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大阪から帰りのヴィッツは運転を全部桃香に任せたので、桃香は高速を無謀運転しながら走っていたが、千里はほとんどボーっとしていた。やはり結婚式をぶち壊すべきだったかなあ、などとまだ迷っている。《こうちゃん》や《びゃくちゃん》の協力があればそれもできた気がする。
そんなことを考えていたら《りくちゃん》が言った。
『千里、まだ昨年7月に唐突に婚約破棄されたショックから完全には立ち直っていないんだよ。バスケットのプレイ見ていても、積極性が足りない。婚約破棄される前の千里はもっとアグレッシブだった』
『そっかぁ。私ももっと頑張らないといけないね』
『だから吉信さんは千里をスペインにやったんだよ。気持ちを切り替えろって』
千里は今育成チームでは多くの試合でスターターになっているし、毎回かなりの得点・アシストをあげているし、スティールもたくさん決めている。しかし確かに《りくちゃん》が言うように、まだ本調子ではないと思っていた。それは一昨年の夏以来半年以上にわたって試合から遠ざかっていたためだけではない気がしていた。
桃香は少し眠くなったといって女形谷(おながたに)PAで休憩して仮眠した。
千里はヴァイオリンケースをそっと開けると、その胴の中から1枚の紙を取りだした。そこには貴司の字で《922 1700》と書かれていた。千里は微笑むとその紙を丸めて車内のゴミ入れに捨てた。
桃香と千里は24日の夜、高岡に帰着した。
8月25日(日).
千里は貴司から渡されたヴァイオリンの弦がかなり傷んでいるのに気付き、楽器店に行って新しいのを買ってこようと思った。しかし例によって免許証が無いので運転できない。
「桃香、私を金沢まで連れてってくれない?」
と頼む。
「OKOK」
日曜日なので朋子のヴィッツが空いている。それで桃香は千里を乗せて金沢まで走ってくれた。金沢駅近くのアルプラザの駐車場に駐める。千里や朋子なら時計台駐車場という大駐車場に駐める所だが、ケチな桃香は無料で駐められるアルプラザを使う。そこの100円ショップで買物すればいいよ、などと言っている。
それで近くの楽器店に行き、とっても安いアリスのスティール弦4本セット3000円を買う。
「なんか弦も色々あるんだな」
と桃香が言う。
「品質も色々、値段も色々。これがいちばん人気のある弦ドミナント」
と言って、千里は指し示す。
「10000円か!千里が取ったのの3倍以上するじゃん」
「音質が凄くいい。でも寿命が短い」
「それは困る」
「こちらは普通のアマチュアに人気のインフェルド赤」
「12000円!そちらのより高いじゃん」
「これは音質はドミナントに及ばないけど、耐久性があるんだよ」
「ああ。そういうの好きだけど、それにしても高い」
「青葉が冬子からもらったようなああいう高価なヴァイオリンにはこういう良い弦を張らなきゃダメ。でも私が大阪の友だちからもらったような安物のヴァイオリンには、こういう安物の弦の方がいい」
「ほほぉ」
「私がもらったヴァイオリンにドミナント張るのは、真鍮製のネックレスに2カラットの本物ダイヤをつけるようなもの」
「ああ、そのたとえは分かりやすい」
それで弦を買ってお店を出て「ついでにフォーラス覗いていく?」などと言って金沢駅の裏手を歩いていたら、千里はいきなり後から羽交い締めにされた。
桃香がギョッとして、悲鳴をあげようとした時
「雨宮先生、やめてくださいよ」
と千里が言うので、桃香は悲鳴を上げるのを保留した。
「あんた、最近私を避けてない?」
と雨宮先生は言う。
確かに最近雨宮先生に会ったのは半年前の3月に蔵田孝治の結婚式に出た時、その前は昨年9月に京丹後市でラリーに出た時である。千里自身の活動が低迷していたため、結果的に雨宮先生との遭遇確率も減っていた。
「桃香、この人知り合いだから大丈夫。たぶん遅くなるからひとりで高岡に帰ってて。私、電車で帰るよ」
「分かった」
桃香には雨宮先生が“女性”に見えるので、まあ女性なら大丈夫だろうと思い、桃香も「じゃ私はアルプラザでお総菜でも買って帰るよ。気をつけて」と言ってひとりで帰っていった。
結局、雨宮先生に連れられて片町の何だか高そうなスナックに入る。響のボトルがキープされているので驚く。
「先生が金沢にも拠点を持っておられるとは知りませんでした」
「まあ今月中に来てなかったらボトルが流れていたかもね」
「なるほどー」
「あんた最近どこに居るのさ?マジでキャッチできないんだけど」
「ああ。取り敢えず住所書いておきますね」
と言って千里はグラナダのアパートの住所を書く。
「グラナダってどこよ?」
「スペインですけど」
「あんたスペインに居るの?」
「海外逃亡中です」
「それで見当たらなかったのか」
「何か急用ですか?」
「実は明日までに1曲書いて欲しいんだけど」
と雨宮先生が言うので苦笑する。
「いいですよ。最近その手の仕事をしてなかったので、懐かしいです」
「なんなら毎日その手の仕事を持ち込んでもいいんだけど」
「ギャラ次第では承ります。でも誰に渡す曲ですか?」
「KARION」
「KARIONって卒論書くからって休業中じゃなかったんですか?」
「あんた国外にいたから聞いてないか。ローズ+リリーの『Flower Garden』は聞いた?」
「ケイから1枚もらいました。凄い出来ですね。これまでの何年もの休業を全部吹き飛ばす名作ですよ」
「それでそれをリリース前、マスタリング前の状態で聴いた和泉ちゃんがさ、こんなのをローズ+リリーに出されては、こちらも黙ってられないというので7月にリリースする予定だった『三角錐』をキャンセルしてアルバムを作り直しているんだよ」
「へー!!」
「実際問題として中身の楽曲は総入れ替え」
「わぁ」
「それで楽曲が足りないんだよ。だから、あんたにも1曲書いて欲しい。実は、ゆきみすずから頼まれた」
「なるほど。そういうルートですか」
「名義は東郷誠一でも醍醐春海でも、どちらでもいい。ゆきみすずを使ってもいい」
「どれでもいいなら醍醐春海を使いますよ。それを明日までにですか?」
「彼女たちの卒論のスケジュールがあるから、8月31日までに録音までは終わらせる必要がある。でも和泉も蘭子(=ケイ)もとても精神的な余裕が無い。だから、千里に頼む。私とか鮎川ゆまが書いてもいいけど、できるだけ女子大生に近い年代の子の感覚が欲しいんだよ」
「それってかなり良い品質のものですよね?」
「もちろん」
千里は考えた。
「明日の夕方まで時間を下さい」
「何時に持ってこれる?」
「では19時」
「分かった。頼む」
千里は桃香に「急な仕事を頼まれたから今日は金沢に泊まる」と連絡した。そして《くうちゃん》に頼んで葛西のマンションに転送してもらい、そこで構想を練った。いくつかモチーフを書き出してみるが、“KARION品質”には足りない気がする。
考えている内にお腹が空いてきたが、冷蔵庫の中を見てもあまりまともな食糧がない。やはり最近グラナダと市川を往復する生活になっていたからかなと思う。それで葛西に駐めているホンダ・ディオチェスタに乗ってイオンまで買物に行く。
その時、走っていて何か違和感がある。
あれ〜〜?なんかこのスクーター調子良くない気がするぞ。
と思っている内に停まっちゃった!
『ねぇ、これ誰か直せる?』
『どれどれ』
と《げんちゃん》が見てくれる。彼はしばらくいじっていたが、何とかエンジンを掛けてくれた。
『ありがとう』
それで取り敢えず発進してイオンに向かう。
『でもこれはまた停まると思う』
『え〜?』
『千里、このスクーター、さすがに寿命だよ』
『そう?』
『元々もう動かない。部品取り用、なんて言っていたのを無理矢理動かしてきて4年だからなあ』
『うーん』
『新しいの買った方がいいと思う。千里、お金はあるんだから新品のスクーター1台買ったら?』
『そうだなあ』
『あるいは近所までの買物とか用なら軽自動車を1台買ってもいいと思う』
『ああ、それもいいかもね〜』
『軽なら100万円くらいで買えるぞ』
『じゃ中古車の軽で5〜6万くらいのを探そうかなあ』
『また中古車なのか?』
『だって動くのにもったいないじゃん』
『年収が億の奴の発想とは思えん』
と《げんちゃん》は呆れているようである。
それでイオンで食パン、マーマレード、サラミハム、スライスチーズなど、それにレトルトのメンチカツとハンバーグを買った。サラダも買いたかったのだが、夜遅いので売り切れであった。
そして帰ろうとしたら、またスクーターはエンジンが掛からない。《げんちゃん》が何とか始動してくれたが、確かにこれは本格的にやばいなと千里も思った。
マンションに戻ってから食パンにマーマレードを塗って食べていたら、唐突に新しいメロディーが浮かんできた。急いで五線紙に書き留める。
「これ、何か可愛い〜。ちょっとKARIONより誰かアイドル歌手に歌わせたいけど、もう時間が無いから、これを使おう」
と独り言を言って、そのメロディーを核に、買物に出る前に浮かんでいたいくつかのモチーフを組み合わせて、30分ほどでだいたいの曲の形が組み上がった。
「マーマレードを塗った食パンを食べながら思いついたからタイトルは『魔法のマーマレード』でいいかな」
などと言いながら、千里はパソコンを起動してMIDIキーボードを使い、Cubaseにリアルタイム入力していった。
千里は夜通しデータを入力し続け、明け方少し仮眠してから、朝になるとそのデータを再生しながら、自分で歌ってみる。それを録音して聴いてみて、調整する。ただ時間が無いので、使用楽器はKARIONのバックバンド、トラベリングベルズが使用する通常の楽器のみに限定して構成した。
千里はお昼も食べずに必死に調整を掛けて行き、だいたい夕方17時頃、ほぼ完成に達した。
それで千里は仮眠した!
18時頃起きる。
そしてその睡眠を取ってクリアになった頭と耳で再度楽曲を聴き調整する。18:53。千里は完成を確信した。急いでデータをコピーし、スコアを印刷する。
『くうちゃん、スタジオに転送して』
『了解』
それで千里はKARIONの制作がおこなわれているスタジオに行き、廊下にいた雨宮先生にスコアとUSBメモリーを渡した。
雨宮先生は時計を見た。18:59:45である。
「間に合ったか」
「頑張りました」
「残念だ。1秒でも遅れたら、千里のヌード写真をネットに放流しようと思っていたのに」
「それはよかったですね。そんなことされたら私も対抗して先生のヌード写真をネットに放流していたところでした」
「こんなおばちゃんのヌードに需要は無いわよ!」
「おばちゃんのヌードか、おじちゃんのヌードかは微妙ですね」
「後者はむしろ非難される」
千里は制作に立ち会わないか?と言われたが、眠いので寝ます。変更は自由にして下さいと言い、スタジオを出ると、《くうちゃん》に、高岡の桃香の部屋に転送してもらった。桃香は夕食を終えて部屋に戻ると千里が熟睡していたので、びっくりした。
千里は9月1日(日)夕方、飛行機でグラナダからマドリッドまで行き、市内で1泊。翌9月2日(月)の朝一番に日本大使館に行って、無事日本の運転免許証を受け取った。
「一時帰国なさいますか?」
「ええ。今月下旬一度行ってくるので欲しかったんですよ」
「なるほど。スペインには長く滞在予定ですか?」
「まだハッキリしないんですが、取り敢えず3月までは居る予定です」
「分かりました。道中お気を付けて」
「ありがとうございます」
受け取った後は飛行機でグラナダに戻り、その日の練習に参加した。