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9月8日(日).
龍虎は今年も市内文化ホールの太陽ホールで、ピアノの発表会に出た。
中学生の子たちはみんな制服で出演するので、6年生の龍虎は私服で出演する最後の発表会となる。一般に女子はドレス、男子は男児用スーツを着る子が多い。そして当然、龍虎は男子なので・・・・
期待通りドレスであった!
例によって
「どうしてボクの男の子用スーツって当日になると見つからないの〜?」
などと思いながら、可愛いペールピンクのドレスに銀色のティアラまでつけてドビュッシーの『夢想』を演奏した。
テクニックに走る子の場合は別の選曲があるのだが、龍虎のように短い指でそういう曲を弾くとどうしても無理が生じる。龍虎の場合は楽曲の解釈が深いので、情緒あふれる曲を弾いた方がいいという先生のアドバイスでこういう選曲になった。
実際龍虎がこの曲を美しく弾きあげると、会場全体から物凄い拍手があり、立って拍手する人(スタンディング・オベイション Standing ovation)、「ブラーヴァ」と声を掛ける人もあり、龍虎は立ち上がって観客に向かい、ドレスの裾を持って膝を曲げる挨拶(カーテシー curtsy)をして歓声・拍手に応えた。
「龍ちゃん、凄い出来だった。あんた練習の時より本番で良くなるよね」
と先生は舞台から降りてきた龍虎に拍手しながら言った。
「ありがとうございます。自分でも本番に強いタイプかなという気はします」
「今年もコンテストに出ようよ」
「そうですね。頑張ります」
と言ってから龍虎は尋ねた。
「さっき、観客席から『ブラーバ』って声が掛かっていたけど、あれ何ですか?」
「ああ。ブラボーは分かる?」
「はい」
「ブラボー bravo は素晴らしいという意味の形容詞だけど男性形。だから女性のパフォーマーに対してはその女性形のブラーヴァ brava を使うのよ」
「ああ、女性形なんですか!」
「そうそう。龍ちゃんは女の子だからブラーヴァね」
「あはは、女の子だとそうなるんですか」
と言いながら、龍虎は冷や汗を掻いていた。
「ちなみに男性複数形はブラーヴィ bravi、女性複数形はブラーヴェ brave ね」
「へー!」
「男性と女性が混じっていたらどうするんですか?」
と傍に居た彩佳が訊く。
「男女混じる場合は、たいてい男性複数形で代表して bravi なのよね」
「ということは私と龍が連弾したような場合は?」
「それはアヤちゃんも龍ちゃんも女の子だから、女性複数形で brave ね」
「なるほどー」
と彩佳は言いながら可笑しさをこらえるのに苦労した。
2013年9月14-16日、愛知県岡崎市で、全日本実業団バスケットボール競技大会が行われた。玲央美たちのジョイフルゴールドはここで優勝して、全日本社会人選手権に駒を進めた。
同じ日程で9月14-15日、和歌山市では、全日本クラブバスケットボール選抜大会が行われた。ローキューツは優勝できなかったものの、準優勝で、同じく全日本社会人選手権に駒を進めた(優勝は長崎カステラズ)。
NTCでは9月14日から21日まで日本女子代表の第5次合宿が行われた。12人に絞られてから最初の合宿であるが、玲央美は14-16日は上記の実業団競技大会に出るため合宿を休み、17日からの参加になった。
9月21-22日、第58回近畿実業団バスケットボール選手権大会が開催された。この大会は第46回全日本実業団バスケットボール選手権大会近畿地区予選、平成26年全日本実業団バスケットボール競技大会近畿地区予選を兼ねている。
この大会で2位以内に入れば“来年の”全日本実業団バスケットボール競技大会に行くことができて、そこで上位に入れば全日本社会人選手権大会に行けて、そこで上位に入ればお正月のオールジャパンに出ることができる。
昨年貴司たちは5位で“全日本選手権”には行けたのだが、“全日本競技大会”には行けなかった。今年こそオールジャパンを目指すぞ!とチームの士気は高かった。
この週末は1・2回戦だけが行われる。千里はこの日スペインから大阪に転送してもらい、客席から応援した。またチームにメンチカツとか、551の豚まんとかを差し入れたので歓声が上がっていた。千里がチームの控室まで入って来て、(阿倍子との結婚式に出たはずの)船越監督や石原主将も居る場で、選手たちに差し入れを配るので、貴司は「やっばぁ」と思っていたのだが、船越監督も石原さんも
「奥さん、ありがとうございます」
などと笑顔で言っているので、貴司は首をひねっていた。
それで千里の差し入れの効果もあって!?貴司たちのチームは1回戦・2回戦ともに勝って来月の準々決勝に進出した。
ちなみに千里は貴司と阿倍子の結婚式に《会社の人3名》が出たという話は聞いてはいたのだが、実際に誰か出たかはそもそも聞いていない。
試合が終わった後、千里は大阪市内のNホテルに行き、
「予約していた細川です」
と言って鍵をもらった。料金は“細川千里”のカードで決済する。エレベータで19階まであがり、もらった鍵の番号の部屋に入った。シャワーを浴びて汗を流しておく。
やがて17:05くらいに貴司が到着して千里の携帯を鳴らすのでドアを開ける。貴司が入ってくるなり、千里は抱きついてキスをした。
「今日はお疲れ様。頑張ったね」
「千里の差し入れパワーでみんな張り切ったみたい」
「だったらよかった。来月も差し入れ持ってくるね」
「ありがとう」
ヴァイオリンの内側に貼った紙に貴司が書いていた“922 1700”は、むろん9月22日、17:00の意味である。場所は書いていないが、ふたりは特に場所を指定しない限りはこの大阪Nホテルで会おうと、昨年12月に約束している。もっともその後は変則的なデートが多く、本当にNホテルで会ったのはあれ以来となった。
この日は最初2時間くらい、イチャイチャしながらおしゃべりをしてから、下のレストランに行きディナーを食べた。12月にここでデートした時にも見たソムリエさんがレストラン内を歩いていたので呼び止め、シャンパンを出してもらった。ソムリエさんはちゃんとふたりのことを覚えていて、モエ・ド・シャンドンの別のシャンパンを出してきてくれた。それで勢いよく栓を開けてふたりのグラスにシャンパンを注いでくれたが
「仲睦まじくて素敵ですね」
と笑顔で言っていた。
この日は日曜日でスペインの方の練習はお休みなので、そのまま夜遅くまでふたりはお部屋で話し合った。
貴司は阿倍子と人工授精をしたいので、自分の射精に協力して欲しいと言った。
それ自体は貴司が結婚する前からの千里と貴司の同意事項である。しかしこの時、貴司は実は阿倍子が不妊で悩んでいることを初めて打ち明けた。
千里は初耳だったので思わず「話が違う!」と言った。
京平の身体を作るために断腸の思いで貴司と阿倍子の結婚を容認したのに、彼女が妊娠困難な人だったなんて・・・。貴司は結婚前にも阿倍子と人工授精するつもりだと言っていたが、その時は貴司は千里への操を立てて阿倍子とはセックスしたくないからと言っていたのである。千里はそのことで文句を言ったが、阿倍子とセックスすることに罪悪感を感じるのは事実だと再度言った。
「女であれば誰とでもデートして誰とでもセックスしようとするくせに」
「ごめーん。でも阿倍子と深い仲になりたくないんだよ」
「なぜ?彼女が嫌いなの?」
「嫌いならさすがに結婚していない」
「ふーん。好きなんだ?」
「ごめん。それは追及しないで」
千里は腕を組んで考えた。
「仕方ない。京平のためだ。協力してあげるよ。だったら妊娠成功するまでは私たちのデートは28日おきになる訳ね」
「すまない」
「どうしても用事があって対応できない時は、諦めてね」
「それ予備を作りたい。一週間以上おいて射精して、冷凍も作っておきたいんだけど」
「分かった。タイミングがあったら協力してあげるよ」
「ありがとう」
取り敢えずその日は「予行練習」と称して、千里が貴司のを握って逝かせてあげたが、貴司は物凄く嬉しそうにしていた。更にその日は7月に会った時と同様にベッドの上で一緒に寝た。むろんタッチ禁止である。なお今回は着衣ではなく、お互い下着姿になって寝ようと千里は提案した。
「服を着たまま寝ると、服にしわが寄るのよね」
「あ、それは僕も思った」
しかしより裸に近いので貴司は嬉しそうだった。
「このベッドかなり幅が広いよ。50cmくらい離れても寝られるんじゃないかなぁ」
「そこをお情けで10cmの距離で」
ふたりはベッドに入ってからもずっとおしゃべりしていたが、やがて4時頃眠ってしまった。
翌日は月曜日なので貴司は会社に行かなければならない。朝7時に貴司を起こし、ワイシャツを着せ、スーツを着せてネクタイを結んであげる。それで一緒に下のラウンジに行って朝食を食べる。それで地下鉄の駅改札の所で
「あなた、行ってらっしゃーい」
と言ってキスまでして見送った。
千里はホテルに戻ると、チェックアウト時刻までぐっすりと眠り、チェックアウトしてからランチを食べた。その後は葛西に行って作曲作業をした。
9月30日(月).
千里は球団代表から呼ばれていつもより少し早い13時に事務所に出て行った。
「セニョリータ・ムラヤマ。君の書類を10月1日付でトップチームに移動するから」
「え!?」
「君はこの半年で物凄く進化した。今の君の実力では育成チームで指導できることはもう何も無い。この後はトップチームの中で他の強い選手に揉まれながら自主的に学んで欲しい」
「分かりました。頑張ります」
と千里は緊張した面持ちで言った。
結局育成チームから、千里と中国籍のシンユウの2人が今回トップチームに昇格することになったということだった。
「スペイン出身の選手を差し置いて私たちが昇格していいのかなあ」
と千里が心配するように言ったが
「今トップチームにスペイン人の選手は5人しかいないよ」
と今回は昇格しなかったリディア(モーリタニア系スペイン人)が笑って言っていた。
「他はアメリカ2人、フランス1人、スロバキア1人、イギリス1人、それに日本と中国が1人ずつになるね」
「国際色豊かだね!」
「まあスペインは何でもありだから」
「そのアメリカ人の1人は元々メキシコ人だったけどアメリカに国籍転換したんだよね」
「へー。でもそういう人は結構いそう」
「一昨年で退団したけど、男から女に性別転換した選手もいたよ」
「へー。でもそういう人も結構いそう」
などと言って、シンユウと千里は笑った。
「以前はうちの兄弟チームの男子チーム、ティグレ・デ・グラナダの方に所属していたんだけど、女になりたいというから、みんなで取り押さえて切ってあげた」
「マジ?」
「まあ取り押さえて切ってあげようとした所までは事実だけど、本人やはり病院で切ってもらうと言うから、連行して行って病院の手術台に縛り付けてきた」
どうもどこまでジョークなのかよく分からない話だ。
「でも千里もスペイン語だいぶうまくなったね」
「そうかな」
「うん。アルゼンチン人からスペイン人に言語転換した感じ」
「それも転換(conversion)なのか・・・」
「まあ性(sexo)を変えるのはconversionよりcambio(変更)ということが多い」
「ふむふむ」
チームは育成チームもトップチームも10月下旬から活動開始ということだったので、結果的に半月ほど時間があくことになった。海外から来ている選手が多いのでその間に帰国する人も結構あるようである。
「千里(チェンリー)は帰国するの?」
「実は私は毎日日本とスペインを往復しているのよ」
「マジ?」
「日本の夜9時がスペインの午後2時だから、日本で日中活動してからスペインに来て日々の練習に参加」
「それ寝る時間が無い気がする」
シンユウ(中国)もキャロル(リトアニア)も一時帰国するということだったし、カーラ(カナリア諸島テネリフェ)やリディア(国内セビリア)も実家に帰るという話だったので、千里もしばらくは日本に居てもいいかなと思った。