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3人は2ヶ月ほど旅を続けて(*)アナトリアを横断し、コンスタンティノープル(*)の都に辿り着きました。
(*)アール山の山麓からコンスタンティノープルまでは約1500kmある。青森から下関くらいの距離であるが、昔の人は江戸から京までの500kmを半月くらいで歩いている。1日35kmくらいである。現代人からするとかなりの健脚である。女の足でも1500kmは2ヶ月あれぱ到達できたものと思われる。またこの地域はローマ帝国時代から、主要街道はきちんと舗装もして、通りやすくなっていたし、治安も比較的よかったと言われる。なお当時も馬車はあったが、料金も高いし、タイヤもサスペンションも無い時代なので、振動がダイレクトに伝わり、かなり過酷な乗り物だったようである。
(*)コンスタンティノープルの略史
330年5月11日 ローマ帝国のコンスタンティヌス1世がコンスタンティノポリスを建設。
395年、ローマ帝国が分裂し、コンスタンティノープルは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都となる。
1000年頃 この頃が繁栄の頂点。世界の中心都市であった。
1204年 十字軍により占領される(1261年奪回)。
1453年 オスマントルコがコンスタンティノープルを陥落させ、自身の首都とする。
1925年 オスマントルコの皇帝が追放され、トルコ共和国が設立される。これ以降、この都市はイスタンブールと呼ばれることになる。トルコ共和国の首都はアンカラ(**)だがイスタンブールはトルコ最大の都市である。
なお、イスタンブールという名前自体は、コンスタンティノープルの別名として10世紀頃から使われていたらしい。アジアとヨーロッパの境界線となっているボスボラス海峡西岸の都市で、東岸(アジア地区)はハイデラパシャなのだが、現在のイスタンブールの市街地はハイデラパシャを飲み込んで一体化している。近年、両岸を結ぶ橋やトンネルがいくつも建設され、鉄道が直通している。(鉄道は、日本企業との入札競争に勝った韓国資本が建設した)昔は船で海峡を越えていたが、交通事情は大きく様変わりしている。
この物語が元々いつ頃の時代を想定して語られていたのかは分からないが、「世の中に不思議なことがまだ起きていた頃」などとも書かれていたので、ビザンチン帝国の後期かオスマントルコの初期、11-15世紀くらいを想定して書いてみた。
アレグたちの出身地がアール山の西麓(トルコ領内)なのか、東麓(アルメニア)なのかは、よく分からないが、もしアルメニアだとしたら、ひょっとすると、西アルメニアがトルコに併合されていた1636年以降なのかも知れない。だとするとかなり新しい時代ということになり、全然「不思議なことが起きていた時代」ではなくなる。
それで今回のリライトでは、もっと古い時代に設定している。するとアレグたちはアール山の西麓に住んでいたことになる。
なお、アルメニア王国は、1636年にオスマントルコとペルシャに分割統治され、1828年にはペルシャ領の地域はロシアが支配権を獲得した。1920年にロシア支配地から独立したアルメニア共和国が、オスマントルコから旧アルメニア地域の統治権を譲られて300年ぶりの祖国統一を実現した。しかしまだ国の体制が整わない内にソ連赤軍の侵攻を許し、建国わずか2年でアルメニア・ソビエト社会主義共和国として改組されてしまった。ソ連崩壊後の1991年に独立を回復してアルメニア共和国が再建された。
(**)名前が似ているのでよく混同されるアンマンはヨルダンの首都。
アレナクサンたち3人はお城に入る直前にドレスに着替え、手形の換金などもしてから入城します。そして父アルマン侯から預かった手紙を皇帝に提出します。
「おぉ、アルマン侯にこんな可愛いご令嬢がいたとは知らなかった。遠いところ、よく来たね」
と皇帝はわざわざ御簾(みす)を上げて、歓迎してくれました。
3人は皇子様にもご挨拶をしましたが、何だか侍女がたくさん居すぎて!皇子様も御簾(みす)越しでしたし、お顔もよくは分かりませんでした。3人は宮殿内に部屋をひとつ与えられ、そこで過ごすことになりました。
「しかし凄い人数の侍女がいたね!」
とアレナクサンは部屋でくつろいで言います。
「やはりお妃にしてもらおうというので、みんな頑張っているんですよ」
「まあ私は妃にされることだけはないから安心だね。単純にご奉公すればいいし」
「分かりませんよ。見初められて、ぜひと言われたりして」
「私、女じゃないから無理だよ!」
「コンスタンティノープルには、手術して男を女に変えることのできる医者もいるそうですよ」
とザベルが言います。
「マジ?」
「そういうお医者さんにかかって女になられます?」
アレナクサンは少し考えたものの
「手術とか痛そうだからいいや」
と答えました。
アレナクサンたちの皇宮での生活は、やや退屈なものでした。
皇子の侍女といっても、身の回りの世話などは小さい頃から付き添っている侍女や侍従たちがしているので、アレナクサンを始め、各地の領主が送り込んで来た娘たちは、雑用などはせず、もっぱら挨拶回り!をしたり、お互いにお茶(*)などに招待しあって雑談などしていました。
アレナクサンはお茶を通して、黒海沿岸トラブゾンから来たアイセ姫、エーゲ海沿岸の大都市スミュルナ(現イズミル:トルコ第3の大都市)から来たネシア姫などと仲良くなりました。ふたりとも
「アレナクサン姫はすごく可愛いから、皇子様の目に留まるかもよ」
などと言って応援してくれましたが、アレナクサンは
「きっと大臣とか将軍とかの姫様が選ばれると思うよ」
などと返事していました。
また姫たちは、毎日、適当な紙(*)に詩を綴っては皇子様に届けていました。(絵の得意な娘は絵を描いたりもしていた)
アレナクサンの詩を届けるのは行儀作法の躾けがしっかりしているザベルの役目でしたが、皇子の側近の侍女か侍従に渡すだけで、直接皇子にお目通りすることはありませんでした。
(*)中世の中東地域では、シャーバット(Sharbat, シャーベットsherbetとも)などのソフトドリンクが結構飲まれていたようである。これは果実や花びらなどで、香りや色を付け、ハチミツなどで甘味を付けた飲み物で、皇宮などの財力のある所では、しばしば凍らせて、まさにシャーベット状にして食べたりもしていた。インドのティーも15-16世紀頃には入ってきていたはずであるが、アレナクサンの時代にあったかどうかは不明。
(*)“皇子様に贈るのに適当な”という意味。中国で蔡倫が紙を発明したのはAD105年のことで、中東地域では12-13世紀頃にはかなり一般化していたものと思われる。17世紀頃にはフランスなどで工業的に紙が生産されるようになり安価な紙も入手できるようになるが、この時代はまだ高価なもので、庶民には自由にならないものであった。更に皇子様に贈呈するような“素敵な紙”は結構なお値段がしたものと思われる。
ちなみにここでの“侍女”たちの生活費は当然、各々の父持ちである!皇帝は各々の姫たちに部屋を無料で使わせる便宜をはかっているだけである。アルマン候を含む各領主は手形を書いて送り、それをカリナたちが町で換金して生活費を受け取っていたものと思われる。
お城での生活があまりにも退屈!なので、アレナクサンは時々宮殿を抜け出すと城の裏手にある林の中や皇宮内に引き込まれている小川のほとりなどで、横笛を吹いたり、時にはカリナも連れてきて一緒にネイやウードの合奏をしたりして息抜きをしていました。カリナもあまり礼儀作法がきちんとしている方ではないので、皇宮での生活は肩が凝るものだったようです。
ある日、アレナクサンがひとりで小川の傍で横笛を吹いていたら
「変わった笛だね」
という男性の声があります。誰もそばに居ないと思っていたのでアレナクサンはビックリしてむせてしまいました。
「大丈夫?」
と言って、男性はアレナクサンの背中をさすってくれました。
「すみません。うるさかったでしょうか?」
アレナクサンはお城の侍従か何かかと思い尋ねました。
「とんでもない。素敵な音楽は騒音とは違うのだよ。この笛の音(ね)を聞いて、うるさいと思う人などいないよ」
と彼は言いました。
アレナクサンはホッとしたものの、なんかこいつ軽薄そうだぞと警戒します。うまいこと言いくるめられて、手籠めにされたら・・・
女でないことがバレて困っちゃう!
と思います。
「でも横に構えて吹く笛は初めて見た」
と男性は言っています。
「横笛はバグダッドで流行っていると聞きました。でもありがとうございます。それでは失礼します」
と言って部屋に帰ろうとしましたが
「あ、待って。合奏しようよ」
と彼は言います。
彼は近くにいた部下?を呼び寄せると、ウードを取って来させました。それで彼は
「『小人たちの夏祭り』って知ってる?」
と訊きますので
「分かります」
とアレナクサンは答えました。
「そうそう。僕はアリム」
「アレナクサン・アルマンです」
それでアリムのウードとアレナクサンの横笛で即興の合奏が始まりました。
笛を吹いていて、アレナクサンはアリムがかなりのウードの弾き手であることを認識します。これは音楽の先生になれるレベルです。彼が上手いのでこちらも凡ミスはしてはいけないと思い、頑張って笛を吹きました。