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名医と評判の高いグレンツが呼ばれました。
彼は、市職員である兄のトーマスから状況を聞いて顔をしかめます。杯も見せてもらいましたが、これいっぱいの酒を飲んだとかると、常識的に考えて人間の耐性を遙かに越えています。ヌッシュが寝かされている部屋に入っていきましたが、案の定、死神は彼の足元に立っていました。
グレンツは一応ヌッシュの身体の温度を測ったり(*18)、脈拍を数えたり、また胸に手を当てて心音を確認したりしますが、難しい顔をします。
その場でいちばん偉い人のように見える老人に目配せして部屋の外に出ます。トーマスも付いてきました。
「申し訳ありませんが手の施しようがありません」
とグレンツはいつものように患者が助からないことを宣告しました。
老人は「やはり」という顔をしましたが、トーマスが納得しません。
「グレンツ、そんなことを言わずに何とか助けてやってくれ。市長は命懸けで酒を飲んで、この町を救ったんだ。市長があの大酒を飲み干していなかったら、この町は焼き討ちされて何千人もの人が死んでいた」
とトーマスはグレンツの手を握りしめて頼みます。
「そんなことを言われても」
と言いながらも、グレンツは部屋に戻りました。
「取り敢えず吐かせましょう」
と言って、彼はヌッシュの口の中に無理矢理腕を突っ込み、吐けるだけ吐かせます。それでだいたい吐ける分を吐いたら、今度は砂糖湯を作らせてそれをたくさん飲ませました。砂糖湯は吸収が速いので、それによって体内のアルコール濃度を下げることができます。
そしてグレンツは市長の下半身の服を脱がせ、陰嚢と肛門の間の“蟻の門渡り”の部分を切開します。そして露出した尿道に葦の茎(*19)を入れて、膀胱内の尿を強制的に排出させました(壺で受ける)。グレンツは更に生理食塩水を作って、トーマスに時計で時間を計らせて20分おきに少量ずつ何度も市長の腕の静脈に注射しました(*20).
(*18) この当時人間の体温を計るのに特化された体温計はまだ無かったものの、温度計は存在した。
(*19) 短くて直線的な女性の尿道と違って、男性の尿道は曲がっているし長いので、現代のプラスチック製のカテーテルなら挿入できるが、17世紀の原始的なカテーテルでは挿入不可能である。それで、グレンツは膀胱直下部分の尿道を切開して、女の尿道と同等の状態にしてから挿入したのである。
(*20) 当時まだ注射器は存在しないが、注射針は存在し、輸液のようなことが行われた。但し注入速度が速すぎたり分量が多すぎると患者をショック死させる極めて危険なものであったし、非衛生な針を使用すると感染症を起こしていた。19世紀に発明された注射器というのは衛生的に正確な分量を適切な速度で注入できる画期的なものだったのである。
そうやってグレンツは彼にできる限りの処置をするのですが、死神は相変わらずヌッシュの足元に立っています。
グレンツは考えました。
例の薬草をお湯で溶かしました。
「それ飲ませたって無駄だからね」
と死神は言っています。
しかしグレンツは近くに居る屈強な男性2人に囁きました。
「分かりました」
と言って、2人の男性は、ヌッシュの身体を抱えて、逆向きに寝せたのです。瞬間的にヌッシュは立っている死神の方に頭を向ける形になりました。
そこでグレンツは薬草を彼に飲ませました。
死神が唖然としています。
しかし薬草を飲んだヌッシュはみるみる内に顔に生気が戻って来ました。
「おおっ」
と声があがりますが、グレンツは冷静です。
「まだ分かりません」
と言って、あらためて砂糖湯を彼に飲ませます。利尿作用のある(普通の)薬草も飲ませます。
彼は一晩中ヌッシュの治療を続けました。すると明け方近くになって、やっと患者は意識を取り戻しました。
「俺、倒れてた?」
と訊きます。
「お前、もう死ぬかと思ったぞ」
と市長の兄が言っています。
「助かったのかな・・・」
しかしグレンツは
「まだ分からん」
と言って、治療を続けていっていたら、お昼過ぎになって、やっとヌッシュは自分で立てるようになりました。
「回復したかな」
「私の見立てではまだまだ分かりません。取り敢えず3日は寝ていて下さい、その間、できるだけお茶を飲ませてください」
「分かりました」
「それから強制排尿のために尿道を切開しています。当面、おしっこは女のように座ってしかできないので我慢して下さい。後日縫合します」
「ちんこ切られたんだっけ?」
「お望みなら切り落としますが。女の形になれば引っかかりなくおしっこできますよ」
「勘弁して〜。まだ男辞めたくない。でもちんこ切られた訳じゃなければ、おしっこの仕方くらい、我慢するよ」
「では私はいったん帰ります。何かあったら呼んで下さい」
「お疲れ様でした!」
「ありがとうグレンツ」
と一緒に徹夜したトーマスが涙目で言い、彼はグレンツをハグしました。
それでグレンツは自宅に帰ると、死んだように眠りました。目が覚めた時、代母が恐い顔をして立っていました。
「何てことをするのよ?あの男は死ぬはずだったのに、私を欺して助けるなんて」
「済まなかった。謝るから今度だけは勘弁して欲しい」
「自然の摂理をねじ曲げると、どこかでしっぺ返しを食らうよ」
「うん。罰を受けなければならないなら甘んじて受ける」
「いい覚悟ね。だったら今度だけは見逃してあげる。二度とこんなことしないでよ」
「分かった。ごめん」
ともかくもゲオルク・ヌッシュは助かり、後でグレンツの所に御礼と言って金貨を10枚(現代の価値で約100万円)も持って来ましたが、グレンツは辞退しました。
「そのお金で今回の戦いで親や夫を亡くした人たちに補償をしてあげて下さい」
「分かりました!あなたは本当に偉い医師だ」
とヌッシュ市長は感動していました。
「金貨を受け取らなかったことは褒めてあげるわ」
と代母は言いました。
「受け取れないでしょ」
「万一お前があれを受け取っていたら、即お前の命を奪っていた」
「ぼくがお母さんでもそうすると思うよ」
「お前も少しは死神の仕事が分かってきたみたいね。私の跡継ぎになってくれない?」
「死んだら考えるよ」
「うふふ」
どうも死神は許してくれたみたいだなとグレンツは思いました。
グレンツが45歳の時のことでした。この年はまたローテンブルクで戦闘があり、更にはペストまで流行して多くの命が失われました。グレンツは町中の診療所はペスト専門にして、郊外に一般診療所(と自宅)を新設し、院内感染を防ぎました。敷地周囲に殺鼠剤を撒いたりしてネズミの駆除と侵入防止策に力を入れます。スタッフには防護マスクや手袋をつけさせ、患者の着た服は焼却するなど、防疫対策もしっかりしました。
代母が何か御札(おふだ)?を作っていました。何か妖精のような絵が描かれています。
「何それ?」
「欲しい?」
「何かのおまじない?」
「これを家の入口に貼っておけば、その家ではペストの死者は出ないよ。私以外の死神は入れないから」
つまり死神の縄張りマーク??
「ちょうだい」
「金貨1枚と交換で」
「高い!」
「買わない?」
「100枚作って」
「100枚!?1日待って」
しかし死神も商売するのか、と少し呆れました。自宅、一般診療所に貼り、自分の病院に勤めている医師・看護婦、また親戚などにも配って家の入口に貼らせましたが、その御札が効いたのか、グレンツの病院では、医師や看護婦(修道院からの応援を含む)は、ひとりも死にませんでした。
戦争もペストも何とか落ち着いてきた頃、カトリック勢力ではあるものの、プロテスタントに一定の理解を示していたバシルサ大公の公女で女城爵(Burggräfin : 他国では女子爵に相当)の地位も持つアンドレア殿下がローテンブルクを訪れました。市は姫君を大歓迎し「カトリックもプロテスタントも神の前では等しく神の徒ですよ」と言って、カトリックとプロテスタントの融和を訴えました。
宴席が開かれたのですが、この時、給仕に変装していた暴漢が姫君を襲いました。近くに居た職員が暴漢を取り押さえたものの、姫君は刺されて倒れています。
市の幹部が青くなります。姫君に万一のことがあればバシルサ公がローテンブルクを攻撃するのは明らかです。
またグレンツが呼ばれました。
グレンツは死神を見ます。死神は足元に立っています。
しかしグレンツはとにかく最善の手を尽くします。
まず体温を見ると高めです。傷の炎症のせいでしょうか。脈拍も速いのですが、心音は心持ち弱い気がします。しかし胸に手を当てて心音を確認した時、胸の小さな娘だなと思いました。姫君は15歳らしいですが、どうも女性としての成長が遅いようです。
傷口を清潔な水で洗浄します。その上で傷口を縫合します。強壮作用のある薬草を溶いたものを飲ませます。しかし姫君の顔色は青ざめていて、誰の目にも瀕死に見えます。
一通りの治療をしたものの、死神は足元に立っています。グレンツは代母の目の前で例の薬草をお湯で溶きました。「ほほぉ」という感じで代母はそれを見ています。そしてグレンツは姫君の護衛の兵士2人に姫君の寝床を180度回転するよう言いました。代母は厳しい顔でグレンツを見ています。
そして姫君が死神に立っている所に枕を向けた所でグレンツは薬草を姫君に飲ませました。姫君の顔に赤味がさしてきます。
「おぉ!」
と声があがります。姫君は心音も弱々しかったのが、力強く打つようになりました。そしてグレンツが一晩頑張って治療を続けた結果、明け方には姫君は意識を取り戻したのです。
「あなたは本当に名医だ」
と市長が言うのに対して
「すみません。本当に疲れたので帰ります。申し訳ないですが、この後のことは他のお医者さんに」
「分かった。誰か適当な人に頼みます」
それでグレンツは精神的にクタクタに疲れて自宅に戻りました。代母に何を言われるだろうと考えています。今回は言い訳を思いつかない気がしました。
ところが帰宅すると、妻のイルマが狼狽しています。
「グレンツェ。どうしよう?ヤスミンが、ヤスミンが」
「え!?」
見ると娘のヤスミンが青い顔をしてベッドに寝ています。体温を確認すると低下しています。脈拍を見ますが、かなり落ちています。そしてグレンツは死神がヤスミンの足元に立っているのを見ました。
死神が言います。
「お前は死ぬはずだった姫君を助けてしまった。そのため、代わりにお前の娘が危篤状態になっている。この子は助からない」
グレンツはキッと死神を睨みました。死神が一瞬ひるみます。
グレンツはイルマに命じて湯を用意させ、薬草を溶かしました。
「イルマ。このベッドの向きはよくない。2人でこの子を逆に寝せる」
「うん」
それでグレンツはイルマと2人でヤスミンを逆向きに寝せたのです。そしてヤスミンの頭が死神の立っている所に向いた所で、グレンツは娘に薬草を飲ませました。
「あぁ!」
とイルマが声をあげました。
ヤスミンの顔に赤味がさしてきました。
「イルマ、後の処置は頼む。必ずこの子は助かるから」
「うん」
「すまない。ぼくはクタクタだ。部屋で寝てるからしばらく起こさないで」
「分かった」
それでグレンツはイルマ、そしてしっかりとした息を立て始めたヤスミンにキスしました。
そして「幸せな人生だったな」と思いながら、部屋に入りました。代母が厳しい顔をして立っています。
「本当に済まなかった。ぼくは多分もう死なないといけないよね。覚悟してる」
「いい覚悟ね。だったら、ちょっと来なさい」