【娘たちの予定変更】(7)

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2日目の決勝トーナメント。11:40からの準々決勝の相手は東北の強豪・秋田U銀行である。ここには高校時代の玲央美を知っているメンバーがいたこともあり、最初から主力を投入してきた。
 
しかし玲央美ひとりに警戒しても、昭子のスリーはなかなか停められないし、リバウンドはナミナタやローザ、サクラがほとんど取ってしまう。
 
結局はまさかの30点差でジョイフルゴールドが勝った。
 
16:40からの準決勝の相手は熊本のクレンズである。ここはかなり本気でこちらに掛かってきた。向こうの控えセンターと思われる人が玲央美の専任マーカーになり、玲央美を封じようという作戦で来る。
 
しかし玲央美を停めきれない。
 
とうとう途中から相手のキャプテンが玲央美のマーカーになる。
 
しかし玲央美を停めきれない。
 
そしてこちらは玲央美以外でも、ローザもサクラもナミナタも昭子も更には初美や満子まで点を取りまくる。
 
結局20点差でジョイフルゴールドが勝った。
 
これでジョイフルゴールドは2位以上が確定。全日本社会人選手権には3位以上が行けるので、これで玲央美たちは11月の同大会に出られることが確定した。
 
社会人選手権には全日本クラブバスケットボール選手権で3位になった千里たちのローキューツも出場する。玲央美は久しぶりの千里との対決が楽しみだと思った。
 

「だけどやはりレオが居るのと居ないのとではまるで違うよ」
と試合終了後、宿舎に戻ってからキャプテンの伊藤寿恵子が言う。
 
「まあ今回はフル代表落ちしたから参加できたんですけどね」
「あれ残念だったね。レオは充分フル代表になる力があると思ったのに」
「まあ来年また頑張りますよ」
 

最終日。決勝戦は早苗たちの所属する山形D銀行である。つい先日そちらの練習にも参加させてもらったばかりだし、D銀行に所属する早苗はU20代表として、ほんの数日前までジョイフルゴールドと一緒に練習していた。
 
山形D銀行は最初から玲央美にダブルチームする作戦で来た。
 
先日山形D銀行にお邪魔して一緒に練習させてもらった時、鹿野さんがもしこの大会で当たったら、玲央美にはダブルチームでもしないと無理だなと言っていたのだが、本当にダブルチームをした!
 
むろんジョイフルゴールドには他にも凄い選手がいることは分かっている。しかしやはり先日一緒に練習した感覚から、玲央美は2人掛かりでないと停められないと判断したのだろう。しかも最初玲央美に付いたのはその話をしていた鹿野さん自身と2年目の東海林さんである。2人とも昨年夏も先日もたくさん一緒に練習した相手で玲央美のことを最もよく知る2人である。
 
しかし練習場での玲央美と、試合での玲央美は違うのである。2人付いているにも関わらず、玲央美はその2人をうまく振り切っては得点をしていく。
 
これに対して山形D銀行も司令塔の奥山さんがうまく選手のやりくりをして穂波さんや門中を使って得点したり、奥山さん自らゴールを奪ったりする。
 
試合はシーソーゲームで進んだ。玲央美のマーカーは鹿野さんはずっと出ているが、もうひとりは適宜交替している。玲央美は鹿野さんのスタミナが凄いと思った。
 
最終ピリオドまで点を取っては取られの展開が続く。
 
最後に玲央美が疲れの見える鹿野さんを振り切ってゴールを決め勝ち越したものの、残り3秒から山形D銀行は早苗のロングスローインからゴール近くまで走り込んでいた門中さんが華麗にシュートを決めて再逆転し、激戦を制した。
 

審判が山形D銀行の勝利を告げた後、玲央美は鹿野さんや早苗と抱き合って健闘を称え合った。
 
「また山形に来た時は気軽に寄ってね」
「そちらも東京に来た時はぜひうちに寄って下さい」
「ホントに寄せてもらおうかなあ。藍川さんの指導も受けてみたい」
と鹿野さんが言っている。
 
「きっついですよ」
と先週その指導を受けていた早苗。
「だろうね」
 
そんなことを言っていたら、ほんとに藍川監督が近づいて来て
 
「鹿野さんも東海林さんも、ぜひうちに来てね。早苗ちゃんもまた来ていいよ。たくさん鍛えてあげるから。いいですかね?」
と最後は山形D銀行監督の月星さんに言う。
 
「うん。よろしく〜。そちらの選手が山形に来た時も気軽に寄ってね」
 
と月星監督が言った。
 
「ではその内、お伺いします」
と鹿野さん。
 
「うんうん」
と藍川真璃子は笑顔であった。
 
玲央美は山形D銀行のベンチにマネージャーとして座っていた真美を昭子に引き合わせた。
 
「こちら男の子を廃業して9ヶ月、女の子修行中の真美ちゃん、こちら男の子を廃業してから2年1ヶ月、医学的にも女の子になってから1年2ヶ月で、女子選手として今大会でデビューした昭子ちゃん」
 
「わぁ」
と言って2人は握手している。
 
「女子選手として大会に出られた感想は?」
「凄くいいよ。男子の試合に出ていた頃は、ここは自分の居場所ではないって気持ちでプレイしたから。やっと本来の場所に来れたという気分」
 
「性転換手術も受けられたんですか?」
「うん。高校3年の夏休みに手術したんだよ」
「すごーい」
「真美ちゃんも頑張ってね」
「はい!」
 
ふたりは(携帯は控室に置いているので)後でアドレスを交換しようと言っていた。
 

緋那は貴司をやっと見つけ、そちらに近づいて行こうとした。
 
ところが、自分と貴司との中間の場所に突然千里の姿が現れた。
 
え!?
 
それはまるで空中から唐突に出現したかのようであった。
 
和服を着ている。
 
何だか可愛いじゃん。
 
千里はキョロキョロしている。
 
緋那はくっそー!と思うと「帰ろ」と呟くように言い、バス停の方に歩いて行った。
 

バス停まで後少しという所まで来た時、車のクラクションがする。そちらを見ると、反対側の車線に停まった真っ赤なギャラン・フォルティスから手を振る女性(?)がいる。緋那は顔をしかめた。
 
が、左右を見て道を横断、その車の所に行く。
 
「緋那奇遇だね」
「研二も奇遇だね」
「どこか行く所?」
「堺に帰ろうと思っていた所だけど」
「だったら乗っていく?僕も用事が終わって大阪に帰ろうと思っていた」
「ふーん。でも随分可愛い格好してるじゃん」
「たまには和服も着てみようかと思って着て出てきた。運転するから足だけはローファー履いてるけどね。草履もそのあたりに転がってる」
 
「研二、成人式には振袖とか着ないよね?」
「ああ。振袖のレンタル予約したよ」
「まじ!?」
「緋那はどうすんの?」
「羽織袴にしようかな」
「ああ。似合うと思うよ」
「・・・・・」
 
ふたりは微妙な微笑みで見つめ合う。
 
「乗らない?」
「乗る。ついでに晩ご飯おごって」
「いいよ」
 
それで緋那は研二の車の助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。研二が車をスタートさせる。
 
「僕、着付け教室に通って着付けの練習してるんだよ。緋那にも今度着せてあげようか?」
「着付け教室って女の人ばかりじゃないの?」
「うん。おばちゃんたちに混じって練習してるよ。おばちゃんたちに随分可愛がられている。お互いに練習台になって着付けたりしてね」
「女の人の着付けをするの〜〜!?」
「おばちゃんたちは全然気にしないよ。息子か孫にしてもらってるみたいだって」
「研二、下着はどうしてるのさ?」
「肌襦袢を最初から着けて行ってる。肌襦袢くらいは自分で着れるもん」
「女の人の身体に触って立ったりしないの?」
「恋愛対象外の年齢域の女性に触っても何も反応しないよ。産婦人科医が患者のお股を見ても何も感じないのと似たようなものかもね」
 
「研二って、女の子になりたい訳じゃ無いよね?」
「僕のこと分かっているくせに」
「まあいいや。今夜はセックスしたい」
「歓迎歓迎。貴司君に振られたの?」
「貴司はガードが甘すぎるんだけど、千里ちゃんの防御が完璧すぎる」
「あはは。いい加減諦めて、僕の指輪を受け取ってよ」
と研二は明るく言った。
 

今大会の最終順位は1位山形D銀行、2位KL銀行、3位MS銀行、4位クレンズ、となった。今年は上位3チームが全部銀行チームとなった。その3チームが11月の全日本社会人選手権に出場する。
 
表彰式が終わってわいわい言いながらロビーに出てくると、こちらを向いて拍手している人物がいる。和服を着ている!?
 
「千里!?」
「準優勝、おめでとう。これで11月は戦えるね。しかも1位じゃないから、準決勝か決勝での対決になる」
と千里は言っている。
 
千里たちのローキューツはクラブ選手権3位だったので、1回戦は実業団1位との試合になることが、ほぼ確実である。つまり早苗たちとやることになる。
 
「見に来てたんだ?」
「偵察だよ。3チームとものね。ビデオも撮ったよ」
と言って千里はビデオカメラを見せる。
 
「ね。もしかして細川君と一緒に来たの?」
と玲央美は訊いた。
 
千里が“ひとりで”ビデオカメラを操作できる訳が無い!!
 
「あれ?貴司居た?」
「一昨日見かけたよ」
「へー。見てないな。私は北陸に行っていたんだよ」
「ああ。そんなこと言ってたよね」
 
だったら北陸から戻ってきて、今日だけ偵察したのかな? 貴司君でなければひょっとしたら麻依子か国香あたりと一緒かも、と考えたのだが、それ以上に、玲央美は千里を見ていて、ものすごーく気になることがあった。それで千里の腕をつかむ。
 
細い。
 
「これはいつもの千里ではない」
と小さい声で言う。
「今男の子に戻っているんだよ。だから良く分からないけど高校1年頃の身体かな?何だかこの体、すごく頼りない。男の子って華奢でダメだね〜」
と千里も小さい声で答える。
 
「じゃ本人なのか。来週までにはちゃんと女の子に戻っているよね?」
「うん。大丈夫。万一の場合は、ちょっとタイに行って身体を直してくるから心配しないで」
 
傍に居た藍川真璃子が渋い顔をして腕を組んでいる。
 
「性別はちょっと手術すれば変更できるかも知れないが、筋肉はどうにもならないよ」
「冗談だよ。明日の朝までには元に戻っているはず」
 
「例の『辻褄合わせ』か」
「どうもそうみたい。来年の6月くらいまで不安定な状態が続くと言われているけど、合宿とか、大会の時はちゃんと女の子に戻っているから大丈夫だよ」
 
藍川真璃子は呆れたような顔をしていた。
 

その時、玲央美は唐突に思いついた。
 
確かめてみたい!
 
「ね。千里、私と1 on 1 やって、それからスリーポイント勝負もやらない?」
「いいけど。じゃ、昭ちゃんもスリーやろうよ」
と千里は昭子を見ながら言った。
 
「はい」
 
「藍川さん、いい?」
「まあいいよ」
と藍川は苦笑していた。
 
大会の事務局の人にどこか場所を借りられないかと話したら
 
「世界のスリーポイント女王の村山さんがおられるのなら、エキシビションとして今からやりませんか?」
と言う。
 
それで和服に足袋という出で立ちの千里、そしてジョイフルゴールドのユニフォームを着た玲央美と昭子、それに話を持ちかけたら「やるやる」と言って出てきた、山形D銀行のシューター石立瑞恵さんの4人で、突然スリーポイントコンテストが始まった。観客の大半はこの後行われる男子の決勝戦を見るために残っていたが、体育館のみでなく公園全体にアナウンスを流すと、体育館を出ていた人がかなり戻って来た。これから試合のある男子チームのメンバーもアリーナに出てきて眺めている。
 
ルールは“NBA方式”で行われる。
 
スリーポイントライン上の5ヶ所に置かれたラックに乗せられた各々オレンジ色のボール4球とカラーボール1球、合計25球を“制限時間60秒”以内に撃てるだけ撃つ。入った場合、通常ボールは1点。カラーボールは2点である。全部入れたら30点になる。
 
観客は千里がおよそスポーツをするとは思えない長い髪に、和服まで着ているので、マスコットガールかあるいはタレントさんと思ったようである。
 
じゃんけんで順番を決める。
 
1番昭子、2番石立、3番玲央美、4番千里
 
となる。玲央美が「うーん」と言っている。
 
「千里、今わざと負けたでしょ?」
「何なら順番変わる?」
「まあいいや。千里がその身体でどのくらい撃てるのか興味がある」
と玲央美は言った。
 

最初に昭子が撃つ。
 
昭子は正確に撃つ。撃ったのは、ほとんど入る。
 
ところが慎重に撃っているので、どんどん時間が経過する。結局3ヶ所目の途中で時間切れのブザーが鳴る。
 
「うっそー!?」
と本人は言っているが、ここまで13球撃って10球入れ、点数は12点である。どうも時計を全く見ていなかったようだ。
 
次に石立さんが撃つ。彼女はこのルールのコンテストを何度もやったことがあるので、このコンテストでは如何に「早く撃つ」かがポイントだということを知っている。それで時計がスタートすると、ボールを取っては撃ち、取っては撃ちする。おかげで最後まで辿り着く。
 
25球全部撃って、入ったのは8本、点数は10点であった。
 
玲央美が撃つ。
 
玲央美はボールを取る度にしっかりゴールを見て撃つ。結構な確率で入るが昭子ほどの正確性は無い。しかしあんなにゆっくりも撃たない。結局最後の撃ち場で2本撃った所でブザーが鳴った。全部で22本撃ち、入ったのが11本で点数は14点であった。
 
和服姿の千里が登場する。
 
観客の多くはここまでの3選手で終わりで玲央美の優勝、千里はタレントさんか或いはミス平塚か何かの余興だと思っている。
 
時計がスタートする。千里はボールを取るとゴールに“意識を入れて”撃ち、取ると意識を入れて撃つ、というのを繰り返す。5球目を撃ったら次の撃ち場にダッシュする。裾が乱れるが気にしない。
 
そして撃った球は全て入る。
 
4ヶ所目のを全部撃ち、5ヶ所目に向かって走って行く最中に、足袋が床で滑る。「あっ」と声を出すとともに転ぶ! すぐに立ち上がったものの、最後の撃ち場に辿り着く前にブザー。「あぁ」という感じで天を仰いだ。
 
しかし結局20球撃って全て入れている。点数は24点である。
 
玲央美は「参った!」という顔をしている。観客は思わぬ展開にざわめくと共に物凄い拍手が贈られた。
 
「優勝者は、昨年のU19世界選手権でスリーポイント女王に輝いた旭川N高校出身の村山千里選手でした」
というアナウンスに歓声があがって再度凄い拍手があった。千里も拍手してくれている観客に向かって深くお辞儀をした。
 
急遽用意された賞状、それに「囲碁最中(いごもなか)」を1箱もらって、千里は和服姿で観客に手を振った。
 
ああ、玲央美の言う「人気」って、こういうのの積み重ねで作られていくのかなと千里は思った。
 
しかし・・・旭川N高校出身と言われたなと思う。ローキューツと言われなかったのはローキューツに実績が無いせいだろうな。
 

打ち上げに一緒においでよと藍川真璃子が誘ったので、玲央美たちと一緒に用意されていたバスで移動する。
 
「千里って身体が切り替わっても記憶は継続しているよね?」
と隣に座った玲央美が小声で訊く。
 
「うん。記憶まで切り替わったら、生活が破綻するよ」
と千里は答える。
 
「記憶だけじゃなくてバスケの技術も継続するんだ?」
 
玲央美はそれを確かめたかったのだろう。
 
「だって、それも記憶だから。おそらく小脳のね」
「なるほどー」
 
玲央美は、ずっと疑問だったことがある。千里が高2のインハイに出たのは性転換手術をしてから11ヶ月くらいのボディだと言っていた。そして高3のウィンターカップの時のボディは16ヶ月くらいのボディという話だった。その間わずか5ヶ月しか経っていない。その間に千里は高2の総体・選抜・総合、高3の総体・アジア選手権・選抜と大きな大会を6つ経験している。当時の千里は会う度に物凄く進化していた。それがわずか5ヶ月の間の成長とは考えられなかったのである。実際に千里の技術がその間、1年半掛けて進化したのであれば理解できる。それでも物凄い急成長なのだが。
 
「でも筋力が無い。それで最後まで辿り着けなかった。身体が動かなーい、と思ったよ」
「それでもシュートはちゃんと撃てるんだ?」
「まあ6.75m届かせる程度の筋力は高校1年の頃でもさすがにあったよ。ボールの行方をコントロールする部分は技術的な記憶だし」
「なるほど」
「あと今回は和服だしね」
「いや、和服でよくあそこまで動けたと思った」
 
玲央美はしばらく考えていたが、やがて千里を見ながら強く《思考》した。
 
《今、ちんちん付いてるよね?トイレどっちに入る訳?》
 
玲央美の脳内に千里の声が響く。
 
『私は女の子だから女子トイレを使うよ』
 
玲央美は笑った。
 
《痴漢で通報しようかな》
『それ警備員さんが来たら、絶対玲央美の方を捕まえる』
 
その時、千里が「あっ」と言った。
 
「どうしたの?」
「和服の脇が破けてる」
 
「そりゃ、あんな激しい運動をしたらね〜」
と言いながら玲央美は千里の和服を見る。
 
「ああ、これは布そのものが裂けてる。縫い目がほつれたのなら縫い直せばいいけど、こういう裂けかたしたのはどうにもならないと思うよ」
と玲央美は言った。
 

20日の日、結局千里はジョイフルゴールドのメンバーと一緒に夜遅い電車で東京に帰還した。
 
「千葉までどうやって帰るの?」
「都内に車駐めてるから、それで帰るよ」
「打ち上げでお酒は飲んでないよね?」
「私、未成年だから飲んでないよ」
「偉い。**なんてまだ18歳なのに、ビール15杯は飲んでる」
「そういうの、バレないようにね〜」
 
それで彼女らと東京駅で別れ、大手町駅から東西線で葛西駅まで到達する。ここからジョギング・・・しようとして、和服では無理だぁと思う。
 
『りくちゃん乗っけて』
『いいよ』
 
ということで《りくちゃん》の背中に乗って1分で、インプレッサを駐めている駐車場に到達した。《りくちゃん》に御礼を言ってから荷物を積み込み、草履を車内に積んでいるスニーカーに履き替え、自分で運転してアパート近くの月極駐車場に駐める。
 
この時期、千里は江戸川区の駐車場(本来の置き場所)、大阪の貴司のマンション近くの駐車場、そしてアパート近くの駐車場と、3つの駐車場を月極契約していた。なお、この車の車庫登録は雨宮先生のご自宅になっている。
 

翌9月21日。千里は朝から白いブラウスとスカイブルーのロングフレアスカートに薄紫のカーディガンという出で立ちでアパートを出ると、インプレッサに乗って大学に行った。実を言うとインプレッサの構内進入許可証と構内駐車許可証は以前から取っていたのだが、あまり使う機会が無かったのである。
 
理学部近くに設けられている駐車場の空きに駐めて、2つの許可証をフロントグラスの所に掲示した状態にして車を降りると、バッグを持って華原先生の教官室を訪問した。
 
要件については既に先週の内に電話しておいたので、まだ夏休み中なのだが、先生は出てきてくれていた。
 
「済みません。お休み中に」
「いや大丈夫だよ。研究があるからほぼ毎日出てきているし。でもお疲れ様。何か色々変動があって大変みたいね」
 
「そうなんですよ。本来は今月頭からフランスとチェコに行って、来月はインドという予定だったのが、両方の大会が重なってしまって、私はインドの方にだけ行ってくれということになりまして、これが最新の日程表です」
 
と言って千里はバスケ協会からもらったスケジュール表のコピーを渡す。
 
「それで今夜から合宿所に入ってそのままインドに渡り、帰国するのが10月5日になるので、申し訳ありませんが、また講義の受講登録をお願いできないかと思いまして」
 
と言って、千里は希望する講義のリストを見せた。
 
「じゃ、受講申込書をもらっておいたから、これに書いてくれる?」
「はい」
 
と言って千里は受けたい講義を全部申込書に記入した。
 
「帰国後は色々行事とかがあるかも知れないし、余裕を見て10月8日(金)までは、授業に出ていなくても出席扱いにするから」
と先生はカレンダーを見ながら言う。
 
「助かります」
 
「講義の登録に関しては、来年の春からは学内ネットで学生自身がオンラインで登録できるようになる予定なんだけどね」
 
「へー。すると学内にノートパソコンを持ち込んで、そこから登録するんですか?」
と千里が訊く。
 
すると華原先生は目をぱちくりさせた。
 
「いや。オンラインなんだから、君が沖縄とか北海道で合宿していようと、ブラジルで大会に出ていようと、そこから学内ネットに接続して登録できるよ」
 
「え!?そんな大学の外から接続できるんですか?学内ネットなのに」
と千里がマジで驚いて言う。
 
すると華原先生はジョークと思ったようで
 
「君って、時々面白いこと言うね」
と言って笑っていた。
 
後ろでは《きーちゃん》や《せいちゃん》が顔をしかめていた。
 

「だけど君今日は女性らしい格好をしてきたね」
と華原先生は言った。
 
「え?」
「ごめーん。これセクハラだよね?」
「あ、いえ全然気にしませんけど、そんなに私、女らしいですか?」
 
「君のスカート姿は初めて見たような気がして」
 
「あぁ!」
と千里は言った。
 
「いつも自転車とかスクーターで通学しているので、たいていズボンだったんですよ」
「なるほどー!」
 
「今日はこの後、回る所があるので車で来たんで、それでスカートでもいいかなと思ったんですよね」
 
「ああ、そういうことだったのね」
と先生は納得している。
 
「それに最近、忙しくて時間が足りないから、自転車での移動が減っている感じで」
 
「君、どこに住んでいたっけ?」
「**町なんですよ」
「そんなに遠かったんだ!」
「入学した時に、家賃のひたすら安い所を探したもので。そこ共益費込みで11,000円なんです」
「それは安い!」
「でも交通費が掛かりすぎで」
「そりゃそうでしょ」
「だから今年の代表活動が落ち着いたら引っ越すかも知れません」
「それがいいかもね」
 

華原先生との話が終わると、千里は学食で早めの昼食を取った。それで出ようとしていたら、紙屋君にばったり遭遇する。
 
「おお、千里可愛い」
などと彼は言う。
 
「そんなに?でも清紀もキュロットなんて珍しいね」
「休み中だし、誰にも会わないだろうと思ったら、千里に遭遇するからなあ」
「スカートにすればいいのに」
「さすがに恥ずかしい」
 
「私みたいなこと言ってる。でもそういう服の時、トイレどうすんの?」
「ふつうに女子トイレ使うけど」
「ああ、やはり清紀って女子トイレに慣れてるよね?」
「知ってる人がいる所では使わないけどね」
「今度通報してあげよう」
 
「勘弁して。でも初めてじゃない?千里がスカート穿いて学校に来たのは?」
「そうかも。でも私、入学式ではふつうにスーツ着たんだよ」
「スーツって背広?」
「まさか。レディスフォーマルだよ」
「びっくりしたー!千里の背広姿なんて想像がつかないし」
「塾の先生のバイトした時、実は彼氏から借りて着てみたけど、違和感ありありだった」
「そりゃ変だよ」
と紙屋君は言う。
 
「この後はいつもこんな格好?」
「そういう傾向になるかもね。この後ちょっと海外に行ってくるから戻るのは10月上旬だけど、その後はもうこんな感じにしちゃうかも。例によってその間は公休扱いにしてもらえる」
 
「海外って性転換手術?」
「まさか。私がとっくに手術済みなのは知っている癖に」
 
紙屋君は千里のフルヌードを見ている数少ない男の子のひとりである。
 
「じゃ、バスケットの大会?」
「そうそう」
「じゃ頑張って金(きん)取っておいでよ」
「ありがとう。取ってくるつもり」
 
紙屋君とは笑顔で握手して別れた。
 
「じゃ千里、今後はスカートで出ておいでよ」
「清紀もスカート穿いてくるといいよ〜」
 

インプを運転して大学を出た後は、市内の公民館に行く。ここの会議室を今日の午後は借りていたのである。
 
この日はローキューツのメンバーの中で集まれる人は来てと言って呼び集めていた。だいたい揃ったかなという所で、18-20日に行われた全日本実業団競技会の試合録画のダイジェストを見せる。《せいちゃん》と《げんちゃん》が録画し、編集してくれたものである。
 
会議室に集まったのは、浩子・麻依子・国香・薫・誠美・夢香・司紗・凪子・桃子・聡美などであった。麻依子と誠美はNTCで「自主合宿」中だったのだが、一応この日のお昼でそちらが終了になったので、千葉に移動してきた。
 
「きれいにまとまってるね。千里お疲れ様」
と浩子が言うが、薫は首を傾げている。麻依子がもっとハッキリ言った。
 
「千里が自分で録画したり編集したりできるようには思えん」
 
「うん。友だちにしてもらったんだよ」
と千里が言うと。
「なるほど〜」
という声があがる。
 
司紗が
「細川さんですか?」
とストレートに訊く。
 
「あ、えっと・・・」
と思わぬ突っ込みに千里が焦り真っ赤になるので、みんなは「なるほど彼氏にやってもらったのか」と思ったようであった。
 
「千里、このビデオのオリジナルある?」
と薫が訊く。
「あるよ。このハードディスクの中のorgというフォルダに入ってる」
「じゃよかったら、そのディスクごと貸してくんない?」
「いいよー。後で持ち帰って」
 
薫は全編見て色々分析するのだろう。
 

「でも佐藤さん、凄すぎる」
と聡美がビデオを見て言った。
 
「2007-2008年の北海道の女子バスケでは、千里さんと佐藤さんがトップ2だったんですよ」
と凪子(L女子高出身)が言う。
 
「まあ千里がマッチアップするよね?」
と薫。
 
「当然。向こうもそのつもりだと思うよ」
と千里。
 
「だから山形D銀行みたいにダブルチームはしなくて済む」
と薫。
「いや佐藤さんにダブルチームしたら、うちは他の3人で向こうの4人には対抗できない」
と浩子。
 
「レベルの高い選手が多いもんなあ」
と国香。
 
「ただし、実質結成1年目で、選手層が薄いんだよ。それが救い」
と千里。
 
「来年以降はもっとすごくなるだろうね。数年後にはWリーグ入りするかも」
と麻依子。
 
「うん。多分藍川さんもいづれはと思っていると思う。ただWリーグに入るには、ファンを開拓して地域に愛されるチームに育てないといけないから、それに多分4〜5年は掛かる」
と千里。
 
千里は藍川さんの《寿命》も気になっていた。本人も自分がいつまでこの世に留まれるのか全く分からないと言っている、明日消滅する可能性もある。美鳳さんに訊いてみたこともあるのだが、美鳳さんにも分からないと言っていた。千里に隠しているのではなく、マジで分からない様子だった。
 

「佐藤さんも凄いけど、湧見さんも凄いね」
と夢香が言う。
 
「千里の愛弟子のひとりだね」
と薫。
 
「ついでに元・男の娘だね」
司紗。
 
「2年前、高校2年の8月に去勢手術を受けたから今大会から参加資格ができたんだよ」
と千里が言う。
 
「18歳未満なのに去勢できたんだ?」
「まあ緩い病院は存在する。でも多分年齢誤魔化して手術してもらったんだと思う」
 

「センター陣も背の高い人が多いね」
と浩子。
 
「ローザとサクラはどちらもプロ級。ナミナタさんもかなりのもの」
と誠美。
 
「ナミナタは社会人選手権には出られないんだよ。あの大会は外国人選手は登録できない」
と千里が説明する。
 
「じゃ、このナミナタさんとローザさんが出ない訳ね?」
「ローザは日本人選手扱いだから出場できる」
「うっそー!?」
「彼女は幼い頃に日本に来て一家丸ごと帰化している。帰化選手でも日本の小学校・中学校を出ていれば、生まれながらの日本人と同じ扱いなんだよ。実際、ローザはフランス生まれなのにフランス語ができない」
「へー!」
 
「牛丼とそばが大好きな生粋の日本人だね。朝食には御飯と味噌汁に納豆か海苔が無いとダメらしい」
 
「お友達になりたい気がする」
と桃子が言っている。
 
「じゃ社会人選手権の時にアドレス交換かマイミクか持ちかけてみるといいよ」
 

“ビデオ鑑賞会”が終わった後、千里はインプを運転して、そのまま東京北区のNTCに入った。車内で日本代表仕様のジャージ上下に着換えてから建物の中に入る。
 
U20の第五次合宿が明日22日から25日まで行われることになっている。26日からはU20アジア選手権である。日本からインドへの移動は明後日23日に行うことになっている。チェコでは世界選手権が始まる日である。
 
食堂に行くと、ずっと「居残り」練習していた純子と留実子が居る。ほかに星乃・雪子も居残りしていたのだが、ふたりは一時外出しているらしい。
 
千里も夕食を取ってきて一緒におしゃべりしている内に、だんだんメンバーが集まってきた。玲央美は19時頃来たが、食堂に入ってきて千里を見るなり、いきなり腕をつかんだ。
 
「な、なに?」
「ちゃんと女の子になったね」
と言ってニコリとする。
 
「私はふつうに女の子だけど」
と千里。
 
「どうしたの?千里、生理来た?」
と江美子が訊く。
 
「生理は15日に来たから、今回の大会中は大丈夫」
と千里は答える。
 
「だったら問題無いね」
と江美子は言ったが、その向こう側に居た留実子は微妙な顔をしていた。
 

外出していた雪子と星乃、純子も19時半頃には戻って来た。合宿が予定外に長期に渡ったので、色々足りないものが出ていて、その買い出しをしていたようである。
 
20時すぎ、会議室でミーティングが行われ、パスポートを持っていることが確認され、いったんチームの方で預かることになる。
 
U20アジア選手権は2002年にはじまり4年に一度行われることになっていたのだが、3回目の今年2010年で終了することになっている。
 
____ U18_ U19_ U20_ U21
____ Asia 世界 Asia 世界
2004 86-7
2005 ____ 86-7
2006 88-9 ____ 86-9
2007 ____ 88-9 ____ 86-9
2008 90-1
2009 ____ 90-1
2010 92-3 ____ 90-1
2011 ____ 92-3 ____ 90-1
 
これまでのシステムの欠点はこのやり方は偶数年生まれの人に有利で奇数年生まれの人に不利だということである。高3・偶数年生まれと、高2・奇数年生まれでチーム編成すると、どうしても高3偶数年生まれがメインになる。またU18-19は2年に1度なのに、U19-20は4年に1度しか無いという問題もあった。天才が埋没しやすいシステムで、1989生の花園亜津子はU18にしか出ていない(U19世界選手権がインターハイと日程がぶつかってしまった問題もあった)。
 
FIBAはU20,U21を廃止してU16,U17を設置した。新しいシステムはこうなっている。
 
____ U16_ U17_ U18_ U19
____ Asia 世界 Asia 世界
2009 93-4 ____ ____ 90-1
2010 ____ 93-4 92-3
2011 95-6 ____ ____ 92-3
2012 ____ 95-6 94-5
2013 97-8 ____ ____ 94-5
2014 ____ 97-8 96-7
2015 99-0 ____ ____ 96-7
2016 ____ 99-0 98-9
 
このシステムではU16-17は奇数年生まれが主役になり、U18-19は偶数年生まれが主役になることになる。但し、過去のやり方ではU19チームがそのままU20に持ち上がれたのに対してU17とU18はチームがいったん解体されることになる。奇数年生まれの子はU17とU18を同じ年にやる。偶数年生まれの子はU17に出た2年後にU18に出ることになり、間の年は出る大会が無い(物凄く頑張るとU19に出られる)。
 
2010年は1993年生まれの子(小松日奈・水原由姫)がU17とU18を兼任して、とっても忙しかった。この2010年は切り替えの年でもあり、更にU24,U24(Univ)なども動いていて、複雑怪奇だったのである。複数のチームが同時に合宿をしているケースも多く、兼任者は大変であった。
 

今回のU20アジア選手権の大会システムは、U18アジア選手権と同様にレベル1,2に分かれている。前回のレベル1は、中国・韓国・日本・台湾・タイ・インドであったが、入れ替え戦でインドはウズベキスタンに勝って残留を決めたものの、タイはシンガポールに敗れてレベル2に落ちた。それで今回のレベル1は中国・日本・台湾・韓国・インド・シンガポールの6ヶ国で行われることになる。
 
予選リーグをやって1〜4位が決勝トーナメントに進出するが、5〜6位については、U20アジア選手権が今回で最後の大会になるので、入れ替え戦は行われない。
 
決勝トーナメントは1位と4位、2位と3位で準決勝をやって勝者が決勝戦、敗者が3位決定戦に出ることになる。2位以上が来年のU21世界選手権に行くことができるので、実質準決勝が世界選手権の切符を賭けた勝負ということになる。
 
前回(2006)の順位は1位中国、2位日本、3位台湾、4位韓国であった。
 
「中国はたぶん隠し球をしてきますよね」
「するだろうね。恐らく呉(ウー)選手をそれに使うのではないかと思う。ビデオをかなり集めたから明日の夕方にでも見てもらいたい」
と片平コーチが言う。
 
「おお、情報戦ばっちりですね」
と星乃。
 
「前回は勝(シェン)選手に危うくやられる所だったからね」
と彰恵。
 
「凄い選手だという所までしか試合前には分からなかった。対戦していて偶然対処法を見つけた」
と千里が言う。
 
「恐らく、中国も今、渡辺君と花和君の情報を必死に集めているよ」
と片平コーチ。
 
「日本もそのふたり、決勝戦にキープしますか?」
と朋美が訊くが
 
「必要無い。うちは堂々とやる」
と篠原さん。
 
「やはりそれが日本流ですよね〜」
と星乃は言った。
 
「そもそも渡辺君の情報は中国はU18チームから得られるはず」
「確かに確かに」
 
「だからジュンはけっこう警戒されると思うよ」
と玲央美は言った。
 

翌日9月22日は主として連携プレイを中心に練習。最後に7人対7人で紅白戦をした。
 
■Aチーム
PG.朋美 SG.千里 SF.彰恵 PF.百合絵 PF.桂華 SF.星乃 C.サクラ
■Bチーム
PG.早苗 SG.渚紗 SF.玲央美 PF.江美子 PF.純子 C.留実子 PG.雪子
 
朋美:早苗、千里:玲央美、彰恵:江美子、サクラ:留実子、といったライバルを分離して戦力が均衡するように分けている上に、彰恵−百合絵、留実子−雪子というかつてのチームメイトを同じ組に入れて連携しやすくしている。新参の純子のことも雪子や留実子はよくよく知っている。
 
それでこれでかなり白熱した試合となった。
 
40分の試合で最後92-89となった所から、玲央美がスリーを決めて同点に追いつき、引き分けで終わった。
 
「いや、これはかなりマジになった」
「でも気持ち良く汗を流せた」
 
などと言って引き上げようとしていた時のことであった。
 
「ダイ(桂華)?」
「どうかしたの?」
 
「いや、何でもない。ちょっと腹痛。お昼に3日前のおにぎり食べたせいかなあ」
などと本人は言っているものの、座り込んでしまった。
 
「おいおい。こういう時はちゃんと健康管理してもらわなきゃ。もったいないと思っても消費期限が切れたのを食べちゃダメだよ」
と高田コーチが注意する。
 
「医務室行く?」
とそばにいる百合絵が声を掛ける。
 
「寝てれば大丈夫と思う」
と桂華。
 
しかし高田コーチは言った。
「寝てれば治るかも知れないけど、こういう時は万全の処置をした方がいい。まだ医務室は開いているはずだから、ちょっと行ってみよう」
 
「ちょっと私、付いてきます」
と百合絵が言っている。
 
「うん。頼む」
と高田コーチ。
 
桂華は体格がいいので、百合絵のような大きい子でないと、途中で立てなくなったような場合に助けてあげられない。
 
それで百合絵に助けられて桂華は立ち上がり、医務室の方へ行く。その時、千里の後ろで《びゃくちゃん》が言った。
 
『ちょっと、あの子、やばいよ』
『え?』
『あれ、盲腸だよ』
『うっそー!?』
『でも医務室に行くなら、看護婦さんが気付いて病院に運ぶと思う』
『うーん。。。だったら、びゃくちゃん、しばらくあの子に付いててくれない?』
『うん』
 
それで《びゃくちゃん》は千里から分離して、桂華と百合絵に付いていく。桂華の足取りが怪しいのを後ろから支えてあげて、医務室に行くのを助けてあげた。
 
すると何か感じたのか、玲央美が千里の方を見た。
 
「あれまずい?」
と小声で訊く。
「もしかしたら。でも病院に行くから大丈夫だと思う」
「病院に行くことになるのか!?」
 

夕食を取ってから、各々の部屋にいったん入る。しかし20時頃、緊急事態が起きたので、会議室に集まってくださいという連絡が入る。千里は玲央美の部屋でお茶を飲みながら話していたのだが「やはり来たね」と言って一緒に会議室に向かった。
 
中に入ると篠原監督と高居代表が難しい顔をしている。千里たちは割と早かったようで、その後少しずつ人が集まる。10分ほどした所で篠原さんが言った。
 
「全員来たかな?」
 
「橋田さんと大野さんがいません」
とキャプテンの朋美。
 
「うん。実はそのことなんだ」
と篠原さんは言った。
 
「実はさきほど橋田君は腹痛を訴えて医務室に行ったのだが、看護婦さんが、これは急性虫垂炎の疑いがあると言った」
 
「え〜?」
「うっそー!」
などという声があがる。
 
篠原さんは続ける。
 
「それで高田コーチと、なりゆきで医務室まで付き添ってくれていた大野君とが一緒に病院に急行した。そして医師の診断で間違い無く急性虫垂炎だと診断された」
 
一同がざわめいている。
 
千里も玲央美も腕を組んで篠原さんの方を見た。
 
「博多に住んでいるお母さんに連絡した所、すぐにこちらに向かうということだった。多分7時くらいの飛行機になりそうということで、病院に到着するのは夜10時半頃になると思う」
 
「治療方針は手術ですか?抗生物質ですか?」
と朋美が質問する。
 
「現時点では分からない。しかしどっちみち、明日インドに飛び立てる状態ではない」
 
彰恵が質問する。
「選手登録はどうするんですか?」
 
高居代表が苦渋の表情で答えた。
「FIBAに問い合わせた。急病の場合は本日のスイス時間で17時、日本時間で本日の24時までなら、医師の診断書があれば選手の入れ替えを認めるということだったので、英文の診断書を書いてもらうよう高田君の方でお願いした。事務の坂倉さんが今取りに行っているので、それが来たら交替の申請書を出す」
 
「交替要員は?」
と朋美が訊いた。
 
「もちろん竹宮君で申請する。竹宮君いい?」
と高居さんに訊かれて、星乃は
「はい」
と答えた。半ば困惑するような顔をしている。代表になるのは内心嬉しいかも知れないが、こういう形での交替では、どういう顔をすればいいのか分からないであろう。
 
「しかし、なんでこんなに次から次へとトラブルが起きるんですかね」
と朋美が言っている。
 
「うん。しかしここまでこんなにトラブルが起きたのなら、もう起きるようなトラブルは全部起きてしまったろうから、この後はストレートに優勝できると思うよ」
と高居さんは言った。
 
「そうしたいですね」
と朋美も答えた。
 

桂華のお見舞いに行きたいという子が多い。それで結局全員でお見舞いに行くことになった。
 
「病院はどこですか?」
「B病院という所なんだけどね」
「電車か何かの移動になります?」
「ジョギングだな」
「え〜〜〜!?」
「僕が付き合うから心配しないで」
 
それで全員ウォーキングシューズ又はランニングシューズに履き替え、片平コーチが先頭に立ち、末尾を割としっかりしてそうな玲央美が務めてジョギングを始める。15分ほどで病院に到達する。
 
病院の夜間入口付近で少し息を整る。高田コーチに桂華が入院した病室を確認する。中に入る。エレベータで5階にあがり、病室に行く。
 
大量人数で来たので高田コーチが驚いている。
 
「桂華どう?」
と先頭で入って行った千里が訊く。
 
「今薬で抑えてもらっているけど、痛い。どんどん痛くなっている」
「わぁ・・・」
「何もこんな時に発症しなくてもなあ」
「最悪の日だよね」
 
「でもあんたインドに行ってからでなくて良かった、って母ちゃんに言われた」
「それは確かだ」
「機内とかで発症しても恐いよね」
「そのために緊急着陸で途中の国の病院に緊急入院なんて事態も恐い」
「言えてる」
「台湾とかタイみたいな医療水準の高い国ならいいけど、どうかした国だと、そちらの方がやばかったりする」
 

そのまま桂華と会話をするが、桂華もおしゃべりしていると、痛いのも少しは紛れるようであった。21時頃桂華の母が到着する。随分早い到着だが、そもそも知人の見送りで福岡空港に来ていたので、すぐ航空会社のカウンターに行き、娘の急病ですぐ東京に行きたいと言ったら、本来ならもう締め切りになっていた飛行機に急遽乗せてくれたらしい。羽田から赤羽までも、物凄くいい連絡で辿りつけたと言っていた。
 
「最初タクシーに乗ろうかと思ったんですけど、東京のタクシーは渋滞に引っかかると恐ろしいことになるって、娘が言っていたのを思い出したので気は急(せ)くものの電車を乗り継いで来ました」
とお母さんは言っている。
 
いったん千里たちは病室の外に出る。
 
桂華とお母さん、それに高田コーチだけ残り、主治医の先生と話し合っているようである。
 
少ししてお母さんが出てきて廊下にいる千里たちに言った。
 
「みなさんにもご心配掛けて申し訳ありません。手術することにしました。今夜0時頃から手術だそうです」
 
「私、ついてますから」
と千里が言った。
 
それで千里と星乃の2人が残り、他の子は22時で帰ることにした。
 
「ところで帰りもジョギングですか?」
と純子が質問する。
「当然」
と片平コーチは答えた。
 

みんなが帰った後、星乃がどうも桂華と2人で話したがっているようだと感じた千里は「飲み物買ってくるね」と言って病室を出た。
 
わざと病院の外まで出て、近くのコンビニに行ってくる。ついでに雑誌の立ち読みもする。やがて《びゃくちゃん》から『もういいよ』というメッセージが入るので千里は暖かいペットボトルのミルクティーを4つ買うと、コンビニを出て病院に戻った。
 
「ごめーん。つい雑誌立ち読みしてた」
と言って、紅茶を星乃とお母さんに渡した。高田コーチも席を外しているようであった。
 
「あら。私にまで?ありがとう」
と言ったお母さんまで涙を拭いた後があった。むろん星乃も桂華もたくさん泣いた跡があった。
 
「千里、私、凄く頑張る」
と星乃は言った。
 
「うん」
と千里は笑顔で答えた。
 

手術は結局前倒しで23時すぎから始められた。
 
高田コーチが「君たちは寝てなさい」と言うので、千里も星乃も和室に案内してもらい、毛布を借りて身体に掛けて寝た。
 
1時頃、看護婦さんが「手術は無事終わりましたよ」と知らせに来てくれたので、ふたりは起きて病室に行った。
 
「まだ手術した所だけ麻酔が効いているから痛みが分からない」
と桂華は言っていたものの、表情は明るかった。
 
「どのくらい入院しないといけないんですか?」
「腹腔鏡による手術で切った箇所が小さいので、2〜3日で退院できるらしいんですよ。でも週末に掛かるから月曜日の退院になると思います」
とお母さん。
 
「じゃ、ダイはその後インドに飛んできて、練習相手になってね」
と千里。
「さすがに勘弁して」
と言って、桂華は笑った。
 

桂華がけっこう元気そうなのを見て、高田コーチ、千里、星乃も引き上げることにした。高田コーチがタクシーを呼び合宿所に戻る。
 
「ジョギングせずに済んだ」
などと星乃は言っている。
 
「じゃ、君たちは戻ったらすぐ寝ること。朝8時出発だから」
と高田コーチは言っている。
 
しかし星乃が話したそうにしていたので、千里たちは深夜の合宿所のロビーで自販機でお茶を買って飲みながら話した。星乃は自分の偽らざる気持ちをふたりにだけ話した。星乃はまた泣いていた。千里も涙が出てきたし、高田コーチも今にも涙が出てきそうな顔をしていた。
 
桂華はU18の時、本来は代表落選確実だったのを、星乃が怪我したから自分が代わりに代表に入れてもらったと、ずっと思っていたらしい。だから今度はその借りを返せて重荷が下りたような気がしたと桂華は星乃に言ったという。
 
星乃はその桂華の考えを否定した。自分は代表に来るまでは凄い自信を持っていた。天狗になっていた。しかし玲央美、彰恵、千里などと一緒に代表合宿をしていて自分の力不足を感じていた。完全に天狗の鼻をへし折られた。あの時怪我しなくても落とされていたのは自分だと思うと星乃は桂華に語ったらしい。そんな積もる話をする内にふたりはたくさん泣いたという。
 
しかし最後に高田コーチは言った。
「だったら君が頑張らないと、橋田君は君が代わりを務めることに納得しないぞ」
「はい。それで死ぬ気で頑張ることにしました」
と星乃も言った。
 
「死なれたら困るんだけど。これ以上選手に事故があったら僕が死にたいよ」
「はい、死なない程度に死ぬ気で頑張ります」
 
千里も高田も吹き出した。
 
「これ預かってきたんです」
と言って、星乃はお守りを出す。千里はびっくりした。唐津の鏡山神社のお守りである。
 
「インターハイの時以来、ここの神様がいつも桂華を守ってくれるんだそうです。だから私がこれを持っていればいつも桂華と一緒にいることになります。試合中は身につけてられないけど、コートに持ち込むバッグに入れておきます」
と星乃は言った。
 
へー!松浦佐用姫(まつらさよひめ)様に気に入られたのかな?と思うと少し楽しくなった。
 
桂華は2007年の唐津インターハイの時、松浦佐用姫の従者に乱暴なことをしたとして松浦佐用姫から足が重くなるようにおしおきをされていた。しかし千里の助言で姫を祭る鏡山神社にお参りに行き、それを解除してもらった。多分神社に行ったことで足の不具合が治ったことから、桂華はその後もしばしば鏡山神社にお参りしていたのではなかろうか。
 
「うん。2人分頑張ろう」
と高田コーチは笑顔で言った。
 
「はい!」
と星乃も明るく答えた。
 

フランスに渡っているフル代表は9.10-12にベルギーとの国境に近いリール近郊Villeneuve d'Ascqで国際親善試合をブルガリア・カナダ・フランスと行い、ブルガリアに勝ち、カナダとフランスに敗れた。
 
その後9.17-19には、リールとパリのちょうど中間付近にあるAmiensおよびBeauvaisで行われた国際親善試合でフランス・ブラジル・アルゼンチンと戦い、ブラジルにだけ勝って、フランスとアルゼンチンに敗れた。
 
9月20日には大会が行われるチェコのBrnoに移動した。今回の大会はBrno, Ostrava, Karlovy Varyという3つの町にまたがっておこなわれる。
 

亜津子や王子に華香たちが参加するフル代表の世界選手権、千里や玲央美に純子たちが参加するU20アジア選手権、そして絵津子や紫・由実たちが参加する国体は、いづれも、もうすぐである。
 
 
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【娘たちの予定変更】(7)