女の子になりたいという気持ちか強かったので、男にしかない器官を使うことに抵抗があったのである。
 
しかし女の身体になったことから、自慰に対する抵抗感から解放された。
 
男性時代もたまにしてしまうことはあった。その時は、強い罪悪感と不快感に苛まれた。しかし女になってからは自慰をする度に大きな幸福感と満足感を得られている。
 
それで夏樹は生理中を除いて、ほぼ毎日自慰をするようになってしまったのである。
 
男性時代には得られなかった物凄い快感がそこにはあった。昨夜も自慰した後自然にやってくる睡魔で眠り、ぐっすりと寝て爽快に目ざめた。
 

夏樹としては自分の年齢(38歳)もあり、今から恋愛・結婚なども考えられないので、男性とのセックスも妊娠出産も経験しないまま、やがて10年後くらいに閉経を迎えるのだろうなと思っていた。
 
その日、夏樹のアパートに、兄の春道がやってきた。突然の訪問だったのでびっくりする。
 
「おにいちゃん」
「久しぶりだな」
「なんか恥ずかしー。こういう格好してるの見られるのって」
「お前元々女性的な性格だったもんな。自由に生きればいいと思うよ。お前、父ちゃんたちに孫の顔まで見せてやったし」
 
「私自身は、あの子たちの新しいパパに遠慮して、顔を見せないようにしてるけど、お父ちゃん・お母ちゃんは、わりと頻繁に孫の顔を見に行っているみたい」
 
「親孝行だと思うよ。ところでさ、お前結婚しないの?」
「アテが無いし」
「恋人とかいないの?」
「いないよー。今更38歳の元男とかに興味を持ってくれる男性なんていないしさ」
 
「だったらさ、頼みがあるんだけど」
「何?」
 
「俺の子供を産んでくれない?」
 
は!?と思う。お兄ちゃんの子供を私が産む!??
 
唐突に兄に抱かれるシーンを想像した。
 
「待って。そういうのは勘弁して。私たち兄妹なんだから」
と夏樹は焦って言った。
 

砂原室長は青葉たちアナウンサー室にいたアナウンサーたちに解説した。
 
「そもそも熊という生き物は、ネコ目クマ科の8種の動物を言う」
 
「ネコの仲間なんですか?」
 
「ネコ目の中に、ネコ亜目とイヌ亜目があって。クマとかアライグマ・アナグマなどはイヌ亜目に分類される。イヌ亜目には更にイヌ下目とクマ下目があり、クマ下目の中に、イタチ上科、クマ上科、アシカなどの鰭脚類がある」
 
と言って、砂原室長はホワイトボードに分類図を描いた。
 
ネコ目
┣ネコ亜目(ネコ科・ハイエナ科など)

┗イヌ亜目
 ┣イヌ下目
 ┃ ┗イヌ科(タヌキを含む)
 ┗クマ下目
  ┣イタチ上科
  ┃┣イタチ科
  ┃┃(アナグマを含む)
  ┃┣アライグマ科
  ┃┣レッサーパンダ科
  ┃┗スカンク科
  ┣クマ上科
  ┃┗クマ科
  ┗鰭脚類
  (アシカ科・セイウチ科・アザラシ科)
 
「クマ科は更に、クマ亜科とメガネグマ亜科、ジャイアントパンダ亜科に分類される。クマ亜科に更にこのような属・種・亜種が含まれる」
 
クマ亜科
┣マレーグマ属
┣ナマケグマ属
┗クマ属
 ┣ツキノワグマ種(ツキノワグマ属とする考え方もある)
 ┣アメリカグマ種(↓のグリズリーより小型)
 ┣ホッキョクグマ種(但しヒグマとの生殖境界が無い)
 ┗ヒグマ種
  ┣ヨーロッパヒグマ亜種
  ┣コディアックヒグマ亜種(アラスカにいる)
  ┣ヒマラヤマグマ亜種
  ┣ハイイログマ亜種(アメリカに居る。別名グリズリー)
  ┗エゾヒグマ亜種(★北海道にいるのはこれ)
 
(8種というのは、ジャイアントパンダ、メガネグマ、マレーグマ、ナマケグマ、ツキノワグマ、アメリカグマ、ホッキョクグマ、ヒグマ、と数えた場合)
 
「ツキノワグマは漢字で書くと“月輪熊”、ヒグマは“羆”。ヒグマを“緋熊”と書く人もあるけど、それは当て字。元々“羆”と書かれていたのを見て、誰かが“四熊”と2文字と誤解して『しぐま』と読んじゃったのが発端らしい。それで“しぐま”がいつのまにか“ひぐま”になっちゃった」
 
「犯人は江戸っ子かな」
「一日中・山道の世界だ(*3)」
 
(*3)“旧中山道”(きゅう・なかせんどう)と書かれた原稿の“旧”の字が“1日”に見えて「いちにちじゅう・やまみち」と誤読したもの。しばしば、有賀さつきが誤読したと思われているが、実際には別のアナウンサーが誤読したのを有賀さつきが「きゅう・ちゅうさんどう、ですよね」とやっちゃった!
 

「日本には、本州・四国にツキノワグマ、北海道にエゾヒグマがいるけど、両者は生態上、大きな違いがあり、全く別の生物と考えた方がいい」
 
「九州には居ないんですか?」
「昔はツキノワグマがいたけど、最近は全く目撃されず、絶滅したものと思われる。また、遙か古代には本州にもヒグマがいたことが、骨が発見されることから推定されるけど、現在は居ない。ヒグマがいるのは北海道だけ」
 
「両者の違いだけど、まず外見では、ツキノワグマはだいたい成獣で1m-1.5m程度。希に1.8mくらいのいるらしいけど、めったに見ない。それに対してヒグマは2-3mに達する、つまりツキノワグマの倍の体格がある。体重では3-4倍。ただし、どちらもメスは小柄で、オスより2割くらい小さい」
 
「毛並みだけど、日本のツキノワグマはだいたい黒い色で、胸の付近に三日月型の白い毛があるけど、1割ほど無い個体もある。エゾヒグマは金毛と呼ばれる茶色のものと、銀毛と呼ばれる白色のものが居る。金毛のヒグマの1割ほどにツキノワグマ同様、胸の所に白い毛がある」
 
「どちらも雑食性で、ブナやナラの実を食べるし、昆虫や蟹なども食べる。蜜蜂などはわりと好物で、蜜蜂の巣を見つけると巣を破壊して蜂も蜜も食べる」
 
「くまのプーさんだ」
「プーさんの品種は何ですかね?」
「あれは元々テディベアのぬいぐるみから生まれた物語なんだけど、テディベアのモデルになったのは、アメリカグマだね。これはハイイログマ、別名グリズリーより小型で、グリズリーの住んでない地域に住んでいる熊。日本のツキノワグマと立場が似ていると思う」
「なるほどー」
 
「アメリカグマもツキノワグマ同様に、草食傾向が強くて、ネズミや蟹とかの小動物なら食べるけど、大きな動物を捕食したりはしない」
 
「へー」
 
「ツキノワグマも、人間を捕食目的に襲ったりはしないんだよ。遭遇した場合に自衛のためやむを得ず戦うだけ。そもそもツキノワグマは昼行性なんだけど」
 
「夜行性じゃないんですか!」
 
「クマは基本的には夜は寝てるよ。ただ、今からの時期、秋には、冬ごもり準備のため、人里に柿の実とかを狙いに来る時は、人間が寝静まった夜に出てくる。でもそれは例外的なものだよ」
 
「人間が寝静まった所を狙うんですか?」
「こそ泥だね。基本的には人間が怖いからね」
「ああ」
 
「それとクマは基本的に昼行性だけど、実は朝晩、日が昇る頃と、日が沈む頃に最も活動が活発になる。薄明性と言うんだよ」
 
「へー!」
「朝御飯と晩御飯かな」
 
「だから実は、早朝ジョギングとか、夕方のジョギングとかが危険」
「そうだったのか」
 
「あと薄明性の動物は、満月の夜とかも活動するから注意して」
「わっ」
 

「だからツキノワグマってのは元々臆病な生き物だから、鈴とかラジオとかで人間が近づいてくることを報せれば向こうから逃げてくれる」
 
「なるほどー」
 
「でもヒグマは違う。元々肉食性が強いし、わりと大きな動物でも狙う。だから人間はヒグマにとっては“美味しい餌”になり得る」
 
「怖いなあ」
 
「ヒグマはグルメな傾向があって“好み”を覚える。いったん食べて美味しいと思ったものはまた狙う。だから人間を食べたことのあるヒクマは、確実にまた人間を狙うから、人を食ったヒグマは必ず仕留めておかないと、被害が広がるんだよ」
 
「マジ怖いですね」
 
「室長、みんなに三毛別(さんけべつ)羆事件のことを教えてあげてください」
と青葉が言った。
 
「うん。あれは悲惨な事件だったんだよ」
と言って、砂原室長は事件の概要を語り始めたが、女子アナウンサーの中には青ざめる者もいた。
 
大正4年、北海道苫前(とままえ)の三毛別(さんけべつ)の集落で起きた、羆による村襲撃事件で、度重なる襲撃により7人が羆に殺され、多数の負傷者を出した。警察だけではなく陸軍部隊まで出動したものの、最後はベテランのマタギにより仕留められた。記録に残る中で最大のヒグマ食害事件である。
 
その詳細はあまりにも悲惨であり、ここには書かないので、勇気のある人はネットで検索してもらいたい。
 

「アメリカとかでは、ヒグマ(グリズリー)に襲われた時の用心に森に入る時、マグナム銃を携帯する人もあるらしいけど、普通の.44マグナム程度ではヒグマは倒せないから」
 
「マグナムで倒せないなら、どういうので倒すんです?」
「熊撃ち専用の巨大な弾丸があるんだよ。専用の銃も」
 
「へー」
「だからマグナムは気休めにすぎない。襲われた時に最後の1発を残して全弾撃って、それでクマが倒れるか逃げるかしてくれたら幸い」
 
「最後の1発はどうするんですか?」
「それはもうクマに食べられるのは必至と思われた時に、生きながら食べられる恐怖を味あわなくて済むように、自分の頭に撃ち込む」
 
「きゃー!」
 

「あとクマの習性として、犬などと似て、食べ物を保存する傾向がある。それに執着心が強くて、一度食べ物を得られた場所にはまた来るし、一度自分が獲得したものは、自分のものであるという強い認識を持つ。それを奪われたりすると、物凄く怒るし、執拗にそれを取り戻そうとする」
 
「それで福岡大学ワンゲル部事件になるんですよね」
と青葉が言った。
 
「そうなんだよ。あの事件ではヒグマに一度取られた荷物を、愚かにも取り返してしまった。それでヒグマに再度襲撃され3人が死亡することになった」
 
「ああ」
 
「以前カナダで森の中でクマに遭遇した人が、食べ物などを落としながら逃げて何とか人がたくさんいる駐車場まで逃げ切った映像が公開されたことがある。その人は食べ物を少しずつ落としていき、最後はリュックを落とした。クマが落ちた食べ物を食べたり、最後はリュックをあさっている内に逃げ切った」
 
「三枚のお札だ」
「あれは元々はクマに遭遇した話だと思う」
と砂原室長は言う。
 
「でもそれで落としたリュックとかが落ちているのを見ても絶対に回収してはいけない。それはもうクマにあげたものだと思わなければならない。万一回収したりしたら、クマはそれを取り戻しにくるから」
 
「リュックより命の方が大事だということを認識する必要がありますね」
 
「クマってジャイアンみたいかも」
と森本メイが言う。
 
「そうそう。俺の物は俺の物、お前の物も俺の物。あと、クマは火を恐れないから焚き火とかしてても、熊よけにはならない。三毛別事件でも、ヒグマは火を焚いている民家に平気で侵入している」
 
「ほんとにやっかいな動物ですね」
「ほんとに怖い猛獣なんだよ」
 
「でもツキノワグマはもっと温和なんですよね」
「そうそう。だから、ツキノワグマの場合は、相手を刺激しないことが大切。向こうはあまり人間を食う気は無いから」
 
「でもおとなしいからといって油断は禁物」
「そうなんだよ。クマの中では最もおとなしいと考えられるジャイアントパンダだって、外国で、女性アナウンサーがジャイアントパンダの檻の中に入ってレポートしてて、足の指を食いちぎられたことがあるから」
 
「檻の中でレポートってのは、さすがに舐めすぎてますよ」
 

西湖の学校では、毎年春に全校生徒の胸部X線間接撮影と心電図検査が行われていたのだが、今年はそもそも4-5月は休校していたし、感染対策についても不明な点が多かったことから延期していた。
 
それで9月に入ってすぐにこれらの検査が行われた。
 
西湖(実際には西湖F:聖子)は、普通に他の女子生徒と一緒に保健室に行き、列に並んで心電図検査をし、レントゲン車の中でX線撮影をした。
 
その様子を保健の先生は腕を組んで眺めていた。
 
建前としては、西湖は実は男の子でバストなどは無いので、ふだんブレストフォームを貼り付けて胸があるように偽装していると学校側には言っている(そのことを他の生徒は知らない)。
 
しかしブレストフォームをつけていたら、心電図の信号は取れないはずである。実際、胸がとっても小さいのでブレストフォームで偽装している瀬梨香の場合はいつも心電図を取る時はそれを外している。しかし西湖はそのまま心電図検査を受けている。
 
それで保健室の先生は、西湖はブレストフォームで偽装しているという建前で実は女性ホルモンの服用で胸を大きくしているのでは?と疑っているのである。
 

恵真の高校では取り敢えず9月第1週(9/1-4)も体育の授業は休止されていたので恵真が女子更衣室を使う機会は無かったが、9月3日、西湖の高校と同様、延期されていた胸部X線間接撮影と心電図検査が行われた。
 
男女別に呼び出されて、授業の途中抜け出して検査に行く。保健委員の子が恵真の書類を女子の方に入れておいてくれたので、恵真は一希たちと一緒に女子の番で保健室に行った。
 
ついでに身体測定も行われたので、他の女子たちと一緒に保健室の中で制服を脱ぎ下着姿になる。他の子が自分を見ているのを意識したが、恵真は気にせず制服を脱いだ。そして恵真の下着姿を見て、他の子たちがホッとしているのを感じた。
 
なお、恵真は数日前から、姉に言われてナプキンを装着しているのだが、羽無しタイプだし、薄型なので。付けているのは目立たなかった。
 
保健室の先生は恵真を見ると一瞬「あら?」という顔をしたが、恵真の下着姿が普通に女子にしか見えないのでスルーしたようである。
 
身長体重を保険の先生が計り、女子の保健委員が記録した。
 
「162.1」
「40.6kg」
 
なお、下着の分として0.1kgを引いて、40.5kgとして記録された。
 
(ブラジャーはだいたい50-60g, ショーツは20-30g程度である)
 
続いて心電図検査に行く。室内に心電図の測定器が持ち込まれており、上半身裸になってベッドに寝て電極を付けられる。
 
ひとりの子が検査を受けている間に次の子が脱ぐのだが、恵真は敢えて後を向いて服を脱いだので、前の子の裸は見ていない。これは前に並んでいる子に予め約束しておいたことである。
 
でも恵真が上半身脱いだ所は次の子にしっかり見られた!
 
次の子は「へー」という顔をしていた。
 
それで恵真は胸付近に多数の電極を付けられて心電図検査を受けた。
 

心電図検査を受けた後は、上半身裸のまま、保健室のすぐそばに駐めてあるレントゲン車に移り、そこでX線検査を受けた。
 
「妊娠中または妊娠している可能性がある場合は、そこの黄色い札を掲げてください」
 
と言われたが、妊娠した覚えはないので、そのまま検査室に入り、撮影をされた。検査室の手前にある更衣室では前の子が服を着ていたので、それを見ないように視線をそらしたのだが、
 
「えまちゃん、見てもいいよ。見ずに歩いたらぶつかるよ」
と彼女から言われたので、普通に前を見て検査室に進んだ。
 
検査が終わった後、次の子からも同様のことを言われた。
 
しかしともかくもこれで恵真は、身体検査等を他の女子と一緒に受けるのはOKと女子のクラスメイトたちからは認定されたようであった。
 

ところで、恵真は数日前からお腹(下腹部)が痛い感じがして、何だろうと思っていた。
 
その日、帰宅してからいつものように夕飯(今日は鶏の唐揚げ)を作り、やがて帰ってきた母や姉たちと一緒に食べていたのだが、その食べている最中に急に変な感じがして、トイレに飛び込んだ。
 
それでパンティを下げてみると、装着していたナプキンが真っ赤になっているので「これ何?」と狼狽した。
 
戸惑って、どこを怪我したんだろう?などと考えていたら、姉がトイレのドアをトントンとした。
 
「大丈夫?」
「お姉ちゃん、ボクどうしたんだろう?たくさん血が出てる」
 
姉は言った。
「生理が来たんじゃないの?」
 
「生理!?」
 
そういえば確かにこれは生理かも。どこか怪我して血が出てるとかいうのとは違うのである。お腹が痛いのは痛いのだが、怪我した痛さとは違う。
 
「ボク生理になるんだっけ?」
 
「女の子なら普通に来て当然」
「え〜?」
 
「何日か前から、お腹痛いと言っていたのはPMSだったんだね」
「PMS?」
「生理前症候群(premenstrual syndrome)。生理の少し前から、お腹が痛くなったり頭痛がしたり、あるいはイライラしたりブルーな気分になったりするんだよ。女の子には避けようが無いもの」
 
「へー」
 
「ナプキン付けてた?」
「うん。お姉ちゃんに言われたから」
「処理の仕方分かる?」
「たぶん。あ、でも替えのナプキンが無いかも」
「トイレの棚にある、スリムガード、私のだから使っていいよ」
「分かった。借りる」
 
「まあ自分の好みのがあったらドラッグストアで買ってトイレにストックしておくといいね。あんたナプキン買うのは平気でしょ?」
 
「お姉ちゃんのお使いでだいぶ買ったし」
 
恵真はこれまでしばしば姉に言われてナプキンを(姉の代わりに)買いに行っていたのである。
 
しかしともかくも恵真は経血をトイレットペーパーで拭き取り、血を吸ったナプキンは丸くして汚物入れに捨てた。そして棚(この家にはトイレの個室が2つあるが、この棚は両個室の間にあり、どちらからも取れる)からスリムガードを1個取るとショーツに貼り付けた。
 
これが恵真の初潮であった。
 
この日は、仮名Mさんと一緒に病院に性別検査に行った日から14日目だったのだが、そのことを恵真は意識していない。
 
しかし、恵真は、自分は女の子の形に外見だけ成型しているだけなのに、どうして生理が来ちゃうんだろう?と不思議に思った。
 

「私たちって、なんか小さい頃に劇で女役をさせられているよね」
とその日千里は言った。
 
「黒歴史にしたいけどね」
と冬子も言った。
 
「私は、小学4年の時に、白雪姫をやった。本来白雪姫役だった子が本番直前に腹痛で病院に運び込まれちゃってさ。クラスでいちばん細い子だったから、誰もその衣装の入る子がいなくて」
と千里。
 
「その衣装が千里には入ったんだ?」
と冬子。
 
「冬も、バレエでフロリーナ姫とか代役で踊ってるし」
と千里。
 
「よくそういうの覚えてるね」
 
「いや、学芸会でも『白雪姫』の母親と、『眠り姫』のカラボスをやってる」
と政子が言う。
 
「なんでそういうの、みんな覚えてるのさ」
 
「龍虎の方がもっと女役してる」
と川崎ゆりこが言う。
 
「白鳥の湖の32回転はテレビでも披露してたね」
「うん。凄かった。バレエやめてからだいぶ経つのにちゃんと踊れる所が凄い」
 
「あれは本来オデット・オディールを踊ることになってた子が、本番までに32回転をマスターできなかったんで、やむを得ず龍虎が踊ったんだよ」
 
「やはり代役だったのか」
「しかしそれで32回転できるのが凄い」
 
「それ以前に、くるみ割り人形の金平糖も踊ってるし」
「女役ばかりじゃん」
 
「龍虎は学校の学習発表会でも、自分から進んでサウンド・オブ・ミュージックのマリア役に立候補したことがある」
 
「やはり、元々女役をしたかったんだ?」
「本人によると主役に立候補したら、主役が女だったと」
「苦しい言い訳するなあ。女役が好きなんですと言えばいいのに」
 
「次の年は『十二月(じゅうにつき)』のアーニャを演じてるし」
「間違い無く女性志向だな」
 

恵真は小学生の時の“シンデレラ事件”のことを思い出していた。
 
その年、恵真たちのクラスは学習発表会でシンデレラを上演することになっていて、シンデレラ役は、T子ちゃんという“女王様”型の女子が演じる予定だった。彼女は常に自分がトップでないと気が済まないたちで、実際に頭も良く、勉強の成績もトップだった。
 
ただ、意地悪だし、他人に容赦無い性格だった。しかし彼女がシンデレラをしたいと言うので
 
「本当は母親役の方が似合うけど」
などとみんな陰口をたたきながらも、彼女を主役に練習を進めていた。
 
ところが・・・
 
彼女は本番の2日前に階段から落ちて、足の骨を折る大怪我をしてしまったのである。取り敢えず劇に出るのは無理である。
 
しかし病院の先生が止めるのを強引に車椅子で出て来た彼女は言った。
 
「私以外の女子に私の衣装着せてシンデレラやらせたら、その子、ただじゃ済まないからね」
 
クラスメイトたちは困った。その時、一希が言った。
 

「えまちゃんに、シンデレラをやらせたらどう?女子でないならいいよね?」
T子はその提案に驚いたが言った。
 
「まあ男子ならいいか。私の衣装が入るもんならね」
 
それで実際にシンデレラの衣装を着せてみると、恵真はきれいにそれが着られた。
 
「信じられない!私より細い男子がいるなんて」
「本当に男子なのかは、やや疑惑があるけどね」
「でもいいよ。私の衣装が入ったから、浜梨君がやって」
「まあ他の男子では絶対にその衣装、入らなかったな」
 
それで恵真がシンデレラを演じることになったのである。
 
「だいたいスカート穿いて歩いて転ばないのが凄い」
「え?転ぶものなの?」
「いや、気にしないで」
 
恵真はこの劇に実はシンデレラの姉役で出ることになっていた。シンデレラの母及び2人の姉役は全員男子だった。女子たちがやりたがらなかったからである。
 
やりたがらなかったのは、1つには悪役だからというのと、1つにはT子をいじめる役なんて、恐ろしくてできない!という本音があった。
 
姉役だったので、シンデレラのセリフをかなり覚えていたこともあり、一晩で全部セリフを頭の中に叩き込むことができた。
 
そして翌日、美事にシンデレラ役をやり遂げたのだが、観客からは「可愛い!」という声があがっていたし、誰もシンデレラを男の子が演じているとは思いもよらなかったようであった。
 
なおT子ちゃんはその年の暮れにお父さんの仕事(大きな会社の支店長さん)の都合で転校して行き、恵真たちのクラスは彼女の“支配”から開放されて、その後は和気藹々としたクラスに変わった。
 

でも翌年、恵真は今度は白雪姫をやらされた!
 
「なんでボクが白雪姫なの?女子の誰かがすればいいじゃん」
 
「去年のシンデレラがあまりにも可愛かったから、また、えまちゃんのドレス姿を見たいということで女子一同の意見がまとまった」
 
実態は有力候補2人のどちらにするか調整が付かず、2人とも降りて、恵真に白雪姫役が回ってきたというのが裏事情だったことを一希から後に聞いた。
 
その2人は、どちらも男装して小人のリーダー役と王子様役をした(このふたりは張りあっていた訳ではなく、むしろお互いに譲り合っていた)。
 
例によって恵真の白雪姫役は、観客の誰もそれを演じているのが男の子だなんて夢にも思わなかったようであった。
 
なお昔風の白雪姫のシナリオだったので、母親(演じたのは一希)と戦って倒したりはしない。隣の国の王子様と結婚して幸せになりました、で終わっていた。
 

その日香沙が学校に出て行くと、クラスメイトの女子・遠藤さんに呼ばれた。
 
「浜梨君、ちょっと」
「なあに?」
「浜梨君、英語の発音わりときれいだよね」
「お母ちゃんが時々、今夜は全部英語!とかいって、英語で会話したりしてるおかげなんだけどね」
 
「いい環境だね!」
 
実は恵真がわりと英語は得意なのも、母が昔からやっているこの英語教育のおかげである。
 
「それでさあ、英語部が文化祭でやる英語劇にゲスト出演してくれない?頭数が足りなくて」
 
「いいけど、何やるの?」
「悪役なんだけどいい?」
「そのくらい問題無い」
「Sleeping Beauty(眠り姫)やるんだけど、姫を眠らせてしまう悪い魔法使いでカラボスという役なの」
 
「へー、まあいいよ」
 
香沙は“魔法使い”と聞いたので、それが女役だとは、夢にも思わなかった!
 
 
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【春金】(2)