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■新生・触(5)

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9月12日の水曜日に東京に戻り、その日の内に年金、健康保険、運転免許証、などの性別変更の手続きをした。また銀行やクレジット関係にも電話して変更をしてもらったり、用紙を送ってもらったりした。
 
翌木曜日には店に顔を出すと、まずは麻衣に
「私が不在の間、チーフ代行お疲れ様でした。そして結婚おめでとう!」
と言う。
「ありがとう。でもサブとチーフではこんなに違うのかと改めて思ったよ」
「まあ、チーフは逃げられないしね。いろいろ面倒なことにも関わらないといけないし」
 
和実は盛岡のショコラでもチーフをしていたので、そのあたりはある程度慣れていたが、そういうの未体験だと、結構大変であったろう。
 
「結構トラブル関係、若葉に処理してもらってた。あの子、肝が据わってるから」
「ああ、物事に動じない性格だよね」
 
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もう完全に内装なども終わり、保健所の検査も完了した銀座店にも顔を出す。ここしばらく永井は主としてこちらに詰めていたようだった。
 
「お昼のメニューにこういうの作ろうと思ってね」
と言ってポップを見せる。
 
《新生ランチ》
 
と書かれている。
 
「しんなまランチ? 社長、ビール付きのランチ始めるんですか?」
と銀座店サブチーフに就任する秋菜が尋ねる。
 
「いや『しんなま』じゃなくて『しんせい』だよ。うちはアルコールは出さないよ」
と永井。永井は本店ではだいたい「店長」と呼ばれているのだが、新宿店・銀座店では店長に任命されている悠子・和実と紛らわしいので「社長」と呼んでと言っていた。もっともそれでも結構「店長」とも呼ばれている。
 
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「しんせいって?」
「実は元々うちの店は銀座で始めたんだよ」
「へー」
「当時はエオン Aeon の名前だったんだ。でも客が全然入らなくて」
「ああ」
「家賃も銀座は結構高かったしね。そんな時、神田で安い物件があるんだけど、という話があって神田に移転して、その時店の名前を運気を変えるため v を入れて エヴォン Aevon にしたんだ」
「それで成功したんですね」
「まあ成功したとまでは言えないけど、何とか採算が取れるようになったね」
「なるほど」
 
「それで発祥の地・銀座に戻ってきたから新生。まあ場所自体はこことは違うけどね。あとは震災からの新生の意味もある。ランチに入れるホットケーキの小麦粉は岩手県産、ホットケーキ・オムレツの卵は宮城県産だから。もちろん放射能チェック済み。検査報告書を店内に掲示する」
「それならお客様も安心でしょうね」
 
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「あと、この銀座店で使う食器も茨城県の笠間焼とか福島県の会津塗りとかですしね」
「そうそう。そのあたりは和実ちゃんがボランティアで知り合った東北の人たちとの人脈で調達した」
「わあ」
 

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午後からは音響会社の人が来て、店内の音の響きをチェックする。生演奏はするものの、それでテーブルに向かい合っている客同士が会話が聞こえなくて困るという状態にはできない。永井は最初グランドピアノを置きたいと考えたようだが、その問題があって諦め、結局クラビノーバ(電子ピアノではあるがグランドピアノと同じ物理的なハンマー機構を持っている。つまりグランドピアノの弦を電子に置換した楽器)を設置し、店内に全部で10個の小型スピーカーを設置した。また壁には吸音板を貼っているので、あたかも広いホールで聴いているかのような音の響きがあった。
 
また、弦楽四重奏もサイレント・ヴァイオリン、サイレント・ヴィオラ、サイレント・チェロで演奏してもらう(これも店で用意した)。フルートは「サイレント・フルート」が存在しないので生の音をマイクで拾うことになる。その場合、生の音の響きとスピーカーから出る音の響きを調和させるのは結構大変である。
 
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この日は実際に演奏してくれる演奏者の人たちにも何人か来てもらい音を出してもらって、音量や残響などを確認していた。
 
「基本的にステージの近くは音量が比較的大きく、離れるにつれ小さくなるように設計してるんだよね」
「スピーカー通して流すのでも、そうする訳ですね」
 
「そそ。むしろそのスピーカーの配置で音の立体感を演出している。スピーカーから出る音にはセンチ秒単位の遅延を入れてるからね。それで、あまり自分たちの会話を他人に聞かれたくないと思う人はステージ近くの席、逆に多人数でおしゃべりを楽しみたい人は離れた席に就いてもらえばいいし」
 
「ああ、それはいいですね」
「こんな面倒なことしなくても、店内全体に通るスピーカーを1個置く手もあるんだけど。そんな音響で良いのなら生演奏する必要無い。有線で構わん」
「いや、これ結構臨場感がありますよ」
 
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弦楽四重奏、ピアノ+フルート、フルート+ヴァイオリンなど幾つかのケースでのミキサーの設定を音響会社の人が書いてくれて渡された。これを店のスタッフが操作することになる。和実は音響会社の人に教えられてミキサーに触り音の変化を確認して「おお」と声を上げた。
 
「実際に耳で聞いてみて違和感があったら微調整してください。最後は人間の耳がいちばん確かですから」
と技術者さんに言われる。
「はあ」
 
「あと微妙な場合、何か振動しやすいもの。例えばテーブルに立ってるメニューとかに指を触れてみて、その振動で確認する手もあります」
などとも言う。
 
「へー!分かりました。やってみます」
と言って秋菜にも機器を触らせて体験させておいた。自分と秋菜が主としてこの装置を操作することになるはずだ。
 
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「でも歌のある曲はやらないんですね?」
「うん。今のところそのつもり。歌が入っていると歌詞が、ここで色々企画を練ったりする人の思考を邪魔するんだよ」と永井。
「確かに」
 
エヴォンには、コーヒーを飲みながら色々仕事の企画や構想を練りに来る人たちもかなり多い。そういう客が居心地のよいようにする必要がある。お店とそういう常連さんたちとの間では「長時間居る場合は1時間半〜2時間程度に1回追加オーダーする」「長居する場合壁際の席を使う」などというのが、暗黙の了解として成立していた。時々「先輩の常連」から「後輩の常連」にそういう暗黙のルールが伝達されているのを見かけることもある。店としては長時間滞在自体は問題にしておらず、中には朝から晩まで居て、テレビ番組の脚本を書きながらモーニングサービスからランチ、ディナーまで食べていくライターさんとか、ここで難しいプログラムの論理設計をしていくSEさんとかもいる。
 
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なお、生演奏をするのは、昼の12時、(14時)、(16時)、18時、20時の1日5回で(14時と16時は金土日祝のみ)、1回約45分である。この「45分」という微妙な数字は、昼休みに来ていた人が、生演奏の終了で「そろそろ会社に戻らなくちゃ」
と思う時間を採用している。生演奏をしていない時間帯はミュージックバードのクラシックチャンネルを流す。
 
(ラジオ放送を店内に流すのはJASRACへの支払不要。但し放送を録音したものを流してはいけない。CDを流す場合は包括契約でないのでJASRAC管理曲であれば曲目の報告と支払が必要になる。実際にはCDを流す予定は無い)
 
「これ、ミュージックバード流してても臨場感がある!」
「ふふふ」
 
「だけど私少しクラシック勉強しましたよ」と秋菜が言う。
「ほほお」
「クラシック百曲選ってCD買って来て聴いてたら、結構知ってる曲があるんですよね」
「ああ、CMとかで流れてたりするしね」
「私、高校時代にベートーヴェンの『白鳥の湖』聴いて、これシューベルトだったっけ?と言ったくらいの人ですから」
と秋菜が言う。和実は訂正すべきかどうか悩んだ。永井が忍び笑いをしていた。
 
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この日は店内に設置した無線LANの電波の状況も確認した。ここに籠もって仕事をする人たちにとっては、無線LANと電源は必須なので、エヴォンでは各店とも電源はパソコンあるいは携帯電話やMP3レコーダーなどで使用する限りは無料で貸し出しているし、BBモバイルのアクセスポイントを入れているので、会員になっている人はネットも自由に使うことができる。無線LANは最初独自に入れて完全無料にすることも考えたのだが無料のアクセスポイントにしばしばセキュリティに問題がある所も多いので、お客様側の安心感を優先して、大手の無線LANを導入したのである。
 
無線LANがあるので、しばしばゲーム機を持ち込んで、熱心にやっている人も見受けられる。メイドの中にも休憩時間中、モンハンとかどうぶつの森とかしている人もいる。和実も結構誘われたが「私、ゲーム分からない」と言って逃げておいた。やり出したらハマるのが見えているので、取り敢えず逃げておくのである。
 
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オープン前日の14日には、みんなで麻衣の送別会をした。お客さんの少ない時間帯に本店のパーティールームに麻衣と店長を座らせ、お茶やお菓子などを用意して、たくさんお祝いと冷やかしを言う。ふたりとも凄く幸せそうな顔をしていた。新宿店のスタッフも交替で来て、参加した。それで実際には送別会というより、ふたりの結婚のお祝いという感じになった。
 
「とりあえずふたりの馴れ初めを暴露してください」
と瑞恵が言う。
 
「あ、えっと。私がオフの日に吉祥寺の駅の近くを歩いていたら急に雨が降ってきて。困ってたらちょうどそこに永井さんが車で通りかかって」
「おお、雨の日の出会いだ」
「店長のこと何て呼んでるんですか?永井さんじゃないよね」
「あ・・・えっと、たっくんかな」
「おお!たっくん!」
 
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「どんな所でデートしてたんですか?」
「昼間は仕事があるからだいたい深夜に。高速を1時間くらい走って辿り着いた先のSAで食事しながらおしゃべり」
 
「じゃそのままSAの駐車場でお泊まりH?」
「えっとSAは人が多いからPAで」
「あ、和実ちゃんたちと同じだ」
「ちょっとちょっと」
 
「結婚式はいつですか?」
「12月22日土曜日。友引」
「夫婦の日だ」
「うんうん、そうなの。それで毎年覚えておけるかなと思って」
「店長は翌年には忘れているというのに1リラ」
「来年はクリスマスイブになってから結婚記念日を思い出すというのに1ペソ」
「うーん・・・」
 
「妊娠してますか?」
とダイレクトな質問。
「あ、えっとちゃんと避妊してくれているので。子作りは籍を入れてからにしようと」
「おお、しっかりしてる」
 
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質問には主として麻衣が答え、店長は終始照れている感じであった。
 

「いよいよ明日オープンか。話を聞いた時はまだ半年先だしと思ったけど、結構あっという間だったね」
とその日久しぶりに午前になる前に帰宅した淳は和実と遅い御飯を食べながら言った。
 
「前半は私自身、診察で富山と毎月往復する度に『あれ?もう1ヶ月経った』と思ってたけど、手術受けた後は、なんかあっという間だったね」
 
「でも店長だとチーフとはまた色々違うの?」
「その店の責任者だからね。会計とかもしないといけないし」
「新規採用者の面接とかもするの?」
 
「しない。面接は基本的に本店で永井さんがやる。あと労務管理は各メイドが自分で携帯やスマホで働ける日と時間帯を登録したら、コンピュータで計算して、一週間の勤務予定表が自動でメールされてくるシステムだから、急な休みの連絡受ける程度だし。だから、名目上は店長でも、いわゆる管理責任者じゃないよ。給料は時給が他のメイドより高いけど基本的には歩合制だし。時間外手当ももらえるし」
 
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「じゃファミレスの店長なんかと同じ扱いか」
「そうそう。食品衛生責任者にはなるけどね」
 
「ああ。あれ講習とか受けなきゃいけないんだっけ?」
「私は調理師免許持ってるから問題なし」
「調理師免許? そんなの持ってたんだっけ?調理師学校とか行かなくても取れるの?」
「調理師学校出たら無試験で免許もらえるけど、学校に行かなくても調理の実務経験が2年以上あれば、試験受けて取れるのよ。私、高校1年の時からずっと喫茶店で調理に携わってたから。実務経験既に5年」
 
「へー! 試験の実技はお魚をさばいたりするの?」
「実技は無いよ。ペーパーテストだけだよ」
「そうだったんだ!」
 
「まあ、お魚はさばけるけどね。でも、エヴォンにしてもショコラにしても、ホールスタッフとキッチンスタッフの区別が無いから。全員調理までやらされてるから、調理師免許を取得してる子多いよ。麻衣や若葉も持ってるし」
「へー!」
 
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「でも調理師って資格は、食品衛生責任者になれるくらいしか意義が無い資格でもある」
「ほほお」
「調理師の資格を持ってない者が調理師を名乗ってはならないという名称独占規定はあるものの、調理師の資格で無いとできない業務は存在しない」
「何だかサムライ商法っぽい」
「ね? 国家的なね。でも、うちの姉ちゃんが持ってる着付け技能士なんかもそうだよ。着付け技能士でないと出来ない業務は存在しないから」
「ああ」
「婚礼衣装の着付けをするには、むしろ美容師の資格が必須になってるし」
 
と言いながら、和実は姉から美容師の資格を取らないか?と言われたことを思い出していた。
 

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