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(C)Eriko Kawaguchi 2016-11-11
雨宮を見た老人は言った。
「久しぶりに日本語を聞いた」
「これ、東堂先生からのお手紙です」
と雨宮は言って手紙を渡す。
それを開けて老人はしばらく眺めていたがやがて言う。
「読めん」
「へ?」
「これ読めるか?」
と言って老人は手紙を雨宮に見せる。
「私にも読めないですね」
と雨宮も答える。
手紙はあまりにも達筆な連綿草書体で書かれている。
「でも多分、そろそろお仕事しないかということだと思いますよ」
「それなら答えはノーだよ。それに今更僕が出る幕も無いだろう。東堂一派は、上島君が頑張っているみたいだし、間島・田中ペア(ゆきみすず・すずくりこ)が良い曲書いているみたいだし、木ノ下大吉も頑張ってるし、何より僕の弟子の東郷誠一が物凄い」
「鍋島先生がお亡くなりになったのはご存じですか?」
「木ノ下がわざわざここまでやってきて教えてくれた。それで香典代わりに大根を10本渡した」
雨宮は大根を10本受け取った木ノ下大吉が困ったような顔でそれを抱えて山道を歩いている様を想像して、笑いたくなったが我慢した。
「貨幣経済から隔絶した生活なさっているみたいですね。自給自足ですか?」
「夏の間は畑を耕してるよ。晴耕雨読の日々だね。冬は魚を釣ったり夏の間に備蓄した野菜とか食べてる」
「でもその木ノ下先生が今ちょっとやばいんですよ。あれは精神的に限界に来ていると思う。いつ破綻するか分かりませんよ」
と雨宮は言った。
「悩んでいる感じだったから気晴らしに女装でもせんかと言っておいたのだが」
「はあ、女装ですか」
「あいつ、まだ男してる?」
「木ノ下先生の女装は見たこと無いです。それに奥様もいらっしゃるし」
「奥さんなら、雨宮、君にだっているじゃん」
「私は普通の男ですから」
「普通のね〜。モロッコかどこかに行って、女になって出直す気は?」
「それ木ノ下先生にお手紙でも書いて言ってあげてください」
老人はしばらく考えていた。
「木ノ下には手紙を書こう。持って行ってくれる?」
「ありがとうございます。たぶん東城先生からの手紙見たら、凄く勇気づけられると思います」
「女装の魅力をたっぷり書いてやろう」
「そういうお話ですか!?」
「僕も男を辞めたらすごく気持ちが楽になった。雨宮が男を辞めたのも男の重圧から逃れるためじゃないの?」
「まあそういうのは少しあるにはあります。睾丸が無くなったら嘘のように余計な闘争心が無くなりましたよ」
「まだチンコあるの?」
「ありますけど」
「取ればいいのに。それも無くなると調子良いぞ」
「東城先生は女性器は作られたんですか?」
「女性器作ったら、今度は女の性欲が出そうだから作らない。おっぱいも大きくしたりしない。僕はヌルが快適だよ。そもそも僕は女になりたい気持ちは無い。雨宮も女になる気無いんだったらヌルにならない?」
「私は女の子を抱くのが趣味なので」
「立つの?」
「立ちますけど」
「変な奴だ」
「立つのは奇跡だと医者が言いましたけどね」
「木ノ下に合いそうな女物の服つけてやってよ。代金はうちの娘に言ってもらってくれない? 娘にも伝言書いておくから」
「・・・・」
「どうした?」
「東城先生にお嬢さんがいたというのは知りませんでした」
「去勢する前夜に作ったのさ」
「それは奇跡のお嬢さんですね」
「住所書いたら辿り着ける?」
「できたら電話番号も下さい」
「俗世間ではまだ電話なんて使ってるの?」
「メールの方が盛んですけどね」
「メールって?」
「うーん・・・・。ご存じ無いですか。何と言って説明したらいいのやら」
「電話番号、変わってなかったらこれだよ」
といって東城は住所・氏名と一緒に電話番号も書いてくれた。
「分かりました。じゃ木ノ下先生には女物の服一式、お化粧用品に、女装のガイドブックでも一緒に渡します」
「去勢用のハサミもつけてあげて」
「東城先生は自分でハサミで去勢したんですか?」
「しようと思ったができなかった。結局医者に切ってもらった」
「まあその方が無難ですね。素人は止血ができませんよ」
「でも僕は復帰しないよ」
と東城は言った。
「例の曲はできたんですか?」
と雨宮は尋ねる。
「まだだ。だから、それを書き上げるまでは山を下りる気はない」
「2〜3日ここにいていいですか?」
「いいけど、粗食だぞ」
「食料は持参しましたよ」
「ほほお」
「お酒もありますよ」
「酒?」
「いかがです。久しぶりに」
「しかし僕は酒で失敗したのが現役引退したきっかけだからさ」
「だから迎え酒ですよ。これ山廃吟醸ですよ」
「意味が違う気がするが。って、山廃があるの?」
「どうです。一杯?こちらは源右衛門の杯ですよ」
「う・・・・」
天津子は湖の近くで冬の荒行をしていたが、自己を滅却して禅定していた時、近くで「助けてー」という大人の男女の声、小さな子供の泣き声、そして無粋な雰囲気の男達の荒々しい声が同時に聞こえてくるのを感知した。
なんだ?こいつら?と思い、自己滅却し空気と一体となったままの状態でそちらに向かう。ヤクザっぽい男たちが30代の男女と小さな女の子を連れ立てている。見るとヤクザたちはまず男の方を押さえつけると顔を湖面に浸けた。女はもう恐怖を越えて絶望したのか、無表情にそれを見ている。小さな女の子が泣いている。
天津子は出て行った。
何も気配が無かったのに、唐突に天津子が現れたのでヤクザたちが驚いている。驚いた拍子に男の顔を湖面に浸けていた腕の力が緩み、男は逃げるように顔を湖面から離した。まだ生きているようである。
「誰だお前?」
とヤクザのひとりが言う。拳銃を構えている。
天津子は戦闘態勢を取ると、男の拳銃に向けて念の塊をぶつける。
「わっ」
と言って男が拳銃を落とす。
天津子の戦闘態勢に、ヤクザたちの中のリーダー格っぽい男が反応した。
「お見それしました。どちらの姐御さんでしょうか?」
天津子がただものではないことを察知したのだろう。
「人に名前訊く時は自分が先に名乗るもんじゃないの?」
と天津子は冷たい視線を向けながら言う。
「私は小樺会のヤマサキと申します」
「ああ。小樺会さんか。私はそちらのタカハラ若頭とは知り合いだよ。昇陽とでも言えば通じると思う」
「若頭のお知り合いですか!でしたら、ここは見なかったことにして頂けませんか。こいつらに落とし前を付けさせないといけないので」
「そいつら、何したのさ?素人っぽいけど」
「うちの傘下の金貸しから金を借りたのに返さないばかりか、逃げ回っていたのを捕まえたんですよ」
「ふーん。そんなクズはどうなろうと知らないけど、せめて、その子供は見逃してやれない?」
「私たちも子供まで消すのはさすがに心の呵責がありますが、命令なので」
「若頭と話してもいい?」
「あ、はい。ではその話し合いの間、少し待ちます」
それで天津子はタカハラ若頭に電話を掛けた。
「どうも。こんにちはー。昇陽ですけど。はいはい、その件はもう大丈夫ですよ。あちらは二度と刃向かうことは無いですよ。あ、それでちょっと相談があるんですけどね。今そちらの組のヤマサキさんという方と会っているんですけど、なんか借金を返さずに逃げようとしていたクズの夫婦を始末するとかいう件で。ああはい。そんなの誰にも言いませんよ。私たちは守秘義務がありますから。それでですね。今その夫婦を消そうとしている所で、3歳くらいの子供も一緒なんですよ。この子供は見逃してやってもらえません?」
子供は見た感じ5−6歳かと思った。しかし、できるだけ幼いことにしておいた方が温情を掛けてもらえるかもと思ったのと、そんなに小さければ親が殺されるのを見てもそれを他人に言えないだろうと思ってもらえるかもと思ったので、天津子はわざと3歳と言った。
「うーん。ダメですか?こいつらいくら借金してたんです?ああ、残金が5千万?だったら2千万くらい私が若頭にお支払いしますから、それで子供だけでも手を打てません?あ、組長と相談なさいますか。じゃ少し待ちますね」
それでいったん天津子は電話を切る。
何も無しで情けをと言うのでは「メンツが立たない」し「示しもつかない」。彼らはそういうものを重視する。それで天津子はメンツを立てるための妥協案として2千万という金額を提示してみた。小樺会は古風なヤクザなので、この手の話に乗ってくれる可能性があると天津子は思った。
「組長と相談するそうですよ。ちょっと待ってて」
とヤマサキに言う。
「分かりました」
5分ほどで電話が掛かってくる。
「あ、はい。じゃ代わります」
それで天津子が電話をヤマサキに渡す。
「はい。ヤマサキです。え?そうなんですか?分かりました。私たちはそれで依存ありません。そう致します」
と言って電話を切った。
「組長と話し合った結果、昇陽さんがそこまでおっしゃるなら、この件は無かったことにしようと」
「はい?」
「昇陽さんに免じて、2千万で手を打つから、この3人は助けてやれという命令でした」
「あ。そうなの。別にその大人2人は私はどうでもいいんだけどね」
ヤマサキが女の子の手を引いてきて、天津子に預ける。
「姐さん、ちょっとこの子を預かっててください」
「うん」
天津子はその子を保護すると。目と耳を手で覆った。
ヤマサキが夫婦の男の方を殴る。
「おい」
「はい」
「組長からの命令だ。こちらの姐御に免じて勘弁してやることにする。どこへでも自分たちで勝手に消えろ。但し誰にもこのことは言うな。もし警察とかに駆け込んだりしたら、命は無いと思えよ。警察内部にも協力者はいるんだから。今度こそ臓器抜いた上で海の底にでもコンクリート詰めで沈んでもらうからな」
「分かりました」
ヤマサキはその後、夫婦の男の方を10回くらい殴った。男は完全に伸びたようだが、女の方はその前に失神しているようだ。
「ふん」
と言ってヤマサキは天津子の方に来る。
「お手数お掛けしました。では3人を解放します」
「うん。ありがとうね。無理言って。また何か困ったことがあったらいつでも手伝うって若頭に伝えておいて」
「分かりました」
それで天津子は女の子の目と耳を覆っていた手を離し、夫婦の所に女の子を連れて行って渡そうとしたのだが・・・・
「あっ」
「逃げてった!?」
てっきり気絶していたと思った夫婦が物凄い勢いで走って逃げて行っているのである。
「助けてやると言ったのに」
「子供置いてっちゃった」
「どうします?」
「じゃこの子は私がいったん保護するよ。うちの祖母ちゃんの教会に置いてもいいし」
と天津子は言う。
教会では時々子供を育てきれないシングルマザーなどから子供を預かることがある。多くは1年程度以内に元の親が生活を建て直して引き取るか、信者さんたちの口コミで、子供が欲しかったものの出来なかった夫婦などを見つけて、里親の斡旋をしたりしている。稀に教会で成人まで面倒を見ることもある。今網走教会の事務長補佐をしている真紀子さんという女性も旭川教会で大学を出るまで過ごした人である。実は天津子が家を出たのは彼女の勧めもあった。
「ところでその子って男の子ですかね?女の子ですかね?」
とヤクザのひとりが言う。
「ん?女の子じゃないの?君、名前は何?」
と天津子がその子に優しい表情で尋ねると、その子は答えた。
「おりは」
「うーん・・・」
「なんか男女どちらでもありそうな名前だ」
「ちなみに苗字は真枝(まえだ)ですので」
「前田か。ありふれた苗字だね」
「音で聞くとありふれているのですが、漢字は真(しん)の枝(えだ)と書くんですよ」
「それは変わっている」
「君、男の子?女の子?」
と天津子はその子に訊いた。
「わかんなーい」
「分からないってなぜ?」
「まだ男とか女って意味が分かってないのかなあ」
「ちょっと触っていい?」
と言って天津子はその子のお股を触った。
「付いてないみたい。たぶん女の子」
「ほほお」
「昇陽さんは車か何かでこちらにいらっしゃってます?」
とヤマサキが尋ねた。
「歩いて来たけど。修行中だったのよ。でも子供をこんな所に置けないから山を下りることにするよ」
「よろしかったら、私たちと一緒に車で町まで出られますか?」
「ああ。じゃ乗せてって。今着替えるから」
と言って天津子は近くに置いてあった着替えのバッグを取ってくると、いきなり修行着を脱いだ。その下は裸である。
「わっ」
「お前ら回れ右!」
「はい!」
それでヤクザたちはみんな後ろを向いてくれた。
「別にいいのに。女の身体なんて別に珍しくないでしょ?」
「いえ。昇陽さんの裸を見たなんて知れたら、指詰めもんです」
「あんたたちも大変ねぇ!」
“おりは”は不思議そうな目で着替え中の天津子を見ていた。
「あ、そうそう。2千万は国債か株を売却して10日程度以内に渡すから、現金の準備が出来たら連絡するね」
「はい。若頭にお伝えします」
この手の取引は当然証拠を残さないように現金である。