【娘たちよ胴上げを目指せ】(1)

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診察を終えて医師は言った。
 
「心理的には完全に女の子として発達しています。今日はスカートですが、いつもですか?」
「ええ。ズボンとか嫌がるので。学校にも基本的にスカートで行っていますし、ふつうに女児として溶け込んでいるようです」
「学校ではトイレは?」
 
「ふつうに女子トイレを使っています。先ほど説明したような経緯で、最初の内は私もまさかこの子が女の子ではないとは気付かず、それで女児として学校には登録されてしまったので、同級生たちも先生たちも普通の女の子だと思っていると思います。身体測定とか体育の時の着換えも女の子たちと一緒ですし、夏の間の水泳の授業も女の子用のスクール水着をつけて受けました」
 
「洋服は女の子の服ばかりですか?」
「はい。女の子用しか持ってません。男物の服はいらないと本人も言いますし」
 
「なるほどね」
と言ってから医師は言う。
 
「間違い無く性同一性障害と思いますが、診断書を出すまでにあと2回くらい経過観察させてください。特に次回はお母さんから離して半日ほど観察したいのですが」
「分かりました。半日でも泊まりがけ2日でもいいですよ」
と春美は笑顔で言った。
 

診察が終わって、ロビーに出たところで
 
「まえださん」
と看護婦が呼ぶ。
 
「はい?」
と春美はこたえた。春美本人は“桃川春美”名義のマウンテンフット牧場の社会保険の健康保険証を使用しており、しずかも“桃川しずか”名義で、その被扶養者として保険証が発行されている。しかししずかの戸籍上の氏名が「真枝和志(まえだかずし)」であることは病院側にも説明している。これはこの子を法的に改名させるため、性同一性障害の診断書をその名義で書いてもらう必要があるからである。
 
「お注射がありますよ」
と言われる。
 
「あ、はい」
と答えながらも、何の注射だっけ?そんな話聞いてない気がするけど、言われたのを私聞いていなかったな?などと思う。
 
春美はだいたい、人の話をちゃんと聞いてないとよく叱られる。
 
春美がまた私、ちゃんと先生の話聞いてなかったのかなぁなどと自省しているうちに、看護婦はふたりを処置室に案内する。しずかの左腕をアルコール綿で拭いた
 
「ちょっとだけ痛いけど我慢してね」
と言うと、注射器の針を刺して薬剤を注入した。
 
針を抜いてブラッドバンを貼る。
 
「泣かなかったね〜。偉いね〜」
と看護婦が言っていた時、処置室に母娘連れが入ってくる。
 
「すみません。前田です。トイレに行ってました。注射はこちらでよかったでしょうか?」
と母の方が言う。
 
「え!?」
と言って看護婦が驚く。
 
「あのお、あなた前田さんじゃないんですか?」
と春美に尋ねる。
 
「この子が真枝(まえだ)しずかですが」
 
「え〜〜〜!?」
と言いつつも、看護婦は真っ青になっている。
 
何か起きたようだというのに気付いた医師が診察室からこちらに来る。 
「どうしたの?」
と尋ねると、看護婦は同じ前田さんであったので、前田ゆう子ちゃんにすべき注射を、間違って前田しずかちゃんにしてしまった、と話す。
 
「そうか。同じ《まえだ》さんだったね。注意しておくべきだった。漢字が違うから僕も気付かなかった」
と医師は言っている。
 
医師がその場でメモ帳に《前田ゆう子》《真枝しずか》と書いてみせると、思わず「わぁ」という声があがる。
 
「あのお、ところで何の注射だったんでしょうか?」
と春美が尋ねる。
 
「エストロゲンなんですけどね、どうしましょう?」
と医師は春美に訊いた。
 
「エストロゲンなら全然問題ありません」
と春美は笑顔で答えた。
 
「うん。そんな気がした。でも間違って申し訳ありません」
「いえ。こちらはエストロゲンを打って頂くなんて大歓迎です」
 
「一応、しずかちゃんのHRT(ホルモン療法)については、診断書が出た後ということで」
「分かりました」
 
「君は今度から下の名前まで確認するように」
「はい!すみません」
と言って看護婦は医師に謝るとともに、桃川親子、前田親子にも再度謝った。 
「あと事故報告書を書いてね」
「はい」
 
「あのお、ゆう子のお注射は」
「あらためて薬剤手配します。少しお待ちください」
 
「あのお、しずかのエストロゲン注射の代金は?」
「もちろん代金不要です」
 
「でももしかして、そちらもGIDなのかしら?」
と春美はそちらの母に尋ねた。
 
「そうなんですよ。1年ほど前からこちらに通院してHRT受けているんです」
「こちらは今日が初診だったんです。あの、もしよかったらアドレス交換しませんか?」
「ええ。ぜひ」
 
と言って、春美は前田範子とアドレス交換した。
 
「あら?あなたは苗字が?」
「それ説明すると物凄く難しい話なんですが、私は法的にはこの子の父親の婚約者兼妹でかつこの子の里親なんですが、遺伝子的にはこの子は私の実の子供なんです」
 
「何か難しい。ごめんなさい。分からなかった」
「じゃ、また今度会った時に詳しく説明を」
「ええ。ぜひ」
 

1ヶ月ほど前。真枝亜記宏はラーメン屋さんの定休日を利用して枝幸町から美幌町までやってきた。前回は荘内龍一さんの車に乗せてもらってきたのだが、今回は自分の運転免許証(放浪している内にどこかで紛失した)を再発行してもらったので、お店の軽トラを借りて自分で走って来た。
 
定休日の前日、お昼の書き入れ時が終わった後、「スープが無くなったらお店閉めるから」という、荘内さんの娘さん(龍一の叔母)にお店を任せて、(軽くシャワーを浴びたりしてから)午後2時頃に枝幸町を出、200kmの道のりを休憩も入れて5時間掛けて走り美幌町に到達した。
 
亜記宏が到着してから間もなく、函館からミラ・太平(弓恵の兄・美鈴の父)、美鈴・理香子が到着、最後に旭川から天津子・織羽と司馬光子(天津子の叔母で形式的な織羽の保護者)が到着する。
 
取り敢えず、夕食をごちそうになる。
 
「まあ難しい話は1晩寝てからにしようよ」
という山本オーナーの声で、いったん各々宿舎に入った。
 
ここでミラや理香子たちはオーナー一家が住んでいるB棟に、天津子や織羽たちは女性スタッフの多くが住んでいるD棟に入り、そして亜記宏と春美は普段チェリーツインの演奏や練習に使っているE棟(一応寝泊まりもできるようになっているがふだんは誰も住んでいない)に押し込まれた。
 
「え〜?私たちだけここなの?」
と春美。
 
「この棟は今夜ふたりだけだから、少々大きな声出しても大丈夫だよ。まあ牛舎の牛たちが驚かない程度にね」
と桜木八雲。
 
「しずかちゃんは私と一緒に寝ようね」
と言って桜川陽子が連れていく(桜木八雲では、しずかの貞操?が危ない)。 

「えーっと・・・」
と言って、亜記宏はセミダブルのベッドに、避妊具・ドリンク剤・ティッシュペーパー、更にはロウソクとロープ!?まで置かれているのを見て、悩む。 
「うーん・・・」
と春美も悩む。
 
とりあえずロウソクとロープはタンスの中に仕舞った!
 
「お風呂でも入る?」
「あ、うん」
 
お風呂はちゃんと既にお湯が貯めてあった。ここはチェリーツインの制作が立て込んできた時にそのまま寝泊まりできるようにベッドルームも4つ(気良姉妹用・桜木八雲用・桜川陽子&桃川春美用・紅姉妹用)あるし、お風呂もある。ふたりが押し込められたのは、桜木八雲が使っている部屋で彼女の好みでセミダブルのベッドが置かれているのだが、シーツや布団カバーは新しいものに交換されているようだ。
 
「冷蔵庫にワイン・日本酒・ビール冷えてます」
というメモまで置いてある。
 
交替でお風呂に入ってきてから
「ビールでも飲む?」
「そうしようかな」
と言って、恵比寿ビールの缶を開けて、タンブラーに注ぎ、乾杯した。 

最初はたわいもない話をしていた。春美はお酒はそう強い方ではないので、飲んでいる内に、結構気分が乗ってきた。
 
「ものすごーく気分いいから、セックスさせてあげようか」
と春美は言った。
 
「えっと・・・・」
「私もう、おちんちん取っちゃったんだよ」
「性転換したの?」
「それはまだ。女湯に入るのには支障が無いけど、結婚するにはもう一回手術しないといけない」
「女湯に入ってたくせに」
「それは秘密にして」
「でも取っちゃったのか・・・」
「付いてた方が良かった?アキってゲイなんだっけ?」
「いや。自分ではノーマルのつもりだけど」
 
「ちゃんと逝かせてあげるから」
と言って、亜記宏に抱きつく。亜記宏もその気になったようで、ふたりはベッドに入って服を脱ぎながら愛撫した。
 
ふたりはまだ春美(美智)におちんちんが付いていた頃も、ちゃんとセックスしていた。春美は常時タックしていたので、実はそもそも亜記宏は春美のおちんちんは1度も見ていない。
 

「アキ、なんで女物の下着を身につけてるのよ?」
と春美は面白そうに言う。
「いや、何か僕、向こうでは女装趣味者と思われているみたいで。色々世話してくれている人が、女の下着ばかり買ってきてくれるんだよ」
と亜記宏は弁解がましく言う。
 
「いいと思うよ〜。アキのスカート姿けっこう似合うし。お化粧もうまいし」
「別に女装趣味は無いんだけど」
「心配しなくていいよ。アキが女装していても、セックスくらいちゃんとしてあげるから。性転換までされちゃったら困るけど」
 
などと言って、春美は亜記宏のその付近を手で刺激する。
 
「性転換はしないよ!」
 
「おっぱいまでは大きくしてもいいよ〜。女性ホルモンじゃなくてシリコン入れる方式なら。あれ〜?まだ立たない。そうだ。舐めてあげるね」
 
と言って、春美は身体をずらして布団の中に潜り込み、彼のを舐めてあげる。ところがいつまで経っても立たない。
 
「ごめーん。私、下手くそかなあ」
と春美は戸惑うように言った。
 
「いや。ごめん。僕のはもう立たないんだよ」
「え〜〜!?」
 

いったん休戦して、コーヒーを入れて飲む。
 
ふたりとも裸のままである。春美は自分のバストやお股に亜記宏の視線が来るのを感じていた。微笑んで彼の手を自分のお股に触らせる。
 
「ほんとにちんちん無くなっちゃったんだね」
などと言いながら愛撫してくれた。
 
しかし彼のは小さいままである。
 
「それ女性ホルモンしているせい?」
「女性ホルモンなんてしてないよ。ほんとに僕はそっちの趣味は無いから」
と彼は言う。
 
「女物の下着つけてて、それ全く説得力無い」
と春美は彼をいじるように言う。
 
「実を言うと、美智(春美)と別れた頃から立たなくなった。だから実は実音子とも、婚約した頃以降、全くセックスできなくなってしまって」
 
「うっそー!?」
「実音子とは、美智とふたまたになっていた時期はセックスできていた。でも美智と別れた後は1度もできてない」
 
「きっと長年の恋人を裏切った天罰ね」
と春美は冷たく言う。
 
「あれは本当にごめん」
と亜記宏はあらためて謝る。
 
「でもちょっと待ってよ。セックスできないのに、どうやって子供ができたわけ?」
 
「僕がセックスできなくなってしまっても、それは構わないと実音子は言った。人工授精すれば問題無いからと。だけど、産婦人科に行ってチェックしてもらったら、僕の睾丸は機能停止していて、精子も男性ホルモンも生産されていないと言われた。更に実音子のほうも、閉経していて、卵巣の機能が停止していると言われた」
 
「なぜそういうことに?」
 
「実音子は閉経していることは知っていた。言わなくて御免なさいと僕に謝った。あの子は中学生の頃まではコロコロ太っていたのを高校生の頃に熾烈なダイエットをして120kgから40kgまで体重を落としたらしい」
 
「それ無茶苦茶。そんなことしたら死ぬよ」
 
「それで死にはしなかったけど閉経してしまったみたいだね」
 
「アキは何で睾丸が機能停止したの?」
「実を言うと、僕は元々睾丸は弱かったんだよ。高校生の時におたふく風邪に掛かって、急性精巣炎を起こしてた」
 
「でも私と恋人だった時期はちゃんと立ってたよね」
「あの時期は何とか立ってたし、射精もしていた。でも少なくても実音子と結婚していた時期は1度も立たなかったし、夢精さえも起きていない。その間に僕は筋肉も落ちていって腕力とかも無くなるし、ヒゲとかスネ毛とかも生えなくなってきた。ああやはり睾丸が機能停止したんだな、と僕は思っていた」
 

春美はハッとした。
 
「でもでも、アキ、有稀子さんとセックスしたと言ってなかった?」
「彼女とは3回した。うっそー!?これが立つなんてと僕は驚いた」
「じゃ復活したの?」
 
「彼女と別行動になった後は1度も立ってない。最初の内は性欲だけあって、それを処理できないんで辛かったけど、その内全然物を食べられない状態の中で性欲も消滅した」
 
春美は考えた。
 
「だったら、アキのおちんちんはどうにかすれば立つと思う」
 
「僕も実は美智としたら立つかもと思ったんだけど、ダメだったみたい。もしかしたら、浮浪者同然の生活をしていて死にかけていた睾丸が完全に機能停止してしまったのかも知れない」
 
「でも私は諦めないよ。これ、その内立たせてみせる」
とそれを触りながら春美は言う。
 
「そう?僕は美智とイチャイチャするだけでも結構気持ち良かった。射精できなくても、美智とこういうことが、またしたい」
「いいよ。こちらに来た時はいくらでもさせてあげる」
 
「うん」
と亜記宏も笑顔で頷き、ふたりはキスをした。
 

そんなことを言いながら、春美は疑問を感じた。
 
「だけど、アキは射精できないし実音子さんは排卵できない訳でしょ?よくそれで人工授精できたね。卵子を直接卵巣から採取して人工的に育てて、アキは睾丸から直接精母細胞を取った?」
 
「そのやり方も試してみたけど、受精卵が育たなかった」
「うーん・・・」
 
「それで・・・これは本当に美智に謝らなければいけないんだけど」
「へ?」
 
「実はそれで生殖細胞を借りたんだよ」
「というと?」
 
「美智が去勢する前に精子を冷凍保存したでしょ?」
「ちょっと待ってよ」
 
「実は、理香子・しずか・織羽の3人は、あの時冷凍保存していた美智の精子で生まれたんだ」
 
「うっそー!?」
 

亜記宏はまた土下座している。
 
亜記宏の説明によると、これでは亜記宏と実音子の間の子供を作るのは不可能だと言っていた時、弓恵(亜記宏の母)と洲真子(実音子の母)から提案があったのだという。生殖細胞を借りようと。
 
それでふたりには「誰のもの」か説明の無いまま、冷凍精子と冷凍卵子が用意され、それを受精させて試験管の中で育て、充分細胞分裂しはじめた所で実音子の子宮に投入した。それで理香子が生まれた。
 
実音子は1人子供が生まれただけでも充分満足だったようだが、弓恵と洲真子は「もう1人行こう」「あと1人頑張ってみよう」と言って結局年子で3人の子供を作ることになる。
 
結局、誰の精子だったのか、誰の卵子だったのか亜記宏も実音子も知らないまま、ふたりは3人の子供の親になった。
 
最初に卵子の所有者が誰かは気付いた。それは、織羽と多津美の容貌がとてもよく似ていたからである。ふたりはまるで時間差の双子のように似ていて、織羽の1歳頃の写真と多津美の写真をみんなしばしば取り違えた。
 

この問題について洲真子が、亜記宏・実音子・駆志男・有稀子に謝った。 
実は駆志男・有稀子夫妻もなかなか子供ができず、ずっと不妊治療をしていた。多津美が生まれるまでの間に、駆志男が使った医療費は数百万円に及び、それも借金が膨大になってしまったひとつの要因らしい。
 
その中で卵子の採取は母体に大きな負担が掛かるため、一度に多数の卵子を採取して、すぐに受精させるもの以外は冷凍保存していた。その卵子を勝手に使って、受精させ実音子の子宮に投入したのだという。
 
有稀子は卵管狭窄で卵子が出てきにくい上に、子宮がハートの形をしたいわゆる双角子宮で、そのためとても流産しやすい。体外受精させた受精卵を子宮に投入して着床はしても、どうしても流産してしまうというのを繰り返していた。(それに加えて駆志男の精子も活動性がひじょうに悪く顕微鏡受精が必要だった)
 
それで、洲真子の話では、最終的にどうしても有稀子が出産できなかった場合、実音子が産んだ子供のひとりを特別養子縁組で駆志男と有稀子の子供にしたいと考えていたという。それで実音子の子供用に1人、駆志男の子供用に1人、念のためもう1人で3人作ったのだと洲真子は説明した。
 
「そんな話、なぜ最初にしないんですか?」
 
と亜記宏も有稀子も怒ったが、どうもその時の様子では実音子と駆志男は承知の上だったような感じもしたという。最終的に有稀子は多津美の出産に成功した(8ヶ月の早産だったが育ってくれた)ので、この特別養子縁組の話は無かったことにしたらしい。
 

「でもそうすると、有稀子さんは卵子は作れるけど、子宮の形状の問題で流産しやすい。実音子さんは子宮は問題無いけど、卵子は作れないということだったんだ?」
 
「結果的には理香子・しずか・織羽の3人は、実音子と有稀子が共同でお互いの機能を補いあって産んだようなものだね」
と亜記宏は言う。
 
「それで精子は?」
「そのことは僕も実は、母ちゃん(弓恵)が亡くなった時に知った」
「え?」
 
「母ちゃんが亡くなる直前に僕に手紙を書いてたんだよ。その中で理香子たちを作った精子について書かれていて、美智の精子を保存していたものを流用したことを謝っていた。そのことを美智に言うかどうかは僕に任せると。僕は実音子と結婚してしまったことについて、美智に後ろめたい気持ちを持っていたから、結局それを話す機会を逸してしまって」
 
と亜記宏は本当に申し訳なさそうに言った。
 
あの時、冷凍アンプルは確か3本作った気がする。その3本が、理香子・しずか・織羽の妊娠に使用されたのだろう。
 

「だけど、なぜしずかたちは私のこと、最初からママと呼んでいたんだろう?」
と春美は自問するかのように言った。
 
「実音子は自分の遺伝子上の子供ではないというのがどこか心の隅にあったせいもあるのか、3人に結構冷たくてさ」
 
「うーん・・・・」
 
「かなりネグレクトされていた。気をつけてないと、あの子たち御飯も与えられていなかった」
「え〜〜!?」
 
「だから僕はいつも理香子に『お母ちゃんには内緒』と言って、秘密の場所に乾パンとかクッキーとかを置いていて、3人の非常食にしていた。そういった経緯で、3人とも、あまり実音子が好きじゃなかったみたい。その内、理香子が『私たちの本当のママはどこにいるの?』と実音子がいない時に僕に訊いた」
 
「うん」
 
「僕は本当のママも何もお前たちは間違い無くお母ちゃんが産んだ子だよと答えていた。でももしかしたら実音子は僕が居ない時に、あんたらは私の子供じゃないし、とか言ったのかも知れないと思う」
 
「あぁ・・・」
 
「その内、交通事故が起きて、駆志男さんが死んで、実音子も重傷で入院して、僕は稚内にラーメン作りの修行に行くことになったし、子供たちの面倒を見る人がいないんで、有稀子が多津美と一緒に3人の面倒を見てくれた。3人も有稀子にはなついていた。有稀子自身も『自分の遺伝子上の子供だし』などと僕には言っていた」
 
「それで結果的に有稀子さんとアキが子供たちと一緒に逃亡するハメになったわけだ?」
 
「当時は僕と有稀子の間には何も無かったよ。たださ、ある時、休暇をもらって久しぶりに戻って来た時、それはもう実音子も亡くなった後だったんだけど、ぼくがうっかり運転免許証入れを落として、その免許証入れの中の、免許証とSDカードの間に、美智の写真が挟まっているのに理香子が気付いてさ」
 
春美は思わず涙が出そうになった。
 
そんな所に自分の写真を入れていたなんて・・・・
 
「あ、ごめん。その免許証入れは放浪している時にどこかで紛失してしまって」
「うん。いいよ」
 
「それでその時、これ誰?と理香子が訊くもんで、有稀子が少し悪戯っぽい目をしてさ『それは理香子やしずかの本当のママだよ』と言ったんだよ」
 
「あははは」
 
「更に『本当はパパはこの人と愛し合っていて結婚するはずだったのが、色々あって理香子たちの亡くなったお母ちゃんと結婚したんだよ』とかバラしちゃうし」
 
「ふふふ」
 
「それで、理香子たちは美智(春美)のことを自分たちの本当のママだと思い込んでしまったんだな。もしかしたら、理香子たちは美智があの3人を産んだ後、僕が離婚して実音子と結婚したように解釈したのかも」
 
「それが実態に近い気もするよ。私たち当時はほとんど結婚状態だったし、私は籍は入れられなくても自分はアキの奥さんだと思っていた。まさか二股してるとは思いも寄らなかった」
 
「あれは本当に御免」
 
「まあいいけどね。私、あの子たち好きだし」
 
と春美は明るく言った。
 

翌朝、春美と亜記宏がとても良い雰囲気を漂わせていたことから、ミラや美鈴、天津子や光子たちも、ふたりが「夫婦に戻った」ようだと判断したようであった。そのため、この日の話し合いはとてもスムーズに行った。
 
まず、再度子供たちの扱いについて全員で話し合った結果、子供たちは美鈴の所、春美の所、光子の所に「里子に出す」という形を取ることにした。山本オーナーのツテで弁護士さんにも入ってもらい、合意書を作成して、お互いに署名捺印することにする。養育費用に関しては、春美が「自分は今経済的な余力があるから」ということで、取り敢えず今後2年間は春美が3人の養育費を出すことにし、美鈴と光子に送金することにする。この費用負担に関しては2年後に再検討することにした。
 
また、しずかについては法的に「和志」から「しずか」に改名させようということになり、そのため性同一性障害であるという診断書をもらうのに、札幌の病院を受診することも決めた。
 
「理香子も性同一性障害?」
「いや、あの子はノーマルの範疇だと思う。男の子になりたいって女の子は普通にいるから」
と美鈴。
 
「織羽は?」
 
「一応先日、旭川市内の大学病院で診てもらったんですよ。本人が今の段階では肉体の改造を望んでいないようだし、当面は今のままでいいのではないかとお医者様も言っておられました。ただ曖昧な性腺は癌化しやすいので、定期的に診察を受けることにしました」
と光子が報告する。
 
「法的な性別はどうするの?」
 
「とりあえずは保留したままで。たぶん小学校も高学年くらいになったら、本人もどちらの性ということにしておくか、決めきれると思うので、その時点で本人に選ばせます。もしかしたら、女装趣味の女の子か男装趣味の男の子になっちゃうかも知れないけど」
と天津子。
 
「女装趣味の女の子??」
 
「あ、間違った。女装趣味の男の子か、男装趣味の女の子か。個人的には女装趣味の男なんて収容所に送って皆殺しにしちまえと思っているんですけど、この子だけは特別に生存を認めてあげることにして」
 
などと天津子が言うので、春美が困ったような顔をしている。
 
「海藤さんはとりあえず総理大臣とかにはしない方がいいようだ」
と山本オーナーが言う。
 
「ずっと将来、もし結婚するなら男性器か女性器かどちらか必要ですが、それも18歳くらい過ぎてから本人があった方がいいかなと言ったら手術してもいいですし。今は取り敢えず女の子に埋没しているみたいですけどね。結局その後も、男の子の意識は1度も出てこないんですよ」
と光子が言う。
 
「ほほお」
 
「でも女の子の意識の状態でも、仮面ライダーとかワンピースとか熱心に見ているし、あの子、ロロノア・ゾロが好きだから剣道覚えたいとか言って、今、習いに行かせ始めた所で」
 
「まあ女の子でも剣道やる子はいるよね」
「ええ。だから目立たないですよ。一緒に習ってる他の女の子と仲良くしてるみたいだし」
 

そこまで話が進んだ所で、春美と亜記宏は3人の遺伝子上の両親について説明した。その件に付いては全員一様に驚いていた。
 
「だったら、理香子たちって、美智ちゃんの本当の子供だったんだ?」
「そうみたいです。自分も知らないうちに子供が3人できていたみたいで」
 
「じゃやはり美智はあの子たちの『ママ』でいいんだね?」
とミラが言う。
「そうですね。ママと呼ばれるの気分いいし」
と春美も笑顔である。
 
「知らない内に子供が3人もできてるなんて恐い話だ」
などと太平は言っている。
 
「お父ちゃんの子供も知らない内にできていたりして」
と美鈴。
 
「俺、浮気した覚えもないし、精子を冷凍保存とかしたこともないし」
と太平。
 
「浮気だったら、1度だけしたってのをお母ちゃんから聞いたけど」
「あれはもう古い話だから勘弁してよ」
 

2010年。U20女子代表は最初こういうメンツでアジア選手権に出る予定だった。 
4.PG.入野朋美 5.PG.鶴田早苗 6.SG.村山千里 7.SG.中折渚紗 8.SF.前田彰恵 9.PF.橋田桂華 10.SF.佐藤玲央美 11.PF.鞠原江美子 12.PF.大野百合絵 13.PF.高梁王子 14.C.中丸華香 15.C.熊野サクラ
 
一方フル代表の方は8月31日の夜遅く、いったんこういうメンバーになることが田原ヘッドコーチ・夜明アシスタントコーチ・富永代表・主将の三木エレン、副主将の羽良口英子の話し合いで決まった。
 
4.PG.羽良口英子 5.C.白井真梨 6.PF.横山温美 7.SF.広川妙子 8.C.馬田恵子 9.PG.武藤博美 10.PF.宮本睦美 11.PF.石川美樹 12.SG.花園亜津子
13.SF.佐藤玲央美 14.SG.村山千里 15.PF.高梁王子
 
ところが、夜11時半すぎになって、U20アジア選手権の日程がインドの総選挙の影響で前にずれてしまい、フル代表の世界選手権と重なってしまうということが突然報された。
 
それでU20とフル代表を兼任する千里・玲央美・王子の扱いが問題になり、協会の上層部の苦渋の決断で、王子をフル代表に残し、千里と玲央美はU20の方に出てくれと言われた。
 
フル代表側の千里と玲央美の補充にはいったん落選していた三木と佐伯を復活。U20側の高梁の補充にはU18アジア選手権の得点女王で、札幌P高校のエース・渡辺純子を緊急招集することになった。
 
つまりいったんこういうラインナップになった。
 
U20

4.PG.入野朋美 5.PG.鶴田早苗 6.SG.村山千里 7.SG.中折渚紗 8.SF.前田彰恵 9.PF.橋田桂華 10.SF.佐藤玲央美 11.PF.鞠原江美子 12.PF.大野百合絵 13.PF.渡辺純子 14.C.中丸華香 15.C.熊野サクラ
 
フル代表

4.SG.三木エレン 5.PG.羽良口英子 6.C.白井真梨 7.PF.横山温美 8.SF.広川妙子 9.C.馬田恵子 10.PG.武藤博美 11.PF.宮本睦美 12.SF.佐伯伶美 13.PF.石川美樹 14.SG.花園亜津子 15.PF.高梁王子
 
ところがそれでフル代表のロースターを発表した後、選手登録しようとしたら、アメリカ出身の白井が「過去にU18でアメリカ代表になったことがある」として登録を拒否されてしまった。そこで急遽フル代表にU20の中丸華香(一応フル代表候補でもあった)を組み入れることにし、訂正の記者会見をするはめになる。華香は白井さんに予定されていた背番号6を付ける。
 
華香の補充にはまた深夜の激論の末、補欠としてU20に同行していた花和留実子が昇格することになった。
 
ところが更に現地への出発前夜、桂華が腹痛を訴え、病院に運ばれて急性虫垂炎(いわゆる盲腸)と診断され、深夜に緊急手術を受けた。
 
当然今大会への参加は無理なのでFIBAの許可を取り、補欠の竹宮星乃を昇格させることになった。それで結局9月23日にインドに向けて出発するメンバーはこのようになったのである。
 
4.PG.入野朋美 5.PG.鶴田早苗 6.SG.村山千里 7.SG.中折渚紗 8.SF.前田彰恵 9.SF.竹宮星乃 10.SF.佐藤玲央美 11.PF.鞠原江美子 12.PF.大野百合絵 13.PF.渡辺純子 14.C.花和留実子 15.C.熊野サクラ
 
当初の予定から3人も入れ替わってしまった。
 
純子の招集が決まったのは9月1日の午前3時頃、留実子の昇格が決まったのは9月2日の朝6時頃で、このふたりのユニフォームは間に合ったのだが、星乃の昇格はインドに出発する前夜9月22日の21時頃決まったのでさすがに間に合わない。それで星乃は成田を出発する段階では補欠用の17番のユニフォームとジャンパーを着ていた。
 
そのため、成田まで見送りにきてくれた人や取材陣は、選手の入れ替えが行われたことに気付かなかったようである。この選手交代の件は朝10時になって協会側からは発表された。今回は急病によるものなので、記者会見も大きな騒ぎは無かった。
 

9月23日。
 
千里は朝6時に起きると、軽く2kmほどジョギングをしてから朝食に行き、シャワーを浴びてからユニフォームとジャンパーを着て、集合場所のロビーに行った。余分な荷物は合宿所のロッカーに入れておくが、洗濯物は《てんちゃん》にアパートに持ち帰ってもらい、洗濯をお願いした。《てんちゃん》は何かの時のために日本で留守番をしてもらう。彼女を日本に置いておくと、《きーちゃん》の力を使って、千里は瞬間的にインドから日本に戻ることも可能である。
 
出発前に高居さんから注意がある。
 
「薬はドーピングの問題があるので、頭痛薬や生理痛の薬なども、常用薬は必ず医務の町村さんに見せて禁止成分が入っていないか確認してもらって下さい。途中で胃腸薬、頭痛薬、消毒薬、絆創膏の類いが欲しくなった人も町村さんに言ってください。大抵の薬は用意しています」
 
「集団行動なので、特に集合時間を厳守してください。時刻までに来てない人は容赦無く置いて行きます。怪しげなものを食べないでください。路上の店で売っている料理には、時々衛生上問題のあるものがあります。蛇口から出る水は飲まないでください。あれはシャワー用と考えて下さい。チームでミネラルウォーターを調達していますので、ホテルについたら部屋に1箱ずつ配布します」
 
「おやつなどを買出しに行く時は、昼間でも必ず持田君、近江君、など男性のスタッフの誰かを呼び出して一緒に行ってください。事務の男性が居ない場合は、僕でも篠原君でも、片平君・高田君でもいいので、女子のみでの外出はしないこと。あと、夜間は外出禁止です。夜中にお腹が空いた人のために、スナック菓子やカップ麺などある程度の食料ストックも用意するようにしていますので、外に出たりせずに、坂倉か私に連絡してください。カップ麺を作る時は蛇口の水ではなくミネラルウォーターを沸かしてください。それと言うまでもなく、飲酒・喫煙は禁止です」
 
と高居さんが言うと
 
「食料やおやつは僕と片平君の部屋にも用意しておくから、遠慮無く電話してね」
と高田コーチが言っている。
 
確かに高居さんに連絡するのは気が引けるが、高田さんや片平さんなら、みんな深夜でも連絡しやすい所だ。
 
町村さんが補足する。
 
「水に関しては日本とはまるで事情が違うので、本当に気をつけてください。きちんとしたスーパーとかならいいのですが、どうかしたお店では大手メーカーのペットボトルの中身だけ、水道水に入れ替えたものなどを売っていたりします」
 
「チェンナイは近年水道普及のプロジェクトが民間資本で実施されたおかげで普及率が9割になっていて、私たちが泊まるホテルも水道の水を使っているのですが、元々の水道の水質が微妙です。そのホテルでは水道の水をいったん屋上のタンクに揚げて、そこから各部屋に供給していて、そのタンクに濾過装置がついているので、虫とかが混じっていたりという事態は無いのですが、濾過装置では細菌とかまでは除去しきれないので。万が一にも水で当たって試合に出られないなどという事態は起こさないで下さいね」
 
と町村さんはみんなに言っていた。
 

朝8時にバスで合宿所を出発。9時すぎに成田空港に着いた。そこで整列してバスケ雑誌やバスケ協会取材班の人たちに写真を撮られる。キャプテンの朋美、U19世界選手権でアシスト女王になった玲央美、3P女王になった千里が一言ずつメッセージを語った。
 
千里は
「優勝して3P女王も取ってきますので、期待しておいてください」
と笑顔で語った。
 

成田発12:00のエア・インディアに乗る。
 
9.23 12:00 NRT (AI307 B772 8:25)16:55 DEL
 
8時間25分の旅で16:55にインドのデリー近郊にあるインディラ・ガンディー国際空港(Indira Gandhi International Airport)に到着する。インドはUT+5.5という不思議な標準時を採用しているのでUT+9の日本とは3時間30分の時差がある。
 
ところでデリーはインドの首都である。
 
と言うと、ある程度以上の年齢の人は
「え?インドの首都はニューデリーでしょ?」
と言う。
 
実は「インドの首都はニューデリー」という言い方は「日本の首都は千代田区」と言っているようなものである。ニューデリーは“デリー首都特別区”(National Capital Territory of Delhi)の中の一部にすぎない。
 
そのあたりがなぜ日本で混乱していたのかは不明だが、2002-3年頃からは学校の教育現場でも「インドの首都はデリー」と教えるようになっている。むろん、首都機能が移転したりした訳ではない。
 

千里たちはこのインディラ・ガンディー国際空港で入国審査を経て軽食を取った後、エア・インディアの国内便に乗り継いだ。
 
9.23 20:20 DEL (AI540 A321 2:40)23:00 MAA
 
23時にチェンナイ(旧名マドラス)のチェンナイ国際空港(Chennai International Airport)に到着する。国内の移動なのに2時間40分も掛かるというのはインドの国土の広さを示している。インドの国土面積は日本の8.7倍である。
 
インド時間の23時は日本時間では午前2:30で、この機内ではほとんどの選手・スタッフが寝ていた。千里と星乃は昨夜が遅かったので、デリーまでの便でもかなり寝ていたし、このチェンナイ行きでも完璧に寝ていた。
 
空港からホテルに向かうバスの中、千里は満月の月がきれいだなぁ、と半分まどろみながら思っていた。
 
この日はホテルに入って、ひたすら寝た。
 

9月24日。
 
朝日とともに目が覚める。洗面所で顔を洗ってから居室に戻ると、玲央美も起きていた。
 
「ああ。初日は負けたか」
と玲央美はネットを見て言っている。
 
「チェコの方?」
「うん。ロシアに86-63で負けている」
 
チェコとインドの時差は3.5時間である。つまり実はインドというのは時間帯的にはチェコと日本のちょうど中間の位置にある。チェコが0時の時、インドは3時半で日本は7時になる(ヨーロッパが夏時間の間)。
 
フル代表の試合は昨日インド時間で18時すぎに終わっているのだが、移動中で情報を確保するまでの時間が無かったのである。篠原さんたちには報されていたと思うが、敗戦でもあるし、わざわざU20チームにすぐに言う必要もないと思ったのだろう。
 
「大差付いてるなあ」
「王子は途中で退場になったらしい」
「仕掛けられたね」
「うん。王子みたいな選手にまともにプレイされたら辛いから、ファウルを犯すように仕向けて、早々に5ファウルで退場にしたんだろうね」
「フロッピングもされているのでは?」
「かもね〜。それで自分はファウルしてないと主張したらテクニカルファウル取られるし」
 

「そういえば私たち、チェンナイに来るのにデリー乗り継ぎで来たじゃん」
と玲央美は言った。
 
「うん?」
 
「昨年のフル代表はここに来るのにシンガポール乗り継ぎのコース使ったらしい。実は“飛行時間”ではその方が1時間ほど短い」
 
「へー」
「ところがそれで中国にも韓国にも負けているんだよね」
「うん」
「だからゲンかつぎで、違うコースにしたみたいだよ」
 
「協会もいろいろ考えるね〜」
と千里は少し呆れて言った。
 
「でもシンガポール乗り継ぎだと、飛行時間は短くても待ち時間が長いんだよね」
「ほほお」
 
「成田から朝一番のに乗ってもシンガポールでチェンナイ行き最終便に間に合わない。それで成田発最終便に乗ると午前1時にシンガポールに着いて、チェンナイ行きの始発は朝8時。今回私たちはデリーで3時間くらいしか待たなかった」
 
「大変そうだ。やはり楽なのは良いことだ」
 

ところで、今回の部屋割りはこうなっている。
 
千里+玲央美/彰恵+百合絵/サクラ+留実子/江美子+純子/早苗+星乃/朋美+雪子/渚紗は通訳の長田さんと一緒。
 
後からチームに入った純子・留実子・星乃がチームに慣れるように、できるだけ相性の良さそうな子と組ませた感じである。雪子は今回はお勉強が主目的なので朋美が先生役として選ばれた。もっとも朋美は「私は雪子ちゃんのひらめきにはかなわない。私が雪子ちゃんに教えてもらいたい」などと言っていた。 
千里と玲央美、彰恵と百合絵は、過去の経緯から固定の組合せである。 

朝食は6時半から8時までの間にということだったので、玲央美と一緒に食堂に降りて行く。ここで、日本チームに付いてくれるインド・バスケ協会のスタッフ、パリさんという人が紹介された。
 
彼女は身長184cm。タミル人であるが、お祖父さんがイギリス人であるため、その遺伝で高身長になったのではと言っていた。本来タミル人には背の低い人が多い。彼女のお母さんも175cmくらいあるらしい。お母さんは金髪碧眼らしいが、パリさん自身は黒髪・黒い瞳で、ふつうのタミル人の容貌である。肌の色を除くと結構日本人にも近い顔なので、成田空港で「日本人はこちらに並んで」と言われたこともあるらしい(流暢な日本語で「私インド人です」と答えたら「ここでジョークはやめて」と言われたとか)。
 
「ついでに日本人男性に間違われることもある」
「まあバスケ女子はみんな性別を誤解されがち」
 
彼女はどうも身長だけお祖父ちゃんの遺伝が出たようだ。
 
彼女は高校時代、日本の茨城S学園に留学していて、篠原監督が同校のアシスタント・コーチをしていた時代に、女子バスケット部でインターハイの県予選などにも出場したらしい。つまり篠原監督の愛弟子である。高校卒業後はTS大で電子工学の勉強をする一方、インカレにも出たという。つまり彰恵たちの先輩でもある。日本で工学博士号を取ってインドに戻り、コンピュータ関係の企業に勤めているという。今回は大会中休暇を取ってサポートをしてくれる。 
篠原さんも彼女が日本チームに付いてくれたので、ひじょうにやりやすいと言っていた。彼女はヒンディー語とタミル語・マラヤーラム語(と英語・日本語)ができるので、通訳も兼ねてくれる。彼女はタミルの出身なのでタミル語は両親が話すので身につけたし、英語はお祖父さんとお母さんが話すのに使っているのでやはり物心付いた頃から覚えたし、マラヤーラム語(お隣のケララ州の言語)を話す友人もいたのでそれも小さい頃から普通に使えた。つまりトライリンガルである。
 
ヒンディー語は学校で「インドの標準語」として習ったので、日本人が使う英語のような感じで、精神的に集中していないと聞き取れないと言っていた。インドには実はそういう人が多い。かえって留学してから覚えた日本語の方がスムーズに聞いたり話したりできる。
 
「インドに戻ってきて以来、茨城の納豆が食べられないのが残念で」
などとも言っていた。
 
(後で千里が《てんちゃん》に調達させ《くうちゃん》に転送してもらって、『サトウのごはん』と一緒に彼女に渡してあげたら感激していた) 
 

朝食はバイキング方式で自由に取ってよいようである。並んでいるのは南インドの料理としては有名なサンバル(野菜のスープ)とイドゥリ(米粉の蒸しパン)や、それを更に油で揚げて揚げパン風にしたものもあるし、普通に西洋風のパン、豆のスープに鶏の唐揚げ?っぽいものもある。更にお米の御飯もある!当然、カレーもある。
 
そもそも南インドの主食は米である。ただし米をそのまま食べるよりはイドゥリなどのように、いったん米粉にしてから調理するものが多いようである。 
南インドのお米は粒が短く、日本のジャポニカ種に似ている。また南インドのカレーは汁気が多いのが特徴である。留実子などは御飯にカレーを掛けて「カレーライス」にして食べていたが
 
「うん。充分カレーライスの範疇」
などと言っていた。
 
早苗などは普段から朝御飯はパンが多いということで、西洋風のパンとサンバルという組み合わせで食べていた。サンバルは日本でいえば味噌汁に相当する、南インドの常食スープである。
 

「食器がステンレスとプラスチックばかりだね。陶磁器は無いのかな」
という声があがる。
 
「インドでは陶磁器は土から作ったものなんて不浄という考えなんですよ」
 
とパリさんが言う。
 
「なるほどー」
 
「それに日本みたいに水が豊かな訳では無いから、陶磁器の食器は洗うのも大変なんですよ。ちなみにプラスチックの食器は1度使ったら捨てます」
「もったいない」
 
「いや水の無い地域では、そうしないと衛生を保てないんだと思うよ」
と彰恵などが言っている。
「そっかー」
 
「生水は絶対に飲むなと言われたもんね」
と江美子。
 
「はい。絶対飲まないでください。インド育ちの私などは平気ですけど、日本人の胃には無理だと思います」
 
「それ、軟水・硬水の違いもありますよね?」
「それもありますし、やはり浄化の度合いがまるで違いますよ」
 

紅茶を飲んでいた早苗が
「これニルギリかな?」
と言う。
 
「ええ。ニルギリと書いてありますね」
と、書かれているタミル文字を確認してパリさんが言う。
 
「ニルギリはここと同じタミル・ナードゥ州ですが、ここから500km離れています」
 
「同じ州なのに、そんなに離れているんだ!」
「東海地方まるごと、ひとつの州みたいな感じ?」
「その4倍。中部地方と東北地方をくっつけたくらいの面積かな」
 
パリさんとは色々話している内にお互い友だち言葉になってきつつある。 
「いや、それひとつの国にしていい」
 
「政治的な意図無しで言いますけど、実質タミルはひとつの国だと思います。言葉も文化も北インドとはまるで違いますから」
とパリさん。
 
「ケララカレーもこの付近だよね?」
「ケララ州はここの西隣の州。私ケララ州の言葉(マラヤーラム語)も使えますよ」
「お隣さんか〜!」
 

「このチェンナイって、昔はマドラスって言ってたんでしょ?」
 
「そうそう。英語風の名前をいくつかインド風の名前に変更したんだよ。チェンナイ(Chennai)は元のマドラス(Madras)、ムンバイ(Mumbai)は元のボンベイ(Bombay)。コルカタ(Kolkata)は元のカルカッタ(Calcutta)」
 
とパリさんの方も完全に友だち言葉になってきた。
 
「全部インド語になった訳?」
「チェンナイはタミル語、ムンバイはマラーティー語、コルカタはベンガル語。インド語という言語は存在しないのよね。インドは多民族国家。公用語が22個あります」
 
「それみんな話せるの?」
「無理。だから結局英語がいちばん通じる」
 
「うーむ・・・・」
 
「チェンナイってタイにも無かったっけ?」
「それはチェンマイ(Chiang Mai)」
と玲央美が言う。
 
「うっ」
 
「マドラスって水夫さんの語源?」
「それはマドロス(matroos)だ」
と今度は彰恵が指摘する。
 
「あれれ?」
 
「カルカッタって、昔なぞなぞに出てたやつ?」
「そうそう。何を持っても重くない町ってどーこだ? カルカッタ(軽かった)」
とパリさんが言っている!
 
「ボンベイといったら『ボンベイ最後の日』の?」
「それは『ポンペイ最後の日』」
と江美子。
 
「むむむ」
 
「イタリアのがポンペイ(Pompeii)、インドのがボンベイ(Bombay) 」
「難しい」
「関東の県が『いばらぎけん』で、大阪の市が『いばらきし』だったっけ?」
「え?逆じゃなかった?」
 
「あれはどちらも濁らないのよ。『いばらきけん』(茨城県)『いばらきし』(茨木市)」
と茨城県に住んでいたパリさんが言う。
 
「うっそー!?」
 
「でも地元の人でもけっこう濁音派・清音派が混じっていたよ」
とパリさん。
 
「やはり」
 

「チェンナイはエンゲルベルト・フンパーディンクの出身地だね」
とパリさんが言う。
 
「あの人、インド人?」
「イギリス人だけど、お父さんがインドで仕事をしていた」
「そうか。インドは昔イギリス領だったから」
「あれ?私ドイツ人かと思ってた」
 
「あの人、本名はアーノルド・ドーシーと言って、エンゲルベルト・フンパーディンクというのは同名のドイツの作曲家の名前を名乗った芸名だよ。元ネタの人は歌劇『ヘンゼルとグレーテル』の作曲者」
とパリさんは解説する。
 
「エドガー・アラン・ポーにちなんで、江戸川乱歩を名乗ったようなものかな」
と彰恵。
「ふむふむ」
「ドリフターズもアメリカの同名グループの名前から採ったものだね」
「へー」
 
「チェンナイはピート・ベストの出身地」
「誰だっけ?」
「ビートルズの元メンバーでドラマー。音楽性の違いで解雇されてリンゴ・スターに換えられたんだよ」
「ああ、そういえばそんな話を聞いた」
 
「音楽性の違いって便利な言葉だ」
「私たちもバスケット感覚の違いでチームから外されたりして」
「いや〜〜!!」
「でもそれ結構あるよ。別のチームに移動したら凄く活躍する人っているもん」
「確かに確かに」
 
「チェンナイはビジャイ・アムリトラジの出身地」
「テニス・プレイヤーの?」
「そうそう」
「私、俳優かと思ってた」
「まあ007とかスタートレックとかに出たね」
「その人はインド人だね?」
「うん」
 
「クリシュナムルティとかサイババとかもこの辺りだっけ?」
「クリシュナムルティはチェンナイ近郊のマダナパルという所。でもあの人はインド人というより世界人だった」
とパリさん。
 
「サティヤ・サイババは北隣のアーンドラ・プラデーシュ州、プッタパルティという所。ここから車で8時間くらい」
「結構遠いね!」
 
「日本人やヨーロッパ人など、お金のある人はチェンナイからバンガロールまで飛行機で1時間飛んで、そこから更にバスとかタクシーで3時間。チェンナイから飛行機使うツアー、バスだけで頑張って行くツアー、どちらもあるよ」
 
「そういえば、ここまで来た飛行機の中にも、なんかそれっぽい人たち居たね」
 
「以前はサイババの私設空港があって、チェンナイからの便もあって便利だったんだけどさすがに採算が取れなかったみたいで、現在は運休中」
 
「私設空港!?」
「そこまでやるのは凄い!」
 
「日本人には無い発想だよね〜。大**法さんもそこまではしないだろうし」
とパリさんは笑っている。
 
「ここチェンナイにもサイババのアシュラム(お寺)はあるよ。実はこのチェンナイの水道はサイババの主導で作られたものなんだよ」
とパリさんが言う。
 
「そういう社会貢献もしてるんだ?」
「出発前に町村さんが、チェンナイは水道普及のプロジェクトが民間資本で行われたとか言っていたけど、それをサイババが主導していたのか」
 
「むしろサイババの活動の半分はそういう公共への貢献。学校とか病院の建設にも貢献しているよ。本当に偉い人だよ」
とパリさん。
 
「そんなに偉い人だったのか」
「ただの怪しい人かと思ってた」
「インドでは首相より人気あるかもね」
「なるほどー」
「なんか最近、インドの首相はコロコロ変わってますね」
「まあそれでまた選挙なんだけどね」
「それで私たちの大会の日程も変わっちゃったのか」
「ごめんねー」
 
 
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