【娘たちの開店準備】(下)

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旭川N高校が出場するインターハイの北海道予選は6月18-20日に札幌市内の3つの会場に分かれて行われた。なお、今回道予選に出場するのは女子のみで、男子は地区予選4位で、道大会に進出できなかった。
 
1回戦は不戦勝で18日(金)午後の2回戦からの参加となる。江別市の高校が相手だったが快勝して明日の試合に進出した。
 
19日(土)の午前中はブロック決勝で、相手は強豪の函館F高校であった。しかしこれも20点差で勝利。今年のN高校は凄いぞというのを関係者に認識させることとなった。
 
19日午後と20日の午前・午後を使い、ブロック決勝に勝った4校による、決勝リーグが行われる。今回ここに出てきたのは、札幌P高校、旭川N高校、釧路Z高校、旭川L女子高の4者である。Z高校は札幌D学園との延長にもつれる死闘を制して勝ち上がり、旭川L女子高は帯広C学園を最後の3秒で逆転して勝ち上がってきた。
 
19日午後に行われた第1試合では下記のようになった。
 
N78-58Z P82-53L
 
Z高校もL女子高もブロック決勝の疲れが出た感じで、どちらも大差を付けられての敗戦となった。
 
20日午前中の第2試合ではN高校とP高校の“頂点対決”が行われる。絶対的女王のP高校だが、道内の試合でN高校にだけは、ここ数年、何度も敗戦を喫している。この試合でも最初から激しい攻防が続き試合はシーソーゲームで移行した。16-18 19-17 と続いて前半はタイ。第3ピリオドも15-15の同点で勝負は第4ピリオドに持ち越させれる。
 
ここでP高校は第4ピリオド前半にフォワードを渡辺純子・並木貴穂・工藤典歌・久保田希望と4人並べ、それと天才シューター伊香秋子を入れて猛攻を掛ける。これで一時は10点差が付いたものの、その後タイムを取って気合いを入れ直したN高校が反撃に出て、残り1分で1点差に迫る。
 
そして最後は渡辺純子のシュートを由実がブロックしたのを、紫の遠投→絵津子の逆転シュートというので1点差逆転勝ちをおさめた。
 
N74-73P L68-64Z
 
絵津子にやられた純子はまたまた頭を坊主にしようとしたが、会場近くの床屋さんで待ち構えていた高田コーチに「坊主は校則違反」と言われて、会場にそのまま連れ戻された。
 
「性転換して男になったら坊主にしてもいいけど」
「性転換は興味あるけど、そしたらえっちゃんと対決できないからパスです」
「だいたいお前、今頭を坊主にしたら、アジア選手権でタイに入国しようとした時に、性別を疑われてトラブるぞ」
「う・・・それもまずいな」
 
L女子高とZ高校の試合も激しい試合だったが、最後は4点差でL女子高が制した。
 
これでN2勝 P1勝 L1勝 Z0勝だが、この時点ではまだどこもインターハイ進出は確定していないし、どこも脱落確定していない。最終戦でP高校とL女子高が共に勝てば2勝が3校となって、得失点差の勝負になる。またN高校とZ高校が勝つと1勝が3校となって、それも得失点差の勝負になる。 

午後からの最終戦で、Z高校は相手が女王P高校ではあっても臆せず、激しい戦いを仕掛けた。どうしてもファウルがかさみ、渡辺純子がついエキサイティングしそうになったりもしたが、何と前半はZ高校が1点リードする展開となる。
 
しかし十勝監督がハーフタイムに全員に座禅をさせたP高校は後半、冷静に試合を進める。そうなるとどうしても実力差が効いてきてじわじわと点差は広がる。それで最終的には10点差でP高校が勝利した。
 
一方のN高校とL女子高の旭川勢対決では、地区大会の雪辱に燃えるL女子高が第1ピリオド物凄く頑張って、N高校に6点差を付けてリードを奪った。しかし、その後、三年生トリオ(絵津子・ソフィア・不二子)の活躍で第2ピリオドで逆転。後半も手を緩めず、そのまま逃げ切った。しかし最後まで競った感じの試合であった。
 
N82-76L P68-58Z
 
この結果N高校が3勝で優勝、P高校が2勝1敗の準優勝で、この2校がインターハイに進出することになった。この2校が進出するのは、これで2008年から3年連続である。また絵津子と純子のライバル2名も3年連続インターハイ出場となった。この2人は6月23日からのU18アジア選手権にも出場する。
 

一方、岡山県では19-20日にインターハイ県予選の準決勝と決勝が行われた。19日の準決勝では倉敷K高校と岡山E女子高という、王子の所属校と古巣との対決となった。お家騒動の直後は軒並み部活動が弱体化したK高校だが、昨年末に日本代表の経験もあるOGがバスケ部監督に就任して体制を建て直し、残った部員に加えて積極的な新人勧誘をしてまたかなりの強豪になっている。特に今年はレギュラーの半数が1年生であった。
 
しかし王子のパワーは誰にも停められなかった。かつてのチームメイトで今年はキャプテンを務めている清水由布子が王子にマッチングしたものの、王子はこの1年半で物凄く成長していて、どうにもならない。
 
結局30点差の大差でE女子高が決勝戦に進出した。もうひとつの準決勝は岡山H女子高が快勝した。
 
20日は男女の決勝戦のみが行われる。
 
先に12:30から女子の決勝が行われた。このH女子高にもかつての王子のチームメイトで180cmの身長を持つ山城麗美がいる。彼女が王子とマッチングし、しかも彼女はここ数試合での王子のプレイをかなり研究した雰囲気もあった。
 
しかし王子は少々研究した程度で停められる相手ではない。パワーで相手をけちらしてしまう。
 
結局、H女子高は全体的には善戦したにもかかわらず、王子がほとんどフリーに近い状態でどんどん得点を重ねるので、彼女ひとりのパワーに負けてしまった感じで20点差の大差でE女子高が優勝。岡山県ではたった1枚のインターハイ切符を獲得した。
 
男子の決勝が行われている間に、ロビーでは、かつてのK高校のメンバーで、E女子高に来た高梁王子や平野弓恵、H女子高に来た山城麗美や中本晴実、そしてK高校に残った清水由布子や水谷三津子などが集まり、泣きながら抱き合って、今後もお互い頑張ろうと言い合う場面が見られ、関係者の涙を誘っていた。
 
王子の後見人のような感じで会場に来ていた藍川真璃子が各校の監督に許可を取って彼女らを並べ、記念写真を撮っていた。
 

千里は(株主総会を終えて)13日夜に旭川から千葉に戻ってきた後は、14-18日の週は大学にはまたまた《きーちゃん》を行かせて、自身は藍川真璃子に頼んでジョイフルゴールドの練習に参加させてもらっていた。
 
佐藤玲央美をはじめ、熊野サクラ、池谷初美、湧見昭子、ナミナタ・マールと千里をよく知っているメンツがおり、
 
「来ると聞いて手ぐすね引いて待っていた」
と言った池谷たちに、たくさん「可愛がって」もらうことになる。
 
千里がジョイフルゴールドの練習場に来ると言ったら「マイちゃんとマチも連れてきていいよ」と玲央美が言っていたので、ローキューツのチームメイトである、溝口麻依子と森下誠美も連れて行った。
 
「初美先輩、ごぶさたしておりました」
「マイもごぶさた、ごぶさた」
 
ふたりは旭川L女子高の先輩・後輩である。
 
「もうお怪我は大丈夫なんですか?」
「うん。もう完璧。怪我する前より強靱になった感じ」
「だったら良かった」
 
誠美とサクラはパンチを当てあっていた。この子たちはほとんど男の子感覚のようである。なおサクラはU20代表、誠美はU24代表候補になって、どちらも今年は各々の日本代表チームでの活動もしている。
 

「昭ちゃんはいつから試合に出られるの?」
と千里は湧見昭子に訊いた。
 
「8月30日解禁なんですよ。でもこのチームは無茶苦茶鍛えられます」
と彼女は言っている。
 
「9月の全日本実業団バスケットボール競技大会には昭ちゃん出すよ」
とキャプテンの伊藤寿恵子が声を掛けた。
 
昭子は2008年8月30日付けの去勢手術を受けたという証明書を持っていたので、2010年8月30日から女子選手として試合に出ることができる。彼女は性転換手術は昨年の7月3日、高校3年の夏休み直前に受けており、今は午前中銀行で窓口業務をして、午後からは練習に参加している。
 
「窓口では笑顔の女子行員でやってるの?」
「頑張ってます。千里先輩、よかったら定期預金作って下さい」
「いいよ。じゃ、後でね」
 
「おお、積極的に女子銀行員としてのお仕事もしている」
 
「でも女の子の声出すの、だいぶうまくなったね?」
 
「出るようにならなかったら入社・入団の話は無しで手術代も払ってもらうと言われたから必死で練習しました。でも実はまだ長時間連続で出すのが結構辛いんです」
 
「そのうち普通に出るようになって、むしろ男の声の出し方を忘れちゃうよ。私ももう男の声の出し方、忘れつつある」
と千里は言った。
 
千里は声変わりが起きてしまってマジで焦った1年半前の出来事を遙か昔のことのように思い起こしていた。
 

日吉紀美鹿たちが参加している、U24(Univ)女子日本代表は6月10-14日に国内NTC合宿をしたあと、15-20日には台湾に遠征した。
 
それと入れ替わるように、18日(金)夕方には、千里や玲央美などU20の代表がNTCに入った。ふたりは同じU20代表・熊野サクラとともにジョイフルゴールドでの練習を午後いっぱい、たっぷりやった後、服を着替えてから合宿所に行った。なお、麻依子と誠美は「玲央美とサクラを代表に出している間の人質」などと言われて月末までジョイフルゴールドの練習にそのまま参加することになったようである。麻依子も千里が代表に出ている間は適当な練習相手がいないし、誠美は元々リバウンドを争えるような練習相手が普段から得られないので、ここでナミナタやローザと一緒に練習するのがとても刺激になっているようであった。
 
「マチは普段でもこちらで練習していいよ」
とキャプテンの伊藤さんが言っていた。
 

さて、北区のナショナル・トレーニング・センター。
 
千里たちはもちろんIDカードはもらっているのだが、3人ともここは常連になってきているので顔パスで中に入り、先に来ていた江美子や彰恵などと手を振り合った。
 
千里たちは三鷹のKL銀行体育館から千里のインプレッサに乗って合宿所に直接入ったのだが、江美子も自分のランエボで大阪から走って来たらしい。TS大学の渚紗・彰恵・桂華はつくば市からつくばエクスプレスで北千住に入り、そのあとJRで赤羽駅まで来ている。朋美と華香は名古屋から新幹線、早苗は山形から新幹線である。留実子は旭川から飛行機(ADO 13:35-15:20)で飛んできた。都区内に住んでいる雪子は神保町から都営三田線で本蓮沼駅に入ったらしいが、メンバーの中では最初に合宿所に入った(2番目が留実子)。神経質な雪子は時間的な余裕を持って行動していないと不安らしい。ここまでは18:30までに集まり、のんびりと夕食を取りながら、おしゃべりしていた。 
神奈川J大学の百合絵と星乃は小田急と埼京線を使ってやってきたが、夕方のラッシュにひっかかって大変だったようである。彼女たちは19:00ジャストに辿り着いた。はあはあ息をしているので駅から走って来たのだろう。
 
「もう少し早く向こうを出るべきだった」
「新宿駅の中を埼京線ホームまで辿り着くのに苦労した」
「埼京線も圧縮された」
「荷物が多いからだいぶ白い目で見られた」
「ついでに痴漢が出たけどぶん殴ってやった」
などとふたりは言っていた。
 
「赤羽から来たの?厚木から来るなら、本蓮沼のほうが近いかと思った」
 
合宿所はJR赤羽駅から2.1km、徒歩20分(ジョギング12分)、都営三田線・本蓮沼駅から800m、徒歩7分(ジョギング5分)くらいである。
 
「実はどちらでもほとんど変わらないんだけど、新宿経由で赤羽に入る方が少しだけ早いんだよね」
 
赤羽だと、本厚木(小田急)新宿(埼京線)赤羽

本蓮沼だと本厚木(小田急)代々木上原(千代田線)日比谷(三田線)本蓮沼

 
いう連絡になる。厚木からの直線距離は本蓮沼の方が近いし、駅から合宿所までの距離も近いものの、本蓮沼に行くには日比谷経由になるので、路線的には遠くなるのである。埼京線を板橋で降りて新板橋まで400m歩いて三田線に乗る手もあるが、そこまでするなら赤羽まで埼京線で行ってしまったほうが楽だ。 
「ちょっと遅れたと思って新宿経由にしたのが失敗だった」
 

なお、雪子・星乃・留実子の3人は実はU24(Univ)代表候補とU20代表補欠を兼任しているのだが、今回はU20の方を優先してくれと言われたので、台湾にも行かなかったし、それに先行する14-20日のNTCでのU24(Univ)合宿にも参加していない。
 
今年は6つの代表チームが同時稼働しているので、兼任者が多く、スケジュールも重なるので、兼任している選手をどちらに参加させるかというのは、代表チームを統括している強化育成部としても、かなり悩ましかったようである。
 

19:08頃になって高田コーチが食堂にやってきて
 
「全員揃っているかな?」
 
と声を掛ける。
 
みんな周囲を見回している。
 
「プリンがいません」
 
「あぁ・・・」
 
それでコーチが王子の携帯に電話する。
 
「すみません!新幹線に乗り遅れて。さっき名古屋を出た所です」
などと王子は言っている。
 
現在19:12だが、本来19:00集合だったので、王子は本来は岡山14:40発の新幹線(18:03東京着)に乗らなければならなかったはずである。しかし今名古屋を出た所ということは岡山を17:14か17:23の新幹線に乗ったことになる。2時間以上の遅刻である。到着はおそらく22時近くになる。
 
「高梁君、君は遅刻が多すぎる。困るんだけどね」
「申し訳ありません。気をつけます」
「じゃ君は、到着したらランニングシュート300本」
「はい。頑張ります」
 
「ちなみに、君、パスポート持っているよね?」
「パスポートですか?」
と言って、どうも探しているようだ。
「あれ〜?どこ行ったかな?」
 
高田コーチは苦虫を潰したような顔をしている。
 
「高梁君、もし持ってないようだったら、お母さんか誰かに電話して、寮を探して見つけて追ってこちらに持って来てもらって。あ、いや僕がお母さんと直接話そう」
 
王子に話させると危ないとコーチは判断した。郵送などされて行方不明になったりするとやばい。
 
「すみません!」
 
それで結局、高田コーチの連絡を受けて、お父さんの車でお母さんと妹さんが急遽E女子高の寮まで走り、お母さんと妹さんが、ふたり掛かりで、まだここに入ってから半月も経っていないとは思えない散らかりようの王子の部屋から無事パスポートを発見。お母さんが翌朝1番の新幹線で合宿所まで持って来てくれた。
 
ちなみに今回は前科のあるサクラはじめ他のメンツは全員ちゃんとパスポートを持って来ていた。
 

合宿所で21日まで濃厚な練習をした後、千里たちU20代表は6月22日(火)、有志だけの早朝練習、朝食の後、朝8時にバスケ協会が用意してくれたバスで合宿所を出た。9時すぎに成田空港に入り、搭乗手続き・出国手続きをする。 
「へー。千里はちゃんと性別Fの航空券なのか」
と今回初めて千里と一緒に海外渡航する留実子が、千里の航空券を見て言っている。留実子自身はこれが初めての海外である。
 
「そうなんだよ。この子、昨年も一昨年も、ちゃんと性別Fの航空券で入出国している」
と玲央美が言う。
 
「パスポートがFだし」
と千里は言って自分のパスポートをみんなに見せている。
 
「それも不思議なのだが」
と桂華。
 
「まあ千里が万一性別を疑われたとしても、裸にしてみたら女だと確認されるから全然問題無いね」
などと江美子は言っていた。
 
江美子は千里と出羽修行の仲間なので、冬の間は毎日のように千里と一緒に湯殿山の温泉につかっている。
 

今回、留実子と雪子は自動化登録をしていなかったのでこの2人だけ新規に登録をした。他のメンバーは全員登録済みなのでスムーズに出国手続きをして「国外領域」に出る(星乃もU18の時オーストラリア合宿に参加した際、登録をしている) 
早めの昼食を取ってから、12:00発モスクワ行きSu576 (A330)に乗り込んだ。多くの子が早朝練習もした上での出国だったので、みんな機内ではぐっすり寝ていたようである。(寝坊して早朝練習どころか朝御飯も食べ損なった)王子のいびきが大きいので、サクラに蹴られていた。
 
モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港に到着したのは17:25である。時差が5時間あるので、所要時間は10時間半掛かっている。機内食も食べているのだが、みんな「お腹空いた〜」と言っている。この日は入国手続きをした後、ホテルに入って、夕食を取りすぐに寝た。
 
なお入国手続きの時、王子とサクラが「性別が違う」と言われてトラブっていた。
 
「サーヤは引っかからなかったね」
と彰恵が言うと
 
「うん。女に見えたのかと思うと悔しい」
と留実子が言うので
 
「悔しいの?」
「男に見られたかったのか!?」
と声があがっていた。
 
「せっかくちんちん付けてきたのに」
「それ逆に裸にされていたら、やばかったね」
 
「髪もっと短くしようかなあ」
と留実子は言うが
 
「わざわざトラブルを増やすのは勘弁して下さい」
 
と通訳も兼ねてサポート役で随行しているバスケ協会の事務の女性・坂倉さんが言っていた。坂倉さんは特に王子について、この子は間違い無く女性ですと係官にロシア語で説明して納得してもらうのに苦労していた。
 

翌6月23日から、強化スケジュールが始まる。今回の遠征前半で相手になってくれたのは、モスクワ市内の大学、**大学の女子学生チームであった。同大の体育館を練習場所として使わせてもらえる。
 
ここは市内の大学生リーグの中では割と強い所らしく、主将のオリアさんは2008年のU18ヨーロッパ選手権で代表になったものの昨年のU19世界選手権には出場できなかったらしい。
 
「私が出ていたら、日本には負けなかったのに」
と彼女は半ば独り言のように言っていた。
 
昨年のU19世界選手権では日本はロシアに辛勝したことから決勝トーナメントに進出することができた。
 
「U21に出てきてください。そして対戦しましょう」
と千里がロシア語で言うと、相手はこちらがロシア語が分かっていたことに少し驚いたようで
 
「Да.Давай,Давай(そうだね。頑張ろう)」
と言って千里と握手をしていた。
 
なお、こちらでロシア語が分かるのは千里と早苗、彰恵、雪子、それに高田コーチである。
 

千里とオリアの交歓で和やかに始まったものの、練習を始めてみると相手は強い強い。しかも体格の良い選手揃いである。玲央美も王子も最初の内は相手のプレイに圧倒されている感じであった。
 
しかし少し経つと、各々自分を取り戻し、相手のちょっとした隙を突いていく。向こうも最初こちらがかなりやられっぱなしになったので、何だアジア・チャンピオンといっても大したことないな、ロシア代表に勝ったのもまぐれだろう、みたいな雰囲気になったのだが、玲央美の俊敏な動き、王子のパワフルなプレイが発揮されはじめると、結構相手はそれを停めきれないし翻弄される。 
更に彼女らに気を取られていると、千里のスリーが炸裂する。
 
そこまで行くと、今度は彰恵や江美子のような、いかにも簡単に潰せそうなのに潰せない選手にいいように引っかき回されてしまう。
 
それで最初の練習試合は78-72となり、ロシア側が勝ちはしたものの、彼女たちは 
「あんたたち強い」
 
と言ってこちらの実力を結構評価してくれたようであった。
 

練習試合の後は、ガード組、シューター組、フォワード組、センター組に分かれて練習をする。
 
朋美・早苗・雪子はむろんガード組、彰恵・桂華・玲央美・江美子・百合絵がフォワード組、華香・サクラ・留実子がセンター組に入ったが、王子はフォワード組に入ろうとして、向こうの正センターの人に「Ко нам(あんたはこっち)」と言われてセンター組に連れて行かれていた。
 
そして星乃は本来はフォワード組に入るべき所なのだが、相手の体格を見て「こっちに入れて〜」と言ってガード組に加わっていた。
 
そしてシューター組は千里・渚紗の2人と向こうのシューター3人であるが、このグループは最初から和やかすぎた!
 
「6.25mから6.75mになるの、どう思う?」
と(ロシア語で)訊かれて、千里は
「Вот не меняет(そんなの関係無い)」
 
と答えたが、千里から通訳してもらった渚紗はフランス語で
 
「入る確率が2割落ちる」
と言った。
 
向こうの3人もフランス語は分かるみたいで、以後このグループはフランス語で話しながら練習をすることになるのだが、向こうの3人も
 
「私たちもやってみたけど、やはり2割くらい確率が落ちる感じだ」
と言っていた。
 
実際、現在引かれている6.25mの線の外側にビニールテープで6.75mの線を引いてみて5人とも各自20本ずつ試投する。
 
すると向こうの3人タチアナ、ユリア、ダリヤは6.25mからは、8本、7本、7本入れたものの、6.75mからは6本、5本、4本しか入らなかった。渚紗も6.25mからは9本入れたが6.75mからは7本しか入らなかった。
 
しかし千里は6.25mからも6.75mからも20本全部入れた。
 
「Je comprends que tu as dit "Il ne change pas"(関係無いと言った意味が分かった)」
「Ты с ума(あんたは狂ってる)」
と言われた。
 
後のはわざとロシア語で言ったようだが、むろん千里はロシア語は分かっている。このс умаというのはt.A.T.u.の大ヒット曲「Я сошла с ума(私は狂ってしまいそうだ:英語タイトル All The Things She Said)」のс умаである。
 

「千里はフリーである限り全て入れる。彼女が外すようにするには目の前でプレスしたりするしかない」
と渚紗が説明するので、その後は、お互いにディフェンスしながらシュート、あるいはドリブルで抜く、という練習にする。
 
確かにこれをやると千里も全命中というわけにはいかなくなるものの、千里のフェイントが巧みなので、結局半分くらいは入れてしまう。
 
「さすがスリーポイントの世界女王だ」
 
と半分は称賛、半分は呆れられている感じだった。しかしやはりフェイント合戦に関しては相手の正シューター・タチアナはかなりうまく、千里の巧みな釣りや“偽の隙”には引っかからない。しかし向こうのフェイントもなかなか千里には通じない。
 
「千里とやるのは楽しい。明日もたくさんやろう」
と言って、彼女とは笑顔で硬い握手をした。
 

ガード組はひたすら1on1をやっていた。1人の相手とやったら、次は次の子とやるということで、同時進行で1人ずつずれながら回していくのである。向こうの人数の方が多いので、ロシア側は数分おきに休めるが、日本側は全く休む暇が無い! ひたすら対決するので、体力の無い雪子などは途中で息が上がって精度が落ちそうになるのを精神力で何とか抑えて頑張っていた。 
そして休憩時間には死んだように眠っていた。
 
しかしこの練習に参加した星乃はこれでかなり鍛えられたようである。彼女はU18をやっている最中に怪我で離脱してしまったため、こういうハイレベルの相手とやった経験が他のメンバーに比べて圧倒的に少なかった。
 
センター組はひたすらゴール付近での攻防をやっていた。彼女らはゴール下でぶつかりあうのはノーファウルなどと言って格闘技並みの激しいぶつかり合いをしていた。みんなそういうぶつかり合いに耐える体格の子ばかりである。 
しかしその中でも王子はちょっと異彩を放っていて
 
「Кимико мальчиком?(キミコは男の子?*1)」
などと言われるので、通訳としてこのグループに付いている坂倉さんが 
「Нет.Она женщина.(いえ、彼女は女性ですよ)」
と答える。すると
 
「Она стала девушкой, перенесшей операцию?(手術して女の子になったの?)」
 
などと尋ねられたが、坂倉さんはそれはそのまま受け流してもう答えなかった。正直、坂倉さんも向こうがジョークで言っているのか、マジで疑っているのか判断がつかなかったが、向こうは王子が元から女であっても、元は男だった女であっても別に構わない雰囲気であった。
 
みんな強い子と対決するのが楽しいのである。
 
なお、もう1人ロシア語が分かる高田コーチはフォワード組に付いている。ガード組は雪子と早苗がロシア語ができるのでロシア語でコミュニケーションが取れる。
 

(*1)注。
 
男の子はМальчик、女の子はдевушка(小学生女子くらいならдевочка)。バスケットボールのカテゴリー Under 20 for women はロシア語ではдевушки до 20 летと言う。つまり20歳くらいまではдевушкаと言っていいのだろう。
 
переноситьは「受ける」で、операцияが手術(英語のoperation)。性転換手術はоперация по смене пола。ここでсменаが交換・置換で、полが性。また、операция на гениталииという言い方もある模様。гениталииは生殖器(英語のgenital)。つまり「生殖器の手術」。婉曲表現か。それ以外に Хирургическая коррекция полаという言い方も。Хирургическаяは外科手術(英語のsurgery)。коррекцияは矯正。つまり「性矯正外科手術」。
 
確かにある意味、性転換って歯列矯正などと似たものかも!? 形がおかしいから正しい形に矯正しちゃうんですね。
 

23-25日(水木金)にこの大学生チームと濃厚な練習をした上で、26日(土)には現地のクラブチームと練習試合をした。22-25歳くらいの選手が中心のチームで、昨年モスクワ地区のクラブ大会でBEST4になっているチームということだった。 
大学生チームより身体がしっかりできあがっている人が多い感じだった。最初その体格差で圧倒されそうになるが、こちらもすぐにペースを掴む。
 
王子や玲央美・サクラといった体格の良い選手に相手が気を取られている隙にこの日ポイントガード役を買って出た星乃が千里とうまく連携して、相手の隙間を縫うようにして走り回り、いつの間にか得点している。そういう訳で第1ピリオドを終わって18-20とこちらが2点リードしていた。
 
この2点リードという微妙な点数差が結果的にはこちらに有利に働いた感じがあった。あまりやられている気がしないので、すぐ挽回できるだろうと向こうは思ったようである。それで第2ピリオドが16-18である。
 
更に第3ピリオドが20-21となり、ここまでの点数が54-59である。
 
これはもしかして劣勢?と相手はやっと気付いたようで、第4ピリオドの冒頭、向こうは猛攻に来る。
 
しかしこれを江美子・彰恵・百合絵といった、一癖も二癖もあるメンツがうまくしのいでしまう。
 
そして第4ピリオド後半、千里・玲央美・王子といった中心選手を出してこちらも反撃に出ると、結局このピリオドだけで22-32と大量の得点が入り、結局、76-91と15点の大差で日本側が勝利した。
 

この日の午後は自主練習の予定で、**大学の体育館で練習していたら、予定には無かったのだが、タチアナさんたち数人の選手が出てきて、一緒に練習してくれた。
 
ところが午後3時になって、もう一試合したいという連絡が入る。
 
それは昨年モスクワ地区で優勝しているクラブチームで、午前中の試合を見て、こことやってみたいと思ったのだそうである。
 
こちらは大歓迎なので、向こうのクラブがふだん練習に使っている体育館で試合をすることになった。
 
確かに午前中に対戦した所よりは強い感じがあったものの、こちらは逆に午前中の試合で、相手の「強さの感覚」を覚えている。それで相手の強い当たりにもめげずに試合を進めることができた。
 
結局68-72で4点差勝利した。
 
向こうのキャプテンが試合終了後首を振って
 
「Вы сильны(君たちは強い)」
と言って握手を求めてきて、他のメンバーを相手チームのメンツと握手したりハグしたりしていた。
 

27日(日)には、ちょうどこの日から合宿をするために集まってきていたロシアのU20チームと非公開の練習試合をした。お互い撮影禁止ということにした。要するにマジでやろうよ、ということである。隠しカメラとかで撮影したら分からないかも知れないが、そのあたりは紳士淑女としてお互いを信じることにする。 
昨年のU19で対戦したメンバーもかなり入っていて、クジーナ、モロゾヴァ、ペトロヴァ、コフツノフスカヤなどといった面々と、試合前からハグ大会となった。
 
「また来年U21で闘(や)ろうね」
「また楽しい試合になるといいね」
「今度はうちが勝つからね」
「今度もうちが勝つよ」
 
と、このメンツはだいたい英語が通じるので英語で軽くジャブを交わしてから試合を始める。
 
お互いの手の内が結構分かっているので、最初からハイレベルの駆け引きが行われる。千里は相手と対戦していて、こちらをかなり研究してきたなと思った。しかしこちらも特にクジーナやモロゾヴァを結構研究している。 
かなり本気で停めに来るので、こちらもかなり本気で抜きに掛かる。それでも最初の内、かなりこちらのシュートをたたき落とされた。そして千里も最初のピリオドではモロゾヴァのスリーを全部叩き落とした。
 
そういう訳で第1ピリオドは16-16のタイであった。
 
第2ピリオドでは、どちらも第1ピリオドに出なかった選手を出した。ロシア側に、こちらが知らない選手がいたし、こちらも向こうの知らない星乃や留実子を出す。留実子は少々位置取りが悪くてもどんどんリバウンドを取るので、試合中にゴンチャロヴァが早苗に「あの子、すげー!うちに欲しい」などとロシア語で話しかけていた。
 
確かに留実子はサクラや華香に比べると勘が悪くて、必ずしもボールが落ちてくる所に居ないのだが、より貪欲にボールを奪い取るのである。またサクラたちに比べてシュート自体の精度が悪く、得点力が低い弱点がある。つまり留実子は見た目の派手さのわりに数字に表れる成績はよくない傾向がある。 
「サーヤって呼んでるね?」
「うん。サネヤというのが彼の自称」
「彼(Его)?」
 
「あ、まちがった。彼女(Её)。でも、あの子は男の子になりたいらしいんで、みんな基本的に男の子扱いしてあげてるんだよ。むろん、医学的には女性だし、男性ホルモンとかもやってないけどね。ドーピング検査も定期的に受けてるよ」
 
「ああ、男の子になりたいのかぁ」
「ちんちん欲しいらしい」
 
「そうだ。ちんちんは付けても卵巣は取らなきゃいいんだよ。そしたら、多分女子選手のままだよ。ちんちんが付いてるくらいはオマケしとくよ」
「その線はこちらとしても交渉してみる価値はあるなあ」
 
「いや、マジで国際大会に出てると、こいつちんちん付いてないか?と思う選手って結構居ない?」
「居る居る。なんか体臭からして男みたいな選手もいる」
「そうそう。あれ怪しいよね〜」
 
ふたりはこんな会話を交わしながら、ボールを取り合ったりフェイントを掛け合ったりしている。
 
留実子はロシア語が分からないので、何か自分のこと言われてるみたいだなとは思っても首を傾げるだけであった。
 

第2ピリオドも結局18-18で、前半終わって34-34。シーソーゲームが続く。 
これが本戦ならどちらかが何か仕掛けてくる所だが、今回はどちらにとっても強化目的の練習試合で、勝つことは目的ではないので、奇をてらった作戦はしない。お互い堂々勝負である。
 
第3ピリオドはまた第1ピリオドと似たような選手同士の対戦になったが、モロゾヴァは第1ピリオドで全部スリーを叩き落とされたので、彼女なりに工夫をしてきた。タイミングをずらしたり、高い軌道のシュートを使ったりする。しかしそれでも千里はよく彼女の動きを見ていて、ほとんど叩き落とす。1本だけ通ったシュートは惜しくもリングに当たっただけで落ちてきた。 
一方、モロゾヴァは千里の低いシュートに絞って発射タイミングを予測してブロックしようとする作戦に出た。低いシュートを叩き落とされると、こちらは高いシュートを多用することになり、高いシュートは精度も落ちる。 
実は千里にしても今回ここに来ていない花園亜津子にしても、低いシュートを使うことによって高確率でボールをゴールに放り込んでいるのである。 
それに気付くと千里はその発射タイミングを物凄く読みにくくするフェイントを入れるようにした。撃ち掛けて一瞬停止してから撃つとか、ジャンプの途中で撃つとか、色々するので、モロゾヴァもなかなか読むのが難しいはずだ。しかし、それでもモロゾヴァはこのピリオド、かなり千里のシュートのブロックに成功した。
 
第3ピリオドを終えて21-19。合計では55-53。ロシアの2点リードである。 

第4ピリオドの前半もまた控え組中心のラインナップで行く。ここで首脳陣に自分をアピールしたい星乃が物凄く頑張った。このピリオド前半、ひとりで10点取り、点数も一時59-67と大きく開く。ここでロシアは主力を投入。クジーナやコフツノフスカヤがどんどん得点する。こちらも千里や玲央美を投入する。
 
ロシアの必死なプレイで、点差が縮む。残り1分になって70-74と4点差まで迫る。こちらのシュート失敗から向こうが攻めあがってくる。
 
千里がモロゾヴァに早い時期からピタリと付く。それを見て、プロツェンコがクジーナにパスする。クジーナのそばには彰恵が付いている。彰恵が激しくガードしているので、先に進みにくい。反対側に居るペトロヴァには玲央美が付いている。プロツェンコがスクリーンを仕掛ける。そのスクリーンを使ってペトロヴァがクジーナからパスを受ける。
 
が、そのパスの途中を、よく読んでいた華香が叩き落とす。いつの間にか近くまで来ていた千里が飛びつくようにしてボールを取る。身体を半回転させ、床の上を背中で滑りながら、腕の力だけでフリーになっている朋美にパスする。 
プロツェンコがスクリーンを仕掛けに行ったため、朋美が空いていたのである。朋美が高速ドリブルで攻めあがる。俊足のモロゾヴァが必死で戻る。朋美の前に回り込むが、朋美は彼女を抜くかに見せて、その後を追ってきていた玲央美にそちらを見ないままバウンドパスする。玲央美がスリーポイントラインの所で立ち止まりボールを受ける。そのまま撃つ。
 
これが入って7点差となり、勝負があった感じになった。
 
この後ロシアは反撃してクジーナが2点取ったが、そこまで。
 
72-77で日本が勝った。
 

この日はきちんと整列した後、
 
「77 против 72, Япония」
とロシア人の主審が告げて、その後、お互いに握手したり、またハグしたりした。 
試合の後、ロシア代表チームと一緒にお昼をとって、賑やかに交歓をした。 
「サーヤ、サーヤ」
と留実子と随分対戦したゼレンコフスカヤが手を振って呼ぶ。
 
「What?」
といって、留実子が行くと
 
「オクリモノ〜」
と日本語で言って、なにやら紙袋を渡す。
 
「Don't open. Insert your hand」
などと言っている。
 
留実子は首を傾げながらも手を入れて触り、笑った。
 
「I heard you want to be a boy」
とゼレンコフスカヤ。
 
「Thank you. This is that I wanted」
 
と言って留実子は笑いながら彼女と握手していた。
 
「何もらったの?」
とサクラが訊くので、留実子はサクラと華香にだけそれを見せる。
 
ふたりも笑っていた。
 
後で見せてもらったが、靴下をまるめて作った“ペニぐるみ”だった。 
「キミコにも同じもの贈らなくてもいい?」
と横からペトロヴァが言っているが
 
「いや、キミコは既に持っていると思う」
などとゴンチャロヴァは言う。
 
「持っていたけど、取っちゃったのかも知れないよ」
「取っちゃったのなら、今更いらないかも」
 

27日の午後はロシアのスーパーリーグ(プロバスケットボールリーグ)の女子チーム同士の試合を見学した。
 
スーパーリーグ(ロシアのトップリーグは男女ともこの名前で行われている)のレギュラーシーズンは10-3月で現在はオフシーズンなのだが、若手の強化のための夏のリーグが行われているのである。それで出場しているのも若手中心のチーム編成ということではあったが、千里たちにとっては充分見応えのあるものであった。
 
「もし私たちがA代表で世界選手権に出た場合は、この人たちより更に強い人たちとやることになるわけだ」
と玲央美が言う。
 
「ぜひやってみたいね」
と千里は言った。
 
その会話を聞いた星乃が
「やはり、あんたたちは凄いわ」
と言っていた。
 

28日(月)の午前中は、この一週間お世話になった**大学の学長さんに挨拶に行き、あらためてバスケ部の人たちにも挨拶することにした。
 
ところが挨拶だけのつもりだったが
 
「最後にもう一度試合しましょう」
という話になり、急遽、最後の練習試合をした。
 
76-82で日本が勝ったが、どちらも気合いの入った熱い試合となった。
 
終わった後、またあちこちでハグしたりする場面が見られた。
 

お昼を彼女たちと一緒に取ってから別れる。写真を撮り合ったりした。 
28日の午後は少しだけ自由時間となり、モスクワ市内のデパートでお土産などを買った。そして16時頃、シェレメーチエヴォ国際空港に入る。
 
出国手続きをして19:40のSu 575 A330成田行きに搭乗した。今回の出国手続きでは王子にはウィッグ!をかぶせておいたので、性別問題では揉めずに済んだ。到着は翌29日(火)の10:00で、所要時間は9:20である。入国手続きをしてからいったん北区の合宿所に行き、ここで今回の遠征の解散式をした。
 
そのまま帰っても良かったのだが、千里・玲央美・彰恵・江美子・星乃・留実子の6人が特に志願して、空いているコートを借りて夕方まで練習を続けた。 

6月25日(金)。富山県高岡市に住む高園朋子は給料が出たので各種の支払いをしようと、昼休みに会社を抜け出して、近くのH銀行N支店に行った。 
入金票を書き、振込票・現金と一緒に、顔見知りの窓口のおばちゃんに出す。それで向こうは処理をしていたのだが、ふと気付いたように言った。
 
「高園さん。ずっと積み立てしてましたでしょう?」
「あ、はい」
「来月で満期になりますよ」
「わぁ・・・・」
「また満期直前に通知行くと思いますけど」
「分かりました」
「桃香ちゃん、20歳になるんでしょ?桃香ちゃんが20歳になる年に満期になるようにって始めたんだもん」
 
知り合いすぎる人が窓口にいると面倒な面もある。
 
「ええ。この4月で20歳になりました」
と朋子は曖昧な笑顔で答える。
 
「じゃ今度成人式ですね。結婚とかも近づいてくるし」
 
「結婚ねぇ」
 
と言って朋子はため息をついた。「私はレスビアンだ。男の子には興味が無い」とはっきり自分に言った桃香が結婚するというのはあり得ない事態だ。もしかしたら女の子同士で結婚したいと言い出すかも知れないけど。その場合、どういう結婚式になるのかしら?双方ウェディングドレス?それともまさか桃香はタキシードを着たりして。ひょっとして私、向こうの親御さんに「お嬢さんを頂きます」とか挨拶に行かないといけないのかしら??
 
親戚に何言われるかと思うと、朋子は頭が痛くなってきた。
 
しかし(普通の)結婚があまり考えられないなら、豪華な振袖とか作ってあげてもいいかな、と朋子は考え始めた。
 

千里たちU20チームがロシア遠征をしていた時期、U18チームはタイ南部のスラートターニーで、U18女子アジア選手権に臨んでいた。
 
このU18チームに参加しているのは下記12名である。
 
旭川N高校の湧見絵津子(SF)、札幌P高校の渡辺純子(SF)・伊香秋子(SG)・江森月絵(PG)、愛知J学園の加藤絵理(PF)・夢原円(C)、岐阜F女子高の神野晴鹿(SG)・鈴木志麻子(PF)・水原由姫(PG)、東京T高校の吉住杏子(C)、大阪E女学院の富田路子(C)、愛媛Q女子高の小松日奈(C)
 
小松日奈と水原由姫は高校2年生なので実はU17とU18を兼任している。 
2年前の千里たちの世代のチームが、わりと目立たない職人型の選手が多かったのに対して、この世代は天才プレイヤーが多く、初優勝を成し遂げた前回に続いて2連覇の期待をする人がかなり多かった。
 
実は高梁王子もU18に参加する権利を持っていたので参加させることも検討されたものの、彼女は将来のことを考えると、もっと上の世代で鍛えたほうがよいということになり、U20の活動優先になっている。
 

23日から27日までは予選リーグが行われる。日本・中国・韓国・台湾・マレーシヤ・カザフスタンの6ヶ国で総当たり戦が行われ、日本は中国にも勝って5勝で決勝トーナメントに進出した。
 
決勝トーナメントでは、29日の準決勝では韓国に67-60で勝ったものの、30日の決勝戦では、中国に122-78のまさかの大差で敗れてしまった。
 
中国は予選リーグでは色々戦力や作戦などを隠していて、決勝戦に全てを掛けていた。1996年から2006年まで6連覇していたのを前回日本にやられてしまったので雪辱すべく慎重に準備を進めていたようであった。
 
そういうことで今回のU18アジア選手権では日本は準優勝に終わった。
 
3位以上がU19世界選手権に行けるので、むろん日本も来年のU19世界選手権(チリ)に参加することができる。
 

「なんかまた協会の上の方が揉めてるみたいだよ」
と7月1日にジョイフルゴールドの練習場に寄せてもらった時、千里は玲央美から聞いた。
 
「まあ勝てなかったら揉めるよね」
「特にプリンをU18に入れなかった判断が明らかに誤りだったというので責任の押し付け合い」
 
「ああ・・・・。でもキミちゃんは、今回のロシア遠征でかなり鍛えられたよ」
 
「私もそう思う。彼女自身の成長のことを考えたら、弱いチームばかりのアジアのチームと戦うより、今回のロシアでの対戦のほうがずっと効果があったと思う。でも確かにプリンが参加していたら、中国にあそこまでやられてないよ」
 
「えっちゃんや純ちゃんたちの世代も充分強いからね〜。キミちゃん無しでも行けると思ったんだろうけどね」
 
「“女子四天王”加藤絵理・鈴木志麻子・湧見絵津子・渡辺純子にとっては痛い経験だけど、これをバネにあの4人は更に伸びるだろうね」
 
「うん。私たちもうかうかしてられないよ」
「上を追いかけるのはワクワクするけど、下から追いかけてこられるのは結構神経を削られるよね」
 

U20のロシア遠征が終わったばかりというのに、今度は7月3-5日にはフル代表の第5次合宿が行われた。
 
結局千里は自分のインプを北区のNTCに先日から駐めたままである!
 
 
そしてこのフル代表の合宿と並行してU24の強化合宿も同じNTCで行われた。 
7.03-05 フル代表第五次合宿

7.03-18 U24合宿

7.07-20 フル代表第六次合宿

 
花園亜津子はU24とフル代表を兼ねているので、6日まではU24の合宿に参加して、7日からはフル代表の方に入ってくれと言われたらしい。
 

千里は7月6日(火)、約1ヶ月ぶりに大学に出て行った。
 
4.01-11 フル代表合宿

4.12-28 大学

4.29-5.09 フル代表合宿

5.10-19 大学

5.20-31 フル代表合宿(21-23はU20合宿)

6.01-04 大学

6.05-07 礼文島。貴司の祖父の三回忌(7日はきーちゃんが大学に代理出席)

6.08-11 大学

6.12-13 旭川で株主総会

6.14-18 きーちゃんを身代わりに大学に出して千里本人はジョイフル・ゴールドの練習に参加

6.19-29 U20ロシア遠征

6.30-7.02 きーちゃんを身代わりに大学に行かせて自分はジョイフルゴールドの練習に参加

7.03-05 フル代表合宿

 
要するに今年度千里が自身で大学に出たのは4.12-28, 5.10-19, 6.01-04,08-11の29日間にすぎない(授業日数は63日間:きーちゃんの代理出席が9日)。これだけ大学に行っていないと、自分が大学生であることを忘れつつあるなと千里は思った。
 

フランス語の時間、このテキスト久しぶりに見たなあ、と思いながら教科書を眺めていたら当てられる。
 
「マドモアゼル・ムラヤマ、リール・ル・テクスト、シルヴプレ」
と先生から言われる。
 
『えっと、どこ?』
と《りくちゃん》に尋ねる。《りくちゃん》が呆れたように
『43ページの2段目から』
と教えてくれる。
 
それで千里が読み始める。
 
千里の美しいフランス語の発音に、初めて千里と同じクラスになった子たちが「すごーい」という顔をしている。
 
「はい、そこまで。美しい発音ですね」
「子供の頃、近所にフランス語を話す友人が居たので覚えたんです」
と千里は言う。
 
「フランス語を話す友人ですか。アルジェリアかどこか?」
「いえ。日本人なんですけど、フランス生まれで、日本語がまだ不確かだったので、フランス語でたくさんお話したんですよ」
 
「ああ、確かに外国で生まれたら、日本語よりそちらが強くなっちゃうかもね」
と先生も言っていた。
 

先生が千里を「マドモアゼル」と呼んだことに対して、クラスメイトでこのような場面にあまり遭遇していなかった鈴木君が尋ねる。
 
「先生、村山君のことマドモアゼル・ムラヤマと言いましたけど、ムッシュー・ムラヤマではないのですか?」
 
すると先生は鈴木君がフランス語の敬称そのものについて知らないと思ったようである。
 
「フランス語の敬称で、ムッシューは男性のみに使いますね。女性の場合は、未婚であればマドモアゼル、既婚であればマダムになります」
と先生は説明する。
 
「村山って男なのでは?」
と鈴木君。
「え?女性でしょ?」
と先生。
 
教室のあちこちで忍び笑いしている子がいる。
 
「鈴木、村山が女であることは、既に1年くらい前に証明されて現在は定理になっているよ」
と紙屋君が言うので、「証明!?」と言って鈴木君は悩んでいるようである。 
友紀が質問する。
 
「先生、未婚か既婚か分からない女性についてはどうすればいいんでしょう?」
「それは年齢で、まあ30歳くらい以上なら既婚かな、20歳くらいまでは未婚かなという感じで想像で言ってみて、間違ってたら御免なさいPardonと言って修正すればいいですね」
 
「じゃけっこう微妙な年の人だと悩みますね」
「ええ。悩みますけど、悩んだらマダムと言っておいたほうが無難です。未婚なのにマダムと言われて怒る人より、既婚なのにマドモアゼルと言われて怒る人の方が多いですから」
 
「へー!そういうものですか」
 
「それと英語のミズのように、既婚未婚を問わずマダムを使おうという運動をしている人たちもいるんですよ」
 
「ああ、英語はミスと呼ぶべきか、ミセスと呼ぶべきか、ミズと呼ぶべきか、悩む人がいますね」
 
「先生、男か女かよく分からない人についてはどう呼べばいいんでしょう?」
と渡辺君が質問する。
 
「うーん。。。そんな人いますかね? まあそういう時は当てずっぽで言ってみて、違ってたら御免なさいということで」
 
「なるほどですねー」
 
「そこら辺って難しそうですね。女でムッシューと呼ばれて怒る人と、気にしない人、男なのにマダムと言われて怒る人、気にしない人、それぞれ居そうだし」
と千里が言うと、渡辺君や友紀などは少々呆れている感じ。
 
「私もバスケの活動で海外に行っていると、特に女子バスケ選手には背が高くてがっちりして、普通に見たら、ついムッシューとか言ってしまいそうな選手も多いんですよ」
 
「なるほどですね。バスケとかバレーには多いかも。でもたぶんそういう人は間違われるのにも慣れているからあまり怒りませんよ」
と先生は言う。
 
「ええ。だいたいそうみたいです。女湯や女子トイレで悲鳴あげられたことは何度もある、なんて自嘲気味に話していた人もいましたし」
 
「まあ千里ちゃんなら、女子トイレにいても誰も変に思わないだろうな」
と紙屋君が言う。
 
「そうだね。男子トイレにうっかり入ろうとして追い出されたことはあるけど女子トイレで悲鳴あげられたことは1度も無いなあ」
 
と千里が言うので、紙屋君は頷いているものの、友紀や渡辺君たちが顔を見合わせていた。鈴木君は自分は何か大きな勘違いしてたっけ?という顔をしていた。 
「でもやはり背広とか着ている人は女に間違われることないだろうし、振袖とか着ている人は男に間違われることはないでしょうね」
 
と紙屋君が言う。
 
「うん。そういう服装の性別って昔は明確だったけど、最近はそういうのが崩壊しているから性別の区別のつきにくい人もいるよね。まあ振袖でなくてもスカート穿いていたらたぶん女だよね」
と先生。
 
「ああ、スカート穿く男は少ないですからね」
 
「千里は成人式は振袖着るの?背広着るの?」
と友紀が訊くと
 
「成人式かぁ・・・・何も考えてなかった。何着ようかなあ」
と千里は悩むように言った。
 
「千里ちゃんは振袖が似合うと思うよ」
と紙屋君が言う。
 
すると千里は「あぁ・・・」と言ったまま、一瞬思考がどこかにトリップしたかのようであった。
 
 
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