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5月下旬のある日、千里が大学で体育の授業でソフトボールをやっていたら突然雨が降ってきた。もう授業時間も残り30分だったので、今日はもうこれで終わります、ということになる。みんな急いで校舎に戻る。
参ったぁ、ずぶ濡れだ。これは着替えなきゃ。
みんな着替えるのに男女別に更衣室に入っていく。千里がそれを見て立っていたら、宮原君が声を掛けてくれた。
「村山、着替えないの? 着替えある?」
「あ、うん、あるよ」
と千里は笑顔で返事したが
「着替える前にトイレに行ってくる。じゃ、また」
と言って、千里はみんなとは別の方角に行った。
知っている人と遭遇しないように、2階に上がる。多目的トイレを使いたかったのだが、あいにくふさがっている。参ったなあ。意を決して男子トイレに入ろうとしたら、ちょうど中から出て来た男の子に
「ちょっとちょっと、こっちは男子トイレ」
と言われてしまった。
多目的トイレが開くのを待っていると身体が冷える。仕方無い!
千里は女子トイレに入った。列ができているのでその最後尾に並ぶ。むろん千里がそこに居ても誰も騒がない。やれやれ。千里はじっと列が進むのを待った。
5分ほどで列ははけて、個室に入る。取り敢えず着ている服を全部脱ぎ、それから身体が冷えてホントに尿意もきていたので、おしっこをしてペーパーで拭く。それから新しい下着を身につけ、カットソーとジーンズを穿いた。濡れた下着とジャージ上下をビニール袋に入れてからスポーツバッグに収める。流して個室から出る。
すると目の前に何と友紀が居る。千里が笑顔で手を振ると友紀も手を振り、千里と入れ替わりに個室に消えた。それで手を洗って外に出たが、後から友紀に追及されるかもと冷や汗を掻いた。
それでトイレの外に出て「ふぅ」と息を付いたら
「あれ?村山君?」
と声を掛けられる。
ぎょっとして振り向くと、紙屋君だ! えーん。せっかく他の子と会わないようにと思って別の階に来たのに、友紀に逢うし紙屋君にまで逢うし。
「あ、どもー」
「今、村山君、女子トイレから出て来なかった?」
「気のせい!気のせい!」
と言って千里は笑顔で手を振ると、次の教室へ向かった。
6月の上旬頃、家庭教師のバイトを終えて、いったん千葉駅まで出て、バス乗場で自分のアパート方面に行くバスを待っていたら、近くになんと桃香が来た。ぎょっとする。こちらはブラウスにスカート、パンプスといった格好である。やっばー、何と言い訳しよう?と思ったものの、どうも桃香はこちらを認識してない雰囲気である。
千里はこの時期は大学には一貫して男装して出て行っている。髪も伸ばしかけてはいるが、まだまだ短い状態である。しかし今千里はふつうに女の子の格好をしているし、髪も女性のショートヘアである。お化粧もしている。これでは同一人物とは思えないか、と考え直した。
桃香の携帯が鳴る。どうも音声着信のようだが、桃香は取らない。それで何度も掛かってくる。桃香はため息をつくと、とうとう電話に出た。
「はい」
とぶっきらぼうに答える。
「うん。だから悪いけど、私たちはもう終わったんだよ。ただの友だちというのであれば付き合ってもいいけど、もう恋人には戻れない。それは分かって欲しい」
と桃香。
向こうは何か訴えている模様。
「うん。今こちらに出て来られても私は会わないよ」
と桃香は言ったのだが
「え〜〜!?今もう千葉駅に居るの?」
と本当に驚いたような様子。
電話を切る。桃香はどこかに移動しようかとも思った感じであったが、やがてここで対決して、きっぱり話をする選択にしたようである。
やがてその恋人らしき女の子!?がやってくる。人目があるにも関わらず彼女は桃香に抱きつこうとしたが桃香は拒否した。
ふたりは結構激しくやりあっている。周囲の人はみんな石化している。
女の子は桃香に涙を流しながら自分がいかに桃香を好きかということを訴えているが、桃香はもうこの恋は終わったのだと言ってあくまで冷静だ。話し合いは15分以上続いた。千里はふたりのやりとりを自分と貴司との関係に置き換えて考えてしまい、ちょっとこちらまで涙が出た。
するとその様子を見たのか、彼女が千里を見て
「あれ?もしかして、そちら桃香の何か?」
などと言った。
すると桃香はつかつかと千里の所まで歩いてくると、いきなり千里にキスをした。何〜〜〜!?
千里は突然のことで抵抗できず、そのままキスされていた。
「弥生。そういう訳で、私は今この子と恋人関係なんだ。だから弥生の気持ちには応えられない」
すると弥生と呼ばれた女の子は
「そうだったの。ごめんね」
と言った。
「友だちでは居てくれる?」
「うん。友だちならいいよ」
「分かった。自分の気持ちを少し整理してみる」
それで弥生は泣き顔で駅の方に戻ろうとする。
「あ、待って、弥生。汽車賃、半分出してあげるよ」
と言って、桃香は財布から1万円札を3枚出して彼女に渡した。
「ありがとう。桃香優しいね。でもちょっと多いよ」
「ラーメンでも食べてから帰りなよ。千葉のラーメンも美味しいよ」
「そうする。ごめんね」
「気をつけて。変なこと考えないよね」
「うん。大丈夫だと思う。ね、握手していい?」
「いいよ」
それでふたりは握手をして別れた。
彼女を見送ってから、桃香は千里に言った。
「済みません。突然変な事しちゃって」
「男にキスされたんじゃないから、このくらいいいですよ」
と千里はバレないように女声で答える。
「学生さん?お勤め?」
「市内の神社で巫女さんしてるんですよ」
「巫女さんか・・・・。彼女、新しい恋人を見つけられるかとか占えます?」
「いいですよ」
と言って千里はバッグの中から『TAROT OF THE OLD PATH』というタロットを取り出す。このタロットはとても優しい絵柄なので千里のお気に入りのタロットのひとつだが、少しレスビアン色があるのである。こういう案件を占うには最適だと思った。
1枚引く。
「運命の輪。彼女次第ですね。ちゃんと心の目を開いて見ていれば良き人と巡り会えますよ」
「そうかも知れない。あの子、いったん夢中になると回りが見えなくなるんですよ」
「彼女、あなたと同じ携帯ストラップしてましたね」
「ええ。実はペアで買ったんです。でも外しちゃおうかなあ」
「友情の印ってことにしちゃえばいいんじゃないですか?」
「うん。私もそのつもりだったんだけど」
千里はもう1枚カードを引いた。
「それは?」
と桃香が尋ねる。
「あなた自身の運命を引いてみました。よけいなお世話かも知れないけど」
「いや、教えてください」
「女帝。ちょっと面白いカードですね」
「というと」
「普通の女性の枠組みから少し外れるような人を恋人にするかも」
「なるほど。私も実は変わった子が好きなんですよ」
「いい人が見つかるといいですね」
「ありがとう。私、あまり占いって信じないんだけど、あなたの占いは何だか当たりそうな気がする。あ、見料は?」
「じゃ、そこに持っておられるマクドナルドのクーポンで」
「あ?こんなのでいいの? じゃ」
と言って桃香は手に持っていたクーポンを千里に渡した。その時千里はそれを受け取り自分のバッグに入れようとして、うっかりバッグの上の方に入っていたミントのスプレーを押してしまう。
「あ、ごめんなさい」
「いえいえ」
ミントのスプレーはまともに桃香に掛かってしまったのだが、その時千里は、桃香の身体から何かが剥がれ落ちるような雰囲気を感じた。
ちょうどバスが来たので千里は目的地も見ずに「あ、バスが来たから」と言って、桃香に挨拶してバスに乗った。
『今桃香から剥がれ落ちたの何だろ?』
『妖怪の類』
『妖怪〜!?』
『あの子、いろいろ憑けてたよ。あまり関わりにならない方がいいよ』
『でも友だちなんだよ』
『だったら祓ってあげるか』
『どうやって?』
『そうだなあ』
《りくちゃん》もすぐにはいいアイデアが浮かばないようであった。
千里はバスに揺られながら考えていた。
さっきのタロット。
女帝ってカードは女装者を表すこともあるカードだよな。。。。
まさかね。
しかし女の子にキスされたのなんて初めて!
千里は実はまだちょっと心臓がどきどきしていたので、その感覚を忘れない内にバスの座席でバッグから五線紙を取り出すと、そこに音符を書き込み始めた。その五線紙のタイトルの所には『マルスに吹く風』というタイトルだけが記入されていた。こういうタイトル指定で曲を作ってくれという依頼だったのである。
バスは結構走っていたような気がする。やがて終点と言われたので降りたら都賀駅だ。あれ〜? こんな近く? たくさん乗った気がしたのにあまり時間が経ってなかったのかな??
取り敢えず曲がまだ未完成なので近くのマクドナルドに入り、フィレオフィッシュのサラダセットを頼んで、それを食べながら曲の続きを書く。メインのメロディーとサビは書いているので、それをもとに楽曲を構成していく。歌うユニットがとても歌唱力のあるユニットなので、その実力をよく引き出すように作り込む。特に音域の広い、S1,S2の2人には敢えて3オクターブほどの音域を使わせる。
千里はその作業をそこで2時間近くやっていた。
ワンオーダーではねばりすぎだよなと思い、追加でシャカシャカチキンとコーヒーを頼み、テーブルに戻った所で、向かい側のテーブルに見知った顔があるのに気付きドキッとした。
千里が反応したので、そのテーブルに居た彼はこちらにやってきた。
「村山君だよね?」
と紙屋君は言った。
「あははは、見なかったことにしといて」
と千里は焦って言う。
「可愛いよ!」
紙屋君は、千里が作業中みたいだから声は掛けないよと言って、自分のテーブルに戻った。千里も彼のことは忘れて譜面に集中し、それから更に2時間ほど掛けて、もう閉店の時刻です、という声を聞いたあたりで、ようやく曲はまとまってきた。
閉店なので、紙屋君と一緒にマクドナルドを出た。
「作業は終わったの?」
「うん。だいたいね。後は自宅に戻ってパソコンに入力した上で調整するよ」
「どうやって帰る?」
「うーん。タクシーかなあ。JRもモノレールも終わっちゃってるし」
「じゃ、相乗りしていかない?」
「でも私、変な所に住んでるよ?」
「変な所って、ダンボールハウスとか?」
千里は吹きだした。
「ダンボールハウス並みにオンボロかも知れないけど、一応住所のある家だよ。ただ、私**町なんだよね」
「大学から遠いね! 地元だったっけ?」
「ううん。私、北海道」
「あ、じゃ、親戚の家とか?」
「ううん。格安物件だったからなんだよ」
「へー。でもそしたら、村山君のアパートに寄ってから、僕のアパートに行ってもらえばいいよ」
「提案。その順序が逆なら相乗りしていい」
「うん、それでいいよ」
駅前に居たタクシーに乗り、**町経由**町と告げる。
「ねえ、村山君のこと誰にも言わないからさ」
「うん」
「明日また会ってくれない?今日みたいな感じの格好で」
ふーん。中身が男と承知で、デートの誘い? まあ会うくらいはいいよね。私、貴司にふられたし。
「明日、というか今日はさっきの譜面を調整して納品しないといけないんだよ。日曜ならいいよ」
「じゃ、日曜の11時。千葉駅前で会わない?」
「千葉駅は人に遭遇しそうだから、どこか他の駅で」
「じゃ・・・都賀駅前で」
「いいよ」
しかし先週貴司に振られたばかりだというのに、今日は女の子にキスされるわ、男の子にデートに誘われるわ。まあ私はレスビアンじゃないから桃香と恋愛する可能性はないだろうけど、他の男の子とちょっとデートしてみるのもいいよね?
千里は土曜日いっぱいかけてKARIONのアルバム用の楽曲を作り上げ、データを仲介してくれている新島鈴世さんに送信した。そしてぐっすり寝て日曜は朝から美容液パックした上でゆっくりとメイクし、セミロングのウィッグを着けて都賀駅に行った。金曜日は家庭教師の帰りだったので清楚なブラウスにスカート、普段使いのパンプスだったが、今日は花柄のワンピースに可愛いめのサンダルで髪はシュシュでまとめている。
紙屋君は10:50に車でやってきた。
「待たせちゃった?」
「ううん。私も今来たところ」
「よかったらドライブしない?」
「いいよ」
紙屋君が助手席のドアを開けるので彼のフィットの助手席に乗った。