[*
前頁][0
目次][#
次頁]
8時頃。和泉は大宮駅に出て、新幹線乗り場へ向かっていた。この日はここの所ひじょうに多忙であったKARIONに関わる作業が一段落し、長野の親戚からおそばでも食べにおいでよと言われ、戸隠神社にお参りして当地のそばを食べようということで単身、長野に行く予定だった。母と妹も誘ったのだが、母は着ていく服が無い(要するに長野まで行くのが面倒くさい)と言い、妹はゲームの発売日なのでそれに並ぶと言って早朝から新宿に出て行った。
それで新幹線に乗る前に飲み物と軽食でも買っておこうと思い、構内のお店に入ってパンとウーロン茶を選んでレジに並んだ時、直前に並んでいた女子高生が驚いたようにこちらを振り向いた。
「和泉ちゃん!ごぶさた!」
和泉は目をぱちくりした。
「ごめーん。誰だっけ?」
「あ、分からないよね。私、照橋」
「もしかして陽成君?」
「うん」
「嘘!? 女の子になっちゃったんですか?」
「最近けっこうこの格好で出歩いている。学校には学生服で行ってるけどね」
それは中学の時のコーラス部の先輩であった。当時から彼はかなり女性的な性格で、そのため他の男子とはあまり会話などせず、といっても女子の大半は彼を男とみなしていたので、結果的にいつもひとりでポツンとしていた。コーラス部では音域が広いのでバスに入れられていたが、
「実はアルトも出るんだ」
と言って、和泉たち数人のごく親しい人にだけアルトボイスでの歌唱を聴かせてくれていた。彼はピアノもうまかったので、しばしば歌わずに伴奏をしていた。本人としても音楽が好きでコーラス部に入っているものの、男声を使うことにストレスを感じるようで、かえってピアノを弾いている方が気楽っぽかった。
「アルトボイスで話せるようになったんですね」
「うん。中学の頃はこの声で歌えても話せなかったんだよね。息の切り替えが難しいからテンポの速い曲とか、しゃべるのは難しいんだよ」
確かに当時彼が和泉たちに聴かせてくれたのは、滝廉太郎の『花』とか、メンデルスゾーンの『歌の翼に』など、ゆったりしたテンポの曲ばかりであった。彼は一応アルトボイスと言っていたが、音域的には充分ソプラノ域まで行っていた。
「和泉ちゃん、どこ行くの?」
「長野の親戚まで」
「私、八王子でピアノの大会があるのに出るんだ。和泉ちゃん聴いてくれない?」
和泉は10秒ほど無言で考えてから言った。
「いいよ」
旭川では千里たちが朝9時からまた集まり、がやがやとしながらも楽曲の練習をしていた。
「『青い翼』はだいぶまとまってきたと思う。これ収録しようよ」
「よし。まずは1曲確定させるか」
というので、いちばん易しい曲の演奏を何とか仕上げて収録する。15人もの人数でやっていると、全員ノーミスで演奏するのはなかなか大変なので、結局3回録音したところで、あとでうまくつなぎ合わせますよと技術者さんが言って、それでいいことにした。
「ところで昨夜遅くなって、田代君がどこに泊まったのか興味あるんだけど」
などと京子が言うので、蓮菜はあっさり
「私んちに泊めたけど」
と言う。
「叔母さんから何か言われなかった?」
「叔母ちゃん、私がまだ雅文とつきあっていると思い込んでいるから」
「でもあんたたちいいの?」
「まあ純粋に寝ただけだし」
と田代君。
「ああ、何もしなかったのね?」
「うん。一緒のお布団に寝ただけ」
と蓮菜。
「同じ布団なの〜〜〜!?」
「大丈夫だよ。セックスしたくなったら避妊するから」
「そりゃ避妊はしなきゃだめだけど」
「蓮菜も田代君も恋人いるんでしょ?」
「いるけど、セックスしないなら一緒に寝るくらい、いいよね?」
「いや、その感覚は絶対おかしい」
「ところで、皆さん聞きました? 例の放火犯の賠償問題」
と大波さんが言う。
「あ、聞いた聞いた。深川市・旭川市・北海道への賠償金3000万円は全部払って、C学園にも2000万くらい取り敢えず渡したらしいね」
「うんうん。それで、C学園側も民事訴訟を起こすのは留保しておいて、今後を見守るとか」
「それでその5000万をなんでも妹さんが調達したって言うんでしょ」
「そうそう。そういうことらしい」
「でも妹さん2人って高校生だよね。どうやって作ったんだろ」
「あ、ふたりとも高校は辞めたらしいよ」
「確かに学校行きづらいよね」
「だけど女子高生が5000万円も作るってどうすればできるんだろ?」
「まさか、身売り?」
「いや、身売りして5000万円払ってくれる人がいたら私が身売りしたい」
「どんなに高額でも1桁小さいよね」
「相手がアラブの大金持ちだとか」
「アラブの大金持ちなら5億払ってくれるかも。それで賠償金を倍くらい払ってしまうとか」
「じゃアラブの小金持ち」
「やはりアラブなの?」
冬子は青山のカフェで蔵田さんのアイドル談義に付き合い、やれやれと思っていた。蔵田さんは創作を始める前に長時間、色々な音楽談義をする癖がある。その間におそらく構想をまとめているのだろうが、こちらはただ聞いているだけなのでなかなか疲れる。でも話を聞くだけなら私でなくてもいいよね?などと思っていたら
「洋子聞いてる?」
などと言われる。
「私、今日名古屋に伴奏の仕事に行ってたら、きっと、ひつまぶしのお弁当くらい食べられたかも知れないのに」
などと言っちゃう。長年の付き合いなので遠慮無しだ。
すると同じく話につきあわされている樹梨菜も
「あ、私もウナギ食べたい」
と言い、蔵田さんも
「んー。じゃ昼飯はウナギでも食うか?」
と言って取り敢えずカフェを出ることになる。冬子がこの着物で臭いのつくうなぎ屋さんには行きたくないと言ったのでとりあえず近くの洋服屋さんで適当な服を買って着替え、それで荷物をスタジオに置いてからうなぎ屋さんに入った。
「でも今日は誰に渡す曲を作るんですか?」
「あ、えっと、名前忘れた」
「えーーー!?」
午前中はリハーサルのようであった。
和泉が客席に座っていると次から次へと今回の大会の参加者が出てきてはピアノの小品を弾いていく。だいたい3−4分くらいの作品が多い。照橋はラフマニノフのピアノ練習曲《音の絵》から作品39-6を演奏した。高音の可愛い旋律と低い旋律が交錯するので「赤ずきんと狼」の異称がある曲である。リハーサルで名前を呼ばれる時「てるはし・ひなさん」と呼ばれていた。その点を演奏を終えて和泉の隣の席に戻ってきた照橋に訊くと
「私の戸籍名、陽成(ようせい)って、訓読みすると《ひなり》でしょ?だから最後の1文字を落として《ひな》というのが実は結構小さい頃から使っている私の女性名。今通っている音楽教室では《照橋ヒナ》で登録しているんだよ」
と説明した。
「可愛い名前だね」
と和泉が言うと、嬉しそうだった。
「漢字は《陽成》のままで読みを《ひな》ということにしちゃってもよかったりして」
「あ、それもいいなあ」
「読みの変更って裁判所とかいかなくても、市役所に届け出すだけでできるらしいよ」
「え?そうなの!?」
DRKの録音は午前中に『青い翼』、『塞翁が美味い恋愛』を完成させて、お昼休みに入る。スタジオの近くにあるラーメン屋さんの蜂屋に入ったのだが、美空が「ここのも好き」と言って笑顔で2杯食べていたので
「よく入るね〜」
とみんなに感心されていた。
「私、青葉も梅光軒も天金も山頭火も好き」
などというので
「そのあたりは人気だよね」
という声も出るが、月夜は笑いをこらえていた。まさか誰も昨日の昼にそれを全部食べているとは思いもしない。
「美空ちゃん、何時の飛行機で帰るんだっけ?」
「20:20の旭川発羽田行き。だからここを18時くらいに出ればいいかな」
「それまでには何とかまとまるかな」
冬子たちはお昼を食べた後は、★★レコードのスタジオ最上階・青龍の部屋に入った。この部屋はトップアーティストにしか貸さないので、蔵田さんと一緒でなければ中を覗く機会もなかなか無い所である。
蔵田さんは冬子と樹梨菜に「これ付けろ」と言って、さくらんぼの形に作られた紙のお面を渡す。
「何これ?」
「これ歌ってた子たちがこれ付けてたんだよ」
などと言われるので付けるが顔が完全に隠れてしまう。
「前が見えません」
「これじゃ顔が隠れちゃうじゃん。歌手が顔かくしてどうすんだい?」
すると蔵田さんはポン!と手を打ち
「あ、隠れるってのいいね。よし、ちょっと待て」
と言うと、携帯電話のスイッチを入れて、どこかに電話している。
「あ、どうもどうも。例の子たちですけどね。あれいっそ顔全部隠しちゃったらいいと思いません? うんうん。でしょ? え? 名前ださない? うん。それはそうしようということで、ニックネームだけで。え?ニックネームも付けない。あ、それはいいかも。名無しの歌手ですね。スタッフ扱い。うんうん、面白い」
冬子は蔵田さんの電話から漏れてくる声で、相手がしまうららさんであることに気づいた。ああ、ζζプロの仕事なのか。そこの事務所の松原珠妃は冬子の先輩・「元先生」であり、また蔵田さんの「自称1番弟子」である。実際、蔵田−松原のコンビが生み出す利益は巨大であり、ζζプロの屋台骨を支えている。しまさんはそのζζプロの重鎮、ベテラン歌手で、松原珠妃を見い出した人である。
電話が終わると、蔵田さんはオンフックしただけで携帯をそのまま机の上に置いた。冬子は「あれ?電源切らなくてもいいのかな?」と思ったが、まあいいやと考える。どうせ鳴っても出ないだろうし。蔵田さんは創作中はだいたい携帯の電源は切っておくことが多い。
お昼を一緒に近くのショッピングセンターのフードコートで食べてから、和泉は出演者ひとりひとりの演奏を聴いていた。リハーサルを聴き、そして本番が始まってここまでの演奏を聴く限り、そんなにレベルの高い大会ではない。これならヒナ(と呼ぶことにした)は優勝かそれに準じる成績をあげるのではという気がした。和泉はずっと昔、自分もピアノの大会に出て準優勝した時のことを思い出していた。
やがて女子高生制服姿のヒナが登場し『赤ずきんと狼』を演奏する。赤ずきんはヒナ自身かも知れないなと和泉は思っていた。
演奏を終えてステージから降りてヒナが和泉の席に来る。笑顔で拍手して和泉はヒナを迎えた。
「どうだった?」
「1ヶ所ミスった所以外は完璧だったと思う。かなり練習したでしょ?」
「ああ、ミスった所分かった?」
「まあこの曲を知っている人なら」
「いや、弾いたことのある人しか分かんないだろうと思ったんだけどな」
「練習したことはあるけど弾きこなせる所までいかなかった」
「なるほどね」
そんなことを小声で言っていた時、ヒナがふと気づいたように言う。
「和泉ちゃん、ポケットが光ってるけど、もしかして携帯の着信では?」
「え?」
慌てて確認する。ライブ会場なので和泉は携帯をサイレントマナーモードにしていたのである。慌てて開いてみると事務所からだ。
「ごめん。ちょっと外に出て取ってくる」
「うん」