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■夏の日の想い出・小2編(1)

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(C)Eriko Kawaguchi 2013-08-24

 
私は幼稚園の頃は髪を胸くらいまでの長さにして、結構可愛い服も着せてもらっていたし、自分のことは「わたし」とか「あたし」と言っていたらしい。しかし小学校に入ると、髪は耳が見えるくらいまで切られてしまったし、1年の時の担任の先生は私に「君は男の子なんだから『ぼく』と言いなさい」と言った。それで私は最初はかなり自分で言ってて違和感があったものの何とか「ぼく」と言えるようになった。でも当時の学校生活はとても憂鬱だった。
 
そういう生活に一筋の明かりが差したのが、放課後のピアノレッスンだった。音楽準備室に置かれていたピアノを弾いていた私に、隣のクラスの担任だった深山先生が気付き、丁寧にピアノの初歩を教えてくれた。それで私はピアノを弾くことができるようになった。また先生は私の性別についても許容的で、私が「ぼく」と自分のことを言うと違和感があると言い、私が幼稚園の時は「わたし」と言っていたと言うと、この音楽準備室にいる時は「わたし」でいいよと言ってくれた。それで小学1年生の時、教室では担任の先生に言われた通り「ぼく」と言っていても、音楽準備室でピアノの練習をする時だけは「わたし」という自称を使っていたのである。この音楽準備室でのピアノの練習には親友のリナも付き合ってくれていた。
 
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そしてその年の秋、ある偶然の出来事から、先生は私が女の子の服を着ている時は、男の子の服を着ている時より、ずっと上手にピアノが弾けることを発見。それから私は毎日放課後、音楽準備室で女の子の服に着替えてピアノの練習をするようになった。最初は学校に置かれている、緊急用の着替えの服を着ていたのだが、その内、先生が親戚の子の古着を持って来てくれたり、リナが自分の服で少し趣味に合わないものや、自分には小さくなったものを持って来てくれたりして、私の女の子の服のストックは増えていった。
 
そして2年生になった時、その深山先生が担任になった。
 

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先生は教室でも「わたし」と言っていいよ、と私に言った。それで小学校の6年間の中で、実はこの小学2年の1年間だけ、私は自分のことをみんなの前でも「わたし」と言っていたのである。それは小学3年の時にまた男の先生が担任になり、「男の子は『ぼく』と言いなさい」と再び言われて矯正されるまで続いた。
 
ちなみにその間、「女の子は『わたし』と言いなさい」と言われ続けた麻央は一貫して「ボク」という自称を使い続けた。
 
私はリナからも美佳からも
 
「先生から言われたこと気にせずに、自分が使いたい言い方で自分のこと呼べばいいのに」
 
と言われていた。麻央も「そうだ、そうだ」と言ったが、麻央は
 
「いや、麻央は『わたし』と言った方がいい」
と突っ込まれていた。
 
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麻央の「ボク」は結局大人になってもそのままであった。だから麻央と佐野君の会話は(麻央の話し方自体も男っぽいので)男の子同士の会話に聞こえてしまう。真央は別に男声で話している訳ではないのに、電話でもしばしば男と間違えられていた。それは私にとって良い「反面教師」でもあった。
 
(初めて真央が佐野君のお母さんと電話で話した時、佐野君のお母さんは、息子が男と結婚するつもりなのか?と仰天したらしい)
 

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2年生の最初の保護者面談の時、私の母は先生とこんな話をしたらしい。
 
「あの子、赤ちゃんの頃から、赤い服とか可愛い服を着たがって。物心付いた頃には、よくお姉ちゃんのスカートとかも穿いてたんですよ。やはり上が女の子のせいか、それを真似したがるんでしょうかね。あの子、ちゃんと男の子として育っていけるか心配で」
 
と母が言ったのに対して、深山先生は言った。
 
「むしろ、本人の生きたいように生きさせてあげてはどうでしょうか? 性別というのは、どちらの生殖器が付いているかということより、本人の精神的な発達の方が大事だと思うのですよね。冬ちゃんが自分はやはり男の子だと思ったら、きっと小学4−5年生になって思春期が始まれば男らしくなっていきますよ。でも、それは親や教師が、男か女かという枠組みに無理に当てはめるのではなく、本人の個性に任せればいいのではないでしょうか。本人がスカート穿きたいと言ったら穿かせてあげてもいいだろうし、野球選手とかお相撲さんになりたいと言ったら、ならせてあげてもいいのではないでしょうか?」
 
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深山先生が言った言葉は、実は母も多少考えていたようなことだったので、先生の考えに納得し、それから母は私の性別に対してほんとに許容的な態度を取るようになったらしい。
 
「でも、冬が野球選手とかになる姿というのは想像が付きません」
「私も冬ちゃんが背広とか来て、会社勤めしているような様子も想像すると違和感がありすぎて」
「やはり、冬はOLとかになってしまいそうな気がします」
 
などとふたりは話し合ったらしい。
 
それで1年生の頃は結構短い髪だった私は、2年生になってから少し髪を伸ばし始め、肩につかない程度の長さまで伸ばした。これは父から文句を言われたり男性の担任に当たった年に先生から時々注意されたりしながらも、結局6年生の時まで、その長さの髪を押し通した。
 
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深山先生は、同じクラスの女の子たち数人と私を呼び、私のトイレ問題についても話し合った。呼ばれた女の子たちの全員が
 
「冬ちゃんは女子トイレを使うべきだと思う」
 
と言ったので、それでこの年、私は校内で女子トイレを使用していた。それはやはり翌年、男の担任の先生になり、私に女子トイレの使用禁止を告げられるまで続いたのである。
 
私は幼稚園の頃も、一応基本的には男子トイレの個室を使ってはいても、しばしばリナたちに手を引っ張っていかれて女子トイレを使うこともあった。また幼稚園外では、むしろ女子トイレを使うことの方が多かったようである。1年生の時も、かなり短い髪であったにも関わらず、私が町や公園、遊園地などで女子トイレに入っていて注意されたりしたことは一度も無い。むしろ男子トイレを使おうとして注意されたことは山ほどある。
 
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むろんお店の人などに私がトイレの場所を聞けば確実に女子トイレに案内されたし、中には(定員1名のトイレの場合)わざわざ女子トイレの中をのぞき込んで「今空いてるよ」と教えてくれるお姉さんもいた。
 

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体育の時間の着替えについては、1年生の時は、同じクラスの中で、男子は窓側に寄り、女子は廊下側に寄って、同じ教室で着替えていたが、私は当時はまだ男子扱いであったにも関わらず、男子達からは「あっち行けよ」と言われ、女子達にも「こっちおいで」と言われて、女子達と一緒に廊下側の方で着替えていた。
 
2年生になると更衣室を使うようになるが、私は女子のクラスメイトと一緒に、女子更衣室で着替えていた。
 
「冬ちゃん、ちゃんと下着も女の子下着を着けてるね」
「そりゃ、冬は女の子だもん。男の子下着を着ける訳がない」
 
などと言われていた。当時の私の服装というのは、一応女の子シャツに女の子ショーツを穿き、男女どちらでも着られるようなTシャツやトレーナーに下はショートパンツというのが多かった。ちなみにショートパンツはだいたい女子用でファスナーの付き方が男子用と逆であったり、またファスナー自体が短くて、そこから、おちんちんを出して小をすることはできない作りだったり、そもそも前の開きが飾りだけだったり、全く無かったりしていた。
 
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「冬ちゃん、パンツの上から、おちんちんの形が確認できない」
「えへへ」
「おちんちん取っちゃったの?」
 
そういう時
「ああ、たぶん、冬には元々おちんちんは無かったんだよ。だって私幼稚園の頃に冬と一緒にお風呂に入った時も、冬のおちんちん見てないよ」
などと言ったのはリナである。
 
「じゃ、ほんとに無いんだ?」
「ごめーん。そのあたり、どうなっているのかは内緒ということで」
と私は逃げておいた。
 
実際には、リナは私のおちんちんを見ているはずなのだが、リナにも見られないようにうまく隠しながら一緒にお風呂に入ったこともあるので、その時の印象が強く残っていたせいではないかと私は思う。
 

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私は幼稚園の頃から絵が上手くて、よく褒められていたし、当時私が描いたセーラーウラヌスの絵などが今も残っている。しかし私の絵は、小学1-2年の頃ある人に絵の基本を教えてもらって、かなり上達したのである。それが麻央のお母さんだった。
 
麻央のお母さんは、私や麻央が中学生になった頃まで、私のことを本当に女の子だと思い込んでいたらしい。(麻央のお兄さんの和義さんなど、大人になるまで知らなかったらしい)
 
私が描いた絵を見て、お母さんは最初
「これまるで中学生くらいの子が描いたみたい」
 
と言って驚いていた。
 
「でも私の絵って、全部少女漫画みたいになっちゃうんです」
「少女漫画を描けるのは、それはそれで偉い」
「あ、ですよねー」
「私そういう感じの絵は得意だから、少し基礎を教えてあげようか?」
 
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などと言って、昔練習に使っていたというワークブックなどをくれて、丸や四角を描いたりする基礎レッスンをするように言い、後には髪の毛の描き方、服などの質感の出し方などまで丁寧に教えてくれた。
 
お母さん自身の描いた絵も見せてもらったが、ものすごくきれいだった。
 
「すごーい。漫画家みたい」
と言ったら
 
「うん。実は少女漫画家だったんだよ」
と言われてびっくりした。
 
月刊の少女漫画雑誌に連載を持ったこともあったらしいが、あまり人気が出ずに1年で終了して、その後は何度か新しい漫画の案を出したものの採用してもらえず、他の漫画家さんのアシスタントを5年くらいしてから、結婚を機に漫画の世界から離れたのだそうである。
 
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アシスタントをしていただけあり、様々な漫画家のタッチを真似て描いてみせてくれたりもした。
 
「すごーい。これ本当に****先生が描いたみたい」
「そう見えるように描けないとアシスタントは務まらないから」
「わぁ」
「でも冬ちゃん。私は仕事だからこういうコピー描きもしてたけど、冬ちゃんは、誰かの真似をして描くんじゃなくて、自分オリジナルの描き方を見つけないといけないよ」
 
「あ、それうちのお祖母ちゃんから、私の歌のことでも言われた」
 
「まあ、歌でも絵でも、自分の流儀を見つけるのはとても大変だけどね」
 

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その歌に関して、この年、私はとても重要な指導者を得た。彼女と出会ったのは大きな川の岸辺だった。私は当時よく川岸で大きな声で歌っていた。
 
「君、歌うまいね。何年生?」
「2年生です」
「凄い。3年生くらいかと思った。それだけ歌えたらMS少年少女合唱団とかに入れるよ」
と彼女は言った。
 
「わたし、入らない」
 
私の脳裏に1年ほど前の嫌な思い出が蘇る。
 
私が歌が好きなようだというので、1年生の時、母は私を少年少女合唱団に連れて行った。テストで歌わせて「凄い!」「上手い!」「本当は本隊は3年生からだけど、これだけ歌えるなら、1年生でもすぐ本隊でいいね」
などと言われた。
 
ところがその後が問題だった。団の制服は、女子は青いジャケットにタータンチェックのスカートだが、男子はアースカラーのジャケットに黒いハーフパンツであった。また女子は首のところがリボンだが、男子は蝶ネクタイである。
 
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私は男の子だからというので、その服を着せられた上に、
「君、少し髪が長いね。それだと女の子と間違えられるよ。もっと短く切ろう」
などとまで言われた。
 
それで私は「髪はこれ以上切りたくないし、あの制服は着たくない」と言って、結局2度と、団の練習には出て行かなかったのである。結局、私は入団辞退ということになったようであった。
 
「ふーん。何かあるのかなあ。だったら、私が少し歌い方教えてあげるよ。あ、私、6年生の松井静花」
「わあ、嬉しい。お願いします。私、2年生の唐本冬子です」
「へー。冬子ちゃん、よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
 
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