【春白】(3)
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(C) Eriko Kawaguchi 2021-02-10
その日、男子寮の管理人室では、瀬那と母が夕食を取っていた。父はまだ帰宅していなかった。
瀬那は何気なく母に言った。
「今日学校で友だちから『生理いつあった?』とか訊かれて焦っちゃった」
母は尋ねた。
「どう答えたの?」
「適当に先週あったって答えた」
「それさあ、適当に答えてるとその内矛盾するよ」
「そんな気はする」
「自分の生理日がいつかというの、自分で“決めて”さ、手帳に印付けておきなよ。赤い丸とか。シール貼ってる子もいるよ」
「あ、そういえばお姉ちゃんから、そんなこと言われてた気がする」
「それと、ちゃんとナプキンも持ってた方がいいよ。女の子は急に生理来ることもあるから、予定日でなくてもいつも最低2個くらいは持ち歩いているよ」
「あ、そうだよね」
「じゃナプキン買いに行こうよ」
「うん」
それで母は夕食が終わった後、キュアルームに居るユキ・ツキ姉妹に声を掛けてから、瀬那を連れて車でドラッグストアまで行った。
車を駐車場に駐め、一緒に降りる。入口から入って、瀬那は右手に行き、3列目の棚の所にある生理用品コーナーに行った。
「どれがいいのかなあ」
と瀬那は悩むように言ったが、母はひとこと言った。
「あんた、全く迷いもせずにこの棚の所に来たね」
「え!?」
(2020年)11月6日(金)、浜梨恵真はいつものようにセーラー服を着てH市のU中学に登校し、現国・化学・地理・音楽/体育・数学、という授業を受けた。
音楽の授業では1学期は男子制服を着てテノールで歌っていたのが、2学期になってからは女子制服を着てソプラノで歌うようになり、恵真は改めてこの“新しい生活”に喜びを感じた。体育でも他の女子と一緒にバスケットをしたが、自分が女子チームの中でプレイすることに充足感を感じていた。
昼休みと放課後は音楽室の近くにある物理教室で吹奏楽部の練習に出る。一応恵真は1月に歌手としてデビューする予定なので年内いっぱいで吹奏楽部は退部することになっており、同じフルート担当の愛絵・姫良からは
「寂しくなるなあ」
と言われていた。
6時間目が15:00に終わり、教室の掃除をしてから15:30から17:30くらいまで部活に出た後下校。18:00くらいに帰宅して夕飯を作る。恵真は男の子だった頃から、平日の夕食は恵真が作ることが多かった。母の帰宅はだいたい19時頃だし、受験を控えている姉は忙しいし、元々あまり家事はしない人である。
11月7日(土)は、自室でフルートの練習をしたり、キーボード(CASIO SA-76 44鍵)を弾きながら発声練習をしたり、学校で習っている曲を歌ったりしていた(デビュー予定曲などは他人に聞かれると困るので自宅で歌ってはいけないと言われている)。練習する時は、窓をしっかり締め、厚手のカーテンもして演奏しているが、どうしても音は漏れるよなと思っていた。
恵真が8月下旬から、女子制服を着て学校に行くようになったことについて、隣の家のおばちゃんなどは、
「エマちゃん、小学生の頃はよくスカート穿いてたもんね」
などと好意的に言ってくれたので、恵真も救われるような思いだった。
しかし結局学校には届けの類いは全く出していない!
従って、恵真は学校の名簿には「浜梨恵馬・男」と記載されているし、生徒手帳もそういう表示である。
11月8日(日)は朝御飯を食べてから
「行ってきまーす」
と言って、いつものように“セッション”に出かけた。
既にデビュー曲については、10月10-11日に音源が完成している。土日2日間かけたので翌週は代休となり、10月18日には、吹奏楽の大会に出た(同じ大会に後にライバルと言われるようになるAeyo(緒方美鶴)が参加していたことを恵真は知らない)。
そして10月24日には、ホンダジェットに乗り日帰りで四国まで往復し、PVの撮影をしてきた、9月に写真撮影で能登と旭川に行った時はガルフストリームG450で、あれも小さな飛行機だなあと思ったが、今回のはあれよりもずっと小型で可愛かった。思わず「1個欲しい」と思いたくなるが値段は5億円らしいから多分一生掛けても買えない(と思っていた)。
10月25日には3度目の生理が来た。10月29日(木)には下校時に偶然“仮名Mさん”と遭遇し、半ば唆されるようにして去勢手術を受け、恵真は正式に男子を廃業した。
10月31日には、1月にデビューする新人として雑誌のインタビューを受け(その前に高そう!な美容室で髪をセットしてもらった)、その後、デビュー曲の作曲家・琴沢幸穂さんに挨拶に行った。
作曲家兼プロ女子バスケット選手ということでお忙しい方らしく、恵真は“仮名Aさん”と一緒に板橋区にある琴沢先生の個人バスケット練習場にお邪魔した。ここはあくまで作業場所らしく、御自宅は浦和らしい。
小さな家がまるごとバスケットのシュート練習場になっているので恵真はびっくりした。先生の居室は地下にあり、ワンルームマンションみたいに、バストイレがある他は10畳くらいの部屋になっている。(↓図面:再掲)
床はフローリングらしいが、防音のためカーペットが敷かれている。壁や天井も吸音板で覆われている。ここには、作曲用のワーキングデスクとその上に載った富士通のノートパソコン・それに繋がる49鍵キーボード(KORG TRITON taktile-49), 演奏用のクラビノーバ(Yamaha CVP-809) の他、ベース、フルート、ピッコロ、アルトフルート、ヴァイオリンなどが所狭しと置かれていた。
「ここは2時間バスケしたら2時間作曲したりして、相互に気分転換になっていいんだよ」
などと先生はおっしゃっていた。
たくさんヒット曲を出しておられるので30代くらいの先生かと思っていたのだが、見た感じまだ24-25歳くらいだったので恵真は驚いた。それでバリバリ現役のバスケット選手ということなのだろう。バスケット選手としては日本代表チームにも入っていてスリーボイントが上手く、世界大会でスリーポイント女王になっていると“仮名Aさん”が言っていた。天は二物を与えるんだなあと、恵真は先生と話しながら思った。
先生は龍笛の名手ということで演奏を聴かせて頂いた。
凄い!と思った。
一発で琴沢先生のファンになった。
「こんな凄い演奏を聴いたのは初めてです」
と恵真は言った、
「たぶん日本で五指に入る名手だと思う」
と仮名Aさんも言ったが、琴沢先生は
「妹の方がもっと凄い」
などとおっしゃる。
「妹さんも龍笛を吹かれるんですか?」
「うん。君のデビュー曲『風の中のココ』の作曲者・桜蘭有好(おうらんあるす)だよ」
「わぁ、姉妹だったんですか!」
「アルスは富山県に住んでいるからね。その内東京に出て来た時に会わせるね」
「はい、お願いします」
(実を言うと『風の中のココ』の桜蘭有好も、『君に会いに来た』の星野輝希もどちらも青葉である。青葉は大宮万葉名義でアクアに楽曲を提供しているので、セシルには別名義で作品を書いた。2つ出来て、どちらがいいか迷ったので、“仮名Aさん”に選択を委ねたのである。『風の中のココ』は難曲なのでセシルに歌いこなせるか青葉も分からなかった。並みのアイドル歌手なら『君に会いに来た』の方が絶対いいが、セシルは『風の中のココ』をしっかり歌いこなした)
「でも君、男の娘なんだって?」
「実はそうなんです」
「でも睾丸はもう無いでしょ?」
「はい。実は取っちゃいました」
と言って、恵真は“仮名Mさん”と一緒に行った病院のことを思い出しドキドキした。
「でもこの子、既に戸籍も女の子に訂正しちゃったのよ、折角可愛い男の娘として売りだそうと思っていたのに当てが外れた」
などと“仮名Aさん”は言っている。
「こんな可愛い子を男の娘として売り出しても誰も信じませんよ。でも戸籍も訂正したのなら、もう全部終わってるんだ?」
「はい、ほとんど女の子みたいなものだと思います」
と恵真も答える。
(恵真は自分に既にペニスが存在していないことに、未だに気付いていない!)
「でも雨宮先生もいったいどこでこんな可愛い男の娘を見つけたんです?」
と琴沢先生は尋ねた。
“仮名Aさん”は
「新宿の街を歩いていた所を拉致して、女の子に改造しちゃったのよ」
などと言う。
しかし恵真はキョトンとした。
「雨宮先生?」
それで雨宮は気付いた。
「あんた、まさか今まで私が雨宮三森だと知らなかった?」
「うっそー!?そんな大先生だったんですか?」
と恵真は声を挙げた。
「まさか名前を名乗っていなかったんですか?」
と琴沢先生が雨宮先生に訊く。
「うん。私は“仮名A”、この子は“仮名E”ということでやってた」
と雨宮。
「だけど、この子のお母さんは、ワンティスの前身のワンバンがよく出ていたライブハウスに勤めていたのよ。古い知り合いでさ。だからお母さんから聞いているものとばかり思ってた」
「ああ、その縁でスカウトしたんですか?」
「いや。偶然。契約の話をするのに会いに行ってびっくり」
「え?ワンバンってワンティスの前身なんですか?」
と恵真はまた驚いている。
「そのあたりお母さんから聞いてなかった?」
と雨宮が訊くが恵真は首を振っている。
「お母さんは、雨宮先生から聞いていると思っていたのかもね」
と琴沢先生は笑っている。
「まあワンバンのメンバーの私(Sax)と上島雷太(Pf)・高岡猛獅(Gt)の3人がプロデビューすることになって、知り合いのドグドグというバンドでやっていた水上信次(B)と三宅行来(Dr)を誘った。それにマニピュレーターとしてひとりでネットに作品を発表していた下川圭次を入れて6人でデビューした。サポートメンバーとして海原重観(Gt)と山根次郎(Tp)、コーラスとして長野夕香・支香の姉妹が加わっていたけどこの4人も後に正式メンバーになって10人編成のバンドになった」
「へー」
「バンド名は、恵真のお母ちゃんが勤めていたお店が“ムー”という名前だったからさ、ムーからアトランティスを連想して、ワンバンとアトランティスの合成でワンティスにしたのよ」
「そうだったんですか」
「その名前が決まった経緯は、雨宮先生、上島さん、下川さん、三宅先生4人の見解が全部違いますね」
と琴沢先生は笑いながら言っている。
「まあ混乱していたからね」
と雨宮先生も言っている。
上島:「ワンバン」の名前でデビューするつもりが、ワンバンの残りのメンバーからクレームがあったため、少し変えることにし、イギリスのバンド・ティシホーンから少し借りて「ワンティス」とした。
(実際には不参加メンバーで後に自身もロック・ギタリストになった崎守英二は誰もクレームとかしてないと言っている:高岡が死亡した後、レコード会社は彼を勧誘して新たなギタリストにし、ワンティスの活動を継続させようとしたが、崎守はその話を断ったし、上島も今はたとえ英ちゃんといえども高岡以外のメンバーを入れる気持ちにはなれないと言った)
下川:8文字がいいという話になり高岡がワンタン(Wang-Tang)と言ったが、夕香ちゃんが「それは酷い」と言って母音を変えワンティス(Wang-Tiss)にした。なお料理のワンタンは中国語ではHuntunであり、Wang-Tangは高岡の勝手綴り。
三宅:高岡が「ティッシュ1枚頂戴」と言ったら、雨宮がティッシュをわざわざ2枚に分離してその1枚を渡した。それでOne Tissue →ワンティスになった。OneではなくWangにしたのは「一より王。Only OneではなくNo.1になろう」と高岡が言ったから。
(ちなみにもうひとりのオリジナルメンバーである水上先生は「気がついたらそういう名前になっていた」と言っており、名前決定には関わっていないようである。レコード会社初代担当の太荷馬武は「事務所の社長が決めた」と言っていたので、彼も関わっていないようである)。
「でも私、雨宮先生って女性作曲家と思っていた」
「まあ雨宮先生を見たら多くの人が女だと思うよね。外国に行く時、いつも入出国で揉めてるから、いっそ性転換手術して戸籍を変更しちゃえばいいのに」
と琴沢先生。
「性転換したら女の子抱けなくなるじゃん」
と雨宮先生。
しかしそういう訳で、恵真はやっと“仮名Aさん”の正体を知ったのであった!
そして仮名Aが雨宮だったと知った翌週の11月8日(日)、恵真はいつものように##駅前まで行った。いつもここで仮名Aさんこと、雨宮先生にフェラーリでピックアップしてもらっていた。
ところがこの日、やってきたのは、写真撮影などでいつも一緒になるアナさんである。
「ごめん、セシルちゃん、今日雨宮さんが忙しくてさ、私と一緒に来てくれる?」
「はい」
それでセシルはアナが運転するフェラーリに乗った。ちなみにいつもは2シーターの車(Ferrari 458 Speciale スペチアーレ)だが、この日乗ったのは同じフェラーリでも4シーターの車(Ferrari 612 Scaglietti スカリエッティ)だった。雨宮はフェラーリが好きで、フェラーリだけでも3台持っている(もう1台は特別限定車のエンツォフェラーリ)。
アナさんに連れて来られたのは放送局である。
「悪いけど、ドラマに出て欲しいのよ」
「はい、私にできるでしょうか」
「テレビは可愛い子が映っていれば多くの人は満足するから」
「そんなものでしょうか」
(マスクを付けた上で)アナさんに連れられて局内に入り、やがてスタジオのような所に入る。非接触式の体温計でアナさんもセシルも検温され、足踏み式のアルコール噴射機で手を消毒する。
アナさんがディレクターさん(?)に声を掛ける。
「こちら、アクアの代わりに出演することになった新人の羽鳥セシルです」
とアナさんが紹介した。
「お早うございます。羽鳥セシルです。よろしくお願いします」
と挨拶すると
「うん。話は聞いている。可愛い子だね。よろしくね」
と言われた。
台本をもらう。羽柴容子という役名の所に丸が付けられている。
「この役をすればいいんですか?」
「そうそう。30分後に撮影が始まるからその間に台詞を覚えて欲しいの」
「頑張ります」
それでセシルは台本を最初に斜め読みしながら自分のセリフの所にマーカーで印を付けていく。
セリフがたくさんある!
ひぇー、こんなにたくさん30分で覚えられるかなと思ったが頑張って読んでいく。台本を読む時、自分のセリフを小さな声で発音しながら読んだ。
衣装を渡されるので、アナさんに連れられて女子の更衣室に行き、それを着てからアナさんがメイクをしてくれた。スタジオに戻る。
スタジオの換気をしているので、恵真は「寒い!」と思った。
撮影が始まる。一発勝負だ。一家団欒のシーンで、お母さん役・お父さん役はどちらもテレビで多数見ている俳優さんだ。名前が出て来ないけど多分有名な人。お兄さん役の人は、たぶんこの人ジャニーズにいたんじゃないかなと思った。
気合負けしないように気を引き締めて演技していく。
途中、そのジャニーズ?の人がセリフをど忘れしたようで詰まる。
「すみません」
と謝り、台本を確認している。その間にセシルも再度台本を確認。
撮影か再開される。しかし他の人がミスったことで、セシルは随分気分が楽になった。
今度はお母さん役の女優さんが、海外の有名バンド名を噛んでしまう。
「ごめーん」
と謝る。
それでリテイクするがまた噛む!
「ごめん」
「**ちゃん、ちょっと発音練習してみようか」
「すみませーん」
と言って10回くらい発音してみて、やっと発音できるようになった。
中断している間もセシルはずっと台本を確認している。
この後はシーンの最後までうまく行った。
「はい、OKです」
とディレクターさんが言った。そしてディレクターさんは言った。
「それでは本番行きます」
え?今の本番じゃなかったの??
この日はこのドラマの撮影が夜遅くまで丸一日行われた。昼ご飯・夕ご飯はお弁当が出たのを撮影の合間にアナさんと一緒に、駐車場に駐めている車の中で!食べた。とにかく今人がたくさん居る所での食事は厳禁らしい。
やがて22時になると
「夜10時ですから、高校生の役者さんは上がってください」
と言われたので、自分もあがりかなと思い、ディレクターへさんに挨拶してから退出しようとしたのだが・・・
「あ、ごめん。君はもう少し付き合って」
と言われる。
「はい!?」
「君、アクア君の代役だから。アクア君は高卒で時間制限がないんで、その前提でスケジュール組んでたんだよ。年末近くで時間のゆとりが無くてさ。申し訳ないけど、あと少し頼む。24時までには終わると“思う”から」
「分かりました」
それで結局終わったのは24時半である。
アナさんと一緒に挨拶して退出する。
「さすがに疲れました」
「でもほとんどミスらなかったね」
「ひとつだけやっちゃいました」
「まあミスる経験も大事。****君なんて大量にミスってた。台本全然読んでなかったんじゃないかね」
「私も今日初めて台本見たんですが」
「うん。それでミスが無かったのは優秀だと思う」
「そうですか」
「でも遅くなったね。H市まで行くと遅くなるから、都内のホテルに泊まろう」
「ああ、それがいいかも」
それで恵真はその日は新宿の京王プラザホテルに泊まったのである。
「なんか凄くいいホテルだなあ。こんなところに泊まっていいのかな」
などと思う。
シャワーでも浴びて寝ようと思ったが、着替えがないことに気付く。
夕飯を食べてからかなり経つのでお腹も空いている。
「しまった。帰り際にせめてどこか洋服が買える所に寄ってもらえば良かった」
と思うが仕方ない。
(コロナで時短営業しているので夜中に服が買える店は無いと思う)
着替えないで寝るのは嫌なので、疲れてはいたが、ホテルを出てコンビニまで行き、キャミソール、ショーツ、ソックスを買った。ブラはコンビニには売ってなかったが、朝家に帰ってからつければいいやと思った。
他にトンカツ弁当とおやつにgalbo(疲れているらいか甘いものが欲しい)と非常食用のカロリーメイト、1Lの紙パックの緑茶、コンビニブランドの500ccペットボトルのほうじ茶と烏龍茶、朝御飯用にシャケおにぎりとランチパックのメンチカツも買い、取り敢えずその夜はホテルに戻る。シャワーを浴びてから、トンカツ弁当を食べ、歯を磨き、ふかふかのベッドの上でぐっすり眠った。
翌朝、7時に“誰か”迎えに来るという話だったので、恵真は6時に起きてからまずは母に電話を入れた。
「うん。遅くなるという話は聞いてた」
というので、母に連絡は行っていたようだ。
それで送ってもらって帰るからなどと言って、朝御飯用に確保していたおにぎりとランチパックを食べる。
7時にやってきたのは仮名Aこと雨宮先生である。
「おはようございます」
「悪かったね。ちょっと緊急事態が起きててさ」
「はい。アクアさんに何かあったんでしょうか?」
アクアの代役ということは、アクアが体調を崩すか何かでそのピンチヒッターだったのかな?などと恵真は想像していた。あれだけ忙しかったら体調も崩すだろうと思ったのだが、雨宮先生の話は驚くべきものだった。
「アクアのスタンドイン役だった子が入院したとかでさ」
スタンドインさんが倒れたのか!!
本人より忙しかったかもね!
「それてアクア主演で撮っている長時間ドラマの撮影に時間が掛かっていて、他の仕事に影響が出ている。それで取り敢えず11月いっぱいはアクアのレギュラー以外の仕事を全部外すことにした。でも§§ミュージックのタレントには余裕のある子が居ないので、姉妹会社の♪♪ハウスがサポートすることになった。松梨詩恩、米本愛心、そして君の3人で分担してほしいんだよ」
「どちらも有名な子なのに」
「君もすぐ有名になるさ」
「じゃ来週もアクアさんの代役ですか?」
「今日も代役をして欲しい。アクアの仕事は大量にあるから」
「じゃ放課後にまたお仕事?」
「いや。朝から仕事はある」
「私、学校があるんですけど」
「済まない。休んで欲しい。年末で余裕が無いんだよ」
「え〜〜〜!?」
取り敢えずブラは昨日着けていたのを着ける。母に簡単なメールだけして出かける。
その日は雨宮先生に連れられて都内のスタジオに行き、午前中いっぱいかけて新発売のスナック菓子のCMを撮影した。最初(アクアでなかったので?)不機嫌っぽかったメーカーの部長さん?が、撮影が進むにつれ
「君、いい表情するね」
「本当に美味しそうに食べてくれる」
などと言って、どんどん御機嫌になっていった。そして最後には
「君のファンクラブが発足する時は、若い方の番号頂戴よ」
などと言い、雨宮先生が
「それ事務所に言っておきますから」
と言っていた。
スタジオを出てから着替えを調達したかったので言ったら。
「ああ、済まなかった」
と言って、西友に連れて行ってもらい、服をたくさん買った。ついでに歯磨き、ハンカチ、ティッシュ、なども買う。全部雨宮先生がカードで払ってくれた。
その後、雨宮先生の車の中でお昼を食べながら話をしていて先生は言った。
「“アクア”というブランドに物凄い価値があるから、単に演技ができるとか、単に歌が歌えるというのでは代役にならない。国民的アイドルになれるかもというクラスの子にしか代役は務まらない。だから君を代役に使うことになったのさ」
「そんな国民的アイドルって・・・」
「『風の中のココ』の作曲者・桜蘭有好(おうらんあるす)は、アクアにも別の名前で楽曲を提供している」
「そうだったんですか!」
「それがなぜそれとは違う名義で君に楽曲を提供してくれたか分かるかい?」
「いえ」
「君がアクアのライバルになるかも知れないと思ったからさ」
「え〜〜!?」
「だからライバルに同じ名義で提供するのはよくないから新しい名義を作った」
恵真は真剣に雨宮先生の話を心に刻んだ。
午後からは、昨日とは別の放送局に行き、また夜中までドラマの撮影をした。雨宮先生が忙しいので、ここからの付き添いはオナさんに交替した。
この日は男の子役だったのだが
「私、あまり男の子役は自信無いけど」
と言うと、オナさんは
「アクアちゃんも男装してても男の子に見えないから、大きな問題は無い」
と言われた。
「確かにあの人、女の子にしか見えませんよね」
と恵真も納得した。
なお役柄は男の子でも中身は女の子なので、セシルは普通に女子の更衣室で衣装に着替えた。トイレはどうしよう?と思って、優しそうな感じがした共演の女子高生・坂出モナちゃんに訊いてみたら
「中身が女の子なんだから女子トイレを使えばいいよ。だいたいセシルちゃんって男の子の服を着てても女の子にしか見えないし。君みたいな可愛い子が男子トイレに居たらレイプされちゃうよ」
と笑って言っていた。
この日はノーミスで演じることができて、ディレクターさんから褒められた。
でも今日も24時すぎまでになった!!
そういう訳で、この週、恵真は学校にも行かず、それどころか自宅にも戻れないまま、毎日ホテルから仕事に出かけ、連日、ドラマの撮影。CM撮影、雑誌の表紙の撮影、クイズ番組の撮影、とこなしたのである。着替えはアナさんやオナさんが新しい下着やブラウス・スカートなどを買ってくれて、着替えた服も持ち帰り、自宅で?洗濯してきてくれた。お昼と夕飯はだいたいテレビ局からもらったり、付き添いのアナさんかオナさん、あるいは雨宮先生が買ってくれるが、朝御飯と晩御飯(夜御飯?)は自分でコンビニなどで買っていた。
また、事務所からパスポートを取っておいてと言われたので、10日の昼間、母に電話して申請書類を取ってきて欲しいと言った。
「書類取ってくるのはいいけど、あんた自身はどうなってんのよ?」
「それが何か物凄く忙しいらしくて」
「ちょっと様子見に行く」
「夜遅くまでホテルに帰られないんだけど」
「だったら早朝に行く」
と言って、母は11月11日(水)の早朝、京王プラザまでやってきてくれた。
「忙しい割には元気そう」
「丈夫さが取り柄だし」
取り敢えずその場でパスポート申請書類を書き。室内でホテルの白壁をバックに、パスポート用の写真も撮ってもらった。
「それとお母ちゃん、少しお金貸してもらえない?ホテル代とかは払う必要無いけど、細々とお金がかかってて」
「あんた自分の口座のキャッシュカードは持ってる?」
「###銀行のならある」
「だったらそこに振り込んでおくから」
「ありがとう。助かる」
母はその後、恵真を迎えに朝9時頃雨宮がくるのを待ち構えていた。そして、学校にも行けないくらい仕事をさせるのは契約違反だと主張した。
それで母と雨宮は話し合うことになった。そしてオナさんを呼び出して、その日は彼女に仕事に付き添ってもらった。
「でもどうしてアナさんとオナさんは1日交替なんですか?」
と彼女に仕事場に送ってもらいながら恵真は訊いてみた。
「だって毎日朝から晩まで稼働してたら身が持たないよ」
「あのぉ、私は?」
「若いから頑張って」
「ははは」
と乾いた笑いをしてから恵真は唐突に疑問を持った。
「アクアちゃん、仕事が多すぎて3割くらいの仕事を他の人に代わってもらうことにしたと言ってましたけど、その3割の仕事で、私と松梨詩恩ちゃん、米本愛心ちゃんの3人が超多忙状態になったんでしょ?元々のアクアちゃんはどれだけ仕事をこなしてたんですか?」
「うん。だからアクアちゃんは7人居て曜日交替で仕事に出て来ているなんて噂もあったよ」
「それ信じたくなりますよ!」
この日はアクアのメインマネージャーの山村さんが放送局に来ていて
「アクアの代役、してくれてありがとうね。あいつ頑張ると言ってたけど、いや倒れて入院されたらよけい困ると言ってさ。それで♪♪ハウスの白河社長に頭を下げて分担をお願いしたんだよ」
とセシルに言ってきた。
セシルは山村さんって、男っぽい話し方をする人だなあと思った。しかし多忙なアクアの仕事を取り仕切っているのだから、男に負けないパワーのある人なのだろう。アクアの初代マネージャーさんは過労で亡くなったとかも聞いたし、などとセシルは考えていた。
「そうだ。君ワクチンは受けてたっけ?」
と山村はセシルに尋ねた。
「インフルエンザですか?」
「新型コロナだよ」
「いえ。もうできてるんてすか?」
「既にロシアとかは大々的に接種してるよ。まだだったら打ってあげようか」
「あ。はい。ドラマの撮影とかでたくさん人と接触するから、ちょっと怖かったんです」
それで山村はクーラーボックスのようなものから注射器を取り出すと、セシルの腕にアルコール綿で消毒してから注射をしてくれた。物凄く上手い人で、セシルは全く痛くなかった。
「3週間後にもう一度接種するね」
「はい。ありがとうございます。この費用は?」
「ああ。コロナワクチンの費用は全部国から出るんだよ」
「へー!」
(本当はこの“治験”をしている製薬会社から出ている。山村はこの後、松梨詩恩と米本愛心、蔵原リアにも打っておいた:実際問題として、松梨詩恩と米本愛心は元々かなり仕事を持っていたので、ここまで主としてアクアMがしていた仕事の内、5割をセシルが担当。スケジュールの空いていたリアが2割、詩恩と愛心で合わせて3割を分担しているのが実態である。そもそも新人は売り込みやすい上に、セシルは特に男の娘だけあってアクアと雰囲気が似ていたので代替に使いやすかった)
セシルに山村が注射をしていたら、近くに居た坂出モナが寄ってきた。
「何の注射?」
と訊くので、山村は
「性転換して女の子になれる注射だよ。この注射を打つと、ちんちんが小さくなり、やがて無くなって、代わりに割れ目ちゃんができるんだよ」
などと言う。
「えー?だったらモナにも打って下さい。私、女の子になりたい。女の子になって、お嫁さんになるの」
「よしよし。君も男になるのはもったいないから、女の子に変えてあげよう。女の子になればきっと素敵な彼氏が見つかるよ」
などと山村は言って、モナにも同じ注射をした。
「全然痛くない。山村さん、注射上手いんですね」
「私、以前、お医者さんと結婚していたから。看護婦の資格持ってるよ」
「へー。そういえばそんな話、スピカちゃんから聞いたこともあった気がする。ところでこれ本当は何の注射だったの?」
とモナが言うので
「コロナのワクチンだよ」
とセシルが答える。
「おお、それは素晴らしい」
とモナは喜んでいた。
(何の注射かも知らずに打ってもらうのはさすが“アンドロイド”モナである。彼女は部活の遠征で全員食中毒になった時に1人だけピンピンしてたとか、インフルエンザで学級閉鎖になった時も1人だけ無事だったという伝説もある。ひょっとするとコロナの“ウィルス”の濃縮液を飲んでも平気かも)
しかし2人はワクチンを接種していたおかげか、数日後に2人とも参加していたバラエティ番組の撮影でクラスターが発生したのだが、2人とも無事であった。山村もセシルに接種しておいてよかったと思った。
ちなみに山村は、セシルが男の娘だと聞いていたので、完全な女の子にしてあげようと思ったのだが、近くで観察して、既に完全な女の子になっているのに気付き「誰のしわざだ?千里か?」などと考えていた(山村は勘が悪い)。
その日仕事が終わってから、ホテルで一息ついた後、夜食を買いにコンビニまで行った時、恵真は母から「仕事の件は話し合い中。お金は振り込んでおいた」というメールが来ているのに気付いた。
お金振り込んでもらえたのなら少し降ろしておこうかなと思い、コンビニのATMで残高を確認すると30万もある。こんなに良かったのかなあと思いながら取り敢えず5万引き出した。この日は夜食に牛丼を買った。また予備の生理用品が無いことに日中思い至っていたことを思い出し、取り敢えず昼用ナプキンとパンティライナーを買っておいた。ホテルに戻ってから、パンティライナー2枚とナプキン1枚を常用のトートバッグに入れた。
その日、瀬那が学校で休み時間トイレの行列に並んでいたら、個室に入っていたクラスメイトの磨美が
「ねぇ、誰かナプキン持ってない?急に来ちゃった」
と声を挙げる。
列に並んでいた子たちが顔を見合わせるか、誰も手元には無いようだ。教室に戻ればあるのだろうけけど。瀬那は
「私持ってるよ。あげるね」
と言うと、制服の内ポケットに入れていたナプキンを、トスするように、彼女の入っている個室に投げ入れてあげた。
「サンキュー!助かった」
と磨美の声。
「瀬那ちゃん、投げるのうまいね」
とクラスメイトの緋代。
「え?このくらいは誰でもできない?」
「いや、わりとできない」
「私が投げたら隣の個室に飛び込みそう」
などと由梨。
「ねね、瀬那ちゃん部活入ってたっけ?」
と緋代。
「コーラス部だけど」
「入ってるのかぁ!今週末、何かある?」
「特に無いけど」
「だったら、うちのソフト部で助っ人してくれない?こないだ1人やめてしまって、今8人しかいないから、助っ人探してたのよ」
「え〜〜〜!?」
青葉・ケイ・ラピスラズリによる作曲家さん訪問は続いていた。
1T月11日(水)は都心の白金(しろかね (*3))にある水上信次さんの御自宅マンションを訪問した。
(*3)「しろがね」と読む人も多いが、正しくは「しろかね」。
先生はとても常識的な人で、2日間個性の強い先生が続いた後だったので、青葉もラピスラズリもリラックスしてインタビューすることができた。
11月12日(木)は千葉市に三宅行来先生の御自宅を訪問した。ここは郊外にあるこぢんまりとした(*4)とした家である。ヘーベルハウスだが、ふつうの軽量鉄骨ではなく少し高い重量鉄骨造りらしい(ヘーベルハウスは3階建ては重量鉄骨だが2階建てでも軽量ではなく重量鉄骨を選択可能)。これは防音構造にするためには、軽量鉄骨では無理だからと説明なさっていた。
(*4)「ちんまり」に接頭辞の「こ」が付いたものなので「こぢんまり」が正しい。「こじんまり」と書くのは明確な誤り。
先生はワンティスではドラムスを担当しておられたものの、ワンティスの活動休止期間中に一時期編成していたバンドではギターを弾いておられて。どちらも演奏の評価は高かった。
しかしドラムスを打つだけあり、腕が太い。腕の力こぶも凄く、体重の軽い東雲はるこ(35kg)を腕にぶらさげてみせた。毎日腕立て伏せ300回やっているという話である。
青葉が「ほんと男らしい」と褒めると嬉しそうだった。ちなみにラピスラズリの2人は三宅先生の性別を知らない。視聴者もほとんどの人が知らないだろう。
近年では多くのポップス歌手に楽曲を提供しておられ、一時期フェイドアウトしかかっていたAYAなども、三宅先生の曲で完全に再生した。AYAが長年所属していた事務所から先日独立したのも、結婚問題もあるが、基本的にはポップスシンガーとしての評価が高まっているのを背景にしたものでもあろう。
インタビューでは、やはりAYAを含めて、最近三宅先生の歌を歌っている幾人かの歌手のことも話題にした。
町田朱美は先生の雰囲気から、てっきり(女性と)結婚しておられるものと思ったので
「今日は奥さんは外出ですか」
と尋ねた。
「ああ。僕たちはリモート結婚なんだよ」
「リモートなんですか!?」
「妻の家は川崎市にある。それで普段はメールのやりとりだけ。そもそも結婚する時にさ、僕がプロポーズしたら、結婚式無し・指輪無し・入籍無し・同居無し・浮気自由なら結婚してもいいというから、それでもいいと言って結婚したんだよ」
「それ結婚なんですか〜?」
「実際には結婚式だけは挙げた。2人だけでだけど。そしてお互いに夫婦であるという意識を持っているだけ。だからお互いに浮気はするけど、誰かを自宅に連れ込んだりはしない。浮気は外で」
「そこがボーダーラインですか」
と朱美は言っているが、青葉もケイも「雨宮先生は女の子を家に連れ込んでる気がするぞ」と思った。
「そして毎年1回、結婚記念日の頃にお互いのスケジュールを空けておいて、1週間くらい一緒に旅行するんだよ」
と三宅先生は言う。
「それ凄く素敵です!」
と朱美は感動している。
「この旅行専用のRX-8を持っていて、それ以外の用途には使わないんだよ。今年はコロナの折、ドライブして一週間車中泊を続けたけどね」
「大変でしたね」
「でもRX-8のリアシートって狭いですよね」
「狭いからいいのよ」
「なるほどー」
11月13日(金)は、ワンティスのメンバーで5人目の作曲家である海原重観先生を横浜市内のマンションに訪ねる。先生はこのマンションは住居としてだけ使っておられて、音源制作も創作も全て市内のスタジオでなさっているらしい。そのスタジオの部屋は年間で貸し切りにしており、海原先生の専用スタジオである。
「僕は今はやりのDCM(*5)が苦手だから。音を出さないと発想が浮かばない古い人間なんだよ」
などと自嘲気味に言っておられる。
(*5)きっと「DTM」の誤り。
この先生は“飲まない限りいい人”なので、監視役として海原先生に睨みの利く★★しレコードの加藤部長が同席してくれた。加藤部長はワンティスの2代目担当者である。しかし加藤さんがいるこどで、海原先生は昔話に花が咲き、加藤さんから「その話はまずいよ。やめとこうよ」と言われる場面も多数あった。(後でディレクターさんからケイにたくさん相談があった!)
独身と聞いていたのだが、子供の写真のフォトフレームがあるのに町田朱美が気付いてしまった。
「お子さんですか?」
「うん。今小学1年生なんだよ」
「可愛いさかりですね」
「可愛いよ。今年は入学式が延期されたし、学校もなかなか始まらなかったから、ランドセルしょって家の中で、早く学校に行きたーいとうるさかったよ」
「大変でしたね!」
海原に子供がいることは、この番組で実は初公開となった。加藤さんはその件は「まあいいか」みたいな顔をしていた。マスコミの多くは海原先生の影響力に忖度!して詮索しなかったが、ネットでは母親は誰だろう?と随分その後、話題になった。しかし誰にも分からなかったようである。
実は海原と長野支香の子供で、後の女優・美濃山淳奈。つまりアクアの本当の従妹であった。この子ができたことで、海原は前妻から離婚された(慰謝料を5億円払うはめになった)。しかし支香とはその後、恋愛関係自体終了したので、結婚しなかった。海原は時間が取れると浦和の支香の家に行って娘と遊んでいるし、ご飯なども食べていく。遅くなると泊まっていくこともあるが、支香とのセックスはしない(と本人たちは言っている)。海原と支香の関係は今は友人のようなものである(でもアクアには自分のことを「叔父さん」と呼ばせている)。
なお海原と前妻の間には子供はいなかった。
11日に雨宮と話し合った恵真の母は、その日午前中2時間ほど話し合った上で、雨宮が事務所の社長も入れて話し合おうというので、夕方また会うことにして、いったん別れた。それで頼まれていたパスポートの申請に行こうとしたのだが、恵真の本人確認書類が足りないことに気付いた。
通常の中高生のパスポート申請の場合、マイナンバーカードが無い場合は健康保険証と生徒手帳で本人確認をする(小学生以下は母子手帳)。ところが恵真の生徒手帳は「浜梨恵馬・男」と記載されている。そこで母は一度市役所に行き、名前と性別の訂正が終わっている恵真の戸籍抄本を取った。そしてそれを持ってU高校に行き、恵真が戸籍を変更したことを説明して、新しい生徒手帳を発行してくれと言った。校長は驚いたが、すぐに処理をしてくれた。それで、この時点で、浜梨恵馬の生徒原簿は、浜梨恵真・女という記載に変更され、新しい生徒手帳も発行してもらえた。
それで母はその新しい生徒手帳を持ってパスポート申請に行ったのである。
しかしここで恵真がちゃんと女子生徒として学校に登録されたことが、翌日効いてくる。
夕方近くになってから、恵真にお金を貸してと言われていたことを思い出す。給料日までまだ遠いしと重い、スマホから取り敢えず3万振り込んだ(つもり)。
(ここで桁を間違って30万振り込んでしまったことに母は恵真から返してもらうまで気付かなかった!:定期預金があったので自動貸出しになっていた)
11月13日(金).
この日の深夜、恵真が仕事を終えて帰宅すると、母がホテルの部屋で待っていた。そして言った。
「あんた転校させることにしたから」
「え〜〜〜!?」
母と雨宮先生、それに事務所の社長さんも入って3日がかりで話し合い決めたのはこういうことだったらしい。
(前提)アクアの代役の子がダウンしているため、とにかく手が足りないし、今こなさなければならない仕事を実際にこなせるのは松梨詩恩・米本愛心・羽鳥セシルの3人のみ。現在松梨詩恩と米本愛心も同様に超多忙状態になっている。これは多分2月頃まで続く。
・羽鳥セシルは、移動時間を節約して疲労を減らすため、そして万が一の単位不足による留年を防ぐため芸能人の多い都心の高校に転校させる。
・当面の間、午後からだけ仕事をしてもらう。午前中は必ず学校に行かせる。
・夜は年末年始に限ってはドラマの撮影に限り24時までは黙認するが、0時すぎまでは使わない。
「それで制服は8月にU高校の制服を作った時の寸法控えがあったから、それと同じ寸法で作ってもらうことにした。日曜の夕方までに作ってもらえるらしいから、それ私が受け取っておくよ」
「凄い速いね!」
「割増し料金弾んで、超特急仕上げらしい」
「ひゃー。大変そう」
「まあ今はオフシーズンだからね」
「でも転校って、試験とかは無いの?」
「ああ、代役の女の子を今日学校に連れて行って試験受けさせた」
「そんなの、いいの〜〜?」
「あと、あんたは女子として転入するから」
「分かった」
「U高校に昼間行って転出するからと言って、U高校の在学証明と履修済みの授業とかの書類をもらってきたから。その書類の名前と性別をちょっと訂正しといた」
「すごーく違法っぽいんですけど」
恵真にはそんなことを言ったが、どちらもジョークである!
C学園はアクアのマネージャー山村がコネを使って転入をお願いしたので、恵真の母が提出した、U高校での成績表(成績より生活態度等が重要。非行歴などは無く。部活に入っていて関東大会まで行っているのも評価された)を見て、無試験で編入できることになった。また恵真の書類は、ちゃんとU高校でも女子になっていたので、女子校であるC学園は何の問題もなく恵真を受けいれてくれたのである。
U高校の校長は性別の変更は大変なことなので、騒がれないように転校したいのだろうと勝手に解釈してくれたようであった。校長は恵真が2学期になって以来女子制服で登校していたことを知らない!
恵真の母は普段から本当のこととジョークとの区別が分かりにくい。
11月14日(土)の早朝に、滞在している京王ブラブの部屋に、訪問者がある。雨宮先生と一緒にやってきたのは27-28歳くらいの女性であった。
「お早う。アルスちゃんを連れてきたよ」
『風の中のココ』の作曲者・桜蘭有好であった。
「あれ?」
「セシルちゃん、また会ったね」
と桜蘭有好先生は笑顔である。
「お早うございます。大宮万葉先生・・・ですよね?」
「うん。そういう名前もあるよ、セシルちゃん」
「あんたたち知り合いだっけ?」
などと雨宮先生は言っている。
「9月に能登と旭川に写真撮影に行った時にご一緒したじゃないですか。雨宮先生も」
とセシル。
「そうだっけ?」
と雨宮先生。
「先生、ボケてきてません?」
と桜蘭有好=大宮万葉=金沢ドイル=青葉は言っている。
「うーん。記憶がない。不覚!!」
と雨宮先生は言っていたが。
ついでに、雨宮先生は、この先生を“琴沢幸穂先生の妹”と言ってたけど、大宮先生のほうがお姉さんだよね?などとセシルは内心思った。
「桜蘭有好こと大宮万葉君は、今週東京でずっとラピスラズリと一緒に番組の撮影をしていたんだよ」
「わぁ」
「それで今日、富山県に帰る前にセシルに会ってもらおうと思って連れてきた」
「お忙しいんですね」
「先週の週末は和歌山で水泳の社会人選手権に出ていて、その後、東京に来た」
「わあ、水泳をなさるんですか」
「金メダル2個取ったらしいよ。ついでに東京五輪の代表に既に確定している」
「すごーい!妹さんはバスケットの日本代表で、スポーツ姉妹なんですね」
とセシルが言うと、大宮先生は一瞬変な顔をし、雨宮先生はなぜか笑いをかみ殺していた。
この日の朝は桜蘭有好=大宮万葉先生と1時間くらい楽しくお話ししたが、途中で仕事が忙しくてと言ったら、大宮先生が手を握ってくださった。するとなぜか疲れが取れていくような気がした。また心の中にあった色々な不安が消えて行く感じで、この後、元気に仕事ができるようになる。
翌15日(日)の早朝、今度は雨宮先生、琴沢幸穂先生、22-23歳くらいの吉田和紗というマネージャーさん、それに母がやってきた。どうも朝から夜中まで仕事があるのでプライベートな用事?は早朝ということになっているようだ。
「君の住まいを決めたから」
と雨宮先生。
「それ、私ずっとホテル住まいなのかなと思ってました」
「私が借りている物件なんだけどね。今空いているから、良かったら使ってもらえないかと思って」
さ琴沢先生は言っている。
「へー」
「君が月曜から通うC学園は赤羽駅のそばにあるんだけど、琴沢幸穂が借りている物件は、赤羽駅の隣の尾久駅の近くなんだよ」
「隣駅ですか!」
「まあ、コロナが落ち着くまでは電車禁止だから学校まで誰かに送らせるけどね」
「分かりました。それお家賃とかは?」
「無料でいいけど条件がある。それは現地で説明するよ」
゛はい」
琴沢先生と雨宮先生は忙しいということで離脱する。恵真は荷物をまとめ、母・吉田マネージャーと3人で手分けして持ち、部屋を出た。ホテルをチェックアウトし、吉田マネージャーの車(日産のエンブレムが付いていた。背面に225xeという記号が書かれているのが車種か何かだろうか?)に乗り、尾久に移動する。
中規模のマンションである。車を地下の駐車場に入れ、1階に上がる。
「広いですね。部屋が3つもある」
「この真ん中の窓の無い部屋。ここで寝るの推奨。ここがいちばん落ち着くんですよ」
「じゃそうしようかな」
「ただしこの部屋ではセックスはして欲しくないんですよ。オナニーはOKです」
「セックスとかオニーとかしません」
「高校生ですしね」
(セックスは別として“男子”の高校生なら、たくさんオナニーすることが3人とも意識に入っていない)
「もし彼氏が出来てセックスする時は他の部屋で」
「分かりました」
「それと大事なのはこれ」
と言って、吉田マネージャーは部屋の奥の本棚の上にある神棚の前に置かれた桐の箱を取る。
「これは鏡なんですけど、この鏡の向きを動かさないでほしいんです。中身を見る程度は構いませんが」
と言って箱を開けて見せてくれた。
銀白色の美しい金属鏡であった。
「銀の鏡ですか?」
と母が訊くが
「銀ではない気がする」
と恵真。
「これは洋白(*6)の鏡です」
「なるほど」
「ただ一般の洋白よりは白銅に近い組成らしいです。私もよく分かりませんが」
「ああ」
(*6)“洋白”は“洋銀”の別名。“洋”の名前は明治になってから西洋からもたらされた合金だからであるが、ヨーロッパでは中国から伝わった合金という意識があり、中国語の呼称 paktong (白銅)がそのまま通じたりする。“白銅”という単語については実はかなりの混乱がある。
・洋白と洋銀は同じ概念の別名と考えて良い。
・現在日本で言われている白銅と洋白(洋銀)はヨーロッパではあまり区別されておらず、Nickel Silver あるいは Paktong:白銅) と呼ばれる。基本的には、銅とニッケルの合金。但し亜鉛を加えることもある。
(中国から伝わった後、ドイツで量産されたので German Silver, New Silver, Argentan, Alpacca などとも呼ばれる。アルパカというのは German Metalのスペイン語訳)
・楽器の素材として使われる場合、日本では、亜鉛を含むものを洋白、含まないものを白銅と呼んでいるようである(メーカーによっても違うかも−組成もメーカーごとに違うかも)。洋銀の楽器は白銅の楽器の倍以上の値段がする。
・白銅貨と呼ばれる百円玉の組成はCu75%-Ni25%
・洋銀貨と呼ばれる五百円玉の組成はCu55%-Zn27%-Ni18% (専門家はニッケル黄銅と呼ぶ)
・神社等に納められる白銅鏡は、ニッケルではなく、銅と錫の合金。
(Cu:Copper(cuprum):銅, Zn:Zinc(zincum):亜鉛, Sn:Tin(stannum)錫すず、
黄銅=真鍮:brass:銅と亜鉛の合金/青銅:bronze:銅と錫の合金−白銅との差は比率問題)
「動かさないつもりでも動いてしまった場合は?」
「基本的には西を向ければいいんですけど、分からなかったら私を呼んで下さい」
「分かりました」
「この鏡を置くために琴沢先生はこの部屋を借りておられるんですよ。でも誰かが住んでないといけないらしくて。それで誰か住んでくれる男の娘を探していたらしくて」
「男の娘がいいんですか?」
「セシルちゃんのことを聞いていたので、住まいを探しているならぜひということで」
「へー!」
それでセシルはこの尾久のマンションに住むことになった。引越はこの後、母がしてくれるということで(実際には主力は弟の香沙)、母は車を置いている四谷の駐車場にポスト(駐車場代も吉田さんが払っていた)してから、恵真は吉田マネージャーの車で今日の仕事先に向かった。
土日の仕事を終えた後、11月16日(月)から恵真はC学園中学高校の4年生に編入されて通学することになったが、ここが女子校と知って仰天する。さすがに“ボロを出さずに”女子高生できるかなあと不安になる。
しかし登校初日に、同じく芸能人の生徒、秋田利美(白鳥リズム)、栗原リア、島原世令菜(中村昭恵)、近松恭佳(ビンゴアキ)、田中蘭(松元蘭−この時期はアイドル歌手をしていたが、後にローズ+リリーの第3次バックバンド:フラワーガーデンズのメンバーとなる)、などといった子と知り合う。特に利美ちゃんとは相性の良さを感じた。彼女も男の娘?なのかなと恵真は思った、
この日はこの利美・リアと一緒に午後から仕事先に行った。恵真は、利美が紅白にも出場が決まっているとリアから聞いて驚いた。全然そんな感じではないのに。利美はごく普通の女子高生である。それに男の娘(と恵真は思い込んでいる)の利美ちゃんでもそんな人気歌手になれるのなら、自分もこうやって女子高生芸能人をしててもいいのかもと思った。
でも利美ちゃんを見ていて、やはり売れる子は人当たりもいいんだなあ。そういえば映画の撮影で会ったアクアちゃんも、凄くいい感じの人だったもんなと、恵真は思った。
その日、仕事が終わった所で、雨宮先生が放送局に来て「家まで送るよ」と言って送ってくださった。
放送局から尾久のマンションまでは15分ほどで到着するのだが、先生は
「家にちょっとあげて。渡したいものがあるんだ。絶対何もしないから」
と言う。雨宮先生は「商品には手を付けない」と言っていたしと思い、マンションの中に入れた。
すると雨宮先生はフルートケース?を恵真に渡した。
重い!
「何です。この重さは?」
「開けてみて」
中に入っていたのは白いフルートである。
「もしかしてプラチナのフルートですか?」
「よく分かったね」
「これは一体?」
「そのフルートを今月中に吹きこなせるようになって欲しい」
「何かそういう仕事があるんですね」
「うん。プラチナのフルートを吹く美少女フルーティストの役を演じてもらう。それにはこれが本当に吹きこなせないといけないから」
「分かりました。頑張ります」
「そのフルートはしばらく預けておくからこのマンションの中だけで練習して」
「こんな高そうなフルート、怖くて持ち出せません」
「うん。それがいい」
しかしセシルは毎日夜中に仕事が終わって帰宅してから、このフルートを練習した。最初はなかなか思うように吹けなかったものの、だんだん気持ち良く吹けるようになっていく。そして吹いていると、その日の仕事の疲れが取れていくような気がしたのである。
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【春白】(3)