【娘たちのエンブリオ】(2)

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翌10月19日(日)。千里・龍虎・冬子・政子・織絵の5人は一緒に札幌全日空ホテルで朝御飯を食べると、スカイラインに5人で乗って玲羅のアパートまで行く。そしてここで織絵にスカイラインの鍵を預け、政子と2人で「ドライブでもしておいで」と言って送り出した。2人を送り出したのは織絵に気分転換させるためと、政子はこの後の“作業”に邪魔!だからである。
 
それで冬子・千里・龍虎と玲羅の4人でお掃除をした!
 
「でも昨日来た時よりかなり片付いている気がする」
と冬子が言っている。
 
「さすがに酷すぎると思って、昨夜頑張って掃除しました」
「それは大変だったね!」
 
「でも布団買って来なくちゃね」
 
「私行ってきます」
と玲羅が言い、車で出かけた。
 
玲羅は結局アパートとイオンを3往復して織絵用の布団、そして食料品・雑貨などを買ってきた。
 
「それは?」
「マリさんから頼まれた買物です」
「おやつがいっぱい!」
 
玲羅が買ってきてくれたお総菜でお昼にしようかと言っていたら、政子たちが戻って来るが、政子が戻るなら足りない!というので宅配ピザを5枚頼んだ。
 
「織絵ちゃんたち、どこ行ってきたの?」
「取り敢えず市内で買物してた」
「買物も結構気が晴れるでしょ?」
「うん。100万円の真珠のネックレス買っちゃったよ」
と言って、大型の青いジュエリーケースに入った大粒のネックレスを見せる。
 
「きゃー。100万円?」
と玲羅が悲鳴をあげる。
 
「そういう大きな買物すると、結構気が晴れるよね」
「でもどうしよう。私もらった退職金2000万をあっという間に使ってしまいそう」
「ポルシェ991だと新車で2000万円くらいするね」
「きゃー、やめてー、唆すのは!」
 
「それ1500万円くらい、別口座に移して、通帳やカードを誰かに預けた方がいい」
「そうしようかな」
 
結局それは冬子に管理してもらうことにした。美来も危ないし、うちの母ちゃんも危ない、などと織絵は言っていた。
 

「そうだ、これ買ってきたのよ」
と言って政子が何だかとても可愛いスカートを取り出す。
 
「これアクアちゃんにプレゼント。君、ジーンズもいいけど、スカートの方が絶対似合うよ。昨日はあまり可愛いの見つけられなかったんだよね〜」
 
「え〜?私、スカート苦手です」
 
「だって中学の制服はどうせセーラー服か何かでしょ?君のように可愛い女の子はスカートの方が絶対いいって」
 
それで龍虎は困ったような顔をしながらそのスカートを受け取る。
 
「下着もまた買ってきたよ。パンティは、イチゴ模様、水玉模様に、キティちゃんのバックプリント、ブラジャーは、ぷりりのB65を2枚」
 
「ありがとうございます」
と言って、龍虎はそれも少し困ったような顔をしながら受け取った。
 
「じゃ着換えて来ます」
と言って、バスルームに行き、ファンシーなプリーツスカートを穿いて来た。
「おお、可愛い!」
 
「ほんと可愛い。アクアちゃん、絶対スカートの方が似合ってるよ」
 
そういう訳で、この日アクアは後半はスカートで過ごすことになった。なお、脱いだ服とかを入れるのに玲羅が、紙袋と旅行用バッグを出してあげた。
 
「この旅行用バッグはアクアちゃんにあげるよ。500円で買った安物だけど」
「じゃ頂きます」
と言って、アクアは下着の交換したのと未使用分をバッグの中に左右に分けて入れ、穿いて来たスリムジーンズは紙袋に入れていた。
 

やがてピザが届く。冬子が代金を払うが、受け取ったピザを食卓まで運んだ玲羅は
 
「私出前とか頼んだの初めて」
と言っている。
 
「留萌には出前とかする所無かった?」
「いや貧乏だから。私も出前頼んだこと無かった」
と千里も言っている。
 
「お父ちゃんたちが結婚した時は、取り敢えず市営住宅に入るけど、5年くらいのうちに家を建てようなんて言ってたらしいね」
「うん。でも温暖化の影響なのか、魚の居る領域がどんどん北の方にずれていってロシアの排他的経済水域になっちゃって、スケソウダラが獲れなくなったから、うちもどんどん貧乏になっていって」
 
「お姉ちゃんが高校入る直前に船団が廃止になってお父ちゃんが失業して」
「それで私は高校にやれないから、中学出たらどこか就職してくれと言われたんだよね」
と千里は言う。
 
「大変だったんだね!」
 
「それが中学のバスケ部で旭川に出て行った所を旭川N高校の宇田先生に見初められて、授業料のいらない特待生にするから、うちに入ってくれと言われて。おかげで私は高校に行くことができた」
と千里。
 
「それで高校に入って、その友人たちとDRKというバンド作って活動してたら∞∞プロの谷津さんに見初められたんだよね。でも私たちは勉強が忙しいから『もっといいバンドの見つかる場所を教えます』といって私が占ったら、そこで Lucky Tripper というバンドと Red Blossom というバンドがセッションしている所に行き当たって、両者合体させて Lucky Blossom としてデビューすることになる。でもここでバンドを合体させたからベースがダブってしまった」
 
「それでこのバンドを占いで見つけてくれた私に、ベースはどちらを採用するか、それとフロントマンになる鮎川ゆまは、歌った方がいいかサックスを吹いた方がいいか。その2点を占ってくれと言われて私は東京に呼ばれた。そこでゆまさんの先生に当たる雨宮三森先生に出会い、その縁で私は音楽業界にだっぷり填まり込むことになった」
 
「物凄い巡り合わせだね」
 
「宇田先生、谷津さん、雨宮先生、その誰か1人でもいなければ今の私は無い。そして雨宮先生のお手伝いして色々曲を書いたり編曲したりとしていたおかげで私自身の学費が稼げたし、妹の学費も出してあげることができた」
 
「自分の学費を全部自分で稼いだんだ!」
 
「親からは高校入学の時の費用を出してもらった以降は全く仕送りが無かったから」
 

話を聞きながら冬子は疑問を感じていた。
 
授業料の要らない特待生って、それは物凄く枠が少ないのではということ。そしてそんな枠を持っている学校って、物凄く強い所なのではということ。すると千里ってひょっとしたら強豪高の超凄い選手?そしたら、そしたら、まさか千里って今でも超凄い選手なんだったりして!?
 
「あの時期、この家はどうなっちゃうんだろうと思ってた。お姉ちゃんのお陰で私も高校、大学と入ることができた。私も中学出たら働いてくれと言われていたし、私はむしろその前にこの家は一家離散になるのではと思ってたよ」
と玲羅は言う。
 
「まあどん底を経験した人間は強いよね」
と政子は言いつつ、自分自身も2009年から2010年に掛けて、精神的に深い底に沈んでいた頃のことを思い出していた。
 
そして龍虎も幼稚園から小1までの時期のことを考えていた。
 
「だから織絵ちゃんもしばらくここで心を休めてからまた再起すればいいよ」
と千里は言った。
 
政子は青葉に織絵のヒーリングをしてもらえないかなと言ったので千里が連絡してみたが、青葉は携帯の電源を切っているようであった。それで取り敢えずメールを送っておいた。
 

千里は昨夜《びゃくちゃん》と交替で葛西に行って、そのまま待機している《きーちゃん》にメールして頼んだ。
 
(1)インプレッサを羽田空港の駐車場に移して欲しい。(2)その後空港のレンタカー屋さんでアクアを借りて、やはり駐車場に駐めて欲しい。(3)熊谷市までアクアでアクアを送っていくのを頼みたいから、インプの毛布持ってきてアクアの中で寝ていて。
 
最後の一文には《きーちゃん》は2分くらい悩んだ!
 

お昼を食べた後、掃除を続けるが、織絵と政子は再び外出させた。また玲羅はゴミの一部を車で処理場に運んでいき、ゴミの袋が随分減った。午後5時頃になって、何とか6畳の方も物が片付き、電気カーペットを敷ける状態になった。それを敷くと思わずパチパチと拍手が起きた。
 
5時半頃、政子から
「お腹空いた。昨日はジンギスカンだったから、今日は蟹を食べたい」
などという連絡が入る。
 
「じゃみんなで食べに行こうか」
 
玲羅がお勧めの蟹料理店に予約の電話を入れた。政子たちには現地に直接行ってもらい、こちらは玲羅のセフィーロに4人乗ってそのお店に向かった。
 
蟹のお寿司、蟹のセイロ蒸し、蟹の天麩羅、蟹の茶碗蒸しなど蟹の料理に加えて蟹脚食べ放題というコースを頼んでいたのだが、その蟹脚の消費量が物凄いので、お店の人が結構焦っている感じだった。
 
龍虎は
「北海道の蟹、凄く美味しいですね!」
と言ってニコニコしながら食べていた。
 

冬子は食事中にトイレに行くような振りをして席を立ち、いったんお店の外に出ると、麻央に電話をした。
 
「ちょっと頼まれてくれないかなと思って。バイト代出すから」
「おお、やるやる。どんな仕事?」
「ちょっとひとり尾行して欲しいんだよね」
「彼氏が浮気してないかの調査?」
「尾行するのは女の子。物凄いロングヘアの子だから見ればすぐ分かると思う」
「へー」
 
「今札幌に来てて、最終便で羽田に戻る予定なんだけど、私たちと一緒に羽田に着いた後、たぶん千葉に戻ると思う。そのあと1週間くらい昼間の行動をチェックしてもらえると嬉しい」
 
「じゃ、トシとふたりでやろうかな。車あった方がいい?」
「多分あった方がいい。向こうもインプ乗りだから」
「おおっ、それはすごい」
 

冬子が席を立っている間に青葉から千里に電話があり、少し事情を話すと、青葉はそういう事情なら学校を休んで1週間くらい札幌に行き、ヒーリングしてくれるということだった。
 
蟹料理屋さんを出た後は、玲羅と織絵をセフィーロで帰し、冬子・政子・千里・龍虎の4人はスカイラインで新千歳空港まで行く。そこで車を返却し、羽田行き最終に搭乗する。冬子が龍虎には性別Fの航空券を渡していた。
 
「だって性別Mで発行したら『お客様この航空券は違います』と言われる」
と冬子が言うので千里も笑って同意した。
 
その龍虎(スカートを穿いている)は、トイレで
「君、こちらは男子トイレ、女子トイレはそっち」
と言われていた。
 
「あの子、もしかして男の子になりたい女の子?男子トイレを使いたがってる?」
と政子が訊くが
 
「間違えたんでしょ。近眼みたいだし」
と冬子が言うと、それで政子は納得していたようだ。
 

23:10に羽田に到着。冬子が龍虎にタクシーチケットを渡して帰そうとしていたが千里は
「お友だちに頼んで家まで送ってもらうことにしたから」
と言い、《きーちゃん》に空港の玄関まで迎えにきてもらい、彼女の運転するトヨタ・アクアの後部座席に乗せた。
 
「わぁ!車がアクアだ!」
と龍虎ははしゃいでいた。
 
「龍虎ちゃん、到着は午前2時くらいになると思うから、後部座席でそこに用意している毛布をかぶって寝てて」
と《きーちゃん》は言う。
 
「はい、そうします」
と言って龍虎は本当に横になっていた。それでトヨタ・アクアは出発した。
 
「龍虎ちゃんの住んでいる所って遠いんだっけ?」
と冬子が訊く。
 
「タクシーなら5万円行くと思う」
「きゃー。ごめーん。だったら、千里のお友だちに後でこれ渡しておいて」
と言って、冬子が5万円渡そうとしたが、千里は
「さすがにもらいすぎ」
と言って3万だけもらい、2万は返した。
 
実費はレンタカー代8000円とガソリン代2000円程度で1万円で済むのだが、残り2万はきーちゃんのお小遣いだ。
 
冬子と政子は京急・山手線の乗り継ぎで帰ると言っていたが
「冬たちこそタクシーにしなよ」
と千里は言った。
 
「それがいいかも知れないな」
と言って、結局タクシーに乗る行列に並んだ。その時千里は気付いた。
 
「あ」
「どうしたの?」
と冬子が訊く。
「龍ちゃんから預かっていたジーンズの袋を私が持ってる」
「ああ。だったら龍虎ちゃんはスカートのまま帰宅することになるね」
と冬子。
「まあ今更な気がするけどね」
と千里。
 
政子が何だろう?という感じで見ていた。
 
「まあいいや。次に会った時に渡すよ」
 

それで千里は空港の駐車場に向かい、インプレッサに乗った。エンジンを掛けて車を出す。実際に運転しているのは《こうちゃん》で千里は後部座席に行って横になっている。この時点で千里に付いている眷属は、こうちゃんの他は、とうちゃん・りくちゃん・せいちゃん・げんちゃん・たいちゃんの5人である。
 
きーちゃんは龍虎を送って行っている。わっちゃんはバックアップのため、その車の助手席に乗ってもらった。すーちゃんはスペイン、てんちゃんは昨夜はファミレスで勤務していたが今日はお休みで桃香のアパートで寝ている。いんちゃんとびゃくちゃんは羽田で別れて葛西に向かう。いんちゃんは明日朝1番の新幹線で兵庫県市川町に向かう予定である。
 
《りくちゃん》が最初に気付いた。
 
「おい。後ろの青いインプレッサ、この車を尾行しているみたいだぞ。羽田からずっと付いてくる」
「偶然同じ方向に行くということは?」
「だったらちょっと待て」
 
《こうちゃん》は首都高でわざと遠回りのルートを取ってから東京ICに向かった。青いインプはその後ろをずっと付いてきた。
 
「間違い無い。尾行している」
 
千里は起き上がって後ろの車を見た。
 
「ああ。この子たちなら心配無い」
 
夜間に100mくらい後方の室内灯を点けていない車内の人物の顔が見えてしまうのが千里の視覚の凄さ(異常さ)である。レオパルダの教育チームで一緒だったリディアなどは「千里は10km向こうのライオンを見つけてサバンナで生きていけるタイプだ」などと言っていた。
 
「千里、知ってるの?」
「冬子の友だちだよ。運転しているのは佐野敏春君といって、冬子の高校時代のお友だち。助手席で仮眠しているのは、その奥さんで、冬子の姉の夫の妹で小山内麻央ちゃん」
 
「え?助手席の子、男じゃないの?」
とわざわざ後方の車のそばまで行ってきた《りくちゃん》が言う。
 
「男のように見えるかも知れないけど女の子だよ」
「へー。類友というやつか」
「それ私もよく言われる。きっと、私の生活に疑問を持った冬子が私を尾行させているんだよ。放置でいい」
 
「じゃ撒かなくてもいいんだな?」
「むしろちゃんと付いてこれるように上品に走って」
「OK」
「じゃ何かあったら起こしてね。おやすみ〜」
 
それで千里は眠ってしまった。
 

《こうちゃん》が運転する赤いインプレッサは東名から伊勢湾岸道・東名阪・新名神と走る。青いインプレッサは見失うのを恐れて、ピタリと80mほど後ろを付いてくる。草津JCTから名神に戻って桂川PAで休憩する。
 
10月20日(月)6:00頃である。
 
千里がトイレに行くので、佐野君もトイレに行った。千里は佐野君が戻ったのを見計らってトイレから戻り、自ら運転席に座るとお化粧を始めた。千里としてはその間に麻央ちゃんもトイレに行ってくればいいのにと思ったのだが、万一こちらが先に出た場合に備えて我慢しているようである。あまり待っても仕方ないのでお化粧が終わった所で車を出した。麻央が運転する青いインプレッサもその後を追う。
 
千里は大阪中央環状線に移り、千里(せんり)ICで下道に降り、いつもの月極駐車場に入れる。そして車を降りて歩いて駐車場を出ると佐野君が10mほど離れて千里を追尾してきた。彼が自分を見失わないように気をつけながらHホテルまで歩き、そこのラウンジで貴司と会った。
 
一緒に朝食を食べるが、佐野君と麻央ちゃんも離れた席に座って朝食を頼んだようである。やがて千里たちが朝御飯を食べ終わって出るので、佐野君たちもお店を出る。
 
千里と貴司はHホテル向かいのTimesの駐車場に駐めていたA4 Avant(朝貴司が市川町から運転してきた)に乗り込むと、佐野君と麻央が「しまった」という顔をしているのを置き去りにして、新千里北町方面へ走り去った。
 

「今の所凄く順調だよ。看護婦さんに来てもらって採血して、阿倍子のホルモンを毎日モニターしてるんだけど、数日前から何とかホルモンってのの値が高まり始めたらしい」
と千里が運転するA4 Avantの助手席で貴司は言った。
 
「HCGホルモンでしょ?」
「あ、なんかそんなの」
 
実は千里自身もHCGが高くなり始めたのである。
 
「今度はうまく行くかも」
「うまく行かせようよ。前の旦那さんとやってた時からすると多分50回目くらいの妊娠成功なんじゃないかな」
「うん。それを願おう。でもごめんね。千里に妊娠してもらいたかったんだけど」
「いいんだよ。誰が妊娠したって、京平は私の子供だから」
 
「・・・ね、卵子提供した人って、やはり千里ということは?」
「まさか」
 
貴司も今はその件をあまり深くは追及しなくてもいいと考えたようであった。
 

「阿倍子さん、妊娠が安定するまでは入院させておいた方がよくない?」
「それも実は医者も交えて相談したんだけど、入院していたら気が滅入りそうだから、自宅に居たいというんだ」
 
「でも彼女って、スーパーに買物に出ただけで気分が悪くなるような人なんでしょ?」
「そうなんだよ。だからどうしようかと思って」
 
「ハウスヘルパーを雇いなよ。それで買物とか家の中の掃除とか全部してもらう」
「あ、それがいいかも知れない」
「過去の流産の原因は体力を越えて身体を動かしたことかも知れないよ。2年前のなんて、あれお父さんのお葬式で心労が重なってる」
 
「ひょっとしたら、そうかもという気がしてきた」
 
「貴司が頼む?」
「うーん。そのあたり、どういう所がいいのかよく分からなくて」
「だったら私が手配しておくよ」
「すまん。頼む」
 

それで千里は葛西に居る《びゃくちゃん》に問い掛けた。
 
『ね、阿倍子さんが安定するまで日中だけでいいから、ハウスヘルパーとして付いててあげてくれない?』
『それは私にしかできないよね?』
『うん。悪いけど』
 
《びゃくちゃん》は医学的な知識が豊富である。実際に医師の資格を取ったことも何度かあるらしい。
 
『阿倍子さんが貴司君の子供を妊娠することに千里が嫌な感情を持っていないのならやるよ』
『私は京平の肉体が作られればそれでいい』
『分かった。やる。でもそしたら葛西の留守番役はどうしよう?』
 
『さすがにファミレスはもう退職できると思うから、その後はてんちゃんが空くと思うんだけど、現時点では火木土の夜が空かないんだよね。。そうだ、わっちゃんにやってもらおうか?』
 
『それファミレスと留守番のどちらを?』
『あの子にファミレスの夜勤できると思う?』
『あの子、おっとりとしているから厳しいかも』
『じゃ葛西の留守番を頼もう。ついでに楽譜入力係』
『ああ、楽譜入力は若い子がやった方が、品質よくなるかもよ』
と《たいちゃん》が言っている。
 
『それもいいかも』
 
《わっちゃん》はまだ100歳になるかならないかくらいの、とても若い精霊である。
 
『じゃ、たいちゃん、わっちゃんにCubaseの使い方教えてあげてくれない?』
『いいよ。覚えてくれる人が増えると私も楽になるし』
『いつもごめんね〜』
 

千里と貴司は実は豊中市内の体育館に行き、2時間ほど一緒に汗を流した。この日貴司は有休を取っている。実は午後から阿倍子を連れて産婦人科に行き、状況をチェックしてもらうことにしているのである。
 
11時頃に練習を終え、銭湯に行く。むろん貴司は男湯、千里は女湯である。12時頃にあがってレストランに入り、一緒に昼食を取った。それから千里(せんり)のマンションに一緒に戻り、千里は貴司にキスをして車を降りて歩いてマンションの駐車場を出た。その後貴司は阿倍子を呼びに行き、彼女を乗せて産婦人科に向かうはずである。
 
阿倍子はエンジェルハートの愛用者でいつもその香りを漂わせている。結果的に他人の香りに鈍感でもある。千里はスポーツをする関係で香水は基本的には使用しない。それで千里が降りた後で阿倍子が乗っても、香りで気付かれることはない。ただ長い髪が落ちてないかだけは気をつけている。
 
千里は自分が降りた後で阿倍子が乗る時はハンディ掃除機を掛ける。逆に阿倍子が乗った後で自分が乗る場合は窓を開けて香りを抜く!また活性炭の脱臭剤を車内運転席下に置いている。
 

千里は自分の車を駐めている駐車場まで歩いて戻った。入口近くに佐野君がいるのは気付かないふりをして、インプを駐めている所まで行く。そして麻央ちゃんが戻ってくるのを待ちながら、携帯で国盗りをしていた!
 
麻央ちゃんが青いインプレッサで戻ってきたので千里は自分の赤いインプレッサのエンジンを掛け、駐車場を出た。ガソリンが少ないので近くのGSに入り、満タン給油する。後方で向こうも給油できるように先端の給油ポイントに駐めたのだが、青いインプはGSの少し後方でハザードを焚いて停止していた。燃料、大丈夫なのかな?私がデートしている間に満タンにしてたかな??
 
千里がGSを出ると向こうもハザードを消し、右ウィンカーを点けて動き出す。そして千里の車を付けてくる。
 
千里が千里ICを登ると向こうは慌てたようである。車を停めて運転席を交替しているようだ。ああ。麻央ちゃんには東京までのノンストップ運転は無理かもね、と思う。こちらは一時的に路側帯に寄せて停車させて待つ。向こうがランプを登り始めた所でこちらも発車した。できるだけゆっくり走っていたら10分ほどで追いついてきたので、その後は通常の速度に戻した。
 
「千里、運転代わるぞ」
「よろしく〜」
と言って、千里は後部座席に行き、毛布をかぶって眠った。その間《こうちゃん》が、佐野君の追尾しやすい速度で走って東京まで行った。
 

《こうちゃん》の車は名神・東名を走り、やがて首都高を錦糸町で降りた。そして江東区のS体育館の駐車場に駐めた。
 
この日は10月20日(月)である。40 minutesはこの春以降、火曜と木曜の夕方に練習をしていた。しかし今週は大会が迫っているので、ちょうど体育館が空いていたこともあり臨時に毎日練習をしていたのである。それで千里は体育館のトイレに行って来てから、40 minutesのユニフォームに着換え、練習に参加した。2階席から麻央が練習の様子を見ていた。
 
練習が終わった後はインプレッサを千里自身が運転して千葉市内の立体駐車場に入れる。ここで葛西で待機していた《きーちゃん》と入れ替わった。彼女は昨夜2時頃龍虎を熊谷市の田代家に送り届け、そのあと関越道の嵐山PAで朝まで寝てから東京に戻りレンタカーを返却。葛西で待機していた。
 
21日(火)。きーちゃんは大学に出て行く。それを佐野君と麻央が尾行する。千里本人は午前中葛西で寝ていて午後から作曲や編曲の作業をする。夕方、千里はきーちゃんと交替。S体育館に行ってバスケ練習をする。練習が終わるとスペインのすーちゃんと交替し、すーちゃんがハイゼットを運転してファミレスに行き夜勤する。その間千里本人はスペインで練習している。
 
22日(水)。明け方、千里とすーちゃんが入れ替わり、夜勤明けのすーちゃんはグラナダのアパートで寝る。千里はハイゼットを運転してファミレスを出ると玉依姫神社に行き、早朝掃除の奉仕をする。ゴミ袋と奉納物のお下がりをハイゼットに乗せて持ち替える。桃香のアパートに辿り着いた所で、葛西に居るきーちゃんと交替する。千里は午前中葛西で寝るが、きーちゃんは大学に行く。この日は上島雷太と会う約束をしていたので、お昼過ぎにきーちゃんと千里が交代し、千里がインプレッサを運転して東京の上島雷太の家まで行く。
 
ここでアクアの営業方針について意見を交わしたが、アクアの写真集を撮ろうという話が浮上した。海外での撮影になりそうなので上島は龍虎に電話して、至急パスポートを作るように言った。夕方上島邸を辞してS体育館に行き、40 minutesのメンバーと練習する。その後インプレッサで千葉市内に戻る。この日はレオパルダの試合があるので、深夜すーちゃんと交替して試合に出た。
 
23日(木)。朝、千葉のアパートのすーちゃん、スペインの千里、葛西で待機していたきーちゃんが三者位置交換し、千里は葛西で仮眠、すーちゃんはスペインに戻り、きーちゃんが千葉のアパートに来て、ここから歩いて大学に行く。
 
◆スペイン千里:葛西きーちゃん → スペインきーちゃん:葛西千里
◆千葉すーちゃん:スペインきーちゃん →スペインすーちゃん:千葉きーちゃん
 
この日は神社に来てと言われていたので、午後バイクに乗って神社に行くがここで千里本人と交替し、千里は結婚式で龍笛を吹く。その後千里はバイクで神社を出るとS体育館に行き、40 minutesのメンバーと練習する。その後、スペインにいるすーちゃんと交替。レオパルダの練習に出る。すーちゃんはバイクに乗ってファミレスに行き、夜勤をする。
 
24日(金)。明け方千里はスペインでの練習を終えて、ファミレスで勤務を終えバイクで桃香のアパートに戻ったすーちゃん、葛西で休んでいたきーちゃんと三者位置交換する。すーちゃんはスペインで仮眠する。きーちゃんは千葉のアパートから大学に行く。千里は葛西で午前中眠って午後は作曲をする。夕方、きーちゃんはバイクでS体育館まで行き、ここで千里と交代して千里が40 minutesの練習に参加する。そして、すーちゃんと入れ替わってスペインに行き、レオパルダの練習に参加。すーちゃんはバイクで千葉市内に戻り、桃香のアパートで寝る。
 
25日(土)。明け方、千葉のすーちゃん、スペインの千里、葛西のきーちゃんが三者位置交換する。すーちゃんはスペインで仮眠、千里は葛西で仮眠、そしてきーちゃんはインプレッサを出して、40 minutesのメンバーを数人乗せ武蔵野市に向かう。ここで東京都秋季選手権(関東総合の予選)1回戦が行われるのである。試合直前に千里本人と入れ替わり、千里が試合に出て快勝。試合が終わったら、またきーちゃんと交替。千里はひたすら葛西で寝る。きーちゃんが40 minutesのメンバーを各自宅の近くまで送っていき、千葉市内の立体駐車場に駐めて桃香のアパートに入る。ここで、てんちゃんと交替し、てんちゃんがバイクでファミレスまで行き、夜勤をする。千里は深夜すーちゃんと入れ替わり、レオパルダの試合に出る。
 
なお、今週いっぱいは、真知が40 minutesの練習に毎日参加するため、夕方以降、玉依姫神社の社務所には《わっちゃん》に交替で入ってもらった。彼女はバイクは運転出来るということで、彼女に市川から《くうちゃん》に転送してもらった Gladius 400 を使ってもらい、すーちゃん・てんちゃんは BW'S を使ってもらった。
 
なお千里は時間が取れる限り朝食と夕食は2人分作って1人分は、市川ラボの留守番をしている《いんちゃん》と入れ替わって貴司用に置いてくる。つまり千里はこの時期、貴司と日々“家族生活”をしていたのである。
 
どうしても千里が市川に行けない日は《いんちゃん》が代理で御飯を作ってあげる日もある。それで料理の得意な《いんちゃん》に市川に居てもらっているのである。
 
26日(日)。明け方、すーちゃんと千里が入れ替わる。すーちゃんはグラナダのアパートで寝る。千里は葛西で仮眠する。てんちゃんが朝ファミレスの夜勤を終えてバイクで桃香のアパートに戻る。ここできーちゃんと交替し、きーちゃんがインプレッサを出して、昨日と同様40 minutesのメンバーを拾って武蔵野市に行き、今日も秋季選手権2回戦に臨む。試合直前に千里と入れ替わり、試合には千里が出る。今日も勝利する。試合の後、きーちゃんと入れ替わり、きーちゃんが40 minutesのメンバーと一緒に打ち上げをした後、メンバーを自宅近くまで送っていく。全員を送り終えた所で、きーちゃんは千里と交代した。千里はインプレッサに満タン給油して、東京の恵比寿に向かった。
 
これをずっと、佐野君と麻央は追跡していたのだが、千里の“連続稼働時間”に驚くのを通り越して呆れかえっていた。
 
北海道から帰った後、ノンストップで大阪まで運転し、彼氏とデートした後、またノンストップで東京に戻り、バスケの練習をして千葉に戻っている。この間、日曜の朝から月曜の夜まで36時間ほど稼働している(飛行機内での休憩のみ)。
 
火曜日の朝から水曜の夜までも36時間連続稼働。これは休憩時間が全く無かったはずである。木曜の朝から金曜の夜までも36時間稼働。これも同じく休憩はできなかったはずである。
 
千里という人は2日に1度しか寝ないのか!?と佐野君たちは呆れていたのである。その間、佐野君と麻央は交代で寝ながら追跡しているのだが、こちらは向こうがいつ動くか分からないので安眠出来ない。この一週間の追跡で、もうかなり疲労困憊になりつつあった。土日は武蔵野市まで遠征して2日とも試合をやっているのに、それで寝ようとせず、更に給油した上で東京に行くというのは、どこか遠征するつもりか?と思う。ところが千里は恵比寿の冬子のマンション近くまでやってきた。
 
そしてちょうどマンションから出てきた女子高生のそばに車を寄せると窓を開けて声を掛けた。
 
助手席の麻央が冬子に現状報告のメールを入れた。
 

10月21日(火).
 
白浜藍子は「お世話になりました」と挨拶してその家を出た。6月に結婚してから4ヶ月間住んだ家であるが、ここにはひとつもいい想い出が残らなかった。彼の子供たちとも全然馴染めなかった。藍子が家を出る時、下の子供がアカンベーをしていた。電話でタクシーを呼び、取り敢えず自分の実家に戻ったが、両親と同居している弟のお嫁さんが迷惑そうな目をしていた。
 
弟の子供たちにお小遣いをあげようとしたら、そのお嫁さんから「子供のお小遣いは金額を管理しているから、余分にあげられるのは困ります」と言われてしまった。藍子はここは全く安住の地ではないことを認識し、東京に戻ろうかなとも思ったが、そのためにはアパートなどを借りる必要がある。しかし今手元にそのお金がない。母に相談してみたのだが「流産したばかりで無理してはいけない。取り敢えず半年くらいはここに居なさい」と言われた。
 
半年もここで針のむしろの生活をしなければならないのか?身体の傷もホルモンバランスもメチャクチャな状態で?
 
「これって・・・いつか麻生杏華さんが言ってたビッグリップかなあ」
と藍子は独り言を言った。
 

10月22日(水).
 
札幌の玲羅のアパートに、ケイ、スイート・ヴァニラズのエリゼ、松原珠妃、麻生杏華、そして##放送の高柳さとみ記者が来訪して、玲羅も織絵もびっくりする。ケイから事情を聞いた杏華が織絵の話を聞きたいと言って、札幌までやってきたのである。杏華はケイと前日インドネシアでテレビ番組の撮影で一緒になったのだが、それでケイが株主である杏華に株主としての見解を尋ね、悠木朝道社長から全く違う説明(織絵が妊娠したので休養させると聞いていた)を受けていた杏華が驚愕して、織絵の許を訪ねることになったのである。
 
杏華は美来(光帆)や旧知のスタッフ・横浜網美とも電話で話しながら事態把握に務めた。杏華は更に斉藤前社長の奥さん・友里さんとも連絡を取った。実は前社長のスマホを奥さんが持っていたのである。それで友里さんと、かなり突っ込んだ内容の話をしたようである。斉藤氏本人は∞∞プロの鈴木社長に頼まれてアメリカに行っているということだった。それで知り合いから斉藤氏に電話連絡があった場合に、対応出来ないので奥さんに預けていったらしい。斉藤氏が持っていった別の携帯の番号は、奥さんと鈴木社長の2人だけが知っている。
 

2014年10月23日(木)。日本バスケットボール協会のF会長が辞任した。しかし後任の会長には誰も就任せずM副会長が会長職務代行となった。
 
FIBAからの回答期限は10月末までであり、残り1週間しかない。この時点での会長辞任は、回答を諦めたも同然であり、あり得ないほど無責任な職務放棄であった。
 
そして日本は回答しなければ制裁すると警告されているのに、無策のまま制裁を待つことになった。全く信じがたいことである。日本バスケットボール協会が完全に機能不全に陥っていることをあまりにも明確に示したできごとだった。
 

10月24日(金).
 
&&エージェンシーはXANFUSが全国ドームツアーを行うことを発表。同日からチケットの予約を開始した。6ヶ所7回公演で、発売する座席数は23万席にも及ぶ。しかしその日程が11月14-24日というので、業界には困惑の声が広がる。
 
こんな巨大なツアーをこんな間近になって発表するというのがあり得ない。
 
10月18日に唐突に音羽が解雇され、テレビ局のワイドショーはそれ以前に、神崎美恩・浜名満里奈が契約解除されたこと、Purple Catsの4人も解雇されたことを掴んでそれを報道している。
 
つまりXANFUSといっても、光帆ひとりしか居ない。
 
その光帆も沈黙していて、18日以降全くツイッターへの投稿が無い。ブログの更新も9月以降止まったままである。
 
10月15日に新しいプロデューサー、ガラクン・アルヒデトの許で製作されたCDは4000枚しか売れていない。聴いた人たちも「素人未満の出来。Purple Catsを含めたXANFUSが即興で演奏してもこれより遙かに良いできになったはず」などと評していた。
 
そういう訳でチケットは全く売れなかった。
 

龍虎は10月22日(水)の放課後、上島さんから電話があり、海外で写真撮影とかをする可能性があるから、すぐにパスポートを取ってと言われた。それで夕方帰宅した母に相談したら
 
「急ぐというのなら、明日は学校を休んですぐ申請してきた方がいい」
と母は言った。
 
まずは必要なものを確認する。
 
・申請書(窓口でもらう)
・戸籍謄本または抄本
・パスポート用写真
・本人確認書類
 
龍虎は未成年なので申請書に親権者の署名が必要である。これを長野支香にしてもらわないといけない。ふたりは親子ではないが、龍虎の戸籍には支香が未成年後見人として選任されたことが記載されているので、それで問題無い。龍虎は支香に電話してみた所、明日の午前中なら自宅に居るということだったので、明日の朝一番に書類をもらってから、支香が住んでいる浦和まで行ってくることにする。実は龍虎の戸籍も浦和になっているのである。
 
本人確認書類は、運転免許証・写真付き住基カードなど、写真付きの公的身分証明書があればそれ1点で済むが、それが無い場合は、下記のイから2点またはイ・ロから1点ずつの提示が必要である。
 
イ.健康保険証・年金手帳・印鑑登録証明書と登録印など
ロ.学生証・会社等の身分証明書(写真付きのもの)
 
ここで龍虎はこの春に中学に入学したとき、担任の先生から「写真付き住基カードを作っておいた方がいい」と言われ、申請して作っておいたので良かった、と思った。
 
龍虎の場合、健康保険証は長野支香の被扶養者証として発行されたものがあるが、20歳未満なので年金手帳は無い。15歳未満なので印鑑登録ができない!つまり「イ」で2点揃えることができない。また「ロ」の場合、学生証の名義は「田代龍虎」なので、名義が異なることからこういう場合の証明書として使用出来ない。
 
つまり住基カードが無かったら、本人確認書類を揃えることができなかったところであった(住基カードは住民票の住所に送付された通知書または照会書を持って取りにいくことで本人確認をして引き渡している)。
 

そういう訳で翌10月23日龍虎は朝一番(9時)にパスポートセンター熊谷支所に行き申請書をもらってから、電車で浦和に行き、浦和区役所で支香と落ち合った。ここで申請書に署名をもらい、長野夕香を戸籍筆頭者とする戸籍謄本(全部事項証明書)を発行してもらう。これも支香が居ないとできないのである。この発行を待っている間に龍虎はパスポート申請書への記入をおこなった。
 
その後、支香は写真館にも付き合ってくれて、パスポート用の写真を撮影する。それで別れる予定だったのだが、支香に電話が入る。
 
「予定が変わって出発するのが明日になったから、パスポートセンターまで付き合ってあげるよ」
 
と言って、支香は熊谷市まで付き合ってくれた。
 
そしてこれで結果的には助かったのである。
 

パスポートセンター熊谷支所で申請書を出すと、最初
「あなた性別が間違ってますよ」
 
と言われて、あやうく性別:女、に直されそうになる。それで龍虎が
 
「私男です。戸籍謄本を確認して下さい」
と言うと
「本当に男と書いてある!」
 
と言われたものの、龍虎は女の子にしか見えないので、今度は住基カードが偽造(写真の貼り替え)ではないかと疑われてしまう!
 
「中学生なら生徒手帳持っていますよね?それを見せて下さい」
と言われるので見せるが、田代龍虎名義になっているのを、里子なので通称使用しているのだと説明するが、向こうは疑いを持ったままである。
 
結局、長野支香が
 
「この子は私の甥で、間違い無く男の子です」
と言い、支香自身は運転免許証を提示して本人確認されたので、その支香の証言で、やっと長野龍虎本人と認めてもらい、パスポートの申請は通ったのであった。
 
もし支香が付いてきてくれなかったら、更には支香に連絡するのが1日遅れて支香が海外に出ていたら、パスポートの申請がハワイでの写真集撮影に間に合わなかったかも知れないところであった。
 
(住基カードのICチップ内に写真データも入っているはずなので、本来はそれと表面の写真、本人の顔を見比べればよかったはずである)
 

「自分が男だと証明するのがこんなに大変だとは思わなかった」
 
とパスポートセンターを出た後、マクドナルドをおごってもらいながら龍虎は言う。
 
「龍が女の子だと証明するのは簡単だろうね。やはり女の子になっちゃったら?」
と支香は言う。
 
「うーん。。。人生を考え直したくなる感じ」
「どうせ性転換するなら若い内の方がいいよ。少なくとも声変わりが来る前に決断しよう」
 
「ボクが性転換しようかな、とか言ったら反対する人がひとりも居ない気がする」
「全員、大賛成するだろうね」
と支香は楽しそうに言った。
 
「ちなみに、ちんちんあるんだっけ?」
「あると思うけどなあ」
「でも実際問題として、睾丸はもう無いんでしょ?」
「それもあるはず」
 
龍虎は今自分の身体にくっついているおちんちんとタマタマはどうも偽物あるいは仮のもの?のようだという結論に達していたが、本物のおちんちんとタマタマは、こうちゃんさんが治療してくれているはずだから、捨てられたりはしていないはず、と思う。
 
支香は龍虎が曖昧な答え方をするので、実はこっそり手術したのでは?と思ったようである。ただ「どこまで」手術したのかは、よく分からないようだ。
 
「あんたはやはりそうなっていくのかも知れないけど、もし睾丸取ったのなら、ちゃんとしっかり女性ホルモン飲んでないと骨粗鬆症になるからね」
 
「それ言われた。その件はちょっと専門家の人に頼もうかと思っている」
「ああ。それがいいかもね。素人が適当にホルモン剤飲んでたら絶対身体壊すから」
「それも言われた」
 

青葉は織絵のヒーリングを頼まれた時、これはとても1日や2日では無理だと思ったので、学校を一週間休んで札幌に行って来た。この一週間でかなり改善できたと思う。冬子からは直接富山に帰っていいと言われていたのだが、青葉の責任感から、東京に行き依頼主の冬子に報告すべきだと考えた。そこで青葉は新千歳から羽田に飛んで、日曜日の夕方、冬子のマンションに行き、状況を報告したのである。
 
それで深夜の高速バスで帰ろうと思ってマンションを出、恵比寿駅まで行こうと思った所に、車が近寄って来てクラクションを鳴らす。赤いインプレッサである。窓が開いて千里が声を掛けた。
 
「北海道からこっちに戻って来たの?」
「うん。冬子さんからの依頼だから、その結果報告に来た。ちー姉は?」
 
「冬の所に行くつもりだったんだけど、青葉が出てきたの見たから。どこに行くの?ホテルまでなら送ろうか?」
「新宿に出て夜行バスで高岡に戻るよ」
 
「今夜帰るんだ!?」
「だって学校あるし」
 
「じゃ私が高岡まで送って行くよ」
「え〜〜!?」
 
それで千里は青葉を乗せて高岡の青葉の家にカーナビをセットしたのである。
 
「到着予定時刻は3:55。約5時間かな」
「ちー姉、そのカーナビの速度設定おかしい」
 

千里のインプレッサが女子高生を乗せて動き出すので、後方でスモールランプだけ点けて停まっていた佐野たちのインプレッサも動き出す。やがて千里の車は高速のランプを登るようでウィンカーを点ける。それで麻央は冬子にその旨メールし、こちらもランプを登ろうとした。
 
そこに冬子からの電話が入る。
 
「追尾を中止して!」
 
佐野君はランプの途中で停めるわけにもいかないのでそのまま登るものの、料金所前で停車してハザードを焚いた。深夜なので後続車も無く、クラクションを鳴らされたりもせず安全に停めることができた。
 
「それ高岡まで往復するつもりだと思う」
「高岡って富山県か金沢県だっけ?」
「富山市と金沢市の中間くらいなんだよ。こないだ大阪までノンストップ往復したから、今回も高岡までノンストップ往復だと思う」
 
「うっそー!?」
 
取り敢えず後方の安全を確認して料金所を通過するが、ふたりは冬子の勧める通り、次の出入口で降りて恵比寿に戻ることにした。
 
「でも彼女、土曜の朝から一睡もしてないよ。40 minutesのメンバーを集めて大会に出て、終わったらメンバーを自宅に送り届けて、その後ファミレスで夜勤して、それから今日また朝からチームメンバーを乗せて武蔵野市まで行って、大会に出て、その後打ち上げをして、メンバーを送り届けて、その後給油して冬のマンションの傍まで来たと思ったら、女子高生を拾って・・・。これから高岡までノンストップで走れば48時間くらい一睡もしないことになる。大会で2試合フル出場してたのに」
と麻央は言う。
 
「うん。だから千里は信じられない」
「冬子の次くらいに凄い人だ」
「私も負けるよ!」
 
それで冬子はふたりをマンションに呼び、佐野君のインプレッサはマンション近くの時間貸し駐車場に駐め、ふたりはマンションに上がって夜食を食べたあと客間で朝まで寝た。
 

千里のインプレッサの後部座席に乗った青葉はすぐに、後ろから別の車がこの車を追尾していることに気付く。それを千里に注意すると
 
「ああ。心配要らない。あれは冬子のお友だちだよ。先週月曜日に北海道から戻ってきたあと、ずっと尾行してるよ」
などと言う。
「なぜ冬子さんのお友だちが?」
 
「冬子が、私の生活実態に疑問を感じて尾行させているんだと思う。こないだも大阪往復に付いてきたけど、今夜も高岡までの往復、付いてくるかな?」
 
「私もちー姉の生活実態に疑問を感じてる」
 
「大したことしてないけどなあ。大学に行って、ファミレスと神社のバイトして、ほかにちょっとバスケとか作曲とかしてるだけだよ。後はまあ身体を鍛えるのに日々の基礎トレーニングかな。冬の間は1日40kmのウォーキング」
 
「その時点で既にちー姉が3〜4人居ないと不可能だと思うんだけど」
 
しかし青いインプは千里の車が首都高に入った後、料金所の直前で停車してハザードを焚いた。
 
「どうしたのかな?」
「冬子から、もういいよという指令が出たのかもね」
 

「でも今回の織絵ちゃんのヒーリングの件も助かったけど、こないだの胚移植の件もありがとうね。今のところ順調だよ」
 
「だったら良かった。ああいうのは初めての経験で緊張した」
 
「本人は基本的に絶対安静にしている。病院に行く以外は外出させないことにした。家事代行サービスの人を雇って、買物や御飯作りなどをしてもらっている」
 
「3ヶ月目に入るくらいまではそれで行った方がいいと思う。あの人、本当にホルモンの分泌が不安定なんだもん。男の娘並みの不安定さ」
 
「実際私や青葉の女性ホルモンの方がよほど安定して分泌されているだろうね。それで悪いけどさ、出産に到達するまで月1回でもいいから、リモートであの人のホルモン分泌のメンテをしてあげてくれない?」
 
「いいよ。それはやる。今夜は私も疲れてるから、取り敢えず明日1回リモート掛けておく。もっともこの件についても色々聞きたいことはあるんだけど」
 
「たぶん私が正直に答えても青葉は満足しないと思う。実際、私にもよく分からないことが多すぎるんだよ」
 
「まあいいけどね」
 

青葉は寝ていたが、後ろに控えている眷属たちの一部は交替で起きている。その子たちがじっと千里を監視しているのに気付かない振りをしながら、千里はこの夜は自分自身で運転して、関越・上信越道・北陸道と走った。途中東部湯の丸でトイレ休憩した。上信越道の妙高高原付近で例によって濃霧が出ている中、千里が前の車に合わせて結構な速度で走っていくのを笹竹が怖そうにしていた。
 
明け方、有磯海SAで休憩して早めの朝御飯を食べ、(10月27日)5時前に青葉の家に到着した。千里はそこで1時間ほど仮眠してから「帰るね」と言って帰った。朋子が「慌ただしいね!運転気をつけてね」と言っていた。帰りは青葉の眷属が残っていないのを確認して《こうちゃん》と交替し、千里は後部座席で眠っていた。
 
11時頃に東京に到着。恵比寿の冬子のマンションまで送ってもらう。元々冬子とアクアの件で話がしたくて昨夜恵比寿に来たのだが、そこで青葉を見掛けたので青葉とも話したいと思い、そちらを優先して、高岡まで送っていったのである。
 
《こうちゃん》に御礼を言って降りて、冬子に電話し、中に入れてもらった。するとAYAのゆみが来ていた。
 
「ゆみちゃん、おっひさー」
「わっ、醍醐先生、おはようございます」
 
冬子が驚いて「前から知り合いだったっけ?」と訊いたので、千里は
 
「某所でね」
と答えておいた。
 
しかし冬子は何か居心地の悪そうな顔をしている。やはり一週間千里を尾行させたことに後ろめたい気持ちを持っているのだろう。こちらも“計画通り”だ。
 

ゆみは千里に
「醍醐先生、占いが凄かったですよね。私のこと占ってみてもらえませんか?」
と言った。
 
それで千里はバッグから筮竹を出し略筮で易卦を立てた。
 
「火雷噬&#x55d1(からい・ぜいごう)の上爻変。之卦(ゆくか)は震為雷(しんい・らい)」
 
「上爻変(じょうこうへん)って、時が来たれりってやつですよね?」
とゆみが訊く。
 
「うん。初爻から始まって二爻・三爻と登って行く内に目標が近づいてくる。一番上の上爻はゴール目前。そろそろ目を覚ます時間ですよ、眠り姫さん」
 
「そっかー」
と言ってゆみは頷いている。
 
「開運の方角を教えてください」
 
千里は筮竹を1回だけ分けた。
 
「坎(かん)。北だね」
と千里。
 
「北かあ。北海道にでも行ってこようかな」
とゆみ。
「ああ、旅に出るのはいいことだと思う」
と冬子。
 
「そうだ。北海道で札幌の近くに行ったら、ここを訪ねてくれない?ごはんくらいは食べさせてくれると思うから」
 
と言って千里は住所を書いた紙を渡す。
 
「村山玲羅?妹さんか誰か?」
「うん。弟ではなく妹。2つ下のね。ついでにそこにXANFUSの音羽ちゃんが今滞在しているから」
「うっそー!」
 

結局、ゆみは自分の車ポルシェ・カイエンで北海道旅行に行ってくることにした。大洗からフェリーで苫小牧に渡ることにする。
 
『きーちゃん。先に飛行機で北海道に飛んで、苫小牧で彼女に雪道運転を教えてあげてくれない?あと北海道用の装備も一緒に買って』
『分かった。行ってくる』
 
それで、きーちゃんはすぐにマンションを出ると羽田に向かった。千里と冬子に起きてきた政子も一緒にカー用品店に行き(ゆみは自分の車、千里と政子は冬子のフィールダーに同乗)、取り敢えずゆみの車にブリザックを履かせ、チェーンも買って着脱の練習をさせた。
 
それでゆみが大洗に向けて出発するのを見送ってから、冬子・政子・千里の3人はフィールダーでマンションに戻った。
 

それで千里はやっと冬子に会いに来た用件を言うことになる。(10月27日夕方)
 
「これを説明するには、龍虎の病気のこと、私たちが関わった経緯を説明する必要がある」
 
と言い、千里は龍虎のことを説明し始めた。
 
2001.04 ワンティス結成。恋愛禁止だったが、高岡と有香の関係は、夕香が既に妊娠中だったので特に容認される。
2001.08 龍虎が産まれる。
2001.10 志水夫妻に託される。高岡夫妻は週に1度くらい見に来ていた。
2003.12 高岡と夕香が事故死。
2006.06 (年中)原因不明の病気で倒れ入院。以降入退院・転院を繰り返す。
2007.07 (年長)志水英世死亡。途方に暮れた照代が支香に泣きつき、支香と上島が龍虎の存在を知る。
2007.12 一時退院。浦和の支香の家で志水照代と住む。
2008.02 上島が依頼した弁護士の尽力で長野龍虎の戸籍が出来る。
2008.04 (1年)小学校入学。
2008.05 渋川市の病院に入院。
2008.07.31 龍虎と旭川N高校女子バスケ部のメンバーが知り合う。
2008.08.01 龍虎が手術を受ける。
2008.12 退院し田代夫妻の元で暮らすことになる。
2009.01 熊谷市の小学校に田代龍虎の名前で編入。
2011.12 (4年)基本的な治療を終了。
2013.12 (6年)完治宣言。
2014.04 中学に進学。
2014.08 第1回ロックギャルコンテストで優勝。
 
政子は龍虎が高岡猛獅と長野夕香の子供だと聞き、驚愕していた。
 
「いつ結婚したのよ?」
「いやそれが結婚できなかったことが様々な問題の元になっている」
 
上島が雇った弁護士がどうやって龍虎が長野夕香の子供であることを裁判所に納得させたかという活動内容を千里が説明すると、政子は
「その話を映画にしたいくらいだ」
と言っていた。
 
2008年のインターハイの時に千里たちが偶然病院を抜け出して来ていた龍虎と遭遇し、自分たちも明日物凄い強敵との試合で頑張るから龍虎も手術頑張れと約束したというのには「凄い偶然の邂逅(かいこう)だね」と言った。
 
「この時、私たちは試合時間残り数秒で4点差つけられていて敗戦はほぼ確実だった。だけどそこで私のトリックプレイが美事に決まってスリーポイントのバスケットカウントワンスローで、奇跡的に4点取って追いついた。そして延長で逆転勝ちした。龍虎も実際に身体を開けてみるとMRIで見ていたのより腫瘍が大きくて、それを丁寧に切り離している最中に心臓が停まってしまった。ところがそこで看護婦さんが『龍虎ちゃんおちんちん切られちゃうよ』と耳元で言うと奇跡的に心臓が再度動き始めた」
と千里が言うと
 
「よほどおちんちん切られたくなかったんだね」
と言って冬子が笑っている。
 
「ちょっと待って。おちんちんって、なんで女の子におちんちんがある?」
と政子が訊く。
「あの子、男の子だけど」
「うっそー!? でもスカート穿いてたじゃん」
「うん。あの子は可愛いから小さい頃からしょっちゅうスカート穿かされていた」
「でも自分のブラジャーのサイズ知ってたよ」
「女の子の友人たちに唆されてブラジャーを着けさせられる」
「でもそもそも女の子にしか見えないんだけど」
「だから女装させられる」
「声も女の子だったよ」
「病気の治療のせいで身体の発達が遅れているから、声変わりもまだなんだよ」
 
しかしアクアが女の子ではなく男の子だと知って、俄然政子はアクアに強い関心を持ってしまったようである。
 
「じゃ将来はちゃんと手術して女の子になるのね?」
「いや、あの子は普通の男の子だから、別に女の子になりたい訳ではない」
「でも学校にはセーラー服着て通っているんだよね?」
「学生服で通っているけど」
「じゃ取り敢えず女性ホルモンをプレゼントして、声変わりを防止しよう」
と政子は張り切っていた。
 
 
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【娘たちのエンブリオ】(2)