【娘たちの予定変更】(1)

前頁次頁目次

 
7月6日(火)に1ヶ月ぶりに大学に出てきた千里は、3時間目の講義が終わったので帰ろうとしていたら、ちょうど学食の前を歩いていたところで友紀に呼び止められた。
 
「千里〜、今日暇?」
「忙しいけど」
「バスケの練習があるの?」
 
「今日自体は練習が無いから学校に出てきたんだけど、今夜中に合宿所に戻らないといけない。明日から20日まで、また合宿で出てこられないんだよ」
 
「たいへんね〜。じゃ、、ちょっと付き合わない?」
「いやだから忙しいと」
「バスケの練習じゃなかったらいいじゃん」
 
そんなことを言われて、結局“いつもの”ガストに拉致されていく。
 
「でも、千里も最近かなり素直になってきているよね」
と友紀は言う。
「そう?」
 
「自分が女だということをかなり認めるようになってきている」
「何それ〜?」
と千里は言うが、同級生女子の中では友紀にいちばん自分の“女子的言動”を見られている気もするなあと思う。女子トイレでもかなり遭遇しているし。 
朱音にもかなり見られているが、朱音は自分を「女の子になりたい男の子」と思っている感じがある。友紀は自分を「ほぼ女」と思っている。
 
友紀はじっと千里の顔を見る。
「千里君、君は男ですか?女ですか?」
「私が男の訳ないじゃん」
と千里は笑って言う。
 
「だったら、今みたいな男か女か微妙な服装はやめて、もっと女らしい服にしたら〜?。今日のフランス語の授業の時にも鈴木君が悩んでいたけど、いまだに千里を男の子と思い込んでいる子、けっこういるよ。取り敢えずスカート穿いて出てくるとかさ?」
 
「そうだなあ、それもいいけどね〜」
「スカートくらい持ってるよね?」
「それは持ってるよ」
「だったら穿いてくればいいのに」
「じゃ、今年の代表活動が一段落したら考えようかな」
「ああ、それでもいいかもね」
 
「でも実際問題として、身体はどこまで直してるわけ?」
「女子選手として認められる程度かな」
「うーんと・・・・」
 
「私、高校1年の時は最初の頃、男子の試合に出てたんだよ」
「へー!」
「ところが、あんたほんとに男?って言われてさ」
「そりゃ言うわ」
「で、性別検査を受けさせられちゃって」
「ふーん」
「そしたら、あんた女じゃん。以後は女子の試合に出ること、と言われて男子の選手カード取り上げられて、女子の選手カードを渡された」
 
「じゃ、そんなに早く性転換してたんだ?」
 
すると千里は困ったように言う。
 
「それが私、性転換した覚え、無いんだけどね〜」
「じゃ、ひょっとして生まれた時から女だったとか」
「それだったら苦労しないんだけど」
と言って千里はため息をついた。
 
「友紀だけに見せてあげる」
と言って千里は自分の携帯を開いて操作している。
 
「これ高校時代の私ね」
と言って千里が見せた写真は旭川N高校の女子制服を着た千里の写真である。髪も腰まであるロングヘアーである。
 
「おぉ、ちゃんと女子高生してる!」
と言って友紀は喜んでいた。
 

この日の女子会には、なぜか紙屋君まで参加していた。美緒が連れてきたらしい。 
「紙屋君も、女子の中に居てもなんか違和感無いね〜」
「まあ僕はホモだから」
「千里が女子の中に居ても誰も違和感持たないけどね」
「そりゃ千里は女の子だから」
 
「そのあたりの微妙な話が実はよく分からないのだが」
と由梨亜が言う。
 
「紙屋君って恋愛対象は男の子だよね?」
「そうだよ」
「千里って恋愛対象は男の子だよね?」
「もちろん」
 
「でも紙屋君の傾向と千里の傾向は明らかに違う」
 
「同性愛か異性愛かという意味でいうと、紙屋君は同性愛で、千里は異性愛」
と恋愛学の権威?の美緒が言う。
 
「千里のは異性愛なのか!」
「だって、千里自身は女の子で、男の子が好きなんだから、これは間違い無く異性愛だよ」
「なるほどー!」
 
「逆に紙屋君は自分は男の子だと思っているから女装しないよね?」
「うん。僕は女装しない」
 
と本人は言ったが、美緒が
「(紙屋)清紀の女装は可愛い」
とバラしてしまう。
 
「あれ?でも去年の学園祭の時に紙屋君にメイド衣装を着せても男にしか見えなかった」
という声も出る。
 
「そのトレードマークのヒゲを剃って、ちゃんと眉も細くして、お化粧すれば、充分女の子に見える」
 
「ほほぉ」
「それ見てみたい」
「勘弁して〜」
 
「だいたいいつも清紀は女の子下着つけてるし」
と美緒。
 
「そのあたりは微妙な所で。実は男物と女物をミックスしてる。でも僕は女の子になりたい訳じゃ無い」
「千里は女の子下着だよね?」
「私、男物の下着なんて持ってないよぉ」
「いや、千里はそもそも男物の服自体を持ってないのではという疑惑がある」
 
「そうそう。今着ているポロシャツは左前の女の子仕様だし、穿いているズボンもそれレディスだよね?」
「うん。私はメンズはサイズが合わないよ」
 
「でもレディスパンツ穿いていたら、おしっこする時に困らない?」
という声があるが
「千里が立っておしっこする訳無い」
という声がすぐにあがる。
 
「そもそも千里には立っておしっこをするために必要な器官が存在しないはず」
「そうだったのか」
 
千里は笑っていた。
 

この日の話題の後半は、成人式の話になった。
 
「やはり振袖なのかな〜」
「私、レンタル予約した」
「やはりレンタルでいいよね〜?」
「たった1回着るだけだもんね」
「朱音は買う予約したらしい」
「へー」
「あの子そのためにずっと去年は毎月1万積み立ててたんだよ」
「えらーい」
 
「買うといくらくらいするの?」
「朱音が予約したのは20万円だって」
「高い!」
「振袖ってそんなにするの?」
「いや、20万円は振袖としてはかなり安い部類」
「そうなの?」
 
「一番安いもので10万、高いものは50万、100万、200万、エンドレス」
「エンドレスか・・・・」
 
「いや50万も高いものではなく安い部類だと思う。100万くらいが境界線」
「1度しか着ないものに100万は出せん」
 
「今年の1月の成人式でアイドル歌手の満月さやかが着ていたのは1000万円だって言ってたよ」
「ひぇー!」
「でも更に高いものもある」
「そんなの誰が着る訳?」
「お金持ちのお嬢様だろうね」
 
「2〜3万円で買える振袖はないのか?」
「いや、だからレンタルするんでしょ。レンタル料だって最低で5万円くらい、高いと30万円くらいする」
「レンタルで30万!?」
「いやー」
「そんなの無理〜」
 
「電子工学科の**さんは今年1月の成人式はドレスで出たって」
「あぁ、そういう人もいるよね?」
「なんか安心した」
 
「ドレスは少数派かも知れないけど、成人式は出ることに意義があるのであって、高価な振袖を着るためにあるのではない」
 
「普段着で出る人もいるらしいよ」
「今博士2年の**先輩はセーターとスカートで出たって」
「それは**先輩らしいと思う」
「うん。あのくらい格好良い人だと、それがまた様(さま)になる」
 
「男子ではけっこう普段着派いるんじゃない?」
と紙屋君を見て言う。
 
「男子は背広派と紋付き袴派がいるけど、普段着派も割といる」
と紙屋君が言う。
 
「やはり男子は楽だな」
「私、性転換しようかな」
「性転換手術の代金の方が高いよ」
 
「でも背広なら安いのだと1〜2万で買えるのに」
「女子だけ高い服を要求するのはおかしいよね〜」
「あと受け狙いでコスプレ派もいる」
「私、そっちに走ろうかな」
 
「最近では、成人式には出ないけど、振袖着て記念写真だけ撮るという人もあるらしい」
 
「それは何か違う気がするなあ」
「いや写真撮る時だけ借りた場合、レンタル料が安い。0円という所もある。但し撮影料と着付け代で3万円くらい」
「あ、それいい!」
「私もそれでいい気がしてきた。成人式にはドレスで出ればいい」
 
「あと、お仕事の都合とかで成人式に出られなくて、そういうの利用する人もあるのでは?」
 
「成人式にも出してくれない会社で仕事したくない」
「同感、同感」
 

「ね、ね、みんなで振袖見に行かない?」
「どこに?」
「そごうとかなら、みんなで見られるんじゃない?」
「ああ、あそこならいいか」
「2〜3人で見に行ったら、うまく言いくるめられて買うはめになりかねないじゃん。これだけの人数で行けば買わなくて済むよ」
「それは言えてる」
 
「紙屋君も行くよね?」
「僕は振袖は着ないけど、まあ見に行くかな。逆に男の子が1人ではそんなの見に行けないし」
「よし」
「千里も行くよね?」
「そうだね。見に行ってみようかな」
「よし」
 

それでガストを出た後、みんなで電車でガスト近くの西千葉駅から千葉駅まで電車を1区間だけ乗り、そごう千葉店に行った。
 
ぞろぞろと和服売場に行く。
 
「おぉ、振袖が展示されている」
「これきれーい」
「お金の余裕があったら、こんなの着てみてもいいかなという気になるね」
 
「こういうのって、やはり本来はお金持ちのお嬢様だけが着るもんだったんじゃないのかなあ」
「そんな気もする〜」
「庶民はどうしたんだろう?」
「大正時代とかなら、洋装じゃないの?」
「あ、そうかも」
 
そんなことを言いながら千里たちが“振袖”を見ていると、お店の人が出てくる。 
「いらっしゃいませ、和服のご用命ですか?」
とにこやかに尋ねる。
 
「見てるだけでーす」
と多数の声。
 
「はい、自由にごらんになって下さい。訪問着にご関心がおありですか?」
 
「ん?」
 
「あのぉ、これ振袖ですよね?」
「いえ、それは訪問着でございます」
 
「え〜〜〜〜〜!?」
 
「あのぉ、振袖はあります?」
 
「はい、こちらに」
と言って店員さんが連れて行ってくれる。
 
「こちらが振袖でございます」
と言って指し示してくれる。
 
「何が違うんだっけ?」
「なんかさっきのと似た服に見える」
「訪問着と振袖は同じ技法で作られるのですが、袖の長さが違いますね」
 
「あ、こちらの方が袖が長い」
「はい、それで袖を振って歩くので振袖と申します」
「なるほどー!」
 
「見学だけでいいですので、カタログ差し上げますね」
と言って、みんなにカタログを配ってくれる。結構分厚い。千里もカタログをもらったがも紙屋君にも渡そうとして、一瞬ためらっている。
 
「あ、僕はいいです」
と紙屋君。
「男性はあまり振袖は着ませんよね」
と優子。
「そうですね。男性の方(かた)で振袖をお召しになる方は少ないですね」
と店員さん。
「少ないって、着る人もいるんですか?」
という質問に店員さんは困っている。
 
「まあ着たい人は着てもいいんじゃない?何を着るのも自由だよ」
と美緒が言う。
 
「紙屋君、振袖着る?」
「遠慮しとく」
 
「千里は振袖着るよね?」
「どうしようかなあ」
 
「お客様は髪が長いですね。長い髪は和服に似合いますよ」
と店員さんが千里に言っている。
 
「千里、それウィッグだっけ?」
「いや私は自毛だと思う」
「その件は先日から、結構議論されていた」
 
「千里は去年の4月頃は男みたいな短い髪だった」
「物理的にあれから1年ちょっとでこんなに伸びる訳が無い」
「千里はかなり短い髪にしている時と、こういう長い髪にしている時がある」
「それで長い髪がウィッグなのか、短い髪がウィッグなのか議論がある」
 
「私、ショートヘアのウィッグもロングヘアのウィッグも持っているよ」
「ああ、やはりウィッグをかなり使っているよね」
「で今日の髪は?」
「内緒」
 
「うーん・・・・・」
 
「お客様、ちょっと羽織ってみられませんか?着付けするとなると30分ほどかかりますが」
 
「そうだね。ではここは清紀君が羽織ってみるということで」
「え〜〜〜!?」
 

しかし、うまく乗せられて、紙屋君が振袖を羽織ってみることになる。彼は着ているジャケットを脱いで、下に着ているブラウス!の上に羽織ったのだが「待って、付けひげ外す」などと言っている。
 
「それ付けひげだったのか!」
「だって、ヒゲのある状態で女装できないし」
「やはり女装するんだ?」
「ただのお遊びだよ」
と紙屋君が言うと
「お遊びというよりプレイでしょ。清紀は女役だし」
と美緒が言っている。
 
「きゃーっ」
と悲鳴があがる。紙屋君が困ったような顔をしている。
 
しかし振袖を羽織った紙屋君は意外に可愛い。
 
「お客様、お似合いですよ」
と店員さんが言う。
 
「うん。似合ってる」
と居並ぶ女子たちからも声があがる。
 
「紙屋君、成人式は振袖を着なよ」
「どうしよう?」
と紙屋君はマジで悩んでいるようであった。
 

千里たちがそごうで振袖を見ていた頃、女子会には出席していなかった桃香は都内の老舗っぽい呉服店で、高岡から出てきた母・朋子と一緒に振袖選びをしていた。
 
最初朋子は金沢の友禅の工房に頼んで、加賀友禅の素敵な振袖を頼もうなどと言っていた。朋子は桃香の成人式のために10年前からずっと貯金をしており、500万円ほど積み立てていたらしい。
 
しかし桃香は成人式で1回しか着ないもののためにそんな10年掛けて貯めた貯金を使うのはもったいないと言った。
 
「私はそもそも振袖なんか着たくないし、着るとしてもレンタルでいいよ」
と桃香は言う。
 
それでふたりでかなり議論したあげく、都内であまり高くない振袖を朋子と桃香の折半で買うという線に落ち着いたのである。
 
しかしそもそも女物の服自体に関心の無い桃香なので、和服などことさらである。店員さんの説明も遙か頭上を走り抜けて行く感じで、全然訳も分からない中、母と店員さんの会話で話は進んでいる。
 
どうも和服というのは、たくさんハンガーに掛けてあるものの中から自分の気に入った柄でサイズの合うものを選ぶような仕組みではないらしい。今桃香たちが見ているのは、生地の写真にすぎない。
 
それで生地で選んで注文して、実物はできあがってのお楽しみということのようである。試着もできないから自分に似合うかどうかも全く不明だ。
 
結局1時間近い商談で話はまとまり契約する。価格は「セット価格」で69万8千円である。振袖本体の価格は48万で、それに帯とか色々付属品が付いてその値段になるようだ。これを34万9000円ずつ母と桃香で出すことにした(最終的には『端数は出すから』桃香は30万でいいと言われた)。
 
なお、実際に着る時には、これ以外に肌襦袢なども必要である。
 

この時期は桃香も1年の春以来やっているコールセンターのバイトのおかげで現金の貯金が20万円くらいと、株が150万くらいあったので、このくらいは充分払えると思った。その貯金形成の中で大きかったのは昨年夏に福岡まで行って頑張った大きなイベントの予約受付である。
 
あの時は、自分とほぼ同時期に入った佐藤さんというスポーツウーマンっぽい背の高い女子と一緒だったのだが、彼女はその仕事のあと、あのバイトを辞めた。現役に復帰すると言っていたから、今はどこかで頑張ってプレイしているのかも知れないなという気はしている。
 
株は実は高校時代の恋人の優子が得意なようで、今所有している銘柄も彼女の勧めで買ったものである。購入価格は100万円くらいだったが、全部買ったあと値上がりして現在は150万円くらいになっている。「上がる株は分かる」と優子は言っていたが、どうして分かるのか桃香にはさっぱり分からない。
 

振袖を選んだ後、軽く夕食を取ってから母と別れる。母は東京に居る友人に会ってから、上野発23:33の急行《能登》で高岡に帰るということだった。 
桃香は何となくそこの商店街を歩いていた。
 

千里たちは結局、そごうの呉服売場で30分近く、店員さんの説明を聞いた上で「色々教えていただいてありがとうございました」と言ってお店を出る。そのあと、先に帰ると言った紙屋君など数人を除いて店内のティールームに行き、お茶を飲んでから解散した。
 
「千里この後どこに行くの?」
と玲奈から訊かれた。
 
「都内の知り合いの所にちょって寄ってから北区の合宿所に戻る」
 
実は作曲依頼がかなり溜まっているものの代表活動が忙しすぎて対応しきれないので少し調整させてもらいたいと考え、新島さんのマンションまで行って直接話し合うことにしたのである。時刻は新島さんはずっと居るからいつでもいいよと言われている。合宿所には夜11時までに戻ればいいことになっている。 
「知り合いって彼氏?」
と香奈が訊く。
 
「違うよ〜。女性だよ」
「なんだ」
「千里って女の子にはマジで興味ないんだっけ?」
「うん。私はビアンではない」
「ビアンという用語を知っているのが偉い」
「普通の人はレズと言う」
「ビアンという言葉を知っているということは、もしかしたら当事者だったりして」
「だって女の子とは結婚できないじゃん」
 
「ん?」
と言って玲奈と香奈は顔を見合わせていた。
 

千里の行き先が渋谷だと言うと、玲奈たちも「じゃ私たちも渋谷まで行こうかな」と言って、結局3人で一緒に移動することになる。友紀は千葉市内のバイトに行った。美緒は彼氏(?)とのデートがあるようであった。
 
「でもマジで千里、成人式は振袖を着なよ。予算が無かったらレンタルでもいいしさ」
と玲奈が言う。
 
「うん。私、結構その気になりつつある」
と千里も答える。
 
「よしよし」
 
「そういえば千里の自称ってさ。去年の4月頃は《ボク》と言ってたけど、最近は《わたし》が多いよね」
 
「そうだっけ?」
と本人が言っている。
 
「あまり意識してない?」
「私、《ボク》なんて言うことある?」
「言ってる」
「うーん。。。意識したことなかった」
 
「声も入学直後くらいはかなり低い声で話していたけど、最近は普通に女の子の声にしか聞こえない声で話している」
「私、あまり低い声出ないよ。アルトの下の方はかなりきついんだよね」
「ああ、確かに千里の声はソプラノっぽい」
 
「私、千里って実は何人かいるのではないかと思うことがある」
「実はその説もよく話題に上る」
 
「《わたし》と言う千里と《ボク》と言う千里がいるんだったりして」
「それは面白い説だ」
 
「千里のプログラムっていつも酷いのに、こないだ凄くきれいなプログラム書いていた」
「あれ、課題とかで与えられたものなら誰かに書いてもらったんだろうと思うけど、その場で書いたからね」
 
「バイトも今はバスケ活動で休んでいるみたいだけど、昨年後半とか信じられなかった」
「そうそう。だから千里は2人居ないと1人では無理だって言ってた」
「そう?」
 
「だって、深夜のファミレスでバイトしてるのに、千里が教室で居眠りとかしてるの見たことないし」
「うん。千里は一体いつ寝てるんだ?とよく言ってた」
「そこから千里2人説は出てきたんだよ」
 
「バイト以外にバスケの練習に出てるんでしょ?」
 
「ファミレスは火木土で、バスケのチーム練習は月水金だから両立するんだよ。それにファミレスで忙しいのは1時くらいまでで、その後はお客さんがまばらになるから、お客さんが来た時と呼ばれた時だけ起きればいい。後はずっと寝てるよ」
 
「それよく起きれるね」
 
「でも日本代表に選ばれるほどなのに、バスケの練習、週に3回で足りるの?」
「チーム練習が週に3回・3時間だからね。個人的には毎日10kmくらい走っているし、ドリブル走も30分くらいするし、うちのアパートにバスケのゴールを設置してるから家にいる時にずっとシュート練習してるよ。平日は1日500本程度だけど」
 
「何か今物凄くハードな練習内容を聞いた気がする」
「いやたぶん日本代表になるくらいの選手ならそのくらい練習するのかも」
 
「あとファミレスでは支給品のローファー履いているけど、歩く時にカカトを床に着けないようにして歩くことで、足の筋肉鍛えてる」
「なるほどー。そうやって鍛錬してるのか」
 
「でも10km走るのってどのくらい時間掛かるの?」
「ゆっくり走るから時速8kmとして1時間25分くらいかなあ」
「シュート500本ってどのくらい時間掛かる?」
「連続してやっている訳じゃないんだよね。鍋やヤカンが沸く間にシュートしたり、トイレから戻ったら10本シュートとか、問題1問解いたら1本シュートとかやってるから。工作の得意な友だち(実は貴司である)にゴールを通った数を自動カウントする機械作って取り付けてもらっているんだよ。それで500本行った所で1日分終了。純粋な時間としてはたぶん3時間くらいじゃないかな」
 
「なんかそれだけで5時間掛かっているのだが」
「ファミレスのバイトは何時間?」
「夜9時から朝5時までの8時間」
「大学が朝9時から夕方4時くらいだよね?」
「うん。それで7時間」
 
「大学7時間、バイト8時間、バスケ練習5時間ならそれだけで20時間」
「計算上は成立するな」
「でも移動時間とかお風呂入る時間とか考えると、寝る時間が無くなる」
「深夜バイト中は、お客さんから呼ばれない限り寝てるから多分2時間は寝てると思うよ。それに週3日だし」
 

千里たちは総武線で錦糸町まで行き、半蔵門線で渋谷に出た。錦糸町で乗り換える時に香奈が
 
「あ、トイレ行っとこう」
と言って、(女子)トイレの外側までできている列に並ぶ。
「私も」
と言って玲奈も並ぶ。すると千里も
「じゃ私も」
と言ってその列に並んだ。
 
「ん?」
と言って香奈と玲奈は顔を見合わせたが
 
「まあいいんだろうね」
「むしろ向こうに行けば女子トイレが混んでるからってこっちに来るなとか言われるよね」
「確かに確かに」
 
と、ふたりは話している。
 
「どうかした?」
と千里は訊いたが
「いや、問題無い」
と香奈も玲奈も言って、列に並んだまま3人でおしゃべりしていた。
 

桃香は自分が迷子になったようだというのを認識し始めた。
 
歩いている内にどんどん寂しい感じの場所になってしまう。といって反対方向に歩いて行っても、全然元の場所に戻れない感じで、事態は悪化していきつつあった。
 
お店でもあれば道を聞けると思うのだが、そのお店も無いのである。
 

千里は渋谷駅で降りてから近くのファーストフードで香奈・玲奈しばらくおしゃべりした上で別れ(お店から出る直前に千里がやはりお店の女子トイレに入っていくのを2人に見られている)、1人で坂を登っていった。
 
渋谷という町は盆地状になっており、駅のある所がいちばん低いので、どこに行くにも坂を登る必要がある。新島さんのマンションはこの坂を400-500m登り、そこから細かい道に入り込んだ所にある。毛利さんなどはこの坂を登る度に息が上がっているが、バスケット女子の千里は平地と変わらないペースで登っていく。
 
この通りはあまりお店とかは無いのだが、その新島さんのマンションに行く道の入る所の角に、全ての食器が有田焼の深川製磁製という、60代のマスターがやっている喫茶店がある。サイホンで美味しいコーヒーを入れてくれるし、このマスターが作る「スパゲティ・ナポリタン」は絶品である。やや価格設定が高いので、客は多くないものの、実はお金に余裕のあるミュージシャンの隠れ家的溜まり場になっている。千里はここで新島さんや雨宮先生、加藤課長などと打ち合わせしたことも数回ある。
 
千里はふと、その喫茶店のすぐ向こう側に呉服屋さんがあることに気付いた。そういえばこの店、昔からあったなと思う。
 
人は自分の関心が無いものは「見ていない」ものである。
 
さっき友人たちと振袖を見てきたので、和服に関心ができて、それでこの店にも気付いたのだろう。しかしこんなに人通りの少ない所に店を出して客は来るのだろうかと心配してしまう。
 
ふと軒先を見ると、紫外線をカットする加工がされているのか、やや茶色いショウウィンドウに、きれいな和服がマネキンに着せて飾られていた。えっとこれ袖が短いからたぶん訪問着だな。振袖は飾られていないのかな?と思い、見てみると、どうも反対側の端に飾られているのがそれっぽい。
 
そちらを見に行こうとした時、喫茶店から出てくる人影がある。
 
「あれ〜?千里だ」
「清紀に美緒?」
「何見てるの?」
「いや、ここにも呉服屋さんあったんだなと思って」
「あ、そういえばなんか呉服屋さんあるねって、さっき言ってた」
 
「デート中かな?邪魔しちゃった?」
と千里は言った。
 
美緒はさっきデートすると言っていた気がする。紙屋君とデートするつもりだったのだろうか?
 
「千里、僕のこと分かっているくせに」
と紙屋君。
「清紀が女の子とデートする訳無い」
と美緒。
 
「いや、ひょっとしてと思っただけで」
「私がデートをドタキャンされて、この後どうしようと思ってたら、ちょうど清紀と会ったから、少しおしゃべりしてただけだよ」
「なるほどー。女の子同士のおしゃべりと似たようなものか」
「僕は女の子じゃないけどね」
 
「千里についても色々情報交換した」
「あはは」
 
ちなみに紙屋君は例の付けひげを今は付けていない。それにさっき見た時と服が違う。レディスのチュニックを着ている。彼は女装の趣味は無いとは言っているが、結構レディスを着こなしている。実はスカートも持っていることを千里とデートしていた時に告白している。足はいつもきれいに毛を処理しているので生足でスカートが穿けるらしい。ブラは着けないし持ってないと言っていたが、パンティは実は女物の方が多いらしいし、男物も全て「前閉じ」だと言っていた。千里は前閉じ型って、おしっこする時不便なんじゃないかなとは思ったものの、千里自身はそもそも立ってしたことがないのでよく分からない。 

3人で(和服とは関係無い)話をしていたら、お店の中から若い男の店員さんが出てきた。絣(かすり)の着物を着ている。
 
「よろしかったらどうぞ」
と言って、ティッシュを配る。3人とも受け取る。
 
「和服をお選びですか?」
「ええ。でも、これは訪問着だねと言っていた所です」
「いえ。これは色留袖でございます」
「え〜〜〜!?」
 
「色留袖と訪問着は見分けが難しいのですが、訪問着の場合は上半身にも模様があるのが特徴で」
「着物、難しい〜」
 
「あちらにあるのが振袖ですよね?」
「はい、そうです」
「やった!当たった」
 
「成人式のお振袖ですか?」
と言って案内してくれる。
 
「袖が長いからたぶん振袖だなと言ってました」
「はい。それが振袖の最大の特徴でございます」
 

桃香は「やった!」と思った。散々迷ったあげく出た通りの左手遙か向こうに随分賑やかな雰囲気のポイントがある。あちらに行けば、きっと帰れる!と思うと楽しい気分になって歩いて行った。
 
実は迷路を歩く要領で、ずっと右手を壁に付けたまま歩く感じで歩いていたらやっとここに出られたのである。桃香は「理論はすばらしい」と思いながら坂道を降りて行った。
 

店員さんは美緒・千里・紙屋君の3人に振袖について説明を始めた。が、どうも紙屋君にメインに話している雰囲気もある。ひょっとして、紙屋君が私と美緒の保護者か何かに見えた?などと思いながら千里は説明を聞いていた。
 
千里たちが数分間その男性店員さんの説明を聞いていたら、店内から30代くらいの女性の店員さんが出てくる。小さな花がたくさんプリント?された和服を着ていて、千里は思わず「可愛い!」と思った。(後で小紋というのだということを知る) 
「長時間立ち話もなんだし、中に入って椅子に座って頂いたら?」
とその女性店員は言ったが、
 
千里と美緒は
「いえ、大丈夫です!」
とほぼ同時に言った。
 
中に入っちゃうなんて恐ろしい!気付いたらいつの間にか割賦販売契約書にサインしていたりしかねない!
 
「でもどういうのがお好みなのかしら?」
と後から来た女性店員さんが言う。
 
「いや、和服に馴染みがないので、全然分かりません」
と美緒。
 
すると、先に対応していた男性店員さんが
 
「お姉さんの方は目鼻立ちがしっかりしているから、派手な加賀友禅がお似合いだと思うんですけどね〜。妹さんたちは優しい雰囲気の顔立ちだし、むしろ京友禅や東京友禅が合いそうな気がするのですが、鈴木さん、どう思います?」
 
などと言う。
 
その言葉に、千里と美緒は「ん?」と声を出して顔を見合わせた。
 
「もしかして」
「うん。どうもそうみたい」
 
と千里と美緒は言い合う。
 
紙屋君も誤解に気付いたようである。真っ赤になっている。
「あのぉ、僕は・・・」
と声を出す。それでやっと男性店員さんは気付いた。
 
「あ、済みません。お客様、男の子でした?ごめんなさい。男の子は振袖着ませんよね」
 
と言って、頭を押さえている。
 
「せいちゃんの振袖姿は可愛くなりそうではあるが」
「僕は取り敢えず成人式は背広着る方向で」
「せいちゃんにさっきミニフレアーのスカートを試着させたら可愛かった」
「それ誰にも言わないでって言ったのに」
「女の子用の服を着る時はMだって言ってたけど、ミニフレアースカートだと61でも行けた」
 
多分フレアーなので、ヒップがカバーできたのだろう。
 
「それは凄い。清紀ちゃん、スカートで大学に出ておいでよ」
「その言葉、そのまま千里に返す」
 
どうも紙屋君は美緒のおもちゃにされていた雰囲気だ。しかし何だかこれで話がうやむやになってしまったようである。ちょうどいい潮時だと感じたので、千里と美緒は
 
「でも詳しい話色々聞かせて頂いてありがとうございました」
 
と言って振袖の傍から1歩離れる。
 
「いえ、妹さん方もまた興味がおありでしたら、お寄り下さい。買わなくてもお茶でも飲みながら眺めて頂くだけでもいいですし」
と鈴木さんと呼ばれた女性は笑顔で言っている。
 
いやお茶まで頂いたら、なおさらその先が恐い。
 
その時、美緒が悪戯っぽい表情で千里の方に手を向けながら言った。
 
「ちなみにこの子も男の子ですから」
 
「え?」
と男性店員さんは声をあげたが、鈴木さんはにこやかな表情を崩さない。 
「男の方でも振袖に興味おありでしたら、また色々見て行ってくださいね」
と千里と紙屋君を見ながら、鈴木さんは言った。
 

美緒と紙屋君が《手を繋いで》渋谷駅の方に降りて行く。あの子たちデートではないと言ってたけど、その割には仲がいいじゃん。もしかしたらあのままホテルにでも行くつもりなのかも?と千里は思った。女性に興味が無い紙屋君は美緒にとっては「安全に遊べる相手」だ。紙屋君も着衣の女の子になら傍に寄られても平気と言っていたし。
 
千里も新島さんのマンションの方に行くのに2人から少し離れて動き出す。店員さん2人が店の入口のところで、丁寧にお辞儀をして見送ってくれた。 
千里は最後にチラっと向こうの方にある振袖を見てから、小道に入って行った。 

桃香は坂をかなり降りてきた所で、少し先の所に千里が立っているのに気付いた。寄って行き、声を掛けようと思ったのだが、千里は何かのお店の展示をチラっと見てから、脇道に入っていってしまった。
 
桃香は何だろう?と思い千里の居た場所まで降りて行くと、そこには呉服屋さんがあった。
 
ふーん。。。千里も和服に興味があるのか。もしかして成人式は紋付き袴?と思ったものの、千里が立っていた位置のそばに展示してあったのは、美しい“振袖”であった。
 

千里は新島さんと1時間ほど話し合ったが、内50分くらいは新島さんの雨宮先生への不平をひたすら聞いてあげた。電話だとこういう話ができない所だが、実はそういう話ができるように、わざわざ彼女のマンションまで来たのである。 
結局、作曲する曲数は変わらないものの、一部の曲目を入れ替えて、期限に余裕のあるものを書かせてもらうことにした。
 
この日千里は結局22時すぎに合宿所に戻った(一応門限は23時)。
 
今回のフル代表の第6次合宿は、明日7日から20日までリトアニアに遠征し、リトアニアおよびブルガリアのナショナルチームとの試合(一部は観客入り)を6試合行うことになっている。
 
この遠征には、フル代表候補として発表されている24名の他に、高梁王子・前田彰恵・鞠原江美子・中丸華香の4人のU20組も補欠扱いで同行することになっている。千里・玲央美も含めてこの6人は先日のロシア遠征に続く東欧遠征となる。
 
ミィーティングは明日の朝、成田空港で簡易なものが行われることになっている。 
なお、ドーピングに引っかかるような薬(風邪薬や生理痛の薬など)を持ってないかの確認やパスポートを持っているかの確認は既に3日に行われている。パスポートは念のためその時点でチームで預かり、7日朝成田で航空券と一緒に返すということであった。「前科」のある王子については夜明コーチが特にしっかり注意しておいたので、2日に岡山を出る前にお母さんが持ち物チェックをしてくれたらしい。
 
「だけどプリンは帰ってきてからすぐインターハイで大変だね」
「でも私はまだ1週間あるから」
「今回はU17代表に入っている子たちが大変」
「うん。25日までフランスで世界選手権があるのに、29日からは沖縄でインターハイだからね」
「なんか移動で体力使うなあ」
 
「決勝トーナメントに進出できた場合は、フランスから帰国するのが27日になるから、帰国したらすぐ沖縄に行くと言っていた。予選リーグで敗退して早く帰って来た場合も、そのまま沖縄に行けと言ってある。その場合、練習パートナーを先行して沖縄入りさせる」
と千里は言う。
 
「うちの久保田希望も同じ。たぶんそういう方式にする所が多いんじゃないかな」
と玲央美も言った。
 
「特におたくら、北海道組は大変だよね」
とWNBAの羽良口英子が言うが
 
「いえ、羽良口さんには負けます!」
とその場に居た全員が言った。
 
彼女は日本代表の活動に参加するため、わざわざアメリカから来ている。愛知J学園の出身だが、山形生まれで、鶴田早苗の中学の先輩でもある。
 
「でもインターハイももう少し時期を考えてくれたらいいんだけどねぇ」
 

朱音は母との電話で大喧嘩してしまった。
 
朱音自身は1年生の時から、厳しい学生生活の中でバイト代を毎月1万円ずつ貯めて、成人式の振袖を買うお金を用意し、先日、比較的低価格の振袖を揃えている千葉市内のお店で購入の予約をした。価格は帯と合わせて20万円で、予約金も3万円払っている。最新鋭のインクジェットプリンターで染める方式なので、こんな低価格が実現したらしい。
 
ところが母が突然電話して来て、地元で振袖の展示会があり、振袖を買ってしまったというのである。価格までは母は言わなかったものの、多分50万円くらいではないかと思われた。
 
「そんなの私の好みも考えずに買わないでよ」
「いや、これ絶対あんたに似合うと思うから」
「私もバイト代貯金して帯入れて20万円の振袖買う予約したんだよ」
「予約だけならキャンセルで。帯付き20万円なんてとんでもない安物じゃん」
「安物かも知れないけど、自分でお金貯めて買うのに意味があるんだから。そっちの振袖はお母さんが着たら?」
 
母は買った振袖を送ってくると言ったが、朱音はそんなの送り返すと言い、送り返されても困ると言うと、じゃ捨てると言った。
 
結局最後は「もう話したくない」と言って朱音は電話を切った。
 
朱音は元々母との折り合いが悪い。実はここ半年ほど全く連絡を取っていなかった。もしかしたら母は仲直りのためにプレゼントしてくれるつもりだったのかも知れない。もし50万円くらいだとしたら、それは買うのにかなり無理をしている。しかしこちらに何も言わないまま勝手に買うなんてひどい。 
朱音はこの鬱憤をどこで晴らそうかと悩んだ。
 

亜記宏はすっかりそのラーメン屋さんの「調理係」として居座った形になってしまった。おやじさんが作っていた洋風ラーメンを「美味しく食べられる」味に改造した“ラーメンA”と、亜記宏自身が稚内のラーメン屋さんで習った魚介スープの“ラーメンB”を主力にして、おやじさんが作る絶品の餃子、それに地元産の日本酒と地ビールを出す。
 
あとはラーメン屋さんには珍しいカラオケ装置があり、1曲100円で歌えるようになっており、夜間はこちらの利用客が割と多い。
 
しかし亜記宏が来てからこのお店は「昼間の利用客」が増えた。実際問題としてお昼時は、弁当持参で!おやじさんをからかいに来る常連客くらいしか居なかったのが、亜記宏が来てから、ちゃんとラーメンを食べに来る客が発生したのである。
 
お店の売上は3倍になった。
 

常連客で、おやじさんと同級生という年老いた税理士・荘内さんが、亜記宏のことを心配して言った。
 
「おやじさんは、みんなにあんたのことを孫だとか言ってるけど」
「すみません。無関係です。店の前で行き倒れていたのを助けてもらったんです」
「なぜ行き倒れとかする羽目になった訳?」
「実は莫大な借金から逃げてました。ヤクザ絡みのものがあったので、法的な処理も難しかったんですよ」
 
「それはきちんとした弁護士さん使って破産処理すればいいと思う。弁護士が介入した場合、ヤクザは手を出せないんだよ」
「そうなんですか!」
 
「弁護士への依頼料が30万円くらい掛かるけど、そのくらい、おやじに出させなよ。この店自体、いつ潰れてもおかしくなかったのが復活したんだからさ」
「そうですね」
 
「何なら俺がおやじに言ってやろうか」
「あ、はい」
 

それで亜記宏はおやじさんとも話し合いの上、転居届けを出して法的な住所をこの町の、その荘内さんの自宅にいったん移動(借金取りが来た場合にお店に迷惑を掛けないため)した上で、札幌市内の弁護士さんに依頼して、自己破産の手続きを始めた。
 
「あんた、子供がいたの?」
 
と引越の手続きをした時にそれに気付いた荘内さんが驚いて言った。
 
「すみません。3人の内、1人は親戚の家に、1人は元恋人の許に、そして実は3人目は・・・」
 
と言って、織羽と別れた時のことを語った。
 
「それ、そのヤクザに殺されたのでは?」
「その可能性はありますが、私と有稀子さんを助けてくれた、大姐御のような人が、最初に子供だけでも助けてやると明言したんです。あの人は信頼できそうな感じでした。私はその可能性に賭けています」
 
「取り敢えず、あんたはその上の2人の子供の所に一度行くべきだ」
と荘内さんは言った。
 
「でもどういう顔で顔を出せばいいかと」
「何なら俺が付いていこうか?」
 
亜記宏は少し考えて言った。
 
「私がひとりで行ってきます。すみません。数日お店の方をお願いします。スープを作り貯めて行きますから」
 
「うちの娘にその間はラーメンを作らせるよ。あのおやじにやらせるよりはマシなラーメンになるはずだ」
 
「すみません」
 

7月7日(水)、バスケットボール女子日本代表候補チームは、選手28名に、田原ヘッドコーチ、夜明アシスタントコーチ、富永チーム代表、トレーナーの内藤・田中、事務担当の赤井、通訳(英語)の角川、付帯審判の薬師、という合計36名で、早朝、合宿所をバスで出発した。8時頃成田空港に到着。すぐに搭乗手続き・出国手続きをする。「国外エリア」に出てから朝食を取った。そしてコペンハーゲン行きに搭乗する。
 
11:40 NRT SK984 A340 16:05 CPH:Copenhagen
 
機内では寝ている子が多かった。実は千里は亜津子・玲央美・英美・彰恵たちと朝4時に起きて早朝練習でたっぷり汗を流していたので、飛行機に乗るとすぐに熟睡してしまった。
 
同日16:05、コペンハーゲン空港(CPH.別名カストルップ空港)に到着する。時差は7時間で、飛行時間は11:25であった。
 
ここでトランジットなのだが、“シェンゲン圏”に入るため、入国手続きにけっこう時間が掛かった。しかし乗り継ぎ便まで充分な時間があるので、晩御飯を食べることになる。
 
「私、機内で2回御飯食べたから、もう晩御飯は終わったのかと思った」
「今こちらは夕方だし」
「日本時間では何時?」
「私の時計は24時を過ぎている」
「じゃ、お夜食感覚かなあ」
「ヴィリニュス行きはデンマーク時刻で20:55だから、日本時刻でだいたい朝4時」
「私、寝ていたい」
「あんた機内でひたすら寝てたじゃん」
「それでも寝る」
 

千里は亜津子・玲央美と「身体動かさないと気分良くないよね〜」と言って、ボールを1個膨らませて、あまり邪魔にならなそうな場所でパス練習をした。江美子が「混ぜて」と言って、加わり、結局もう1個ボールを膨らませて、1on1を2組、組合せを変えながらやった。他の子たちは免税店を見てまわってりしていたようだが、ひたすら寝ている子もいた。
 
20時半頃、ヴィリニュス行きに搭乗する。
 
20:55 CPH SK742 CRJ900 23:25 VNO:Vilnius
 
地上から飛行機に乗り込む階段がわずか6段しかない、とても背の低い飛行機である(一応90人乗り)。この飛行機を見た時
 
「可愛い!」
 
という声が多数あがっていた。
 
CRJはカナディア・リージョナル・ジェットの略で、カナディア社が開発した中型機である。日本のMRJ(三菱リージョナル・ジェット)の完全競合商品である。この飛行機は水平尾翼が無い代わりに垂直尾翼の上部が左右に伸びたT字型になっているのが特徴で、エンジンは主翼に付いているのではなく、機体後方、垂直尾翼の少し前に、機体に直接付いている。
 
カナディア社はその後ボンバルディア社に吸収されている。ボンバルディアというと事故を多発したDHC-8が日本では悪名を馳せているが、そちらはボンバルディアが吸収した別の会社デハビランドが開発した機体で、CRJとは全く系統の異なるシリーズである。
 

「でもまだ明るいね」
 
という声が搭乗してから聞こえる。
 
「というか、まだ太陽が沈んでいないような」
 
時刻は現地の時刻で20:40である。
 
「今日の日没は何時?」
「21:49」
と暦の計算サイトで確認した彰恵が言う。
 
「すげー」
「今日のコペンハーゲンの日暮れは23:03。明日のヴィリニュスの夜明けは3:46」
「夜が短い」
「物凄い高緯度なんだね?」
 
「コペンハーゲンやヴィリニュスは樺太の北端くらいの緯度」
と夜明コーチが言う。
 
「寒そう!」
「でも気候的には青森市くらいの気温だよ」
「少し安心した」
 

コペンハーゲン(デンマーク)からヴィリニュス(リトアニア)への所要時間は1時間半なのだが、時差が1時間あるので20:55発23:25着ということになった。ヴィリニュスと日本の時差は6時間である。
 
コペンハーゲン空港とヴィリニュス空港との距離は810kmで、羽田−新千歳(846km)などと似たようなものである。
 
そういう訳で夜の11時半リトアニアの首都ヴィリニュスに到着した。
 
デンマークとリトアニアは“シェンゲン圏”の内側での移動なので、国内移動と変わらない。ここでは何の手続きもないまま、空港から出て、リトアニアのバスケ協会が用意してくれていたバスに乗る。
 
「バスで1時間半ほど移動します」
とチーム代表の富永さんが言うと
「え〜〜!?」
という声があがる。
 
「いや、空港から1時間半掛かるというのは最初に説明されていた」
とエレンさん。
 
「みんな話を聞いてないな」
と夜明コーチ。
 
「私寝てます」
と広川妙子が言う。
 
「うん。みんな寝てるといいよ」
と夜明コーチも言う。
 
それで実際選手は全員寝ていたようである。
 
結局夜中の1時過ぎにホテルに到着。ほぼ全員が、部屋に入るとそのまま寝たようである。
 
千里は水分補給を兼ねてホテルロビーの自販機でコーヒーを買ってきて飲んでから寝たが、玲央美は「私はそのまま寝る」と言って、部屋の入口からベッドに直行して、すやすやと寝入っていた。
 

今回の合宿は、いつものように玲央美と同室である。
 
代表合宿でツインになる場合、他の子はけっこうその度に組合せが変わるのだが、千里はいつも玲央美と同室になっていた。自分のセクシャリティ問題で、理解のある玲央美と一緒になっているのかなぁという気はした。しかし玲央美とはお互い気心が知れているので、気楽である。
 
なお王子は華香と同室だった。王子をどうかした子と一緒にすると相手が貞操の危機!を感じて落ち着けないかも知れない。
 
(それ以上に寝相が悪いし、いびきが酷いらしいが)
 
「念のため訊くけど、きみちゃん、ちんちんは付いてないよね」
といつかサクラが訊いていた。
 
「あってもいいけど、今の所装備してないです」
と王子は答えていた。
 
「ところで、あれってどこかで売ってませんかね?」
「お店で売られていたら、ちょっと恐いな」
 
「そもそもどこから仕入れるんだ?」
「要らない人が売るのでは?」
「確かに要らないと思っている人は多数あるけど」
 
「貧乏学生が学費稼ぎで売り飛ばしちゃったりして」
「それでちんちんの無い学生が増えるのか!?」
「なんか借金のカタに心臓を売るみたいな話だな」
「待て。さすがに心臓は売らないだろ!?」
 
 
前頁次頁目次